記念講演死と再生のプロセス 〜 『チベットの死者の書』 にみる人が死んでからの四十九日間〜
おおえ まさのり一 ご紹介にあずかりましたおおえまさのりです。 こういうところでお話しする機会があまりないものですから、 なかなか意を得て十分お話しできるかどうかわかりませんが、 話の後で質問を受けながら 『チベットの死者の書』 の提起している問題点等について深めていくことができればと思っております。 よろしくお願いします。
『チベットの死者の書』 は、 昨年のお彼岸にNHKスペシャルでも放映されてご覧いただいた方も多いのではないかと思います。 先ほどお話がありましたように、 現在、 高齢化社会や、 ホスピス、 臨死問題や、 脳死問題ということで、 死をどう見つめていくことができるのか、 そのとき死の安心あんじんをどのようにして得ることができるのか、 また死後の世界はあるのか、 あるとすればそれはどのようなものなのかという関心が非常に高まってきていると思います。 最近では永六輔さんが書かれた 『大往生』 という本がベストセラーになっておりますが、 今日、 葬送の儀礼が形骸化していく中で、 私たちの魂はどうすれば本当に救済されることができるのかということが問題になっているように思います。 そういうものがないと、 亡くなっていく人にとっては非常に大きな不安にかられてしまいます。 かつては宗教というものが生きておりまして、 魂の救済にかんする生と死の世界観や神話をもって私たちは亡くなっていくことができたのですけれども そういうものがなくなってきているところに大きな問題があるように思います。
だいぶ前ですが、 朝日新聞で、 作家の井上靖さんが亡くなるときに娘さんに言ったという会話がコラムに紹介されているのを見かけたことがあります。 それを読んでみます。
「昨年亡くなった井上靖氏は、 死につながる昏睡に入る十分前、 娘さんをぴっしり見つめてこう言った。 『大きな大きな不安だよ、 きみ。 こんな大きな不安にはだれも追いつけっこない。 ぼくだって医者だってとても追いつくことはできないよ。 ぼくはどうしたらいいかわからない。 本当にどうしたらいいのだろうね』」
こういうことを娘さんに語って亡くなったと言われます。
それは、 井上靖さんにしてそうなのかというよりも、 井上靖さんだからこそ、 生というものを見つめてきたからこそ、 死というものに直面したときに大きな不安を見ながら亡くなったともいえると思うのですが、 死に直面して私たちの魂が救済されないとしたら、 本当に生きてきたことは何だったのかという大きな不安に駆られて、 すべてが虚無の中に消えてしまうということに直面させられるのではないかと思います。
私自身そういう体験をもっております。 私がそうした死に直面したのは三歳のときだったのですが、 今からちょうど五十年前になります。 戦争の末期で、 本土空襲があったときのことです。 夜近くの町が爆撃にあって、 その中を母に連れられて隣近所の人たちと一緒に逃げていました。 そのとき小さな石橋があって、 その石橋のすき間に足をとられてころんでしまったのです。 母は私の小さな妹を抱えてて、 それに夜の空襲であったものですから、 これに気づかずに隣組の人たちと一緒にそのまま逃げていってしまい、 私はそこにたった一人捨ておかれてしまったのです。 向かいの町は赤々と燃えていますし、 B29の爆撃機が次々にくるという中でたった一人捨ておかれて、 そのとき初めて、 母親から離れた一人の自分といいますか、 個的な自分というものに気づかされたのです。 私にめざめたその瞬間、 私の目の前に死が、 死の恐怖がうずまいているといいますか、 生を与えられた瞬間に目の前に死をつきつけられるという実存的な不条理の中に放りこまれてしまったのです。
それ以後、 死というものが、 心理学的にいえば精神外傷的なものとして心に強烈に残って、 死の問題を解き明かさない限り、 自分の生というものはない、 自分の命というものはない、 死によってすべては虚無の中に落としめられてしまって、 生には何の救済もないのではないか。 そういう死の恐怖、 不安というものが、 ずっとまとわりついてしまいました。 そしてまた小さいころ次々に従兄弟が亡くなったり叔父や祖父が亡くなったりということもありまして、 小さなときから大学生になるころまで、 次々に死というものに直面してきました。 昔は病院ではなくほとんど自宅で亡くなっていきましたから、 子供ながら死の現場をずっと見てきました。 そういうときに、 両親たちあるいは伯母たちはさまざまな仏教的な法要をしたり、 いろんな供養をしていたのですけれども、 そういうものを通して死後の世界はあるのか、 あるとすればそれはどのようなものなのか、 といった問題が自分の中にだんだん芽生えていったのです。
