日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第29号:96頁〜 研究ノート ←前次→

『宗教対話』 について貫名英舜
序  「宗際化  *@」 という新しい造語がある。 世界が国際化の時代に入りどの国家も単独では存続できないのと同様に、 各宗教も以前のように孤立することはできない。 現代人は、 自己が所属する宗教のほかに多様な教理と儀式のあることを情報として知っている。 すなわち、 自ら信じる宗教も世界の諸宗教のうちの一つとみなさざるを得ないという状況に我々は生きているのである。 このような時代の状況の中で、 世界の諸宗教は、 相互に協調し、 さらに相互に依存しあうべき方向が模索されている。 その一つが、 第二バチカン公会議以降、 カトリックより始まった 「諸宗教の対話」 という運動である。
 わたしは、 このような時代状況の中で本宗がこの運動をいかに評価し、 かつ、 対応すべきかの基礎的なデータを集積し検討する研究を志した。 本稿において、 宗教対話の路線を歩み始めた欧米のキリスト教の内部に生じた 「多元主義」 の主張を要約し、 かつ、 日本においてこの運動を積極的に推進している新宗教の一つである立正佼成会の活動を中央学術研究所編集の 「宗教間対話の可能性と課題  *A」 を資料に考察しつつ、 私見を述べたい。
一、 世俗化 (Secularization)の問題と対応 ヨーロッパがキリスト教を自国の国教(State Church)と定めた、 いわゆる 「コンスタンティヌス体制」 の長い歴史にあり、 宗教といえばキリスト教を指す宗教の単数国家であったのに対し、 アメリカは移民の国であり、 とりあえず今世紀の前半まではプロテスタント国家 (WASP ホワイト・アングロ=サクソン・プロテスタントを指導層とする国家) である自覚のもとにあった。 しかし、 一九五○年の半ばに、 カトリックの大統領ケネディの登場あたりから、 その枠組みがまず変化する。 一九六○年代に起こった一連の事件、 ベトナム戦争の悲劇・公民権運動に対する人種差別・大統領と司法長官の暗殺、 そして、 キング牧師の暗殺などの事件が、 アメリカが 「理想的なキリスト教国家」 というイメージを一変させてしまった  *B。 その頃に出現したのが、 宗教に対する新しい二つの提言である。
  ○ 「神の死の神学」 (キリスト教という単一の宗教の支配の終り)
  ○ 「世俗化 (Secularization)*C」 (キリスト教を含むあらゆる宗教について、 その単一の支配はもはや不可能である、 ということ。 さらに、 宗教の多元化(Pluralization)を促進するもの)  
 ベトナム戦争以後の七○年代のいわゆるカウンター・カルチャームーブメント、 片方でドラッグ常習者やヒッピーなどを生み出したが、 東洋の宗教にたいする関心も高まり、 禅や瞑想法さらに 『チベット死者の書』 などへのアプローチがなされ、 「ニューエイジ」 「ニューサイエンス」 という文化を生み出すこととなった。 特に仏教の普及は堅実に進められ、 すでに 「カルト」 から一つの独立した宗教として認定されつつある。 アメリカは、 ヨーロッパより一歩先に単一宗教=キリスト教であることを放棄することになった。
 このような現代のアメリカの宗教状況は、 キリスト教自身ですら世界に同時存在する諸宗教のうちの一つという認識の一般化を促進させた。 その中で、 キリスト教の側に二つの新しい神学の思想が派生して来た。
  ○ 「宗教の神学(Theology of Religions)」
  ○ 「多元主義 (Pluralism)」
  「宗教の神学」 は、 正確には 「諸宗教の神学」 である。 当然、 複数の教義と実践の異なる宗教が存在し、 それぞれ存在上の価値において同等視される必要がある。 それゆえ、 宗教の多元性や多様性(Diversity)が保証されていなければならない。
