座談会現宗研三十年のあゆみ出 席 者 長谷川正徳 中濃教篤
伊藤如顕 木村勝行
秋永智徳 石川浩徳
新間智照 蟹江一肇
井本学雄 小倉光雄
現宗研所長 石川教張
司 会 中村潤一
(順不同)
はじめに 石川所長 日蓮宗現代宗教研究所 (現宗研) は、 昭和三十九年 (一九六四) の三月、 第十四宗会にて研究所規程が決定されて以来、 平成六年 (一九九四) に、 設立三十周年を迎えております。
いずれ、 三十周年記念を期して、 何らかの対応をいたしたいと念じておりますが、 その第一段階として、 このたび 「現宗研三十年のあゆみ」 と題する座談会を開くことになりました。
現宗研は、 申すまでもなく、 日蓮教学を現代的に解明し、 時代に適応する信行及び布教体系の確立に寄与することを目的に設立された宗務総長直属の研究機関としての性格を備えております。 これまで、 現代における教学・思想・教化学の研究、 諸宗教の調査、 教団の歴史や寺院の実態に関する研究調査、 教化資料の作成などを研究活動の柱として取り組んでまいりました。 現宗研三十年の歩みは、 平坦ではありませんでしたが、 多くの成果と課題が提示されてきました。
この座談会は、 その歩みを見つめ直そうとするものです。 座談会には、 現宗研設立当初より関わり、 またその後の研究事業にご参画、 ご尽力下さっております顧問各位のご出席を賜りました。 これから中村潤一顧問の司会にて進めていただきたいと思います。 三十年の歩みと申しても、 多岐にわたっており、 とても短い時間で語り尽くせるものではありませんので、 現宗研設立の前後をはじめ、 その後の歩みの一端を話しあって下さるようお願い申し上げます。
設立当時をふりかえる 司会 (中村) 本日は現代宗教研究所創立三十周年ということで、 顧問の先生方に創立当時の思い出、 それから三十年間の活動、 あるいは未来への展望についてお話しいただきたいと思っております。
話の進行上、 まず中濃先生に、 現代宗教研究所が創設されるまでのいきさつ等についてお話をお願いいたします。
中 濃 現代宗教研究所の設立に関して大変活躍されたのは長谷川上人ですけれども、 この規定ができるまでさまざまな動きがありました。
日蓮教学研究所が、 立正大学を中心につくられ、 教学的な面からさまざまな成果を上げていたわけですが、 その中で、 現代と日蓮教学というか、 現代と日蓮宗、 そういう問題をもっと突っ込んで研究する場所がつくられないものだろうかという希望が宗内で非常に強く起こってきた。 もちろんその間に宗団外のさまざまな動き、 特に創価学会の積極的な行動などがあり、 それが刺激となったことも事実ですが、 同時に教団はこれでいいのだろうか、 何とか教団をもっと力のあるものにしていかなければいけないのではないかという気持ちがその背景としてあったと思います。
たまたま教団の上層部におられた方々も、 そういった研究所をつくるべき時代ではないかという念願をもっておられた。 そこで何とかこれを実現しようという気運が高まり、 長谷川上人が教学布教研究所の設立について熱心だということもあって、 これを宗会で何とか通すようにご努力をいただこうということになったわけです。
そこで現代宗教研究所をつくるべく、 設立準備委員会というのがつくられました。 その設立準備委員会に参加された方々が、 私の記憶では三谷会祥師、 それから長谷川上人、 それから亡くなられましたけれども立正大学の菅谷正貫氏、 それから望月一靖師、 それに私と茂田井教亨師が加わられて、 名称や規約の案を検討したわけです。
そこで問題になったのは、 研究所をつくるのは大賛成だし、 つくるべきだと思うけれども、 その研究所が教団の内局による御用機関になってはまずいのではないか。 ですから独立した研究機関であるということを明確にしておかないといけないだろうという点は、 設立準備委員会でも皆さん意見が一致した。
そういう形で長谷川上人が宗会で提案をされ、 規約案ができたということが、 この現代宗教研究所の前史みたいなものです。 ですから初期は、 教団からお金の援助を受けてやる研究所ではなくて、 何か独立採算でできるような研究所として発足できないものかという点で大変苦労したところです。
それについては教団の中の大寺院のご住職方の中に非常に好意的な方がおられましたものですから、 そういう方々から資金援助をいただいてやっていくべきではないかというのが、 設立準備委員会での一致した方向でした。
「現宗研広報」 の第一号を持ってきましたけれども、 これが一番最初に出た出版物です。 この中でも費用が大変だというぼやきみたいなことが出ていますが、 これが初期の段階です。 けれども我慢をして主体性を貫いていこうじゃないかということで始まったのが実情です。
そこで一応でき上がった組織の初期の方々を、 記録の意味でも記念の意味でもご紹介しておきたいと思います。 その最初の所長を久保田正文師にお願いいたしました。 私がお願いに参りまして、 初めはお断りになったのですけれども、 最終的にこれは大事な研究所だから、 それでは自分も参画するというお許しをいただいて所長になっていただきました。 そして庶務部の主任に小山海信、 研究部主任として近江幸正、 調査部の主任に望月一靖の諸師、 そして木村上人が事務主事ということで、 事務局を統括するという体制で出発しました。 そのころから顧問会というものをつくっておりましたから、 その顧問には菅谷正貫、 室住一妙、 執行海秀、 三谷会祥の諸師、 それに長谷川上人と私という形で出発をしたというのが実際でした。
やはりお金のこととなると大変苦労するということだけは身にしみて感じましたけれども、 その後いろいろな経過を経て、 今日の現宗研に至っているというのが前史といえば前史だと思います。
司 会 ただいま中濃先生の方から、 現宗研の創設に関する当時の模様をかいつまんでお話しいただいたわけですが、 その中の研究員を拝見しますと、 現在の立正大学の学長を務めておられます渡辺宝陽先生等々がおられますので、 本当にこの三十年の歴史というのはどれだけの重みであったかということが私ども理解できるわけです。 この現宗研の創設に関しまして、 非常にご尽力いただいた長谷川先生にご出席いただいておりますので、 年表を見ますと昭和三十九年三月十一日、 身延山久遠寺において開かれました第十四宗会で、 この現宗研の規程が決定されたとありますが、 そのあたりのところを長谷川先生の方から詳しくご説明いただきたいと思います。
長谷川 今、 中濃先生がおっしゃったのとは、 別の視点から申しますと、 現宗研は昭和二十三年十二月、 ここまでさかのぼるのです、 日蓮宗革新同盟が生まれた。 その背後には身延山山林問題などの諸問題があった。 それはともかくとして革新同盟ができ、 今残っているのは佐久間智周師と私と中濃師の三人きりです。 あとは石川存静、 細井友晋、 山口寿雄師 亡くなりましたが。 その革新同盟の綱領の第一にこういうことをうたっています。
「我々は法華経の真義に基づいて、 革新的宗学を樹立して、 新時代への布教を期する」。
そしてちょうど二十三年だったと記憶していますが、 今も続いている日蓮宗の教学発表大会が始まったころです。 私は 「現代宗学の課題」 と題して発表した要領がここにあるのですが、 こういうことを話したのです。
「いわゆる教学とか宗学とかいうものは、 学問の性格としてどうも自己純化、 自分自身だけを純粋化している。 自分のもっている論理的な精緻性を加える方向にのみ熱心 だから訓詁になってしまう であって、 動いている歴史的、 社会的な現実と対決した宗学や教学がどうあるべきかが欠けているのではないか。 したがって教学そのものが現実遊離になって、 大体教学とか宗学とかいうものは、 教団を肉体とするならば精神にあたる。 その教学が現実を動かす作用力を失うということが、 教団が現実作用力を失うということに通ずる。 それにつれて現実追随が生まれてくる。 現実に対する作用力を失うということは、 現実に従う、 追随するという傾向が生まれてくる。 だからして戦争がはびこったときには、 それに追随して、 戦争を肯定し、 「『立正安国』 でなく、 『立正報国』 でなければならない」、 そんな言葉までつくった。 戦争が終われば今度は仏教民主主義などということを言い出した。 いつも教団の精神面である教学が、 現実との対決、 対応がないために現実追随に終わってしまう。 それであってはいかん。 これを克服するのが現代の宗学の目的でなければならん」、 というようなことを話しした。 これも現宗研へのつながりです。
そして革新同盟の実践途上において、 私はそういうことを望まなかったけれども、 愛知県の宗務所長選挙が行われて、 昭和三十年にかつがれて所長になったのです。 私は布教と教学を命にしていた。 やむをえず革新同盟の線で所長を四年間やるということ、 しかしこれは決して無駄ではなかった。 いろいろなことがわかった。 そして所長を終わって二年たって、 宗会に手を上げて立候補して幸いご支持を得て当選しました。 その宗会に当選して、 それは三十六年です。 三十七年の三月定期宗会でこの建議をしたわけです。
そのとき話したのは、 今でも覚えている言葉は 「現代は、 教団すべてが危機に瀕している。 その危機を危機と認識しないところに真の危機がある」。 こういう言い方で生意気に、 中野正剛ばりのレトリックでやったものだから、 みなシーンとしちゃった。 四十六歳でしたから元気もあるし、 これは採択されるなという予感がするような雰囲気で演説を終わったのです。 それがきっかけです。
そして今おっしゃったように準備委員会ができ、 一年余り、 それから箱根のある旅館へ三谷会祥師、 私、 中濃教篤師の三人が泊まって、 一番基礎的なものを検討したのです。 それが成熟しまして第十四宗会かな、 それが三十九年です。 ですから三十七年、 三十八年、 三十九年の三月の宗会で正式に発足した。 こういういきさつがあります。