そういう中で、 死というものは自分にとって最も大きな問題としてのしかかってきまして、 それを解き明かさないと自分というものに出会えないだろうという予感がありました。 そういうときに 『チベットの死者の書』 に出会うことによって、 自分の問題が絵ときのように解き開かされていくという体験をもったのです。
私にとって 『チベットの死者の書』 は大きな意味をもつもので、 私が初めて自分に出会うことを可能にしてくれたものです。
二 ところで、 死者の葬送儀礼とか死後の世界についての世界観は、 私たち人類が発生したときから始まったといいますか、 私たちが死という概念をもつことによって人類というものが始まったのではないかと思います。 そういうふうに死は私たちが生に目覚める最も究極的な問題点であり、 死があるから私は誰であって、 私はどこからきてどこへいくのか、 といった問題を見つめることができるのではないかと思います。 死がなければ私たちは生にも気づかないのではないかと思います。 それは、 「生老病死」 を見続けた釈尊もやはりそうだったのではないでしょうか。 その中から、 生からの解脱という問題を釈尊は提言されたのではないかと思います。
かつて、 仏教以前からですけれども、 私たちの人類の多くはシャーマニズム的な世界に生きておりまして、 死の向こうに私たちの命を支える根源的なものを見てきたのだと思います。 そういう死後の世界にある何者かによって私たちが支えられている。 そういうものへの恐れとそういう聖なるもの、 大いなるもの、 私たちのすべてを超えたものに支えられている私たち自身というものを見つめ、 かつそういうものと一つになって生きてきたのだと思います。 しかし、 私たちは現在そういうものを忘れてしまっているように思います。 本当の命の源泉、 命の源に私たち自身が還えって、 一人ひとりが命の泉の水を飲むということを忘れてしまっているような気がします。
例えば、 私がいま住んでいる八ヶ岳の方でも水がだんだんとダムで貯水された水にかわってきまして、 塩素や農薬が云々されるようになってきました。 しかし幸い、 近くにすばらしい湧水があるものですからそこの水を汲んできています。 聖なる森に囲まれた湧水の水を汲むという行為によって、 水は単なる物質的な水ではなくて命の水であり、 その命の水をいただいているんだという実感をもつことができますが、 そうした深い命の源泉を私たちは忘れてしまっていて、 そこに今日の問題の根本的な要因の多くがあるように思います。 こうした源泉を汲みだす作業がさまざまな宗教的修行体験の中にあると思います。 『チベットの死者の書』 もそうした生の源泉へ死を通してもぐりこみ、 死という最も究極的な問題を通して、 生というものの実態を明らかにしてくれるのではないかと思っております。
「生と死を理解する鍵は、 生命の源泉、 最も奥深くにある心の本性にたちかえることであり、 それが死の瞬間に起こる」 と 『チベットの死者の書』 はいっています。
私たちは心の本性にたちかえることによって生と死をその根底から理解することができるのですが、 それが死の瞬間に起こるというわけです。 どうしてそれが死の瞬間に起こるかを考えてみようと思います。 私たちは心の本性のうえにさまざまな仮面やベールをつけて生きています。 社会に出ていくには、 社会人としての仮面をつけないと、 生きていくことはなかなか容易ではありません。 そしてそのうち仮面の方がすっかり自分になってしまい、 その仮面が自分のアイデンティティということになってしまっています。 その仮面をはぎとることが、 仏教における瞑想ではないかと思います。 仏教における瞑想とは、 超能力を得ることでも、 またないものを得ることでもなくて、 私たちの内には仏性というものが宿っていて、 その仏性を発見すればよいわけです。 発見するためには、 自我がつけている仮面をとっていけばいいわけです。 新たに何かを得る必要はなく、 むしろ逆にとっていくという消去的な作業によって、 そこにすでにあるものが当然のごとくあらわれてくる、 それがさまざまな仏教における瞑想法の基本ではないかと思います。
こうした瞑想において、 これが自分だと思い込んできたものがなくなるということは、 私の死に他なりません。 本当にそれまであった自分がなくなることなのです。 自分をなりたたせているアイデンティティや自我というものがなくなることは、 個人にとってとても大きな、 まさに死の恐怖そのものであるわけです。 自我というものにしがみついて、 それがなくなれば自分がなくなるということですから、 それは自己の死に他なりません。 しかし、 これが自分だというものがなくなったとき、 本当に自分を超えた世界が見えてきます。 これが自分だと思っておりますと、 それだけの自分しか見えてこないわけです。
