日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第29号:145頁〜 研究ノート ←前次→


『摩訶止観』 「観病患境」 における治病の分類  天台止観に見られる 「気の生理学」 を前提として  影山教俊

一、 プロローグ まず天台止観に見られる気の生理学につきまして、 昨年の教学大会で 「天台止観に見られる身体観」 と題し、 天台大師の身体観に直接かかわる 『摩訶止観』 の第七章第三節 「観病患境」 と相応する
○ 『天台小止観』 (修習止観坐禅法要) 第九章 「治病」
○ 『六妙法門』 第四章 「対治六妙門」
○ 『禅門修証』 (釈禅波羅密次第法門) 第六章 第四節 「明治病方法」
などを比較整理することによって (資料1)、 天台大師の身体観は、 当時すでに成立流布していた医学書 『黄帝内経』 などに見られる 「陰陽五行説」 に支えられた 「気の医学」、 「気の生理学」 に依っていることについて論述いたしました。
 その結果、 天台大師晩年 (六十一歳) の最後の撰述である 『摩訶止観』 「観病患境」 に見られるその身体観には、 青年時代からある程度一貫したものがあり、 それが晩年にいたって集大成されたことが分かりました。 そして、 身体観としては、 天台大師の 「黄帝の秘法にいうが如く」 (大正四六 一○八頁一九行) という言葉からも象徴されるように、 春秋戦国時代の末期 (B.C.320〜A.D.250)、 秦代から漢代にかけて集大成され原初のシャーマンなどの呪術的医療とは一線を画し、 現代の鍼灸医学や中医学においても重要視される医学書 『黄帝内経』 (『素問』 『霊枢』) の基礎的な概念が予想されました*1。
 実際に 『摩訶止観』 「観病患境」 の構成所説と比較しますと (資料2)、 『黄帝内経』 (『素問』 『霊枢』) と相応する箇所が多く上げられ、 また具体的な相応箇所が見られなくとも、 おおよそは 『黄帝内経』 の諸説などを統合し当時の病症や治療方針の基準とした 「陰陽五行色体表」 から理解しますと、 この 「観病患境」 に仏教系の観想法など (『阿含経』 「治禅病秘要法」 七十二法) が含まれていたり、 また 『黄帝内経』 などには具体的な記述のない按摩法、 調気導引法などが、 七世紀の初頭までには編集された医学書 『千金要方』 などに 「呼気法六種」 (六字訣) として詳しく記述されていたり、 それがすでに六世紀に撰述されていた 『摩訶止観』 や 『天台小止観』 に見られることからも*2、 『摩訶止観』 の 「観病患境」 に見られる身体観、 天台大師の身体観は当時かなり普及し定着していた 『黄帝内経』 などの 「気の医学」、 陰陽五行説に支えられた 「気の生理学」 であることが分かりました。
 よって今後は天台止観などの修行に関わる典籍を実際に即し適正に評価するためには、 この 『黄帝内経』 などに見られるような自然界や人間界のあらゆる現象を離散集合して見ようとする 「気の概念」 と、 私たち人間の生命現象を 「精神  気  身体」 という機能的構造によって把握する 「気の生理学」 からの身体観を前提とすることによって、 修行に見られる所作の意味や、 その意義がはじめて明らかになることが考察されました。
二、 『摩訶止観』 「観病患境」 における治病の分類 ところで、 このような 『摩訶止観』 「観病患境」 に見られる構成所説の中で (資料1)、 (1) 「病患の様相」、 W 「病相の原因」、 W 「治病の方法」、 W 「損益を明かす」 までのほとんどの論述が、 陰陽五行説に支えられた 「気の生理学」 に依っているにも関わらず、 (2) 「止観 (十乗観法) を修す」 の項目には、 病患という身体性に関わるよりは、 むしろ病患に対する精神の実存的転換についての記述が見られ、 ここに天台大師の仏教思想に基づく 「治病観」 の特色があるように思われました。
 よって今般のこの小論では 『摩訶止観』 の第七章第三節 「観病患境」 における治病の分類を試みることで、 天台大師が身体観としては 『黄帝内経』 などの 「気の生理学」 を前提とし、 そして、 それによって生命現象を理解し説明していながらも、 晩年にいたってそれを仏教思想に基づく独自の治病観へと発展させていることについて論及したいと思います。
