日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第29号:131頁〜 |
研究ノート |
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現代における「信」と「学」と「化」の三極構造への検索
小澤恵修 一
まず、 この発表論題について御説明させて頂きたいと思います。
「現代における」 と言う表現は、 我々日蓮宗教師が日常生活という舞台の上で釈尊、 日蓮聖人の教義を教化、 布教してゆく際に現状の設定の重要性をまず確認しなくてはならないということです。
現代宗教研究所では、 近年、 盛んに研究課題として 「教化学」 という新たな学問体系を取り上げ、 模索が行なわれています。 今回はこの 「教化学」 という学問をより向上させ体系化させるための研究過程の検索、 さらにはその問題の所在を明らかにさせたいと思います。
この 「現代」 という言葉は非常に抽象的な表現語であり、 この意味把握は簡単に解釈すれば 「今」 ということになるのですが、 この 「今」 の解明こそが 「教化学」 の基本の作業ではないかと考えるわけです。
そこで、 現代というものを模索しながら、 「信」、 「学」、 「化」 の三つの視点について、 日蓮教学本来の 「信」、 つまり信仰、 信行等の意味解釈と、 現代社会の中に存在する一構造としての宗教環境の中で、 「信」 というものがどのような働きをなしているのか、 そして、 その働きを媒介とした 「学」、 つまり、 本来の日蓮教学を媒体としつつ、 教化という実際の現場において我々日蓮宗教師が、 どのような研鑽、 研究が必要とされているのかを 「教化学」 という名の下に先の三点を検索する必要があると考えます。 ただ単に新しいものを借りてきて日蓮教学と融合させ、 教学の現代化となるのか否か、 また、 現代の宗教社会において他の教団が一応の成功をなしている布教方法や形態を我が教団に持ち込むことで本当に教化活動の現代化、 真の教化となるのか否か等の問題に対し、 研究、 検討を加える土壌となるものをまず考えなくてはならないと思います。
また現代における 「信」 と 「学」 と 「化」 という三つの観点において、 本来の宗教的特質とを考えあわせながら、 現代の社会構造の一面として宗教現象を捉えた時、 この三点がいかに機能し、 その中においてどのような矛盾点や諸問題が提起されるのかを探ることと同時に、 「教化学」 とはいったいどのような役割を担い、 その必要性とは何なのかを考えて行こうとするものです。
ですから、 今回は 「現代」 という論拠に重点を置き論を進めること、 また 「現代」 に対する視点は年齢や性別においてそれぞれ異なるものであることを念頭に置き、 この 「現代」 というものへのあらゆる思考分野をも考えて行ければと思っています。
二
それでは、 まずこの問題の起点と思われる 「信」 について考えたいと思います。
この 「信」 とは、 「信仰」、 「信心」、 「信行」 と様々な言葉が考えられますが、 日蓮聖人がこの 「信」 について重きを置かれていたことは周智の通りです。 聖人の御遺文の中では随所にこの 「信」 の重要性が述べられています。
例えば、 『法華題目抄』 には、
夫れ仏道に入る根本は信をもて本もととす。 十信の位には信心初 はじめ也。 (定三九二)
と述べられているように、 聖人の宗教の根本には信心為本という基本概念が存在していたことは、 ここであらためて申し述べるまでもありません。
聖人の仏教思想の受容態度は、 まさしくこの 「信」 によるところの釈尊への随順の姿でありましょう。 釈尊の正しき教えをより純粋に把握しようとするものであり、 それは自己を否定し教法を問い求め、 実践を媒介とする法華経色読という宗教体験を顕現することにより、 法華経の真実性や聖人自身の宗教的優位性を立証させたものであろうと考えられますが、 現代においてこの 「信」 の宗教的認識が即通用するか否かについてがこの度の論所です。 ここで、 現代社会の中の宗教認識をいくつか考えながら、 「信」 の現代的認識を探って行こうと思います。