私たちはささいなものを所有して、 これは自分のものだと思っていますが、 逆にこれは自分のものだという概念を放棄することによって、 世界のすべてが自分のものになる、 ということが起こります。 これだけは自分のものだと思っていると、 そうでないものが次々につくられていって、 もっともっと自分のものをふやしていきたいと思いはじめます。 自分のものという概念を放棄することによって世界全体が自分のものになるという精神的な変容がありえると思います。 自分というものがなくなることによって、 より大きな自分、 さらには世界すべてが自分であるという大きな自分、 さらには 『チベットの死者の書』 でいわれるような最も精髄的な叡知とか光明といわれるような、 永遠の生命と一つになっている自分を発見することができるのではないかと思います。 こうしたものは自我の死というものが介在しない限り、 あらわれてこないのではないかと思います。
こうした意味で死というものが最も大きな意味をもっており、 死の瞬間に、 生命の根源にある 「原初の光明」 というものが輝きあらわれてくるのではないかと思います。
瞑想体験や神秘体験、 あるいは最近注目を集めている臨死体験の中で、 「原初の光明」 や 「光の生命」 を見るといったことが報告されております。 また心理療法の中で、 強制的に死を体験するといったことが行われています。 仮死状態をつくりだすことによって、 死を受容しながら自分を超えた大きな世界を発見していこうというわけです。 そういうテクニックがさまざまな心理療法の中でも使われておりますが、 死はこうした自分を超えた世界を発見していく最も重要な鍵になるのではないかと思います。
『チベットの死者の書』 は、 「枕経」 であり、 亡くなった人が再びこの世界に生まれ出てくるまでの間の死後四十九日間、 死者の枕辺で唱えられます。 亡くなった日から七日ごとに法要していって、 四十九日で生と再生の間の中間的な状態である中陰が明け、 満中陰となるわけです。 『チベットの死者の書』 はお葬式の経典にとどまらず、 それを通して死者を真理に目覚めさせて、 成仏させようとします。 そして一人ひとりが本当にその真理に目覚めて、 光と一体になり、 光と溶けていかない限り仏になることはできない、 解脱することはできないと説き続けていくわけです。 そういうところに 『チベットの死者の書』 の大きな意味があるのではないかと思っております。
三 これから、 チベットといいましても西チベットのラダック地方に十数年前に行ったときのスライドがありますので、 それを上映しながら話を進めていきたいと思います。
現在のチベットは、 一九五九年に中国が侵攻し、 その後文化大革命によって、 チベットの仏教はほとんど壊滅状態になりました。 ダライ・ラマ十四世をはじめとして、 多くの人たちがインドに逃げて、 現在ダラムサラに亡命政権をつくっています。 しかしインドに組み入れられて残っていたチベットである西チベットのラダックには、 かつてのチベットの文化が今も生きております。
インド側から行きますと大きなヒマラヤ山脈を越えるわけですが、 そこにゾジラ峠があります。 インド大陸とアジア大陸がぶつかって、 インド大陸とアジア大陸の間にあった海底がそのまま隆起したというところです。 ですからこの山の上には岩塩が出たり、 海底の化石が多く発見されたりしています。 バスで行きましたが、 インドのスリナガルから入って、 四千メートル前後の峠を越えながら行きます。 インド側はヒマラヤにモンスーンの雲がぶつかって雨が降ったり雪が降ったりしますから大変緑が豊かですが、 峠を越えてヒマラヤの北側に出るとほとんど全く雨が降りません。 一年にほんの数ミリという程度しか雨が降りません。 ですからそちら側に行くと、 いわゆる月の砂漠といいますか、 月世界のような隆起した海底がそのまま崩壊していっている姿があります。 本当に何もなくて、 わずかな草で山羊やヤクを飼い、 山から流れてくる雪どけ水を集めて麦とか野菜をわずかばかりつくっているという暮らしです。
そういうふうに何もないところですが、 何もないからこそ神とか霊といった精神的なものによって自分を支えていかなければ生きていけないといった風土があり、 またそういうものを非常に大事にしていっている精神文化というものが今もあるように思います。 私たち人間というものは、 そういう精神的なものを本質においてしっかりともっていないといけないのではないかということをつくづく感じさせられました。
チベットにおいてはチベット仏教が大きな精神的機軸として生きているように思います。 チベット仏教は一般に西洋世界からはラマ教と呼ばれていますが、 チベット人自身はラマ教とは呼びません。 チベット仏教というタームで呼ぶわけです。 どうしてチベット仏教をラマ教と西洋人が名づけたかといいますと、 そこではラマというお坊さんが非常に大きな力をもっているからです。 なぜかといいますと、 私たちはラマであるお坊さんを通してはじめてブッダに出会うことができるわけですから、 お坊さんが大きな力をもつようになり、 そのためにほかの仏教と区別してラマ教というふうに西洋の人たちが名づけたのです。