 ここでまず 『摩訶止観』 「観病患境」 に見られる身体観の前提となる秦代から漢代にかけて集大成された医学書 『黄帝内経』 (『素問』 『霊枢』) *3によりながら、 「観病患境」 の構成所説を概観してみますと (資料2)、 『摩訶止観』 「観病患境」 の構成所説のX 「十乗観法を修す」 には相応する箇所は見られないものの、 そのほかほとんどの箇所では 『黄帝内経』 (『素問』 『霊枢』) と相応することが分かります。
 ここでこの資料を元にしながら 『摩訶止観』 「観病患境」 における治病の分類を試みてみますと、
 まず〈資料2〉から考察できることは、 X 「病患の様相」、 X 「病相の原因」、 W 「治病の方法」 までは、 前述しているように仏教系の観想法など (『阿含経』 「治禅病秘要法」 七十二法) が含まれていたとしても、 明らかに 『黄帝内経』 などの 「気の生理学」 に支えられた身体観による治病法を説いていることが分かります。
 ところが、 ここでそのような 「気の生理学」 に依りながら仏教の行門をうまく受容しているX 「損益を明かす」 と、 「気の生理学」 に依らない天台大師の理解した仏教独自の 「治病観」、 T 「止観 (十乗観法) を修す」 が見られますので、 ここで詳細に考察を加えますと、 次のようになります。
    UV 「損益を明かす」 に見られる治病の分類
 まずW 「損益を明かす」 には、 病気を治す方法 (治病法) として陰陽五行説に支えられた 「気の生理学」 が示されておりますが、 その損益には緩やかなタイプ (漸) と急激なタイプ (頓) の二つのタイプがあり、 一様ではない。
 そのために十法を具するならば、 〈資料2〉の十種と、 行門における 「信と行」 が示されてそれを要約すると
○信○用○勤○恒○病の因起を分別○方便○久行○取捨○将護○遮障
◎よく四種の三昧 (常坐三昧、 常行三昧、 半行半坐三昧、 非行非坐三昧) を修行して調和するならば、 四大五蔵の病気も調和し必ずや愈るものである。
◎また帝釈天のお堂は小鬼が敬って避けて通る。 まして菩提道場の神は大神であるから、 みだりに侵し乱されることはない。 一心に三昧を修行すれば、 多くの病は銷えてしまうものであるという。
 つまり、 このX 「損益を明かす」 に見られる治病の特徴は、
○ 「病の因起を (気の生理学によって) 分別する」
○ 「(修行方法である) 吐納、 運想、 縁想を善く巧みに用いて (気の生理学を) 応用する」
○ 「(気の生理学によって養生するために) 取捨選択を知る」
○ 「(気の生理学によって養生するために) 行来飲食など異縁犯触を知る」
などのように 「気の生理学」 に支えられた身体観に依って治病を促すために、 仏教における行と信が 「四種の三昧を修行して調和するならば、 ……」 と、 「帝釈天のお堂は小鬼が敬って避けて通る。 まして菩提道場の神は大神であるから……」 というように、 その行門の利益効能がうまく受容されていることが分かり、 ここでは 『黄帝内経』 などの 「気の生理学」 に支えられた身体性の治療・治癒という治病観に焦点が合わされております。
    W X 「止観 (十乗観法) を修す」 に見られる治病の分類
 次にこのT 「止観 (十乗観法) を修す」 に見られる治病観には、 Aとして 「思議の境」 とBとして 「不思議の境」。 つまり、 仏教の思想性の理解には、 思議の境という凡人にも理解できる精神世界と、 不思議の境という凡人には理解し難い聖人の精神世界があるとして、 治病観に二つの分類が見られます。
 まずA 「思議の境」 として〈資料2 @ 「止観 (十乗観法) を修す」〉の資料を要約しますと、 まず始めに 「思議の境」 においては、 私たちが実際の病気に罹ることによって十法界という現実と関わり、 その自分の精神世界を知ることが出来るのであると前置きしながら、
1 、 「病気によって三悪道の法界を造る」
2 、 「病気によって三善道の法界を造る」
3 、 「病気を観じて声聞の法界を起こす」
4 、 「病気を観じて縁覚の法界を起こす」
5 、 「病気によって六度の菩薩の法界を起こす」
6 、 「病気によって通教の菩薩の法界を起こす」
7 、 「病気によって別教の菩薩の法界を起こす」
の七項目が上げられております。
 そして、 とくにこの七項目の中の4、 「病気を観じて縁覚の法界を起こす」 などでは、 まず十二因縁を説き、 その名色を外界の五行、 内界の五行と示して共に 「どれ一つとしてそれ自体より生じたものはない」 と、 五行による相依相関の関係を示すことによって、 上述のような 「気の生理学」 に支えられた身体観が、 全ては縁起・空 (相依相関) の関係で、 気の滞りによる病気という実体はないと述べており、 この 「思議の境」 に見られる治病観の特徴は、 A 「損益を明かす」 と同様に 「気の生理学」 をうまく受容しながら、 仏教独自の心性論 「縁起による空無自性」 によって病気を達観し克服する治病の分類が見られる。