ですから問題はやはり教学の刷新とか、 そこから生まれてくる教団の現実対応、 その現実対応の中に三権分立と宗会指名内局制度があります。 現宗研の建議と同じころに私どもがやかましく言って、 包括法人日蓮宗の代表役員を宗務総長にし、 その宗務総長は宗会で選ぶというイギリス方式の民主主義ルールをとろうという、 これが会派宗政の発足です。 調べてみればわかりますが、 現宗研の発足とほとんど同時です。 そういう歴史的な役割を背負いながら今日に及んでいるということです。
司 会 先生のお話を伺いますと、 新しい教団づくり、 そういうものを目指してこの現宗研の設立の提案がなされたと受けとめさせていただきますが、 そういう中で当時非常に若い木村勝行上人が、 事務主事ということでこの現宗研の実際の活動のスタートを切られたと思いますので、 先ほど中濃先生が現宗研には全くお金がなかったと、 そういうお金のない、 またひもつきでない現宗研をスタートさせるときにどういうご苦労があったのか、 木村先生の方からお話をいただきたいと思います。
木 村 私が現宗研に誘われ入っていくわけですけれども、 ちょうどその当時は、 浅草から池上へと宗務院が大移動をするという時期に当たっていたわけです。
昭和四十年一月十四日に新庁舎の地鎮祭が行われ、 また十一月二十七日、 宗務院の開庁式、 こういう場面に出くわしたわけですが、 これは現宗研が開設した次の年になるわけです。 新庁舎に移転をするということで、 私などはリヤカーで宗務院から書物や書類などを池上に運ぶお手伝いをやらなければならないということで、 現宗研どころではなかった。 宗務院のお手伝いがまずもって最初のご奉仕だったように思います。
移転をしたのですけれども、 仮庁舎には現宗研は入れない。 狭いということで、 酒井謙祐上人の池上・実相寺の二階に間借りしまして、 いよいよ事務所を一応開いたわけです。
そのようなことで、 現宗研というものをまず理解しなければなりませんでした。 経済的にも、 大変厳しい予算を現宗研は与えられていたわけです。 そんな中でとにかく長谷川先生あるいは中濃先生のいろいろな所見、 それから今までの教団の流れをつかまなければならないということになり、 第一回宗会からの流れを 『宗報』 で見ていきました。 第一に教団の問題でした。 教団のいろんな問題が大変たくさんあるわけですが、 その出てくる根源は一体何なのかということを、 まずもってこれを課題にしなければならない。 第二は創価学会あるいは新興宗教に対応していくためには、 一体どういうことをしなければならないか。 これは調査部の仕事として大きな仕事ではないか、 こういうふうな認識をもっておりました。
またもう一つは、 現代の宗教の諸問題、 平和社会問題、 これは大変激動期に当たりました。 安保問題をはじめ、 それから立正平和運動というものも大きく転換を迫られるというような状況、 総じて教団の危機と、 それを一つひとつ検討してやっていかなければならないというようなことでした。 当初は教学部門の研究会が主たるものでしたが、 殊に本尊論についての見解を現宗研としてまとめていかなければならないということで、 まずもってとりかかったのが本尊論です。 勝呂信静先生から出された 『日蓮聖人思想の根本問題』、 こういうものも刊行されました。 これは我々に大変大きな示唆を与えてくれた内容のものでした。 殊に身延山の本尊をどうするか、 あるいは単位寺院のご本尊をどうするか、 檀信徒のご本尊をどうするかというようなことで、 この当時大変参考になった、 何か方向づけを与えられたような、 そういう会議でした。 しかしどうしてもやはり教学面に偏りがちなわけですが、 布教面といったようなものがなかなか定着しない。 第一回には 『説教のしかた』 という書物を出したのですが、 これはアッという間に売れてしまいました。 説教のしかたがこれほど皆さんに好まれることは、 やはりこれは相当需要が大きいなということから、 今後の現宗研は布教の研究もやはり大きな問題ではないかと認識したわけです。
その中で室住一妙先生が 『開目抄に聞く』 という書物を刊行され、 それから執行海秀先生が 『日蓮宗信仰の種々相』 という書物を刊行され、 また一方では、 伝道部からですけれども、 『創価学会および公明党に対する現状分析と将来』 といったような書物が出版されたということで、 何かしら現宗研の布教に対する方向づけというものが出てきたように思っていたわけです。
ことに昭和四十二年に入りますと、 「護法運動」 というものを宗内に定着させなければならないということで、 護るべき法とは何なのかということで、 法というものが 「宗義大綱」 という形で出されました。 現宗研に対しては、 総長から宗義の簡明化、 現代化といったものを委嘱されたわけです。 その研究が必要だということですが、 簡明化、 現代化は、 宗義大綱の解説というようなものに、 これを完成させることで終わったように思います。 これはその後の発展がないためいささか残念でした。 布教面についてはどうしても諸宗教を理解していかなければならないということで、 『諸宗教理解の手引』 と、 それからもう一点は、 『新興宗教とは何か』、 『日本仏教の源流』 というようなことで、 布教のための教養シリーズを三冊発行しました。
興学布教の中で、 どうしても現宗研の力というものは、 行政府の中にあるわけですから、 その行政府の中に現宗研があるということは、 教団の要請に対応しなければならない。 教団の要望事項をまとめていえば、 短期的なものもあればそれから中長期的な問題もある。 もう一つは、 現代と日蓮宗ということで、 現代の仏教、 現代の宗教というものを考えて、 そして教団の方向づけをしていかなければならない。 もう一つは、 教団づくりということがあるわけです。 これは長谷川先生からおっしゃられたように、 革新同盟以来、 日蓮宗の教団の新しい教団づくりをしなければならないというような課題があるわけですが、 そのための制度を見直したり、 いろいろ変革をしていかなければならない。 こういうような問題がたくさんあります。
いずれにしてもこうした問題を、 教師の皆さんにまずもって提案しなければならない、 提唱しなければならないということで、 第一回の教研会議の企画を行ったわけです。 十分だとは思っておりませんけれども、 少なくとも第一に布教の問題、 ここでは伝道という言い方をしておりますが、 その伝道の問題というものをまず考えなければならない。 それからもう一つは、 日蓮宗の制度を考えなければならないということでしたが、 これはそのままになってしまったように思います。
それからさまざまな布教分野を考える必要があるのではないか。 例えば文書伝道であるとか音楽伝道であるとか、 いろんな分野があるわけですが、 そういうものが今一体どういうことになっているのか、 そしてどういう問題意識でいるのか、 そういうところから布教というものの幅を考察する必要があるということで行ったように思います。
「護法運動」、 それからそのすぐ後にくる聖誕七五〇年の促進というようなことで行政・立法府は忙しいわけです。 現宗研としては、 それにどう対応していくかについて大変苦慮いたしましたけれども、 昭和四十四年に 『現代の伝道』 というのを一応刊行した段階で、 伝道というもののイメージを形成することができました。 少なくとも教師の皆さんにはこういう問題があるのだという共通の認識をいただいたように思います。
司 会 今、 木村先生の方から、 創設当時のいろんな研究資料の刊行等のお話いただきましたが、 その中で昭和四十三年の九月十日に第一回の教化研究会議が開かれたと年表にございますが、 実は私、 司会させていただきながら一つわからなかったことは、 この 「現代宗教研究所」 というネーミングですが、 これは第十四回の宗会でもう決まったわけですか。 そうするとそれはどういう意図からそういうネーミングをされたかということと、 第一回の教研会議が開かれたということに関しまして、 その開く過程、 趣旨をもう一度ご説明いただければありがたいと思います。
中 濃 さっき申しましたように、 準備委員会の中でいろいろ検討してきたわけです。 当時長谷川上人からの意向というのは、 教学布教の研究所をつくれということでした。 それはそれで結構なのだけれども、 この準備会の中で菅谷さんから強力に主張され、 私も大賛成だったのですが、 教団の中のことだけではなくて、 現代の宗教全般を見ていこう。 それら宗教の動きの中で日蓮宗はどう対応するかということを考えないと本当の対応にならないじゃないか。 教団の中のことは、 日蓮教学研究所におまかせしたらよろしい。 我々はもっと広く社会を見ていこうという意味で、 「宗教研究所」 にしようという意志統一がはかられ、 長谷川上人もその方がいいということになって、 「日蓮宗現代宗教研究所」 と 「現代」 をつけることになったわけです。 要するに社会に目を広げた研究所にしようというのがいきさつだったのです。
それから第一回教研会議開催の趣旨というのは、 教団指導者から言われて何かを研究するのではなくて、 研究所の方から教団に対して、 こういう教団であってほしいということを知らしめていく。 それから我々研究所員だけが集まって何かをしているのではなくて、 広く熱心に教団の在り方を考えている方々に集まってもらって、 個人で勝手に考えるのではなくてその意向をくみながら、 それをまた教団に反映させていく。 そういう何か機関がつくれないものかというところで始まったのが教化研究会議だと思います。
研究活動を進める 司 会 宗門内のすべての教師に開かれた、 すべての教師の意見を拾い上げることのできる研究所というご発表をいただいたわけですが、 そういう意味で非常に現代的な意義を備えた研究所と理解させていただきます。 第一回教研会議に七十六名の教師が参加したということが年表の方に報告されていますが、 そのときの七十六名のお一人として、 最初にご参加いただいた新間先生にご出席いただいておりますので、 いわゆる研究所の呼びかけに対応した一般教師の希望といいますか、 志というか、 そういう点でひとつ当時の思い出を語っていただきたいと思います。