 宗教の新規のパラダイムへの一大転換を 「コペルニクス転回(Copernican Revolution)」 と呼んだのは、 イギリス人神学者・宗教哲学者ジョン・ヒック( *DJohn Hick 1922〜 現在米国カルフォルニア クレアモント大学大学院宗教哲学主任教授) である。 現在邦訳されている書名をあげる。
   『神は多くの名をもつ』  間瀬啓充訳 岩波書店 一九八六年
   『宗教多元主義』  間瀬啓充訳 法蔵館 一九九○年
   『キリスト教の絶対性を超えて』 八木誠一・樋口恵訳 春秋社 一九九三年   
 以下、 ヒックの主張をいくつかを抽出する。 *E  
◇従来のキリスト教にとっては、 他の諸宗教とは、 「まだキリスト教になっていない」 存在であり、 「人類の一部に過ぎない」 ものであった。 しかし、 事実はキリスト教を信じる人の方が少ないのであり、 いつの日か全世界がキリスト教化されるということは、 不可能である。
◇世界のほとんどの人々は、 その人が 「どこで、 うまれたか」 という条件のみで、 ある特定の宗教を信じるものである。
◇宗教学の知識の蓄積によって、 従来の他の宗教にたいする偏見から生じる予断が通用しない。 イスラム教徒、 ヒンズー教徒のおのおのにキリスト教徒の敬虔な 「祈り」 があるのと同様なものがあると認定せずにはいられない。
◇世界に名の違う神を信仰する宗教が多数存在するが、 ただひとりの 「神」 しか存在しないが、 諸宗教は、 この 「神」 を異なった、 あるいは重複した神のイメージを通して礼拝している可能性がある。
◇ゆえに、 カトリックの 「教会以外に救済はない」 という言明も、 プロテスタントの 「キリスト教以外に救済はない」 という言明も、 ともに誤りである。
◇第二バチカン公会議以後の立場も、 「キリスト教の外に救いはない(Outside Christianity, no salvation)」 という前提、 また、 カトリックの著名な神学者カール・ラーナーの 「無名のキリスト者 (Anonymous Christian)」 という思想も、 キリスト教の他の諸宗教にたいする優位性の発言に過ぎず、 「包括主義(Inclusivism)」 でなければ、 やや柔軟な 「排他主義(Exclusivism)」 にすぎず、 ともに独善主義となり、 批判されねばならない。
◇ 「キリスト教の外に救いはない」 とする教理は、 キリスト教を 「宇宙の中心」 とし、 他のあらゆる諸宗教はその中心のまわりを回っているものであり、 諸宗教の価値は中心からの距離で決定される、 という従来の教理を否定し、 宇宙の中心に 「神あるいは実在」 があって、 キリスト教を含む諸宗教が回っているのである。 諸宗教に種々の有り様があるのは、 中心である 「太陽」 の投影の違いによるのであって、 異なる歴史的・文化的状況のなかで、 それぞれの人間が異なった応答をしたものである。 「神の啓示の多元性とそれに対する人間の側の多元性」 を認めることが、 一義的な意味での 「宗教的多元論(Religous Pluralism)」 の理解のための第一歩である。
 以上のような論旨で、 未来の世界の宗教の姿を、 宗教理解の枠組みを 「多元主義」 として結ぶ。 当然、 これは従来のキリスト教神学の枠を超え、 「神的実在」 のモデルへパラダイム転換をはかるものであった。
◇このような文脈で、 キリスト教の伝統である 「受肉の教理」 を放棄するが、 ヒック自身は、 キリスト教の独自性を放棄したのではない。 宗教者にとって、 もっとも大切な宗教的体験をもたらす対象として、 イエスの存在は決定的であり規範となるものである。 ヒックにとって、 神学公理の中心は、 「神の普遍的な愛」 「神の普遍的な救済の意志」 なのであり、 「受肉の教理」 が 「神話」 であるにしても、 神の愛を基礎付けるものとしてある限りにおいて重要な意味のあることになる。 つまり、 イエスを抜きにして神の普遍的な愛も神の普遍的な救済の意志も語ることはできないということである。 それゆえ、 ヒックは 「宗教の神学者」 ではない。 極めて純良な 「キリスト教の神学者」 である。