 次にB 「不思議の境」 として〈資料2 U 「止観 (十乗観法) を修す」〉の資料を要約しますと、 Aの思議の境では病患の種類によって方法が異なるので私の本心ではないといい、 この不思議の境に示される聖人の精神世界から、 十乗 (十種) の観法による慰喩が示されている。
1、 「観不思議境」
  ○体、 析の空観によって病気の菩薩を慰喩する
  ○病気の菩薩が仮観によって心を調伏する
  ○別教をもって病気の菩薩を慰喩する
  ○病気の菩薩が中道観によって心を調伏する
  ○円教をもって病気の菩薩を慰喩する
2、 「起慈悲心」
3、 「巧安止観」
4、 「破法遍」
5、 「識通塞」
6、 「道品調適」
7、 「助道対治」
8、 「知次位」
9、 「能安忍」
10、 「無法愛」
の一○項目が上げられております。
 これを要約しますと、 不思議の境の一○項目においては悟りという精神世界から、 「気の生理学」 という身体観を前提とせず、 心理的意味で 「悟りという実存的観点」 で精神性の転換を促すことによって病気を達観し克服するという治病観に焦点を合せた仏教独特の実存的な意識転換に対する論述がなされている。
 ここでこれらを具体的に分類してみますと
○ 「菩薩が慈悲の心で病気を患い、 それを克服するという代受苦的なもの」
○ 「病気というものは自分の三世 (過去、 現在、 未来) の問題点を教えてくれる大良薬というもの」
○ 「病気というものは実体がなく、 相依相関・空無自性と体得し克服するもの」
というように、 病気に対する意識の実存的転換の三種類の分類が述べられており、 それによって 「生死を越えた生」 智慧の獲得を目指すという独特の 「治病の分類」 が見いだせます。
三、 エピローグ ここで以上を総括いたしますと、 『摩訶止観』 「観病患境」 における治病の分類は、 まず@ 「病患の様相」、 A 「病相の原因」、 B 「治病の方法」 までは、 明らかに 『黄帝内経』 などの 「気の生理学」 に支えられた身体観による治病法に焦点が合わされている。
 次にC 「損益を明かす」 では、 仏教の行門の信と行による 「気の生理学」 に支えられた身体性の治療・治癒という治病観に焦点が合わされている。
 そして、 D 「止観 (十乗観法) を修す」 のA 「思議の境」 では、 E 「損益を明かす」 の十法と同様に 「気の生理学」 をうまく受容しながら、 仏教独自の心性論 「縁起による空無自性」 によって病気を達観し克服する治病観に焦点が合わされている。
 とくにB 「不思議の境」 では、 『黄帝内経』 などの医学書に見られる陰陽五行説に支えられた 「気の生理学」 の身体観というものを 「治病」 の前提とせず、 ただ仏道修行の所作を説明し意義づけるという意味ではそれを前提としながらも、 その身体性を越えた 「悟りという実存的観点」 で精神性の転換を促すことによって病気を達観し克服するという治病観に焦点が合わされており、 ここに天台大師独特の 「治病の分類」 が分かります。
 ところで一見いたしますと、 このような 「悟りという精神性の転換」 によって病気を達観し克服するという治病観が、 果たして治病の分類に入るのだろうかと疑問が残ります。 それは近頃にわかにクローズアップされている末期医療の現場で果たす宗教者やホスピスの役割が、 単に死を安らかに迎えるための 「心の癒し」 という程度の意味に扱われているのと同様に、 それが治病という分類に入るのだろうと思われます。
 しかし、 かたや信仰によってガンなどの難病が自然に萎縮し退行した治癒例もこの数年間に多くの医学的な臨床例も報告されており、 日本の臨床例では、 先日 (一九九四年十一月六日) 開催された日本自律訓練法学会の筑波大の心理療法の研究グループの臨床報告で、 ステージ4であって抗ガン剤の不適応の肺ガン末期の患者さんに自律訓練法 (ヨーガの瞑想法を基礎にした心理療法) を実施したところ、 実存的な意識の変化により価値観が転換した結果、 余命三カ月程度と診断されたものが半年後には肺癌の影はほとんど消え、 一年半経った現在は元気に社会生活へと復帰しているという。