新 間 私たちのように東京から遠く離れた地方にいる教師にとっては、 その当時はほんのわずかの文書や何かで宗門の動きを知っているという程度で、 どのように教研会議が準備されたのかも全然知らなくて、 ただこういう催しをするという案内が各管区にきました。 ちょうど護法運動が地方に浸透してくる時期で、 私の管区では、 その年つまり昭和四十三年の春に第一回の護法大会をやったばかりでした。 全国で二番か三番目ぐらいの早さだと思います。 ですから宗門の運動に目が向いてきていたときだったわけです。
これはおもしろそうだと思いまして出席をしました。 初めの第一回ですから、 茂田井師の記念講演、 「伝道の精神」 というのがありまして、 各部門についての十人の問題提起があり、 その後六人の方が、 各地方の布教の現状を話されました。 それから青少年問題を取り上げて、 五人の方がシンポジウムをする。 とにかくたくさんの人が話をされたのです。 その間に討議をはさんでいってということで、 二日でやったわけです。 その当時、 宗門の中で一般の教師が本当にまじめに布教伝道の問題を突っ込んで語り合うという場が全然なかった。 管区の中で多少そんな話は出ますけれども、 どうしても親しすぎて雑談になってしまう。 あるいは宗門全国単位の集まりでは、 平の教師はなかなか参加できない。 あるいはまた参加できるところであっても、 講習会で一方的に聞くだけとか、 あるいは行政レベルのいろんな伝達とかが主であって、 なかなかお互いに語り合う場がなかったわけです。 そんな中教研に出席し、 非常に感激しまして、 そのときの私の感想は、 酸欠状態にあった部屋に窓が開いて新しい空気が流れ込んできた、 そういう実感を受けました。
その後すぐに現宗研から、 参加者全員にアンケートがきて、 それに対して二十六人が返事を寄せました。 中には大したことはない、 そんなものは学者が集まって机上の空論を述べているだけだというような感想もあったみたいですけれども、 多くの人は非常に熱意のある感想を寄せました。 私はこのとき、 これが非常によかったと思うのですけれども、 それに対して現宗研の側が、 参加者の中から、 あるいはそのときたまたま出席できなかった人も含め、 全国から活動家をすぐにパッと集めて運営委員にしました。 中央の東京だけで運営をやるのではなくて、 今の嘱託がそれにあたるわけですが、 サッと全国から運営委員を集めて第二回以後を準備したわけです。 それ以後私はかかわってきました。 やがて運営委員を現宗研の嘱託という形にしていくわけです。
そういうことでこの教研会議によって初めて、 全く肩書なしで教師が教化問題を語りあえる場ができました。 それから回を重ねていくにつれ、 まず第二回教研で、 教化のカリキュラムが必要であるという三田村龍全師の提案があって、 やがて自主的なカリキュラム委員会が、 四年後の四十七年にできました。 それがすぐに教務部所属になって、 まず信行道場のカリキュラムを作ることに絞られます。 これは教研会議がつくりだした委員会であるといえます。
それから一つ大事なことは、 地域の教研が二、 三年遅れで発足したことです。 東北で始め、 やがてその翌年近畿で始めまして、 それから少しずつ各地で始まりだし、 昭和五十四年の身延結集の年には九教区で行われるまでになっていました。
教研が地方に広がったことがまた大きな力になりました。 中央だけではせいぜい百人くらい集まるのが、 各教区で百人ずつ集めれば十倍の千人になるという大きな力をもつようになって、 それが今日に至っているわけです。
それから各地域の教研の中から始まったと思いますけれども、 教化センターが必要だということが参加者の中から出てきまして、 当然中央教研でもそれを取り上げて、 教化センターという一つの伝道組織の問題がずっと大きな柱になってきたと思います。
司 会 新間先生の方から、 スタートからかなりな発展のある話をいただきましたが、 要するに中央でつくられました現代宗教研究所が、 その中央の人間だけでなく地方の人々にも呼びかけることで、 当時皆さんが手弁当で、 みんな自費で七十六人東京にお集まりになったことは非常にすばらしいことだと思います。 言葉をかえますならば、 現代の日蓮一門づくりという一つの実践であったろうと考えられます。 その中枢となります皆さんの会議部門の他に、 宗門の中枢として伝道部の方を担当なさいました石川浩徳先生、 そのころの状況をお願いします。
石川 (浩) 先ほど所長さんがおっしゃったいわゆる現宗研の役割として、 そうした時代の要請に応じてこうしたものができたのですが、 その中で自由研究等については非常にいろんな面で 「現代宗教研究」 に発表されています。 そういう部分での活動と、 それからもう一つは、 特にお題目総弘通運動、 いわゆる護法運動からお題目総弘通運動へ移行していくその状況の中の役割を担っていました。
司 会 それではその途中の研究部門のことにつきましては、 むしろ現在の所長であられる同じ石川でも教張先生の方にその辺はお願いしたいと思います。
石川所長 私は現代宗教研究所には昭和四十二年ごろに研究員になって、 昭和四十六年に主任になったという経過です。 それで現代宗教研究所という名称が当時から今日に至るまでの、 日蓮宗の中では非常に重要なネーミングであろうと今も思っています。 やはり教学、 教化、 それから教育、 さまざまな今日的な問題についてどう対応していくのか、 どういう研究調査の中身をまとめていくのかは、 現宗研の一貫した命だと思うのです。
研究活動の上では、 教学の現代化の問題から現宗研はスタートしておりますし、 それから新宗教研究も一貫した研究の柱です。 特に創価学会の問題を取り上げて研究を積み重ねてきた。 それから現代社会の問題については、 靖国の問題とか、 その後高齢化社会の問題、 青少年の問題等、 問題別の現代社会の諸問題についての研究のまとめをしていくということで、 社会にとっても、 現代社会とかかわった中での研究活動を大変重視して取り組んできた。
それから調査面では、 同朋会運動の調査とか公害問題の調査とか、 過疎寺院の調査が、 四十年代から五十年代、 さらに六十年代に至るまで、 継続的に調査活動が行われて、 宗門の実態、 それから社会とのかかわった中での調査にも取り組んできた。
さらに近代から現代に至る教団の歩み、 教団史研究を重要な研究項目として取り上げてきた。 これもやはり日蓮宗の現実というものを歴史的にも見きわめて、 宗門のあり方を考えていく、 という一環の中での研究活動が行われてきたと思うのです。
その中から教研会議なども積み重ねられてきた。 教研会議と教化センター、 教化学研究集会、 これが一つの教化面の三本の柱として進められてきていると言うことができると思います。
司 会 そういう具合にしてどんどん研究が進められていくかたわら、 また先ほど新間上人のご発表にありましたように、 中央教化研究会議が、 さらに地方教化研究会議が開催され、 いろんなものが会議のテーマとして取り上げられていったわけですが、 この四十年代には、 昭和四十六年に宗門は宗祖聖誕七五〇年を迎えて、 当然それに対する取り組み、 あるいはそれ以後の反省がこの教研会議で取り上げられております。
中 濃 さっき歴史的に追ってきましたけれども、 その中で非常に重要な役割を果たした一つが、 「宗義大綱」 の解説をつくったことです。 これは現宗研でなければできない解説だと思うのです。 茂田井師が所長のころですけれども、 「宗義大綱」 が一応でき上がった。 その解説をつくらないと大綱だけではよくわからないということで、 解説をつくるので半年かけたと思うのです。 これはすごく熱心にやったと思います。 その解説は日蓮宗教団にとっては戦後の一つの方向を出したものだと思いますし、 現宗研が果たした非常に大きな役割だったと思っています。
司 会 いわゆる教団をリードする研究機関であるというぐあいに理解させていただいたらいいでしょうか。
そこでそういう 「宗義大綱」 の解説などをして、 これからの教団があるべき姿というものを一所懸命追い求めていった現宗研と、 一般教師との会合の集団である教研会議の中で、 聖誕七五〇年以後の問題というもの、 それはとりもなおさずその十年後に七〇〇遠忌がくるということで、 おそらくこの教研会議でいろんな方の意見が出されたのではないかと想像されます。
秋 永 私は教研会議にかかわってきたのは、 昭和四十五年ぐらいからだったと思います。 その当時、 私は北海道ですので、 北海道の中で私をはじめ教師が心に抱いていたことは例の小樽問答です。 小樽問答で私どもが、 その結果がどうのこうのということではなしに、 ただ学会に何かやられたという悲壮感というか危機感が非常に強かった。 そういう中で教研会議が開かれて、 一般教師に発言する場が与えられるということに私ども地方の教師は大変感動して、 そういう気持ちで出席しました。 そのような気持ちで小松智元上人と高橋智量上人、 それと私の三人が初めて出席したわけです。
私どもに開かれた宗門、 それに対する願望といったものが地方の我々に非常に強い光を与えてくれたものと思っております。 そのことによって我々の生活の中で教団をどう見ていかなければいけないのか、 そのことを真剣に考える示唆が与えられたのではないか。 そのことが教研に対する感動をもった理由です。
それと同時に、 北海道は当時過疎問題で非常に悩んでいました。 それに第一番に手をつけていただいたのが現宗研で、 久住謙是師などが過疎地の寺院調査に取り組み、 そういうものがあって、 私どもは現宗研の必要性を非常に強く感じました。 現実の私どもの生活の中で北海道の過疎をどういうふうに我々は取り上げていかなければいけないのか、 そういうところに目を向けてくれた現宗研の動きに対して、 今でも私は大変すばらしかったという感じをもっております。