そのラマ教は、 日本に密教が入り始めた八世紀のころ、 インドからパドマ・サムバーヴァ 蓮華の花の上に生まれたという意味ですが 彼によってチベットにもたらされました。 その教えは古派 (ニンマ派) といわれるのですが、 後にパドマ・サムバーヴァの教えに対して、 改革派 (ゲールク派) といいますけれども、 現在のダライ・ラマ十四世に受け継がれてきている新しい改革派が入ってきます。 細かく見ていきますとさらにもっとたくさん派があるのですが、 大きくは古派と改革派に分かれて現在に至っております。
この 『チベットの死者の書』 は、 八世紀パドマ・サムバーヴァによって著されたものが、 十四世紀になってカルマ・リンバによってヒマラヤの山の中から発見されたとされ、 いわゆる埋蔵経典だということになっております。
埋蔵経典というのは、 偽経ではないかということが指摘されているわけですが、 埋蔵経典というスタイルはチベット人にとって仏教の源から生々とした教えを汲み出していく方便ではないかと思います。
例えば仏典を見ていったときに、 仏典というものはすべて 「我是の如く聞けり (私はこのように釈尊から聞いた)」 というふうにして書かれておりまして、 釈尊自身が書かれたものはないわけです。 その釈尊の教えを弟子たちがどういうふうに読みとっていたかということが問題になるわけです。 その読み取り方といいますか、 釈尊の教えを非常に創造的に読み取ることで、 小乗から大乗、 そして大乗から金剛乗といわれる密教などのさまざまな教えがあらわれ出てきました。 こうした読み解きによって仏教は常により創造的、 よりダイナミックなものに変遷してきたのだと思います。 こうしたブッダの教えの源泉へともぐりこんで、 それと一つになって、 釈尊の教えを体験して、 そこから生き生きとした仏の教えを汲み出してくる。 こうした作業が続いてゆかない限り、 仏教もまた形骸化していくのではないかと思います。
そういう意味で、 埋蔵経典というのは、 常に仏教を新しくしていくチベット人の知恵ではないかと思っております。 ですからそれがどこまでブッダの真理を汲み出しているか、 ブッダの源泉からブッダの本質を汲み出しているかという問題として、 論議されるべきではないかと考えております。
四
『チベットの死者の書』 は、 チベット語では 『バルドゥ・トェ・ドル』 といわれます。 バルドゥというのは、 人が亡くなってから再び生まれてくるまでの間の四十九日間のことをいいます。 日本では 「中有」、 中間的な存在、 あるいは 「中陰」 といわれ、 その中陰において死者の魂を際限なく輪廻転生していくこの迷いの世界から、 生滅を越えた世界、 成仏といわれる世界に解脱させていくために死者にさまざまな導きをするのが本書の目的です。 そして 『チベットの死者の書』 は、 輪廻から離脱できる最高の好機が死の瞬間にあるといい、 死の瞬間に最も大きな意味をおいています。
この図はチベットの六道輪廻の図ですが、 チベット仏教では私たちの世界には、 六つの 「バルドゥ」 があるといいます。 バルドゥというのは存在の中間的な状態ですけれども、 この私たちの生きている存在世界も一つのバルドゥである、 迷いの世界であるというふうに考えております。 そして 「死の瞬間のバルドゥ」。 それにひきつづく 「存在の本性を経験しているバルドゥ」、 四つ目に、 この世界に生まれようとしている間の 「再誕生を求めているバルドゥ」、 そして 「夢見のバルドゥ」、 「瞑想のバルドゥ」 という六つのバルドゥがあるというふうにいわれております。 死のプロセスの中では、 「死の瞬間のバルドゥ」 と 「存在の本性を経験しているバルドゥ」、 そして 「再誕生を求めているバルドゥ」 の三つのバルドゥを経験すると言われております。
これから死後四十九日間の実際的な法要次第を追いながら、 『チベットの死者の書』 の概略を見ていきたいと思います。
チベットでは、 死ぬとき、 人の魂は体の九つの開き口、 眉・目・耳・鼻・口・肛門・尿道・へそ、 そして頭頂にあるブラフマの開き口のいずれかからか逝去してゆくと考えられています。 首より下の出口から魂が出ていくと、 畜生界や餓鬼界や地獄界に落ちると考えられております。 頭頂から魂が逝去してゆくのが最もよく、 頭頂から魂が出ていくようにということで、 そのために生前に 「ポワ」 という実修を受けておくようにといわれております。