 そして、 このように難病が自然に萎縮し退行した場合には、 その患者はいずれも 「ある種の悟りという精神性の転換」 によって病気を達観し克服するという点で共通した特徴をもっているといわれており、 ここにV 「止観 (十乗観法) を修す」 のB 「不思議の境」 に見られる特徴的な 「治病の分類」 は現代的な意義を持って評価できるといえます。
 また、 現在社会的な問題にもなっている 「臓器移植の問題」 と、 それに先行する 「脳死の判定」 などに対する仏教者側からの答申を行うには、 今後は私たち仏教者が依って立っている身体観について、 今まで述べてきましたような教相としての文献学的な批判と、 観心という臨床的な批判と、 それに加えてこのような古典としての教相と観心を現代的に統合し評価するために、 修行による治病の具体的な裏付けを医科学的な意味で実証的に評価されなければならないと思われます。
 なぜなら、 仏教の目的である 「抜苦与楽」 は 「現身に仏を見る」 という現実の救いを意味しているからであります。

〈註〉
*1 昨年論及いたしました 『黄帝内経』 につきまして、 天台大師全集 『摩訶止観』 四の 『摩訶止観輔行講義』 (五三二頁) の中に、 この 「黄帝の秘法にいうが如く」 は 「『素問難経』 の中の語なり」 という註がありましたので、 ここで 『素問難経』 について中国医学史からさらに検討を加えてみますと、 この 『素問難経』 とは 『黄帝衆難経』 『黄帝八十一難』 に相応するものであり、 その内容は 『黄帝内経』 の医学理論を脈診法、 臓腑・経絡システム、 疾病と診断、 経穴、 鍼療法などの方向から加上発展させ、 それを八十一の問答型式で極めてコンパクトにまとめたもので、 後漢中期以降から後漢末期A.D.239年までに編纂されたものであるといわれております。
 そして、 医学理論としては 『黄帝内経』 に見られる臓腑・経絡システムの十二正経以外に、 「奇経八脈」 という別の経絡理論を立て、 「三焦」 という腑 (六腑の一つ) を定義している (石田秀美著 『中国医学思想史』、 東京大学出版会一六八頁) 点が大きく異なっております。
 この意味で私は 『摩訶止観』 「観病患境」 に見られる構成所説に、 『素問難経』 (『黄帝衆難経』 『黄帝八十一難』) に見られるような整備された臓腑・経絡システムが見あたらないことで、 やはり大師は 『黄帝内経』 の 「気の生理学」 に見られる身体観を前提としていたと考えることが妥当であると思います。
*2  『黄帝内経』 などには具体的な記述のない按摩法、 調気導引法に関わるものも、 七世紀初頭までには編纂されていた医学書の 『千金要方』 などに 「呼気法六種」 (六字訣) として詳しく記述されていたものが、 すでにそれを遡る凡そ百年前の六世紀に撰述されていたこの 『摩訶止観』 を始め、 『天台小止観』 などの止観典籍にも見られるということは、 大師ご自身が当時の医学的な知識としてはかなり先端的なものを持っており、 その 「気の生理学」 などの医療的知識によって修行の所作などを理解し説明していたことがうかがえます。
 また、 それと同時に、 この按摩法 (『天台小止観』 には自按摩) が 「婆羅門按摩」 と呼ばれていた経緯があり、 『黄帝内経』 に見られない 「按摩法、 調気導引法」 は仏教系の修行法に見られる身体技法から発展し、 中国の医療方法として取り込まれていったことも考えられます。
*3 原 『黄帝内経』 の成立年代はB.C.86〜B.C.26 (石田秀美著 『中国医学思想史』 東京大学出版会 一一四頁)




 資料2<『黄帝内経』 からの概観>
[*は 『黄帝内経』 (『素問』 『霊枢』) からその内容が相応すると予想されるもの]
@ 「病患の様相」
  * 『霊枢』 「邪気蔵府病形」 「五邪」 「脹論」、 『素問』 「脈要精微論」
A四大を知る
A、 地大の病相……身体苦重、 堅結、 疼痛、 枯痺、 痿、 瘠
B、 水大の病相……虚腫、 脹
C、 火大の病相……身を挙げて洪熱、 骨節酸楚、 嘘吸頓乏
D、 風大の病相……心懸け、 忽き、 懊悶、 忘失
B五臓よりの病相
A、 肝の病相……肺が肝を害する病相 (呵気をもちいて治す)
B、 心の病相……腎が心を害する病相 (吹・呼気をもちいて治す)
C、 肺の病相……心が肺を害する病相 (嘘気をもちいて治す)
D、 腎の病相……脾が腎を害する病相 (☆気をもちいて治す)
E、 脾の病相……肝が脾を害する病相 (☆気をもちいて治す)
※六神の病相

C 「病相の原因」
D四大の不順の病……・外因による