遠忌につきましては、 そういうことを踏まえながら、 一体我々はどう教化の問題を考えればよいのか、 そういうことで非常に悩みましたけれども、 結果的に見て私どもが考えていた方向には進まなかった。 それがやはり将来に残された問題ではないかなと思っております。
司 会 実は遠忌に向かってのテーマが何だったかということで、 ちょっと人を変えて伊藤上人、 その遠忌を迎えるにあたりまして、 現宗研あるいは中央教研で出てきたテーマといいますか、 一つの目標としたものが何だったかというようなことをお話いただきたいと思います。
伊 藤 ちょうど私は地方に帰りまして、 七年間ほど現在の日本福祉大学 昔は中部社大と言っておりましたが の方へ請われてしばらく職員として務めさせていただきました。 三十六年に荒行堂に入りまして、 その前に布教院、 もう一度お坊さんの原点に戻ってやろうという状況の中で、 自坊を中心にした坊さんの仕事にいそしんでおりました。
ちょうどそのころ、 大企業優先の利潤追求で日本に初めて四日市市内にコンビナートができました。 これはすべて町をひっくるめてということがありまして、 いわゆる公害問題が大きくクローズアップされました。 私どもの檀信徒の中にもそういう問題で苦しむ人がふえてくるという状況でした。 桑名の仏教会、 四日市の仏教会の仲間たちを中心にして、 これは放っておけないではないかということで、 その問題について取り組むようになるという状況があったわけです。
そういう状況の中で、 私は、 四十五年の第二回の教研で 「地域公害と教化」、 「公害問題と教化」 というタイトルで、 自分なりの実践活動を踏まえて一つのデータを提示したわけです。
そんなことでこれも宗門として取り上げる。 特に現宗研ではその後年表にも載っておりますけれども、 四十一年にはいわゆる公害問題のアンケートを現宗研として地区寺院全体に実施した。 そして現宗研から当時は主任だった石川所長と日蓮宗新聞から丸山邦雄師のお二人が出張してこられまして、 三人で現場においてそれを問題にし、 今後のあるべき宗門の態度というものを反映させるべく何とか努力しようじゃないかというようなことがあった。
その前に、 昭和四十年でしたか、 第四回の日蓮門下の青年結集が福岡で行われました。 私もそのときには、 いろいろな公害問題も含め、 当時ベトナム戦争が拡大していくという状況の中で、 戦争の問題に関して、 被爆者救援とか問題提起をさせていただいた覚えがあります。
そのときには非住職の選挙権の問題とか、 そういうことは日青連として高くあげていましたし、 そういうことを旗印にして私も立候補し宗議に当選したわけです。 それで一応七五〇降誕のことが終わって、 ただ何かお祭騒ぎでは困るではないかということで、 それから七〇〇遠忌の問題が出るようになる。
報恩の教化にとりくむ 司 会 ということは、 七〇〇遠忌を前にして、 それに向かって知恩、 報恩というテーマは現宗研がリードして行政サイドでも大きく進められていきましたが、 現宗研あるいは中央教研もそのテーマに沿って、 研究なり活動がなされたと思います。
その現宗研の立場で、 「恩」 という問題をどういうふうに取り扱っていくかということで、 中濃先生、 当時現宗研は宗徒に対して 「恩」 という問題をどういうぐあいに取り扱っていったかを少しご発表いただきたいと思います。
中 濃 報恩の問題を日蓮宗徒としてどう考えるかは、 基本的な問題ではないのだろうか、 ということです。 もちろん宗祖の恩に報いることが基本にあるわけだけれども、 もっと広げて、 恩とは何だろうということを、 今まで先師がいろいろ書かれたもの、 あるいはお説教で言われているものなどを参考にしながら、 現代的視点にたって、 恩をどう考えるかという点を明らかにしていこうではないかということでした。 そこを明らかにしておかないと、 いたずらに恩をこうむったから、 それに対して我々は報なければいけないと単純な儒教道徳になってしまう。 例えば親が仮に非常に社会からも嫌われるような行動をとってても、 親に対しては報いなければいけない。 その親を諌めるようなことは恩に背くものではないかみたいなことになってしまっては困るのではないか。
そこで日蓮聖人はそれをどうとらえたのかということになります。 大体日蓮聖人の恩のとらえかたは、 法華経信仰に入ることが基本なのであって、 たとえ親に背いても、 親が法華経信仰に入ってはいけないと言われても、 それを振り切って入信するのが真の報恩だというその基本点を、 我々はもう一度現代的に把握し直してみる必要があるのではないかというところが、 あのときに恩問題を考える一つの原点になったのではないか。
三田村龍全師がその問題について恩思想を発表されたり、 「恩の構造」 を現宗研で特集し、 それに対して討論したりという形の中で、 それがだんだん広がって、 最後に身延結集のところにつながっていったのではないかと思います。
司 会 そういうことで七〇〇遠忌を前にして、 第十二回中央教研・身延結集が行われまして、 あのとき身延宣言 (資料参照) がなされて、 日蓮宗教師としてこの恩の問題をどう社会的に、 あるいは宗門的に具現するかという問題がずいぶん論じられたと思います。 私も参加させていただいた一人ですが、 非常に盛り上がった、 これからの日蓮宗を占うようなすばらしい大会だったと思います。 そのことに関しまして小倉上人、 ひとつ思い出をお話しいただきたいと思います。
小 倉 私が教研会議に出るようになったのは、 長野に行ってからです。 それで身延結集というのは、 何年も経っていなかったわけですが、 非常に盛り上がったことを鮮明に記憶しています。
思い出としては、 宣言文をつくるということで、 夜遅くまで起草委員会が行われました。 私は加わっただけというところですが、 夜遅くまであれやこれや検討しながら 「昔の日青時代を思い出すなあ」 と石田良正師と話しました。 昔、 我々の日青時代は、 徹夜というようなことは当たり前で、 そのような苦労をするからこそ盛り上がるんだ、 という考え方を持っています。 そうした今風にいえばムダな苦労をしなくなってきているだけに大変懐かしく思いました。
内容的にいえば、 恩という問題を、 今中濃先生がおっしゃたようにキチンと出したことは、 非常に有意義だったのではないか。 今まで教研会議とえば、 自分たちの現場のことを話し合うだけだったのが、 勉強という方向に向いた人がかなりいたのではないかと思います。
地方でもこれを当然取り上げたのですが、 始めて御遺文を全部読んだとか、 恩という字が何箇所あってどうなっているか、 を調べたという人が結構おりました。 やはりこういう形で出てくることはすばらしいものだと認識しております。
あわせていえば、 それ以後についても現宗研がかなり宗門をリードしてきているのではないかと思います。 現在進められているお題目総弘通運動なども企画会議の中心メンバーは現宗研の嘱託です。 地方においても教化センターが宗務所の中心になってきています。 総弘通運動において、 護法事務長を通して活動させよう、 ということになっていますが、 護法事務長は宗務所の行政サイドに入ってしまっていて活動分野ではなくなってきています。 むしろ教化センターを動かしたほうが仕事がうまくまわるのではないか、 と考えています。
逆な意味でご指摘がありましたが、 確かに現宗研はだんだん現実的になってきています。 広がっていけばいくほど現実的になっていくのはやむをえないところがあると思います。 ただ、 初めの理想とすばらしい理念、 その源流はやはり残っているわけですから、 そういう意味でこれからも現宗研、 そして教研会議等がこれからの宗門をリードしていくであろう、 とこんなふうな力強さを感じています。
新 間 身延宣言に至る前に、 昭和四十九年、 第七回にそれまでの教研会議を踏まえた宣言が出されております。 その翌年の第八回から報恩の問題が教研会議で大きく取り上げられるようになり、 「報恩の教化活動」 ということで、 いろんなことが論じられまして、 それが大体そのまま宗門の遠忌のテーマになっていきました。 教研会議と現宗研が宗門の教化テーマをリードしていく形がそこではっきりと出てきました。 教研会議の中で出された資料、 あるいは現宗研が報恩についてまとめた資料の中から、 宗門の七〇〇遠忌事務局が引用して、 そのまま使うということもかなり行われていました。
それで教研としては、 遠忌の正当になると教師はみな動けなくなるので、 早めにということで、 遠忌二年前の昭和五十四年に身延結集をやったわけです。 それで身延でやるのだから御廟所で日蓮聖人にお誓いするという形で宣言をやろうではないか。 決議ではなくて宣言の形にしようということになり、 私が起草委員長を仰せつかり、 顧問の先生や石川教張主任などによってある程度の骨子がつくられ、 それに実際の討議をいろいろ加え起草委員会にはかりまして、 最終文章は私が徹夜でまとめ、 宗祖の前で、 御廟所の前で朗読させていただいたのです。 初めに話がありましたように、 この身延結集が一つの大きなピークになったと思います。 そういう原動力をもってそのあと、 みな各地の遠忌の奉行に散っていったのです。
司 会 本当に十二回の身延大会はそういう意味で一つの集大成をやったわけですが、 「現代宗教研究」 のバックナンバーを見てみますと、 第十号から 「恩」 の構造等々で発表されておりますから、 これは五十年からそういうものが大きなテーマになってきたのだろうと回顧されるわけです。
今身延宣言で思い出したわけですが、 あのころは身延宣言が最大の宣言文でしたが、 教研会議のたびに、 決議文あるいは要望書、 そういうものがずいぶん出されていったわけです。 あのままいっていますと、 今ごろ日蓮宗は世界の大半を制覇しているはずなのですが、 ほとんど実現されていない。 すなわち 「恩」 の理念等々もずいぶん研究されましたが、 七〇〇遠忌を迎えたときに一つの決算として我々が考えていたことがどのくらい浸透したのか、 あるいはこれからの反省点、 そういうものを踏まえて、 あのときの総決算的なものを長谷川先生の方からご発表いただきたいと思います。