私たちの人体にはヨーガやタントラの考え方ですが、 スシュムナ管という精神的な神経水路が図のようにおなかから頭頂まで走っていまして、 その節々にチャクラといわれる神経のセンターがありまして、 頭頂のところと眉間の間、 のど、 心臓、 おなか、 生殖器、 そして会陰のあたりと七つのチャクラがあるといわれています。 その胸のチャクラのところに星のように光る小さなしずくを観想して、 そのしずくをスシュムナ管を通って頭頂に飛び出させてゆくのです。 頭頂の上には阿弥陀如来を観想しまして、 心のしずくと阿弥陀如来とを合体していくようにします。 何度も心のしずくを飛び出させながら阿弥陀如来と合体していくという作業を繰り返すわけです。 こうした実修をしておくと、 亡くなったとき魂はブラフマの開き口から出ていくとチベットでは考えられています。 しかし多くの人たちはこうした 「ポワ」 を実修する機会にめぐまれないものですから、 亡くなったときに 『チベットの死者の書』 という枕経によって導かれる必要があるわけです。
亡くなっていくとき、 死の瞬間が最重要な瞬間です。 しかし死のときに死の恐怖から失神して気絶してしまうと、 そこであらわになってくる心の本性を全く認識することができません。 それで死におもむくときに、 のどの左右の動脈を圧迫して、 できるだけ眠りに陥らないようにさせます。 死の瞬間には、 「原初の光明」 といわれる、 法界からあらわれ出てくる最も精髄的な根源的な叡智というものが輝くわけです。 それを認識して光と一つになることによって、 私たちは生死のカルマの業から解脱できるのですが、 そのとき失神してしまうと原初の光明を認識して解脱することができません。 そのために死の瞬間に目覚めているということが重要視されます。 といってもなかなかそうすることはできず、 死の瞬間に僧侶が立ち会っていれば、 僧侶はポワの行を死者に施します。 ポワの儀式を施すことによって、 死者の魂をブラフマの開き口から逝去させてやるわけです。
死の瞬間に死者の中でどういうことが起こっているかを、 『チベットの死者の書』 には次のように述べてあります。 読んでみます。
ああ、 善き人よ。 今や汝にとって、 存在の本性を求める時がやってきた。 (中略) ああ、 善き人よ。 聴くがよ い。 今汝は、 真の存在の本性の 〔原初のクリヤー・ライト (眩しく輝く光明)〕 の発光を経験している。 それを 認識しなければならない。
ああ、 善き人よ。 本性が空、 生来の空であり、 何らかの特徴や色へと形づくられない汝の現在の知性は、 存在 の本性そのもの、 妙善なる母 (原初の母仏) である。
何もないという空としてではなく、 妨げられず、 輝き、 血沸き肉躍り、 至福に満ち、 知性それ自身としてみな される空である今の汝の知性は、 真の意識、 妙善なるブッダ (原初の仏) である。
本性が空であり、 何ものにも形づくられない汝自身の意識と輝き至福に満ちた知性、 これら二つのものは分け られない。 それらの融合が完全な啓発であるダルマ・カーヤ (法身) の状態である。
輝き、 空であり、 発光の無上の体から分かちがたい汝自身の意識は、 誕生も死もない 〔不変の光 ブッダ・ アミターバ (阿弥陀如来)〕 である。
死者はこうした眩しく輝く光体験をしているわけですが、 死者はその眩しく輝く光を認識することができずに、 おびえ、 恐怖してしまいます。 そこで、 それが何であるかを僧侶が導いていかなくてはなりません。
光を見る死の瞬間に、 ほとんどの人は失神してしまってそれに気づくことができませんが、 その期間は約三日半から四日半続くといわれております。 そして三日半から四日半して目覚めた死者には、 存在の本性を経験しているバルドゥといわれる、 さまざまな平和の神々、 大日如来とか、 阿弥陀如来、 宝生如来といったさまざまな如来や仏があらわれて、 死者を迎えにやってきます。
この図はチベットの曼陀羅ですが、 曼陀羅の中心には大日如来がおられます。 このチベットの曼陀羅は東西南北の描き方が日本とは違っていまして、 下が東になっています。 中心の大日如来の下の、 東の方に阿

如来、 左方の南方に宝生如来、 上方、 西方に阿弥陀如来、 そして右方、 北方に不空成就仏がおられます。 この曼陀羅に描かれた如来たちが、 一日目から七日目にかけて毎日死者を救済し、 成仏させるためにあらわれてきます。
一日目の大日如来があらわれてくるところを読んでみようと思います。
ああ、 善き人よ。 汝はこの三日半の間失神していた。 汝がこの失神から回復するや、 汝は何が起こったのかという考えを抱くであろう。 汝はバルドゥを認識しなければならない。 このとき現象は全く違って経験されるであろう。 ここで汝が見る現象のあらわれ方は光や神々である。 全天は深みのある青色に見えるであろう。 〔あらゆる現象の種子を撒き散らす中心国土 (法界 存在の根源)〕 から、 色は白で、 獅子の王座に座り、 手に八輻の輪を持ち、 〔天空の母 (宇宙の女性原理を象徴する神妃)〕 に抱きしめられた 〔バガヴァーン・ヴァイローチャナ (毘盧遮那仏 大日如来)〕 が汝の前に現れるであろう。