日本の宗教の歴史を一口で説明することは無理ですが、 ここで一つのアプローチとして時代を戦前、 さらに明治維新前と以後に分けて考えて行こうと思います。 これは、 明治維新という大きな社会構造の変化、 諸外国の文化流入の本格化の時期、 さらに、 第二次世界大戦後における民主主義の台頭から始まる 「自由」 というイデオロギーの浸透、 これらの要素が融合して日本人の意識構造に多大な進歩や混乱、 さらにはあらゆる事物に対しての意識の形骸化が進んでいったのではないかという、 一つの歴史的仮説を立てたからです。 これは、 戦後の日本経済の混乱期、 そして高度経済成長における日本経済の発達の時期に宗教社会においても大きな変化が生じていることに注目する必要があると考えるからであり、 特に、 高度経済成長と平行して発展した 「情報化社会」 の影響が、 この度の問題について重要な要素と考えたからです。 そして、 宗教が情報産業の中の一つの要因として、 現代の社会環境に位置していることに注目したいからです。
こうした論理的背景を土壌としながら、 戦前、 第二次世界大戦以前の宗教と社会との関係とそれ以後の関係を対比することから論を進めて行こうと思います。
三
その時代における 「信仰」、 「信心」 の有り様を考える時、 その時代の日常と宗教との相互関係を相対的に鑑みる方法が一つあげられると思います。
明治維新以前の信仰形態は、 日本の伝統文化の創造と同時に庶民生活に密着した中で発達し、 宗教環境は大変日常化した特徴を有しながら存在したものと考えられます。 古来よりの土着信仰などは、 人間の日常生活を土壌とした中から誕生したとも指摘されるように、 日常生活の中での宗教の比重は大変大きなものであったことが想像されます。 このことについては、 日本の土着信仰の形態等、 詳しく論ずる必要があるとは思いますが、 それは別の機会に譲ることとし、 ここでは、 宗教、 信仰、 信心というものが日常生活と密着した中で、 日本文化との相互関係を保持しながら確実にその存在を確立していったのではないかということを指摘しておきたいと思います。
さて、 それでは明治維新以後、 さらには第二次世界大戦以後の宗教環境はどのように変化していったのかについて触れてみようと思います。 先にも申し上げました通り、 その時代背景が宗教環境の大きな変化の起点をなしているのではないかと考えられます。 ですから、 明治維新という社会的、 政治的転換は、 宗教環境にもなんらかの変化を与えたであろうと想像できるのです。
明治維新は宗教社会にもいくつかの改革の政策を施してまいりました。 詳しくは論じませんが、 それよりも重要であろうと考えることは、 第二次世界大戦における日本の政治、 経済、 イデオロギーの大きな転換期にその要素があると考えるわけです。 この大戦敗戦を契機として日本に流入された民主主義への転換は、 「自由主義」 という現代人にとって貴重な精神的改革をもたらしたと言っても過言ではないと考えられます。 もちろんこれによって、 新しい技術や文化の輸入によってさらに新しい経済社会の到来という産物を手に入れることが可能となったわけですが、 ここで私が疑問点として考えたことは、 この時期を境としてそれ以前の日本に日常的に大変重要であった伝統的文化の存在がどのような状態において存在したのかという問題です。 これには専門的な学問分野において様々な学説が存在し、 定説というものは限定することは出来ませんが、 その中のいくつかの傾向を見ますと、 それまでの文化、 日常の習慣などはこのような混乱、 転換期においてもそのすがたを変えることなく伝承されていったというもの、 また、 新しい文化、 習慣と伝統とが新たな形態において融合し、 新日本文化として存在していったなど、 その文化に対する観察視点はその角度によって様々です。 しかしまた、 このような文化の形態の問題を背景とした、 それを受け入れる現代の日本人の精神構造への観察がより重要な研究課題ではなかろうかと考えます。
当然のことながらこの 「自由」 という精神構造は、 現代人の日常環境の大変大きな柱となったものであることは言うまでもありません。 この 「自由」 によって、 人々は束縛というものからの精神的解放を手にすると同時に、 物事への制限のない思考が可能となり、 その感性とに裏付けされた多種多様な価値観の創造が現代日本社会の社会環境の要因となっているのではないかと仮設を立てることも可能であると思います。