◇世界の宗教には、 有神論的なキリスト教と仏教のような非有神論的な存在がある。 ヒックは、 この両者を統一的場において調停するものとして 「相補的な宗教的多元主義(Complementaly Religous Pluralism)」 を提唱する。 我々が認知する神・仏とは異なり、 「神の神」 「仏の仏」 というような根源的な思考まで取り込めるような思考の枠組、 つまり人間の認知する領域を越えたところの 「究極的実在(Ultimate Reality)」 において、 神そのもの・仏そのものは、 実は究極的には別のものではない。 究極的な実在が正当な人格的現在として経験されることで、 仏教のような非有神論的な立場も、 「無限者意識」 あるいは 「宇宙的仏性」 として経験されることになろうと言うのである。
◇諸宗教の関係は、 キリスト教のエキュメニズムを諸宗教間へ拡大した諸宗教のエキュメニズムに発展する。 諸宗教間の相違は重要視されなくなり、 それよりも地球上の兄弟愛を要求する高次元の霊的現実への信仰に対する共同の努力が意義を持つようになる。 したがって、 現在のイギリスのキリスト教の諸宗派間の関係のように、 他の宗派の礼拝に参加したり、 教職者の交換が行われたり、 社会のための共同奉仕などが行われるようになるであろう。
◇世界宗教が達成されることはないし、 望ましくもない。 信仰は、 究極的現実を人格的か非人格的かによってとらえることで、 啓示的か神秘的かの差異を生じるもので、 人間の多様性による。 この人間の多様性が、 儀礼や神学 (教学) に差異を与えるのであって、 この関係性に変化は起こらない。
 ヒックの 「宗教的多元論(Religous Pluralism)」 は、 従来のキリスト教神学、 および伝統的な正当主義者の存在そのものを根底から批判するものである。 それゆえ、 その神学者としての生涯は、 いまだに根本主義者から 「異端・過激」 と危険視され、 攻撃されるものである。 *F ヒックは、 過激な言動が原因となって教職者の資格が剥奪され、 あるいは神学校の教授の職を追われる経験をする。 このことは、 ヒックの考えがキリスト教全体に簡単には受け入れられないことを明示している。 実際のキリスト教内部には、 「対話」 に参加すること自身に歴史的必要性を感じつつも、 その必然性に十分な説得的論理をもっているとは思えない状況にあるように思われる。
 さて、 ヒックが提言するように、 各宗教が 「対話」 に対応する態度の相違は 「排他主義」 「包括主義」 「多元主義」 の三つの異なる位相より生じていることはまず間違いはない。 しかし、 ヒックの主張である 「多元主義」 に絶対の価値をおく、 すなわち、 前二者を切り捨てることが本当に現在と未来において思想的状況として妥当性があると決めるには、 いささか疑念が残る。 それは、 この三つの態度は、 もともと一つのものから生じた 「兄弟」 のような存在であり、 おのおの独立したものではないと思われるからである。 また、 対話の主体である各宗教者の内在において、 様相は異なるものの三者は重なり合って同居していると考えることが自然であろう。 また、 三者にはおのおのに論理上の欠陥もあるとも考えられる。 多元主義も、 相対主義や宗教的表現を個人のイン・ゲームにおしとどめてしまうフィディズムに陥る危険をはらんでいるという意味で、 取り扱いに十分な慎重さを必要とする。
 現在、 他者の宗教理解の基本にその人がその宗教への信仰にコミットした理由や動機をその人自身の人生経験におけるコンテキストとして理解するということが当為とされるならば、 三つの異なった態度もまた、 各自のコンテキストとして理解されねばならないものであるからである。 その意味で、 多元主義が宗教対話の理論として、 公式として普遍的なものとして構築されたというのではない。 あくまでも、 方法論として実験的なものであり仮説に過ぎない。 それ自身、 これから十分に論議されて行くべき課題であるといえる。