それは青色の光である原初の状態へと帰着していく意識の集まり (識蘊) である。 〔父母ヴァイローチャナ (大日如来父母神)〕 の心からやってくる法界 (存在の根源) の智恵が、 色は青色で、 透明で華々しく輝き、 眩しく前方に放射されて、 汝を刺し通すであろう。 それはあまりにも眩しく、 汝はほとんどそれを見つめることができないであろう。
その光と一緒に、 汝を刺し通す天上界からのにぶい白光も輝いているであろう。 そして悪いカルマ (業) の力のゆえに、 法界からの智恵の輝かしい青色の光は、 汝に恐れと怯えを起こさせ、 汝はそれから逃れたいと思うであろう。 そして汝は天上界のにぶい白光に対して愛着を抱くであろう。
非常に眩しく輝く光ですから、 死者はおそれて、 そうではない鈍く輝く天上界からさしてくる 天上界もまた輪廻の一つなのですが その光の方に死者は魅惑されていってしまいそうになります。
そして二日目には、 阿

如来があらわれて、 死者を救済にやってきます。 しかしそのとき同時に、 地獄界からの鈍い煙色の光もさし込んできます。 そして死者はその煙色の光の方に魅惑されてしまいそうになります。 もし鈍い地獄界からさしてくる光の方に魅惑されてしまいますと、 地獄界に生まれることになります。 そこでその光に魅惑されてはならないという教えが執拗に三回から七回にわたってくりかえされます。
三日目には、 宝生如来が死者を救済にあらわれてきますが、 同時に、 人間界からのくすんだ青みがかった黄色の光も死者を迎えにやってきます。 そして四日目には、 西方の国土の阿弥陀如来が眩しく赤い光を発しながらあらわれてきて、 そして同時に餓鬼界からのくすんだ赤の光もさし込んできます。 五日目には、 北方の国土から不空成就仏が死者を迎えにやってきます。 そしてそれと同時に阿修羅界からのくすんだ緑の光も一緒にさしてきます。 六日目には、 一日から五日目までにあらわれた大日如来、 阿

如来、 宝生如来、 阿弥陀如来、 不空成就仏が一斉に死者を迎えにやってきます。 そして同時に、 天上界、 阿修羅界、 人間界、 畜生界、 餓鬼界、 地獄界のくすんだ光も死者を迎えにやってきます。 そして七日目には、 聖なる極楽浄土から眩しく輝く虹の光を発して、 知識保持の神々が死者を照らしにやってきます。
こうした平和な様相をした神々が死者を迎えにくるわけですが、 この七日間に眩しい光と一つになり、 それと一つになって成仏して解脱することができなかった死者には、 それに引き続く忿怒の神々、 怒り狂った神々の夜明けがあらわになってきます。
五 この図が忿怒の神々の曼陀羅です。 これらの神々は、 先ほどあらわれてきた平和の神々が死者の意識を反映して、 忿怒の様相をしてあらわれてきたものです。 本質的には大日如来であり、 阿弥陀如来なのですけれども、 死者のより不純な意識が投影されることによって怒りの様相をもってあらわれてきたものです。 そして先にあらわれてきた平和の神々、 大日如来とか阿

如来とか宝生如来もまた、 原初の光明が死者の意識を反映してそこにあらわれてきたものだと 『チベットの死者の書』 はいっています。 神々は死者自身のどこか外からあらわれてくるのではなく、 原初の光明を見る死者の意識が不純なために、 その意識を反映してそこに大日如来があらわれてきたり、 宝生如来があらわれてきたり、 あるいはまたさらに死者の意識がさらに不純になってくると、 それが忿怒の様相をした神々、 さらにもっと不純になっていくと、 閻魔大王といった姿をしてあらわれてくるわけです。 それらすべては死者の意識がつくり出しているものなのです。 そこにあらわれてくる極楽浄土のイメージもまた、 本当は実体をもっていません。 こうした存在の空性性、 つまり存在は永遠不滅の実体をもっていないのだということが説かれていきます。 存在の空であることを認識することによって、 初めて輪廻の輪から離脱することができる、 と 『チベットの死者の書』 は説きつづけていきます。
『チベットの死者の書』 には、 次のように説かれております。
ああ、 善き人よ。 これらの国土は、 汝自身以外のどこか外からやってくるのではない。 それらは汝の心の四つの部位からやってくる。 心の中心を含めて、 それらは五つの方位を形づくっている。 それらは心の中から発して汝を照らすのである。
神々 (仏) もまた、 どこか外からやってくるのではない。神々は汝自身の知性の構造の中にもとより存在する。 かれらを汝の心の性質であると認識するべきである。
神や仏というのはどこか外からやってくるのではなくて、 一人ひとりの中にもともと宿っていて、 それらがあらわし出されてくるわけです。