長谷川 七〇〇遠忌のときには、 何回目かの議席をもって教宣部会長を仰せつかって、 そして武道館の行事、 それから各本山の行事、 ことに十月十三日の宗門大法要、 そのことにずっと没頭して、 今さて振り返って、 何がどうなっているだろうかというのが浮かんでこないほどその中に入り込んでいた。 そんなような現実の中にはまり込んでしまった。 今ご質問を頂戴しましたような、 離れて眺めたり考えたりすることのできない状況だった。 それほど一所懸命でした。 事故もなく無事に終わったり、 二回の法要も無事に終わり、 身延、 中山等も終わって、 申しわけないけど、 「やれやれよかったな」 というそれだけしか残っていない。 それほど一所懸命やったことは事実です。 今思い出して何か原稿にでも書くならば書けますけれども。
司 会 長谷川先生の場合には本当に中心として一所懸命やられて、 よいご遠忌だったという思い出しかおありにならないようですが、 一方外部から見た場合にどういう批判ができるか、 その辺を蟹江上人ひとつお願いします。
蟹 江 私が七〇〇遠忌に御縁がありましたのは、 宗門に入れていただいて間もない時だったのですが、 身延結集のときにおじゃまさせていただいて、 第一番にこれでよいのかと思った。 ただマスターベーション的なものであるのではないかなあと、 私は率直に思ったわけです。 これから先本当に生きた現代社会の苦悩を教化していくためには、 もっと実態に合った教化体系として御遺文なり法華経なりをもっと深めたところにおいて教化をとり行わなかったら、 これはただ表面だけのものにして終わってしまうのではないだろうかと率直に感じたことです。
なお、 武道館の一万人結集、 身延結集におじゃましたりして、 より一層強く思いました。 しかも、 檀信徒だけを中心にしたものであって、 宗外に向かっての体制が何もないではないか。 未信徒に向かってこれをどう教化し体系づけていくのかを、 集まった人々の中に見出すことができず何の集会かと疑問に思いました。 もっともっと教義を深めて本当に日蓮聖人の御心がすべての生活の中に入って生きていくものの確立が必要だと存じます。
司 会 行政として中心になられる方はそれを円成することが最大の目的でしょうけれども、 そうでない立場からしますと、 確かに七〇〇遠忌というのは、 宗祖のお会式を奉行することが報恩だというぐあいにお考えになった面が強いし、 それから部外者から見れば、 その宗祖の行動についていくこと、 宗祖の理想を掲げることこそ報恩ではないかというとらえ方をなさっていたと思います。 そういうことで、 七〇〇遠忌以後は恩の問題をどう追求したらよいのかをお考えになられた井本上人、 ひとつご発言願いたいと思います。
井 本 私自身、 実際、 教学を深く勉強したことのない人間が、 本当に教化研究会議に参加させていだたく中でいろんなことを教えられ、 私の今日があるのはやはり教化研究会議に参加したおかげだと思うのです。 特に報恩の思想というものを遠忌に向けて教化研究会議が第十回ぐらいからずっと続けてやってまいりました。 その頂点があの身延結集大会になったと思います。
先ほど蟹江先生からお話があったように、 結果的に見て遠忌以後の問題で、 これではならないと思われたかもしれないけれども、 私自身は教研会議をやる中で、 報恩というものを本当に大きい感動を覚えてあの身延結集大会をやったと思います。
そういう中で、 分野別に第十回ぐらいから入っていきましたが、 参加した教師全員が、 報恩について、 ある者は青少年部会、 ある者には法器養成部会の中でどう報恩観をもっていけばよいのかが浸透していったのではないのでしょうか。 そのものはやはり今も続いているのではなかろうかと思うのです。 形としてはあまり出てきてはいないけれども教研会議にずっと連続して参加した者は、 そういうものをちゃんと秘して、 今の少し変わってきたと思える教研会議の中でもやはりそういうものが生きていると思っております。
お題目総弘通運動と教化研究の課題 司 会 そこで遠忌以後はいろんな反省、 反省だけではなくて実は遠忌以後のいき方ということで、 この教研会議の中でもずいぶん問題になってきて、 そういうことに答えるための現代宗教研究、 あるいはこれから常に日蓮宗をリードする研究集団であるという立場から、 ある問題を提唱していかなければならなかったときに、 非常に私は悩まされたのは現在の所長石川先生ではないかと思います。 石川先生に、 遠忌以後この日蓮宗を引っ張るためにどうしたらよいかというようなことをご発表いただきたいと思います。
石川所長 先ほど来の話と関連しますと、 昭和五十年代から報恩のための教化活動を積極的に打ち出した。 これは当然七〇〇遠忌を目標にしてのことですけれども、 宗門の今までの動きからいきますと、 必ず何か事業を行う、 行事を行うという場合においては、 勧募から始まる。 勧募から始まってどういう事業をするかという話になる。 例えば、 七〇〇遠忌とは一体何か、 七〇〇遠忌の意義とその内容を、 宗門内外にどう広めていくかという発想はまず最初に出てこない。 下手をするとそれがないままに形ばかりの事業行事ですんでしまうという危険性が非常にあるという中から、 教研会議においては積極的に報恩のための教化活動を提起をしたということがあるのです。 また、 現宗研としては 『近代日蓮宗年表』 を編集しました。
そして七〇〇遠忌が終わった、 あの段階でみんな、 「ああやれやれ、 一段落ついた」 ということで終わったのです。 その後出てきたのは何かというと、 宗徒総弘通、 そういう名前でいわれだしたのです。 宗徒総弘通といっても皆目何も出ていない。 七〇〇遠忌以後の日蓮宗の活動は、 どうなければならないかということは、 みんな考えてはいたと思うのですけれども、 具体的にどうするのかは全く提示をされていないという状態があったのです。
その中で、 宗徒総弘通をどうするかという話はありましたけれども、 「お題目総弘通運動」 という形で次の段階では提起した。 それはあくまで七〇〇遠忌を営んで、 宗祖への報恩の真を捧げた、 その報恩の心を、 今の社会に向かって実践をしていかなければならない。 つまり報恩の実践として、 宗門の中だけではなくて外に向かってやっていくという、 そういう方向の中から 「お題目総弘通運動」 が出される必然性があったと思います。
あくまでも日蓮宗は信仰をもとにする集団であるから、 やはり信仰的な中身を宗門内外に伝え広めていく。 こうなりますと、 何といっても日蓮宗は本来的に題目教団であるし、 そうなければならない。 かつては護法運動の法とは何かということで大変いろいろはっきりしたものが出てこなかったということもありました。 やはり今うち出すべきメッセージとしては、 題目教団である日蓮宗ならば、 また日蓮聖人が生涯かけて唱導されたのは何かといえば、 これは何といっても題目です。 お題目を広め伝えることが報恩の実践でなければならないというのが基本でした。
当時の宗門の中では、 宗徒総弘通と言っているのだから、 お題目は確かにそうなのでこれは譲れませんけれども、 「総弘通」 だけ残してくれというような話もありました。 だからもう少しわかりやすい名前の方がよかったのかもしれませんが、 そういうことでお題目総弘通運動になった。 そして教研会議で話されているように、 やはり信仰と教化本位の日蓮宗づくりをする、 その行動もまたお題目である。 さらに宗門の外に向かって、 未信徒や社会全体に向かってのメッセージとして送れるものは何かといえば、 これはお題目以外にあり得ないということで、 お題目総弘通運動の理念と、 それから十八カ年計画のプラン化をした。 そのプラン化の中で立教開宗七五〇年に向かって、 第二の立教開宗を目指していく志をもって、 それを当面の目標にして、 護法運動の発展の上にたってお題目総弘通運動を展開していく、 こういう形で現宗研や教研会議の成果を反映する形でプランを練ったわけです。
そこで石川浩徳上人も入り、 教務、 伝道、 現宗研三者で、 それこそあのときも自弁で集まって、 このプランを最終的に取りまとめて、 内局に提示した。 そして宗会全体でそれを承認してスタートしたということです。
司 会 そこで先ほどから満を持しておられた石川浩徳先生に、 今の所長さんの第二の立教開宗を目指してというところに現在のお題目総弘通運動の真意があるのだということを踏まえまして、さらにお話をいただきたいと思います。
石川 (浩) それに入る前にちょっと感想を述べたいのですが。
日蓮宗に現代宗教研究所というのが誕生した。 そしてすでに三十年の歴史を刻んできた。 こういう事実につきましては、 日蓮宗の一人として大変私は誇りに思っているのです。 といいますのは、 ほかの宗派には似たような機関はありますが、 現宗研のようなものはありません。 やはり現代宗教研究所は、 日蓮宗の特徴でしょう。
私は先ほど長谷川先生もおっしゃっておられましたが、 昭和二十三年ごろからいわゆる日蓮宗の革新同盟といった素地があって、 そしてやがて三十九年ごろにこれが誕生したというような話を聞きました。
それは要するに時代にとかく迎合しがちなのが宗教界なのです。 これからは、 あの太平洋戦争の苦い経験を通して、 どんな時代でも正しいものを主張していこうという、 そういう変わらない考え方、 変わらない主張をこれからはやっていかなければいかんのだというところにその誕生の原点があったのだろうと私は思うのです。