  * 『素問』 「百病始生」 「順気一日分為四時」 「風論」
A、 火大の病……外の熱が火 (大) を助け、 火 (大) が強くなり水 (大) を破る
B、 水大の病……外の寒が水 (大) を助け、 水 (大) が増して火 (大) を害す
C、 風大の病……外の風が気を助け、 気が火 (大) を吹き、 火 (大) は水 (大) を動かす、
D、 地大の病……三大が増えて地 (大) を害することを等分の病といい、 また身分増して三大を害することも等分の病という
E飲食の不節……外因によるもの (飲食に節なければよく病をおこす)
  * 『霊枢』 「五味」 「五味論」、 『素問』 「五蔵生成篇」 「生気通天論」 「経脈別論」 「異法方宜論」 「蔵気法時論」
A、 四大
○薑桂の辛き物は火 (大) を増し
○蔗蜜の甘冷は水 (大) を増し
○梨は風 (大) を増し
○膏膩は地 (大) を増し
※胡瓜は熱病のためにとかも因縁となるがことし。 すなわちこれ安からざるの食を〓うなり。 食せん者、 すべからくその性を別つべし。
B、 五行……五味を食して五蔵を増損す
F坐禅の不調……内因によるもの
A、 壁・柱・衣服に倚り、 大衆いまだ出でざるにしかも臥し、 その心慢怠にして、 魔が便りを得、 脾との身体をして背瘠し骨節をして疼痛せしむ。 注病といい最も治り難い。
B、 数息調わざれば、 多く人を〓癖し、 筋脈をして攣縮する。
C、 八触を発しても、 息の用い方が触に違すれば、 病となる。 八触とは、 心と四大と合するならば四の正体の触があり、 そして四の依触とがあり、 合せて八触となる。 四は上四は下がる。
D、 止の方便を違える病
E、 観が調わず偏僻による病……胎 (息) に意識を託するとき、 思心 (雑念) が起こる、 その母を感召す (雑念に固執する) ことで病が生ずる。 母と母とは色、 声、 香、 味、 触の五つであり、 この五つを思うと、 一毫の気動じて水となり、 水は血となり、 血は肉となり、 肉は五根五蔵となる。
  * 『霊枢』 「五閲五使」
F、 観が僻って四大を動かす
W鬼神が便を得る (鬼病)
  * 『素問』 「五蔵別論」
X魔の所為なり (魔病)
  * 『素問』 「移精変気論」
業起こるが故に (業病)

「治病の方法」
止の方法
A、 温師曰く、 心を繋けて臍のなかに在く。 豆の大きさにして心を置く、 衣服を弛めて諦了して相を取り (座と姿勢を調え)、 目を閉じ、 口歯を合わせ、 舌を挙げて上顎に向け、 気持ちを調恂する。 心が外に馳 (はし) れば、 摂して還らす。 また、 念じても観念できなければ、 実際に身体を見てその相貌を意識してから、 上述のように実習するべきである。
B、 十二の病はみな丹田に止まる。
1、 上気が胸に満ちる、 2、 両脇が痛む、 3、 背膂急、 4、 肩井が痛く、 5、 心は熱懊し通煩する、 6、 食べられない、 7、 心腫れ、 8、 臍下冷え、 9、 上熱し、 10、 冷え、 11、 陰陽和せず、 12、 気漱する
○丹田は臍下の二寸半にある
C、 足などに意識を集中する
 * 『素問』 「脈解」
D、 黄帝の秘法に示された方法 (黄帝内経に曰く)
 天地の二気が交合して各々に五行がある。 金・木・水・火・土の循環である。
  * 『素問』 「陰陽応象大論」 「六節蔵象論」、 『素問』 「玉機真蔵論」
気の方法、 気を用いて治すとは
 A、 吹・呼・☆・呵・嘘・☆の六気をもちいる。
  これはみな唇吻において納吐し、 牙舌を転側し、 徐詳として心を運び、 その想を帯びて気をなす。
 B、 六気が五蔵を治す
 C、 六気が一蔵を治す
 D、 呼吸に寄せて
息の方法
  * 『素問』 「運気七篇」
 A、 色心が関わり合って息がある。 樵火あい藉って煙あることたとえる。 つまり、 煙の清濁を見て樵の燥湿を知り、 息の強軟を察して身の健病を験す。 身の行風横に起これば、 痛痒して病気となるので、 暇あっても用心すべし。
 B、 八触相違の病を治する
 C、 十二の息を運ぶ (十二の依息によって五蔵の病を治す)
仮想の方法……弁師が首のこぶを治した方法や、 阿含経の煖蘇の方法
観心の方法……想息を帯せずに直ちに心を観ずる
方術の方法……体に対する貢幻が多いので、 出家者が用いるべきではい
補足として
 A、 魔の便り
 B、 悪神の便り
 C、 赤痢、 白痢によって面青く、 眼反り、 唇黒く、 人が分からないときには、 手によって痛く丹田を捻ずる

  「損益を明かす」