このような社会転換、 社会環境を背景としながら、 伝統文化と同様、 「宗教」 も非常に微妙な形態において、 また、 日本人の精神構造の中で根強く伝承されてきたのではないかと考えられます。
この価値観の多様化は社会構造に一つの現象を生み出しました。 高度経済成長により日本の生活基準は向上し、 精神的にも文化的にも成長を遂げたであろうことは否定されるものではありませんが、 その成長の影に、 価値観の多種多様化を背景とした価値そのものの分割化、 分業化が進行したのではないかと思われます。 これを、 少々宗教環境に例を挙げて見ますと、 例えば 「生死観」 の問題に視点を置いて見ますと、 「生の宗教」 と 「死の宗教」 といった宗教価値の分割化が見られます。 つまり、 日常生活の中での問題解決には 「新興宗教」、 「新宗教」 といったものに価値を追求し、 死については既成教団の儀式や伝統を重んじようとする宗教環境が大変日常化した現状として存在するのです。 これは一種の宗教の分業化の現われとも考えられるのではないかと思います。 これと同様、 一般社会の構造も価値多様の進行による分割、 分業化の現象が生じてきたのではないかと考えられます。
四
さて、 このような現代の現象の特徴としてもう一つ重要であろうと考えられることは、 先にも述べた 「情報化社会」 の誕生です。
この 「情報化社会」 とは、 情報によって社会の秩序維持の経過、 状態を言いますが、 この社会現象は世界の中でもアメリカと共に最先端の発達を見せています。 これは、 人類の新たな文明と言われ、 それと同時に日本的特徴を宿す 「新日本文明」 と称せられるほどの位置を確立しています。
このような大変画期的な日常手段を手にいれた我々は、 常に情報と同居するという社会環境のもとで日々の営みをなしているわけです。
さて、 ここで重要な指摘に注目したいと思います。 この 「情報化社会」 の誕生は大きなメリットと同時に、 その過多現象による情報の無機化状態を生み出したのではないかという指摘がなされています。 この情報の無機化状態とは、 情報過多の環境の中で我々はあらゆる状況において選択の多様化が実現し、 個人としての可能性について、 複数のアプローチが可能な生活環境ができ上がったことと同時に、 その情報に対し日常の中での有機的関連付けや、 人間の 「情、 知、 意」 の意義付けに限界が生じてきたのではないかという指摘です。 さらにそこには 「選民思想」 という新たな意識革命が起こり、 情報に対して自己の主体的選択の自由化がなされることにより、 「自己を考える」 という思考運動から、 「自己に選びとる」 という、 自己追求思考型から自己選択思考型への移行が生じたのではないかと考えられます。
五
さて、 時間も無くなって参りましたのでこのへんで本日のまとめをしなくてはなりませんが、 これまでお話した現代の社会環境の中で、 「教化」 というものを考えた時、 まず 「信」 というものが非常に形骸化の状況になってきたのではないかという指摘がなされるのではないかと思います。 また 「宗教」 の役割が社会の分業化が進む中で、 その価値の基準も受け入れる側の価値分割や、 社会構造の中の一つの 「情報」 として選ばれる物としての存在という現実がうかがえます。
これらのことは、 さらに論証が必要であろうことは承知していますが、 我々はこのような社会的な視点において、 「信」 を考え、 また何を学ぶかを整理し、 そして 「教化」 の現場に対処しなくてはならないと思います。
そこで一つ、 私が重要であろうと考えることは、 あくまでも本来の日蓮教学を土壌として 「現代」 に対応しなくてはならないということです。 なぜならば、 現代人の思考環境は 「選びとる自由」 からくる精神的欲求不満によって、 「本来の自分自身の発見」 という宗教に対する新たなるニーズの変容の傾向が見られるのではないか、 そして、 その傾向は 「新々宗教」 の誕生過程に多々見られるのではないかと思うからです。
※本稿は平成六年十月二十八日、 宗務院において開催された第四十七回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものである。
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