この忿怒の神々の第一日目には、 この曼陀羅の下、 東方の仏呼金剛が死者を迎えにあらわれてきます。 そして二日目には呼金剛、 三日目には宝金剛、 四日目には蓮華金剛、 そして五日目には業金剛という非常に恐ろしい、 血を飲み、 人々をめった切りにし、 頭蓋骨をもった神々が死者を迎えにあらわれてきます。 そのため死者はその怒怒の神々から逃れようとしますが、 それらの神々は本質的には大日如来や阿弥陀如来のあらわれであり、 かれらをそうだと認識するようにと導かれます。 それらから逃れれば逃れるほど真理から遠ざかっていきます。 八日目から十四日目へとかけてあらわれてくる神々の姿はより強烈で荒ぶるものになっていきます。
そしてこの存在の本性を経験しているバルドゥで十四日間の間に目覚めることができなければ、 死者は再誕生を求めている間のバルドゥという一番最後のバルドゥの中に入っていきます。 その中に入っていきますと、 私たちにおなじみの閻魔大王の前に引き出されます。 閻魔大王のイメージですが、 チベットのイメージと、 源信の書いた 『往生要集』 の中にあるイメージと非常に通底し合ったイメージで描かれています。 どういうふうに描かれているか読んでみます。
汝と同時に生まれた 〔守り神 (善神)〕 がやってきて、 白の小石で汝の善行を数えあげるであろう。 そしてま た汝と同時に生まれた 〔悪魔 (邪悪な精神)〕 がやってきて、 黒の小石で汝の悪行を数えあげるであろう。 そし て汝は嘘を言おうとするであろう。 「私はいかなる悪行をも犯してはいません」 と。
すると 〔死の神 (閻魔大王)〕 は、 「カルマ (業) の鏡を調べよう」 と言うであろう。 そう言いながらかれは 鏡の中を覗き込む。 その中には一切の善行や悪行が鮮やかに映っている。 虚言は役立たないであろう。
そして閻魔大王の従者の神々が来て、 死者の首に縄をかけたり、 死者の首を切り落としたり、 心臓を抜きとったり、 脳をなめたりします。 しかし死者は切りきざまれながらも死ぬことはできません。 死んでしまうと意識がなくなりますからある意味では楽なのですが、 切られても切られても痛みはあるのですが死ぬことができません。 死者は死ぬこともできない地獄の苦しみの中に追い込まれていきます。 死者はそれが怖いわけですから、 必死にそれから逃れようとします。 すると死者は、 解脱へとではなく、 再びこの世界へ生まれていく方へと逃れていくことになります。
この図はチベットの閻魔大王の図像です。 こうしたとき閻魔大王や地獄が空であることを認識するために、 さまざまな瞑想方法やお経やマントラという真言をとなえるように死者は促されます。
しかし、 それでも死者が空を認識できないときには、 慈悲の神である観世音菩薩に思いを向けるようにと言われます。 慈悲深い救い主、 救世観音というふうにもいわれますが、 観世音菩薩に思いを向けるようにと導かれます。 チベットでは、 ダライ・ラマ十四世は観世音菩薩の化身であると考えられております。 そのためチベットでは観音信仰が非常に盛んです。 観世音菩薩のマントラであります 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 という真言をとなえるように促されます。
この図は、 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 という文字を彫った石です。 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 という観世音菩薩の真言をとなえることによって、 死者は解脱することができるといわれます。 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 という意味は、 「オーム 日本ではオンといいますけれども、 聖なる音、 宇宙の始まりの音と言われております 蓮の花の上にまします尊いお方に万歳」 というふうな意味です。 「オーム」 というものは天界を指し、 「マ」 は阿修羅界、 「ニ」 は人間界、 「ペ」 は畜生界、 「メ」 は餓鬼界、 「フゥン」 は地獄界と対応しております。 チベットでは、 死者の魂は六道のそれぞれの世界に生まれ出る母の胎内に入って、 そこからまた生まれてくるというふうに理解しています。 母の胎内に入って再び生まれてくると、 それは人間であったり犬であったり、 牛であったり、 あるいは地獄界の住人だったりするわけです。 しかし母の胎内の中に魂が入るとき死者は失神してしまうものですから生前の記憶を失ってしまいます。 亡くなるときに意識を失い、 また母の胎内に入るときに失神してしまうものですから、 再び生まれてきたときに以前の記憶をもっているということは非常にまれなことになります。
私たちはこうして六道輪廻の六つの世界、 天上界、 阿修羅界、 人間界、 畜生界、 餓鬼界、 地獄界へと生まれてくるわけですけれども、 この 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 というマントラを唱えますと、 その 「オーム」 は天上界に生まれ出る母の子宮の入口を閉じる力をもち、 「マ」 は阿修羅界に生まれ出る子宮の入口を閉じる力をもち、 「ニ」 は人間界に生まれ出る母の子宮の入口を閉じ、 「ペ」 は畜生界に生まれ出る子宮の入口を閉じ、 「メ」 は餓鬼界に生まれ出る子宮の入口を閉じ、 「フゥン」 は地獄界に生まれ出る子宮の入口を閉じる力をもっているといわれます。