  * 『黄帝内経』 などに見られる病症や治療方針の基準となる 「陰陽五行色体表」 から凡そが相応する
 ○信……信とは道の元である。 この法は必ず病を治すと信ずる。
 ○用……そして、 法を用いなければ、 自分自身において利益はない。
 ○勤……その法を用いることに専精して息まず、 病が治るまで続ける。
 ○恒……また、 恒に治法を実習して動乱ないようにする。
 ○病の因起を分別 (理解) する……上述のように病因を理解する。
 ○方便……吐納、 運想、 縁想を善く巧みに用いて応用する。
 ○久行……その法を実習してもなかなか効果が見られなくとも、 徒らに日数を数えないで諦めずに地道に続けることである。
 ○取捨を知る……効果があったならば続けて行ない、 悪かったならばただちに止め、 効果が上がるように注意する。
 ○よく将護する……よく禁忌を知り、 治病効果のある適した生活環境を心掛ける。 (行来飲食など異縁犯触を知る)
 ○遮障を識る……効果があったとしても吹聴せず、 また効果がなくともこの法を疑って誹謗しない。
 次に別項目を上げている。
 ○よく四種の三昧 (常坐三昧、 常行三昧、 半行半坐三昧、 非行非坐三昧) を修行して調和するならば、 道力が身に付いて病気にはならない。 たとえ不摂生をして病気になることがあったとしても、 修行によって心身が調適 (冥力扶持) しているから自然に治ってしまうものである。
 もし重篤な病気になったとしても、 余命余息は誓ってこの菩提道場に終わってもよいと、 死を推察して寿命に殉うべきである。 このように捨心決定するならば、 陳鍼、 開善が行った修行のように、 どのような罪も滅し、 業も転ずるものであり、 四大五蔵の病気も調和し必ずや愈るものである。
○また帝釈天のお堂は小鬼が敬って避けて通る。 まして菩提道場の神は大神であるから、 みだりに侵し乱されることはない。 それは城主が強ければ守る者も強いようなものである。
 つまり、 心というものはこれは身体の主、 私たちを産まれてから護っている同名同生の神のようなものであるから、 大神はこの同名同生の神によって私たちを守護してくれている。
そして、 その心、 その信ずる心が強ければ、 身体を守護する神も強くなるものです。 まして、 道場の神は当たり前ですから、 一心に三昧を修行すれば、 多くの病は銷えてしまうものであるという。

「止観 (十乗観法) を修す」
  *相応箇所なし
A思議の境
1、 「病気によって三悪道の法界を造る」
 病気のために本心を忘れ、 禅定の修行を破棄し、 三宝を誹謗し、 以前に犯した罪が災いを招くことも考えず。 しかも、 一生懸命に修行をしても福もないなどと大邪見を起こす。 そして、 身命を惜しみ養い、 魚肉辛酒を節度なく飲食し、 あるいは病気が治ってしまい身体が盛んになると、 情は五欲に執着して、 善心はなくなり、 悪業 盛となり、 上中下の罪を起こすようなものである。
2、 「病気によって三善道の法界を造る」
 病気によって、 これは私が日々犯した不善によって招いた結果であると念じて、 深く慚愧を生じてそれ以上罪を造らず、 困ったとしても善心をなくさないで、 上中下の善を起こす。
3、 「病気を観じて声聞の法界を起こす」
 病気によって生死を怖畏し、 これは善業の酬いであると知る。 このとき生死を構えてしまうと、 将来の流転 (輪廻転生) によってまた窮することになる。 つまり、 苦諦・集諦の原因によって世々に病気となるから、 寂滅の涅槃の境地を求めるべきである。
4、 「病気を観じて縁覚の法界を起こす」
 この病気は私の色心をむしばんで、 老死へと追いやる。 死は生に由る、 生は昔の有に由ると観ずる。 有は取より、 取は愛より、 愛は受より、 受は触より、 触は六入より、 六入は名色より生ずる。 色は四大五根、 名は四心である。 またこの根大は何によって生ずるのであろうか。 青色は木より、 黄色は地より、 赤色は火より、 白色は風より、 黒色は水より生ずると観ずる。 また木は水より、 水は風より、 風は地の陽気より、 地は火より生じ、 木は環って水より生ずる。 このようにめぐっていて、 どれ一つとっても自ら生まれたものはないことが分かる。