というのは、 ご存じのように戦争中は、 今さら言っても仕方がないことですけれども、 いわゆる日露戦争以後は、 まさによその国を隷属化させ、 あるいは皇民化させる、 あるいは植民地化させようというような、 そういう日本の国策に追随するといいますか、 それに迎合していく宗門だったと思います。 宗門はそのために宗祖以来存在するのだみたいな、 宗制までがそういうように規程されている。 先ほど私は日蓮宗の戦前の宗制がないかと思って探したら、 昭和十六年のが出てきまして、その最初の部分に「妙法蓮華経を以て時国相応の大法と為し国体を光顕し人心を教導し……」 と謳いあげ 「本宗の信行は天業恢弘八紘一宇の皇道を翼賛するに在り」 等といったことが書いてある。 そういった間違いを二度と再び起こさないのだという信念に基づいたところに、 この現代宗教研究所の誕生があったのではないかと思いまして、 ほかの宗派に先んじてこういったものができたことを非常に誇りに思っているわけです。
そこでもう過去三十年のことに関しましてはいろいろと皆さん方のお話がありました。 先ほど石川所長さんからも、 お題目総弘通運動へ移行していった誕生のときのご苦労話もありましたが、 まさにあのときは、 これは悪いことなのか、 よいことなのかわかりませんけれども、 どうも日蓮宗は宗務総長が代わるたびに新しい何か 「お題目」 を出さないと気がすまないというようなことで、 運動が次から次へと生まれてくるわけです。 しかし中身は変わらないわけです。 要するに立正平和運動といい、 それが継承されて護法運動といい、 やがて理念を継承してお題目総弘通運動だという。
私がこの宗門の動きに若干かかわりをもちはじめたのは、 実は聖誕七五〇年からです。 あの当時は要するに新興教団の台頭めざましいその中で、 その跋扈を許すなという危機意識がたかまり、 宗門も一人ひとりの資質を向上させなければならないという声が出始め、 片山宗務総長が先頭に立ち、 例の総決起大会が始まり、 やがて護法運動が生まれてくるわけです。 その中で聖誕七五〇年のときに、 宗門からどういうわけか私に伝道隊長をしろということで、 そこから私は宗門の動きとかかわりをもつようになったのです。
とりわけ昭和五十年、 いよいよ七〇〇遠忌の準備段階に入るということから、 私は昭和五十一年に実は宗務院の方に課長として入ってきたのですが、 そのころから護法運動は一体何を目指しているのか。 そのとき私なりにあちらこちらで意見を聞いたり調査をした結果、 どうも実状は護法運動の趣旨が徹底されていない。 要するに笛吹けども踊らずというのが日蓮宗全体の教師の気持ちのような気がしてならなかったのです。 実際新興教団は確実に信徒を布教師に変えていく。 その中で日蓮宗は相変わらず檀家制度の中で、 檀家はあくまでも檀家、 教師は教化する側ということで、 護法運動もどうもかけ声ばかりでなかなか中身が伴っていかないなと感じた。 その当時護法伝道委員会というのがありました。 委員の方々に実は護法講師の方々の勤務評定をさせていただきましたと、 一覧表をつくって委員会に出したことがあるのです。 こんな具合に護法講師、 護法講師といっているけれども、 実際に動いている方はこんなことですといって、 その活動回数から全て調べたのを出しましたから、 当時委員でいらした三谷会祥さんから、 勤務評定だけはしてくれるなという話もありました。
そういう中で、 護法運動を実のあるものにしていくためには、 やはり檀信徒の足腰を鍛えなければだめだというようなことから、 護法運動と同時に護法統一信行の各地開催の徹底、 それをさらにまじめな方、 一生懸命やっている方々を集めて、 いわゆる檀信徒研修道場というのができてまいりました。 小川原潮栄護法伝道部長の時です。 その道場を中央からさらに地方へ広げていって、 やるようになって、 現在に至っているわけです。
その中で一人ひとりが布教師になろう、 一人ひとりがお題目を広める先兵となろうというのがまさにこの 「お題目総弘通運動」 の趣旨なわけです。 実はこのネーミングは石川教張先生がおつけになられたのです。 それで我々は、 その当時機構改革の後、 いわゆる総合企画などという大層な名前の部もできましたが、 教務部課長の富川孝恭師と私と石川所長が、 あのとき本当に自弁でその中身を一所懸命検討し合ったのです。
それを遠藤内局が昭和六十年に発表したというわけです。 それを出してお土産にして長瀬内局に引き継いだという次第です。
そのお題目総弘通運動の趣旨は、 当面の目標を立教開宗七五〇年、 西暦二〇〇二年だというけれども、 やはり当面の目標であって、 このお題目総弘通運動は永久運動なのだ、 こういうとらえ方をしているわけです。 立教開宗七五〇年も、 そのお題目総弘通運動をするさなかにお迎えしようではないか、 それが本当のご報恩だという意気込みで、 実は機構、 あるいはお題目総弘通運動を進めていく組織を考えていこうといって、 当時はいろいろと考えたのですが、 どうもそれが実際に即さないといいますか、 賛成者がいないといいますか、 なかなかうまくいかない。 何かお題目総弘通運動と現在のそれは、 立教開宗七五〇年の事務局といいますか、 あるいは組織というものが二つになっているような感じがしてならないのです。 こういったことが、 私は当初の考えからすると非常に違うのではないかという気持ちがあるわけです。
そういう中で現代宗教研究所が多くの教師、 あるいは檀信徒を啓蒙するために、 いろいろと研究発表をされてこられた。 「宗門運動の四十年の総括」 というのが、 昭和六十一年三月号に出ておりまして、 宗門運動四十年の総括をこちらにいらしっゃる中濃先生や新間先生、 長谷川先生、 そのほか近江幸正先生や岩堀豊種先生、 中野文海先生等がやっておられます。 そこで感じたことは、 やはり現代を見すえると同時に未来を見すえ、 現代宗教研究所が大きな力になっていかなければならないのではないかと思っております。
司 会 今非常に大事な提案をなされたと思いますが、 今開宗七五〇とゴールとしてお題目総弘通運動を企画運営しようというのは行政当局、 宗務院ですが、 そのはざまで苦しまれておられるのが小倉光雄上人です。 私もその下の方でいろいろ意見を言わせていただいている者ですが、 先ほど石川浩徳上人のご発表があったように、 まさにお題目総弘通運動という名称をもって未来の宗門の展望をはかられたのは、 現所長の石川教張先生ですけれども、 しかし一般には総弘通運動が見えない、 お題目総弘通運動がわからない。 わからないのが本当のような現代の宗門ですが、 それに応えていくのは現宗研のこれからのあり方、 教化活動の動き方ではないのかと思います。
これからの現宗研活動に望む 司 会 そろそろ未来の現宗研活動はどうあるべきかということについて、 皆様から一つひとつご意見をいただきたいと思います。 何よりも大切な点は、 既に皆様が三十年の歩みの中でお話し下さっていますが、 これからの若い後継者のためのアドバイス、 導きということでお話しいただきたいと思います。
新 間 一応総弘通運動のプランというのは、 確かに教研会議の集積の中で、 あるいは現宗研の活動の中で出てきたと思うのです。 ところがそれがパッとプランとして発表されて、 実際にそれをどういうふうに実現していくか、 あるいはそれをどこまで実現できたか、 実現されていないかというチェックをする機能が、 今の宗門にはほとんどはたらいていない。 ですから一般の教師から見たら、 あまりお題目総弘通運動の中身そのもの、 どんなプランがあってどういうふうに進めていくのかということがほとんど頭の中に入っていないと思います。 非常にずれてしまっている。 それをどうしたらいいかというのは、 ひとつ現宗研が考えなければいけないことではないかと思っております。
司 会 それでは中濃先生、 一言お願いいたします。
中 濃 いま新間上人が言われたことがひとつ基本だと思います。 宗門内の運動としては、 いろんな運動が起こってくるのだけれども、 宗門人全体のものにならない。 お題目総弘通運動もほとんど宗門人の中に、 まともに入っていっていないというのが現状だと思うのです。
なぜそうなるのかというと、 いろんな護法運動をやった、 信行会運動をやった、 やるのだけれども、 それをやった結果、 どこがプラスになって、 どこがマイナスなのかという分析が全然ない。 それで次に移る、 というところに宗門が行う運動の基本的欠陥がある。 これを直さない限り今度何とか運動を始めてみても同じ結果になるというのは間違いないでしょうね。
その辺のところを我々の現宗研サイドからいえば、 研究的に深めていくということが課せられていると思うのだけれども、 それはほとんど現宗研自体でもなされていないという実態を反省してみる必要があるのではないか。 宗門でやるといってもできないようだから、 研究所でそういうようなことも考えてみる必要があるのではないかと思う。 それから教研会議と現宗研の関係が、 何かわかったようなわからないような感じがする。 今のところは教研会議は現宗研からは完全に独立した感じがするのです。 というのは運営委員会ですべておやりになる。 僕はこれはこれでそれだけ運動が盛り上がってきたという証拠であるというプラス面、 同時に現宗研が考えている、 初期の現宗研から現代までつながってきているさっきから出ている基本的方向性が、 教研会議に何も反映しなくなってきた。 何もといってはいけませんが、 反映が弱くなってきたところが、 これからもう一度反省しなおしてみる点ではないかと思います。 ですから今の教研会議にはプラス面とマイナス面がある。
その一つは、 こう言ってしまってよいかどうかわかりませんけれども、 初期の教研会議は、 先ほど出ていたように、 手弁当でも集まってやろうじゃないかというすごい熱気があったのです。 その場合は宗務所を通さずに集まったものですから、 宗務所長からクレームがくる。 そこでそれではまずいというので、 宗務所経由でやるようになった。 そうすると宗務所の方から、 この人、 この人みたいになってくるところがあって、 私たちがあの地方にああいう立派な人がいるのだから、 あの人にここに出てもらってというのがだんだんやりにくくなったというところがひとつあると思います。 だからどちらがよいか悪いかここでは結論を出しませんけれども、 そういう変遷が教研会議そのものにも出てきているという点。 もしそうだとすれば現代宗教研究所は、 逆に教研会議の出店になってしまうのではないかと危惧されます。 もっと研究所としての働きかけを強めていかなければだめだと思います。 それをやりながら教研との交流をはかっていくということが必要ではないか。 そこがだいぶ薄れてきているのではないかなという感じがします。 これは研究課題として今後皆さんで討論していただいたらいいと思います。