ですから 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン、 オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 ととなえることによって、 六つの迷いの世界へと生まれ出る入口が閉ざされるわけですから、 死者は解脱するほかはなくなってしまいます。 そのためチベット人は 「オーム・マ・ニ・パド・メ・フゥン」 と書かれた護符の入ったマニラコという幼児のガラガラに似たものを回して輪廻からの解脱を願うということをやっています。 お寺に行っても大きなマニラコがありまして、 それを回します。 死者もこのマントラをとなえ、 救い主たる観世音菩薩に思いを向け、 観世音菩薩と一つに溶け合ってゆくように導かれます。
しかし、 それでもなお観世音菩薩の光の中に溶けいることができない場合は、 さまざまなやり方で、 どうやって子宮の入口を閉じたらいいのかとか、 あるいはもうどうしても六道のいづれかの世界へと生まれるほかはないということになりますと、 天上界に生まれるにはこうしなさい、 ああしなさいということを手を変え品を変えして、 四十九日の最後まで死者の魂を救おうと法要を重ねていきます。
こういうイメージが見えるときには天上界だから、 こういうイメージを見たらそれは西方浄土の阿弥陀如来の浄土だからと導いて、 その中に入るようにと説き聞かせます。
こうして死者の魂は再びこの世界に生を受けて、 四十九日間のバルドゥ (中陰) が終わります。 四十九日が終わったときに、 死者の魂はある人は解脱を果して仏になって成仏しているかもしれないし、 あるいは阿弥陀如来の浄土、 あるいは六道輪廻するいずれかの世界へと生まれているはずです。 非常にまれには中陰のバルドゥの中に残ってしまう魂もあるとチベット人は考えています。 こうして、 いずれかの世界に再誕生するなり解脱して、 四十九日の中陰が明けて、 満中陰となります。
六 あまり細かく見ていく時間がなく、 非常に概略的に死後四十九日間のプロセスを見てきましたが、 ここで 『チベットの死者の書』 が最も言いたいことは、 私たちが輪廻転生するとか、 死後の世界が実在するということよりも、 というのは、 輪廻転生の大前提に立ってチベットの人たちは話をしておりますから、 こうした六道輪廻する苦の世界からどうやって解脱して、 成仏することができるのかということです。
私たちの今日の世界では、 こうした死後の世界の存続や輪廻という大前提そのものがなくなっており、 その大前提のところをもう一度見つめ直していくことが、 私たちには問われているように思います。 こういう大前提において、 この 『チベットの死者の書』 の意味が明らかになってくるわけですが、 死後の世界の問題だけではなく、 私たちの意識や存在の本性といった問題を見ていくときも、 『チベットの死者の書』 は、 さまざまな観点から私たちに多くの提言をしてくれているように思います。
『チベットの死者の書』 が表明しようとしている要点をまとめてみますと、 私たちの生きているこの世界のいかなる存在も、 また死後の世界の浄土や神々もまた永遠不滅の実体をもたず空であるということです。 それは私たちのこの世界や死後の世界が存在しないといっているわけではありません。 ただそれらが永遠不滅の実体をもっているわけではないということです。 この私たちの存在の世界は生まれ、 そしてすべて滅んでいきます。 このように永遠不滅の実体をもっているものではなく、 そのように死後の世界もまた存在するけれども、 永遠不滅の実体をもっているわけではないということです。
そしてそれらが永遠不滅の実体をもっていない、 つまり 「空」 だと認識することによって、 私たちは 「生と死を超えた永遠の命」、 「解脱」 を成就することができるということをいい続けています。
こうした生と死を超えた生をつかみとるということは、 私たちが生きている今ここにおいても問われていることであり、 また死の瞬間においても、 死後の生においても、 また再び生まれかわってきても問われていくことです。 生と死を超えた生をつかみとる、 それが解脱ということだと思います。 生というものを超えて、 生を輝かせて生きていく方法論が、 『チベットの死者の書』 にはあるように思います。
ここまで 『チベットの死者の書』 の概要を見てきたわけですが、 質問をお受けしながら、 さらに 『チベットの死者の書』 の提起している問題点を深めていきたいと思います。 (拍手)