 以上は外界の五行を観じたが、 内界の五行も同様である。 肝は青色より、 心は赤より、 肺は白色より、 腎は黒色より、 脾は黄色より生じていて、 どれ一つとしてそれ自体より生じたものはない。 つまり、 肝の蔵は腎より、 腎は肺より、 肺は脾より、 脾は心より、 心は肝より生じ、 肝はみずから生じたのではなく、 還って腎より生じたことを知るべきである。 このように身体の内に四大五蔵を求めたけれど、 それ自体に実体がなく壊れるものではないことが分かる。 ですから、 このような四心も、 識の心は地大を維持し、 想の心は風大を維持し、 受の心は火大を維持し、 行の心は水大を維持するがともに壊れることはない。
 また、 この四心においても、 それ自体で生じたものではなく、 行は受より、 受は想より、 想は識より、 識は過去の行より生じ、 過去の行は無明より、 無明は妄想より生じ、 妄想は妄想によって生じる。 ……このように覚知して動揺しなければ、 心身は安定する。 安定すれば悟解し因縁の正智を発得して、 この色心は体性寂静にして生もなく滅もない、 ただ私たちが妄想顛倒して生滅があると錯覚しているのである。 例えば、 妄想を克服してしまうと無明が滅してしまい、 乃至老死も滅することになる。 つまり、 ここに来たって病というものすらないことが分かる。
5、 「病気によって六度の菩薩の法界を起こす」
 病を観じて、 身、 命、 財産を惜しむから、 このような苦しみに会い、 また持戒を全うしていないから、 多病で短命であり、 また意志が薄弱で安忍することが足らないから、 身の神が護らず、 また精進の力が足らないから、 よく補禳されず、 また禅定の力が足らないから、 病気によって動揺してしまい、 またこの心に智慧が少ないから無常、 苦、 空、 無我を体達できないから、 このような病気にかかってしまう。 このように自分の病気によって彼の病気を愍れみ、 慈悲の心を起こし、 願行を発す。 自分を捨てて惜しむことなく、 真理に従って安耐し、 勤加正意 (正しく修行生活) をおくり、 無常を悟る。
6、 「病気によって通教の菩薩の法界を起こす」
 この病気は前世の妄想顛倒など多くの煩悩によって生じたものと知る。 しかし、 このような妄想は真実ではなく、 我も涅槃も共に空であると観じる。
7、 「病気によって別教の菩薩の法界を起こす」
 この病気はつまるところ空であり、 空であるから病気など (所受) ないはずであるが、 病気 (諸受) を受けてしまうのは、 その人はまだ仏法を具していないのであって、 ですから受を滅して証を受け取らないようにと観ずるという。
B不思議の境
1、 ○体、 析の空観によって病気の菩薩を慰喩する
 一念の病心は、 本当は実体のないものである。 つまり、 法性、 法界そのものであり、 病気というものも言語を絶し、 その相を離れていて寂滅にして清浄であるから不可思議というのである。 この観によって病気の実際に達するならば、 そこには喜、 憂はない。 これはのちの九想観のことである。
 すべての人々はこの真理を具しているが、 識ることが出来ないので、 見思の煩悩によって分段 (身体性) の生死に没してしまうのである。 深く慈悲心を起こして、 非有即空の道、 滅の楽を与えようと欲する。
 これは病気の菩薩が空観によってその心を調伏することである。 その心が実際に調伏すると病気も治ってしまう。 これは慈悲の心によって方便して病気を患い、 分段の土に生まれ、 分段の人を自分の子どものように見て、 子どもが病気であれば父母も病むように、 身をもって病を癒す。
○病気の菩薩が仮観によって心を調伏する
 この病気を空寂と観じても、 一般の人々は空によって度脱することが難しいので、 空病の種々の法門を知るべきである。 声聞二乗はその法門を知らないため、 無明無知となり変易 (精神性) の生死に没してしまうから、 病気の種類が分からないのである。 だから仏法が現前することがなく、 浄土が実現しないのです。 ですから、 慈悲を起こして、 無知の苦を抜いて、 道種智の分別の楽を与える。
○別教をもって病気の菩薩を慰喩する
 心を調伏して実際には病気が治っていても、 慈悲によって権 (かり) に病気を生じて、 方便土 (迷いの生活環境) に生まれる。 そして、 方便の人を自分の子どものように見て、 子どもが病気であれば父母も病むように、 その身をもって病を癒す。 それは子どもの無知が癒えれば父母も癒えるようなものである。
○病気の菩薩が中道観によって心を調伏する
 病気を法界であると観じたとしても、 多くの人々は中道を知らず、 その理も現れず、 ただ無明の流れによって変易の生死に没するだけである。 これは実報の因果の病気である。 このために慈悲を起こして、 無明の苦を抜き、 究竟の楽を与える。
○円教をもって病気の菩薩を慰喩する