「現代宗教研究」 という雑誌、 第九号あたりから十二、 三号まで、 どこに読まれたかというと、 宗内ではみんなもらってもあまり読んでいない。 ところが山喜房あたりでは他教団から注文がきたというのです。 「現代宗教研究」 がないかと。 この頃の機関誌はそれだけの権威をもっていたのです。 研究内容が他教団にも相当影響を与える研究内容だったということもいえると思います。 その辺のところをもう一度考えてみて、 「現代宗教研究」 の研究論文の内容について、 これからもう少しお互いに切磋琢磨していく必要があるのではないかと感じがします。
井 本 私も端的に中濃先生がおっしゃったとおりなのですが、 一番危惧している問題は、 宗務所から選出された運営委員は、 ほとんどが護法事務長とか宗務所の役職の中から選定された人が、 教区のセンターの運営委員に出ているという仕組みの中で、 教研会議が、 一応財政的な面もあるが、 いろんな面でどんどん栄えているように見えるけれども、 これが役職制度であるが故に、 その転機、 いわゆる改選期のときに、 はたしてうまくスイッチできて、 次の発展につながるかという問題を非常に危惧をしております。
司 会 わかりました。 そういう役職と会議の兼ね合いということについても、 これからのあり方だと思いますが。
蟹 江 今までいろんな話を承って非常に勉強させていただきました。 第一番に現宗研が設立当時の思想にもう一度振り返ってみることが大切ではないかと思います。 非常に深い理想と理念をもって出発されたのですが、 現在では時の流れの中でしょうか、 実際にそういう理想と理念であるかどうかという問題が一つあります。
もう一つは、 現宗研に研究費をもって、 その成果を 「現代宗教研究」 として発表されているが、 教師がほとんど実際に活用していないということです。 他の宗教関係の雑誌等は活用しているにもかかわらず、 教師がそれをほとんど読んでいないということです。 大体読んでいる人は1%くらいしかいないだろうと思います。 そういう現状から見た場合に、 本当にこうして研究されたことを宗門全体の中にどう生かすかということが、 これからの大きな課題だと思います。 内容は実にすばらしいものがありますから。
それからもう一つは、 社会性のあるものをもっととらえていただきまして、 教義そのものの内容も社会性のあるものにだんだん深めていただくことが、 これからの現代宗教研究所の課題だと思います。
司 会 最近教研の社会問題部会で熱心にご指導いただいている蟹江先生ですから、 これからもそういう窓口を開いていただいて、 本当に社会性のある現宗研の発展を心がけていかなければならないと思います。
小 倉 今お話しを聞きながら感じていることは、 先ほども申し上げましたけれども、 基本にある理想と理念はすばらしいものであるということを再認識させていただきました。 一般にあまり知られていないのではないかと思いますのと、 中濃先生が指摘された調査研究ということについてもあまり知られていない。 ここにいる人たちには知られていてもあまり一般には知られていない。 ただし実際には、 所長からお話を伺えば、 確かにいろんな面で多岐にわたって調査研究をされているということですので、 やはりこの辺の啓蒙といいますか、 それが知られていない部分があるのかなと思っています。
教研については、 教化センターも発展していますので、 どちらがよいと言えない部分であろうと思います。 ただこの底辺をこれからの嘱託の方々にも知っていただければ、 違う意味での活動になっていくのではないかと思いますので、 これだけ盛り上がったものは、 私は現実としてはすばらしいと思っております。
それから総弘通運動ですが、 正直にいいまして大変苦しんでおります。 これは私は事務長会議などでずばり言うのですが、 護法運動のときにできなかったことを取り上げようとしているのだから大体難しいのだと。 線香花火じゃなくて地道な教師の研修から入っていこうというところにきているのだから、 しょせん初めからバッといくわけはないので、 難しいものを取り上げすぎたのだという実感を、 まず事務長会議等には申し上げているのです。
もう一つは、 十八年計画がつくられましたけれども、 あれは第一期が六年で完成されたという前提で、 第二期ができ、 それから第三期という設計図になっている。 ところが第一期がほとんどできていないわけですから、 第二期にくると何をやっているのだということになるし、 それから第三期に向かおうというと、 尚さらそうなってくるということです。
実は第二期は再構築をしまして、 四つの柱と五つの目標ですか、 よく出しているのですけれども、 家庭信行という形で教師の研修とか家庭信行をやっていこうと大きく分けた形で変えたのですが、 実をいうと私が一番苦しむのは、 これを変えたということを正面だって言えないのです。 宗門から出ている文章を変えてしまって、 これではこんな細かいのは全部やっていられないから、 こういう四つの目標と五つの柱に変えましたということを公の場で言うわけにはいかない。 そうすると今までそれではこっちを変えたというのはどうなるのだということになってしまいますので、 言えないと会議に行って突っ込まれるわけです。 ここのところはまだやっていないじゃないか。 ここはどうなっているのだと言われてしまって、 非常にその点で苦しんでおります。
第三期を再構築しようということで、 大きくは立教開宗の形をとろうということになっていますけれども、 これを変えたと言えないために、 この辺のところを相当大きく出さないと、 前の図面をみんな見て指摘してきますので非常に難しいということです。 それともう一つ、 立教開宗の考え方は、 本来第二の立教開宗をめざすということで、 理念とか活動は同じはずであるべきなのですが、 一方では七五〇はどちらかというと事業的な形でものを考えていきます。 同じ布教伝道にしても事業的な形で盛り上げようとしますし、 こちらはそうじゃなくてじっくりと基礎を固めていこうというところのずれが若干あるので、 今修正をするべく、 二本に見えるけれども、 企画会議の方ではあくまで総弘通運動は総弘通運動でいくと。 それで七五〇と合うことだけ一緒にやっていこうというので、 不即不離の関係で二本でもなければ一本でもないという形で考えていきたいと思っております。
石川 (浩) 私は先ほども言ったのですが、 やはり時代がどう変わろうとも、 この現代宗教研究所というのは、 発言において何ら変わらない、 永久不変の意見を堂々と発表していく。 これは日蓮聖人の命をかけてもそれをやるというその信念を受けとめた形での現宗研であってほしいと思います。 高山樗牛は、 「いかに日本が堕落するとも、 我が同胞に日蓮聖人を有することを忘るるなかれ」 と言っています。 私どもは組織を維持するために日蓮宗があるのではなくて、 日蓮聖人の教えを広めていくための団体なのだという気持ちを忘れてはならないと思うのです。 今後一つそういう意味あいを含めて頑張ってほしいな、 私どもも頑張らなければいけないなと思うわけです。
そこでお題目総弘通運動のことを先ほど発言しましたが、 とかく事業が先行してしまって、 終わってみればあれもやりました、 これもやりましたというものがあっても、 それが本当によかったなという反省の弁が聞けないのが過去の運動であった。 今度のお題目総弘通運動というのは、 そういう意味あいにおいては、 本当に伝道宗門として、 なるほどそれだけの実績を上げたぞというような形にもっていくために、 この現宗研が大いに教師を啓蒙していただきたい。
それから 「現代宗教研究」 を当初から見てみますと、 最初のころは、 研修、 研究の面には、 戦争の反省ということがずっと出てきているのです。 やがて今度は信教の自由の問題、 そして過疎過密問題、 あるいは公害問題、 差別問題、 あるいは他教団対策、 いろんなものがいわゆるそのときの社会情勢に対応してきちんとやってこられているというのは、 ああ、 大したものだなと改めて感心させられるわけです。
そういったことについて、 今後も私どももこれを楽しみにして読みたいというものにしていけば、 先ほど蟹江先生がおっしゃったように、 もう本当に読んでいる人がほんの一部だというようにならないような形のものになっていくのではないかと思います。
ですから今後の現宗研の将来像としましては、 仏祖の教えにもとづく正しい発言を今まで通り、 いつの時代になっても不偏不党の精神を忘れないで歩んでいただきたい、 こういうことです。
木 村 今伝道の行政システムの反省が出されたわけですけれども、 そのとおりだなと思います。 一つは宗教理念とその宗教制度は、 これは伴うわけで、 絶対に制度を抜きにしては理念というものも考えられないし、 また理念というものを考えなければ制度もできない。 しかしながら、 そういうものをたくさん今までつくってきた日本の宗教もあれば、 アジアの宗教もあるし、 欧米の宗教もあるわけですが、 やはり立正平和運動が先にいろいろな中国の問題、 あるいは朝鮮とかベトナム、 そういうところに出かけていっては交流があったというようなこと、 あるいは宣教師がアメリカに行っているといったようなことで、 やはり現宗研を引っ張っていくそういう目をつくってくれてきたものも、 そういうものではなかったかなという気がするわけです。
そういう意味ではこれからやはり近代の仏教、 あるいはもう少し広げてアジアの仏教と宗教といったものを考えていく必要があるし、 それから欧米の宗教も考えていきませんと、 せっかくアメリカに行っている宣教師の方々にとっての実際のバックアップにならないのではないか。 我々国内だけでお題目総弘通というようなことで騒いでいるような気がしてならないわけです。
そういうわけで、 今後神道あるいは儒教、 キリスト教を含めて、 そういうものの宗教理念と制度といったものについて、 これから研究をスタートさせていくことが、 本当の立教開宗、 日蓮宗の設立の意義がここではっきり見出されてくるような気がするのですが、 そういう作業を頑張ってやっていきましょう。
司 会 グローバルな、 それこそ地球規模の現宗研であってほしいというご要望だと思います。
伊 藤 お題目総弘通運動は永久運動だということが、 石川前伝道部長から話がありました。 その一こまとして七五〇があると、 そのようなことが述べられました。 また立正平和運動のことを今想起させていただきました。 そういう状況の中で、 日蓮宗の現代宗教研究所の原点は、 あくまで戦争を反省する運動と、 それがずっと護法運動にもつながっていく。 それが中核として脈々と流れていなければいけない。 そういう意味で、 今日の教化研究会議のいわゆる出店になってしまうのではないかという指摘がありましたが、 反面教師でそういうことも考えざるを得ないという危機感をもって中濃先生はおっしゃったのでしょうけれども、 あくまで教化研究会議は、 教化運動の推進体制をつくるために、 衆知を集めてみんなでひとつ構築していこうという会議だろうと思います。
ですから今日的ないろいろな諸問題が内外にある中で、 現在やられている教化研究会議が一面非常にプラスであるけれども、 一つ間違うとどこか変な方にいってしまうのではないかという危惧だろうと思いますし、 私もその点については、 ああそうかなと勉強させていただいています。
私はやはりお題目総弘通運動というのは、 十年前私が遠藤内局の教務部長をさせていただいておりましたが、 そのときに、 お話が何度もあるように、 現宗研、 教務、 伝道の三者が話し合ってでき上がっている。 内局会議のときでも、 その当時は企画部長は持田貫宣師だったけれども、 その後部長同士でいろいろ話し合いをした経緯があります。 そういう状況の中で、 あくまでこれは十年前の仮説ですから、 今ちょっと出ましたけれども、 やはり弘通のやり方が間違っているということがあれば、 やはりそれを指摘して、 この方向は間違っているのではないかということが言えるという、 そういう確固たる中核の大きな役目をしているヘッドが現宗研でなければいけない。
今後そういう意味で、 現宗研と教化研究会議は決して全然違ったものではないのだ。 現宗研から生まれたものが教化研究会議ですから、 その辺のところをわきまえておく必要があります。 今宗門では七五〇に向けて勧財、 事業、 教宣、 それから一番ポイントになっているのは庁舎の問題を検討しています。 平成十二年ぐらいに日蓮宗会館をつくろうと、 これは現宗研の今の所長さんなどが提起されたことを、 十五年も二十年も前だと思いますが、 それを思い出して私は申し上げております。
ですからその辺のところの問題等々は、 宗務院の機構問題あるいは機能の問題とからみあって、 やはりお題目総弘通運動のいわゆる土台である、 いうなればこういう建物が、 ハードの面についてはこれからまだいろいろ問題があると思いますけれども、 ソフトの面、 さらに心臓部のハード面の問題として、 我々現宗研ははっきり主導権をもってやっていく必要があるのではないか、 そのことだけは申し添えたいと思います。
司 会 それでは最後に顧問の総括として、 長谷川先生の方から今後へのアドバイスをお願いいたします。
長谷川 とにかく三十七年の三月の定期宗会で、 現宗研の設立建議案を出させていただいた私が、 三十数年生き長らえて、 今年八十歳、 この会へ出ますことは本当に感慨深い、 あるいは感謝にたえないというか、 更賜寿命という実感といいますか、 私の感じを申し上げて恐縮ですけれども、 それでいっぱいです。 そして最近とみに脳細胞が衰えて、 近時性記憶喪失どころか、 古いこともだんだん忘れつつありますが、 今お若い皆さん方のお話を承っていろんなことがよみがえってきました。 うれしかったです。 そしてよみがえった一つに昭和四十六年から五十年まで、 渡部内局にいました。 伝道部長とそれから新聞部長なんです。 そのころ、 中央も地方も教研会議で、 やはり恩について論議を重ねていた記憶があります。 そして 「恩の構造」 というタイトルで、 十冊目が出ているはずです。 それが浮かんできた。 それが渡部内局から松村内局に引き継がれ、 さらに次は塩田内局にずっと引き継がれまして、 宗門全体の遠忌布教の基本テーマになったということは事実でございました。
さてこれからの展望ですけれども、 私は昭和六十年から六十二年まで、 最後のご奉公だと思って現宗研の所長を務めた。 そしてここにもっていますが、 二十号が 「宗門運動四十年の総括」 です。 そこへ私はお別れの辞を書いた。 もうこれでおしまいだと、 七十歳でしたから。 もう訣別の辞だと思って書いたところを二、 三行読むのが今日の結論にしていただきたい。
いま、 我が日蓮教団は、 お題目総弘通運動なる呼びかけをもって、 いかにもして、 伝統教団を真の伝道教団たらしめようと努力している。
伝統教団の伝統とは何か。 歴史的伝統とは何か。 伝統の本質を歴史的に受け継いだ、 歴史は自分で勝手につくったものではない。 したがって過去から受け継がれ、 受けて、 それを未来に伝えていくものである。 しかし受け継ぎかつ伝えるといっても、 生物の遺伝とは違う。 自覚をもって歴史や伝統は再創造されるべきものである。 伝統とは繰り返しではなく再創造であり、 不断に再創造を重ねることによってアイデンティティがある。
伝統教学がだめだというのは再創造がないから。 訓詁はいけないというのはそれがないからだということを書いて、 それから私はこれは今日のお若い方々への遺言ですが、 いわゆる実年とか老年とかになると、 これは自分を含めて七十歳のときの心境ですが、 伝統を墨守し、 かえって教団の本当の生命力を減殺してしまう恐れがある。 それに反して伝統の否定を通して教団生命の自己同一性を保持し、 教団の真の理想にまで高めるのは若い世代のもつエネルギーである。 積極的に伝統をむしろ破壊して、 伝統の否定を、 さらに否定を否定に転化して創造的に肯定する。 そして教団のアイデンティティを保持していくのは、 まさに若い人たちに期待する以外にはない。 願わくばお題目総弘通運動が、 こういう若い人々のエネルギーによって、 伝統と創造の論理を踏まえた生命ある実践運動として顕現されることを望む。 運動の今日的、 歴史的意義がそこにあるといえよう。 ということで結んだのです。
それが私の本当に八十歳の遺言だ。 もう何年生きられるかということですから、 非常に抽象的ですけれどもお許しを願いたいと思います。
司 会 霊鷲山で八年ならそうですね。 (笑い)
最後に 「そうでしょう」 ということを言われると、 皆さん 「そうです」 と言わざるを得ないのではないかと思います。
顧問の先生方の貴重なご意見をたくさんいただきましたが、 石川所長さんにお礼の言葉を兼ねまして、 最後のしめくくりをしていただきたいと思います。
石川所長 本日は現宗研の顧問の先生方に一堂にお集まりいだたきまして、 「現宗研三十年のあゆみ」 を大変短い時間の中で凝縮してお話を賜りまして本当にありがとうございます。 三十年間にわたりまして、 現宗研と縁を結んで、 かかわった方々の数は相当の数に上ると思います。 それらの多くの方々のお力によって、 現宗研のさまざまな研究調査活動をはじめとする活動が今日まで展開されてきた、 積み重ねられてきたと、 そのように改めて思い直す次第です。
同時に現宗研という研究機関の存在があるからこそ、 現宗研とかかわった人たちがまた動くことができた。 現宗研の看板というと変ですけれども、 現宗研のおかげで多くの人たちもまた研究も行い、 活動をすることができているという点もまた忘れてはならないのではないかと思います。
現宗研そのものは、 やはり日蓮聖人の教えと現代社会のはざまの中で、 どのように現代社会とかかわった日蓮聖人の教えの具体化を計るか、 それに基づく研究活動を展開するかというのが、 やはり第一の使命であろうかと思います。 同時に、 現場の声を反映しつつ受けとめながら研究活動を行っていくことも、 また第二の点で必要だろうと思います。 第三として、 私などは実感しますけれども、 行政と研究機関とのはざまというのがあるのです。 つかず離れず協力すべきところは協力し、 同時に研究の自由と自主性をはかっていくという点が、 現宗研としては絶えず心していかなければならないことではないかと思います。
今後、 やはり研究する人材の育成と活用が、 もう一面大事だろうと思います。 若い人たちが育っていき、 大いに活動できるような研究の場をこれからもつくっていく必要があると思いますし、 現宗研のそもそものスタートからの研究的ポリシーを絶えず忘れずに貫きながら、 今後三十年の成果を踏まえつつ、 また不十分な点を反省しながら、 現宗研の活動をさらに推進していくことが、 これからの課せられた重要な使命ではないかと思います。
本日は中村潤一師に、 顧問の先生方のお話はなかなか多岐にわたりますのでまとめるのが大変と思いましたけれども、 司会進行をお願いしました。 ありがとうございました。
以上で感謝とお礼の言葉といたします。 どうもありがとうございました。
司 会 偉い人ばかりのまとめというのはこんなに苦しいものか。 皆さん一時間ずつ与えてもまだ話し足りない方もいるのではないかと思いますが、 それを二時間で、 つたない司会でまとめさせていただきました。
最後に、 現宗研所長さんの発声でお題目三唱させていただきまして閉会とさせていただきたいと思います。 よろしくお願いいたします。
(お題目三唱)
司 会 ありがとうございました。
※本稿は、 平成六年九月十六日、 日蓮宗宗務院会議室にて開催された座談会を筆録したものです。
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