 心を調伏して実際の病気が癒えたとしても、 慈悲によって権・方便の病気を生じて実報土に生まれる。 変易の人を自分の子どものように見て、 子どもが病気であれば父母も病むように、 身をもって病を癒す。 子どもの無知が癒えれば父母も癒えるようなものである。
2、 「起慈悲心」
上述の三つの病気に関すること (三疾) は一心の内に起きることであり、 調伏については一観の調伏による。 これは円普の慈悲、 普門の示現である。 そして、 このような慰喩は、 本当ならば一音の説教なのですが、 理解し易くするために分別して説いたのである。 これを不可思議の慈悲という。 慈悲の力は偉大なものであり、 菩薩はこの心を発すことによって病気が癒える。 さらに下の法を修行することはない。 法喜、 天台大師のように。
 もし発心が本物でなければ、 衆生を欺き、 三宝を要し、 規求する (むさぼり求める) ならば、 病気も治ることはない。 もし発心が本当ならば大勢力によって癒えてしまう。
3、 「巧安止観」
 もし修行中に道場の中で病気になり、 今まで述べてきたように体解し発心し、 心身を調えて止観を実習し、 巧みに調適するならば、 坐禅を終えたときには清涼としたすがすがしさを経験する。 場合によってはたちまちに病気が治ることもある。 すぐに治らなくとも徐々に回復する。 これこそ大良薬であるから、 さらに精進するべきである。
4、 「破法遍」
 修行者が病んで病気を観ずるとき、 色または心によって病気になると思うのであろうか。 もし色によるならば、 自然界の山や林にも病気があることになり、 死人にも病気があることになる。 しかし、 そんな事実はなく、 病は色によってあるのではない。 ただ心想によってこのような病気があると理解できる。
 いま心の病気を観ずると、 すべては相依相対していて畢竟清浄である。 心は虚空のように澄みわたっていて、 病気などないようなものである。 心の病は不可得であって、 心の無生・亦生亦無生・非生非無生は得られない。 これらは破陰入の章において説いた通りである。
5、 「識通塞」
 病気の法を観ずるとき、 句句のなかに諦・縁・度を識り、 病気の観智を観ずるとき、 句句のなかの諦・縁・度をしっかりと識って疑惑なく、 字・非字を理解し、 得と失を知るべきである。
6、 「道品調適」
 もし病気が四大によるならば、 これは不浄といえる。 もし病が四大を離れてしまうならば、 これは浄である。 病気は四大ではなく。 また四大を離れているものでもない。 これらはみな身念処と二ではなく別でもない。
 病気の受は苦でも楽でもない。 病気の想・行は我ではなく無我でもない。 病気の心は常でも無常でもない。 三十七品は、 枕席の間においてみなが成就できるのである。 苦も苦なしと理解して清涼の池に入るべきである。
7、 「助道対治」
 正しく観を修行しても病気が治らないときには、 上述してきた六つの方法を正助合して行うならば、 修行がすすんで病気も治るようになる。
8、 「知次位」
 この観は病床にとどまることになったとしても、 はっきりと次位 (自分の根性の状態) を知る。 どういうことかといえば、 私は病気の原因についてよく知ってはいるが、 私の観智はただ名字ばかりで、 その原因の根本を克服することができないので、 結果として病んでいる。 もし似解の位であれば、 原因の軽い病気であって道心がうまく醸熟しても、 果としての疾が重ければ、 多くの災いは免れない。
 無生法忍の位をえても原因の疾は尽きてしまっても、 果の疾は残っているものである。 ですから、 私はまだ修行がすすんでいないうちに慢心を起こし、 私の病気は偉いお上人と同じであるなどとゆめゆめ思ってはならない。
9、 「能安忍」
 修行の正と助を内外の障縁などによって休むことなく勤める。 しかし、 その正助が違うと病気が生じて修行が乱れてしまう。 よく心を安らかにして、 病気にあってもいたずらに動揺せず勤めるならば治るものです。
10、 「無法愛」
 修行によって病気が治ったとしても、 心が明浄であっても、 貪着や愛染を起こさないことである。 十法を成就して仏の道に入る。 これを病患の境に大乗の観を修行して無生忍を獲るという。

※本稿は平成六年十月二十八日、 宗務院において開催された第四十七回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものである





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