二、 時代要請としての 「宗教対話」 さて、 ここで 「宗教対話」 が歴史的必然として浮上してきた現代の時代背景について考察し、 宗教対話の目的について私論を試みたい。
 現代世界を考える場合の一つの有力な主題として、 各民族・各共同体の歴史・風土の相違から生じたところの 「多元性」 あるいは 「多様性」 ということをいかに位置づけるかということがある。 何故ならば、 現在、 世界のどの国家も民族も他の国家や民族との交流や相互協力なくして、 生きて行くことはできないからである。 また、 世界が近くなった、 ひとつになったというとき、 世界の危機 (人口・環境・平和・南北・経済的格差・人権など) の有り様が以前より大きくなったということになる。 少なくとも、 そのリアリティにたいする自覚が強くなったとはいえるであろう。 このような状況に対して、 既存の政治経済外交的システムによるだけで対応できないという認識が生まれてきた。 おのおのの分野での模索がなされなければならないとき、 宗教の分野では、 複数の宗教が連帯しての共同の作業として、 これらの問題に対処しなければならないという考えが生じてきた。 すなわち、 「宗教協力」 というあり方である。 しかし、 各宗教は、 長い歴史のなかで教義・儀式をそれぞれ独自な形で整えてきたのであり、 そこには、 自己の宗教の真理を絶対化し他の宗教に対する優位性をもって対立するいわゆる独善主義・排他主義がある。 現実的にこの排他主義は、 相対化に反して原理主義という形で、 ある民族のアイデンティティとなる。 それにとどまらず、 政治的に利用され、 国際的な平和と協調に対する障害要因となるほどの大きなエネルギーとなっている。 この人類の共生を妨害する宗教の原理主義の誤りを、 宗教間での対話によって自己を含めて自覚を促すことで克服する場として与えられたものと考えてみたい。
さらに、 いわゆる世俗化、 すなわち科学技術の発達と浸透によって広がって行った不合理なものへの不信に対し、 個々の宗教自身が科学的合理的な批判にたいしても回答できる神学 (教学) の形成を各宗教が共同して実現することはできないかという問いも存在しているように思われる。 それは、 第一に各宗教の教義から、 救済における唯一絶対性の主張を取り下げることから始まるのではないか。 人間が、 その歴史的要請によって作り上げて来た世界のあらゆる宗教の教義・儀式を全体として人類の共有する貴重な遺産として統合し、 宗教者はそれに関わるものとして地位を確認する。 そのために、 各宗教が、 自己の信仰を可能な限り率直に提示する場所として対話を位置づけているということも考えうる。
 とにかく、 世界の単元化と世俗化は、 異種の文化が 「衝突」 することをまねいたと考えられる。 カール・ポッパーは、 「開かれた世界」 の理想を説いた哲学者であるが、 「複数の文化が接触する時、 人々は、 長い間当然だと思ってきた彼らの生活様式や習慣が、 『自然』 なものでも、 唯一可能なものでも、 神の命じたものでも、 人間性の一部でないと悟り、 自分たちの文化は、 人間が、 人間の歴史を作り出したもので、 人間の、 即ち自分たち自身の力で左右することができるのだと気がついた時、 新しい可能性の世界が開けます。 *G」 という。
 宗教対話は、 歴史的必然としての異文化の衝突であり、 衝突の結果としてのあたらしい価値観のコンセンサスを形成していく不可避の事態としてあるところにおいて、 その解決の実現を図る方法論がためされる場として、 歴史が招いたものということになるであろう。
三、 立正佼成会の 「宗教間対話」 の試み    (1)立正佼成会 「宗教間対話」 の出発点
 立正佼成会が 「宗教間対話」 の問題を実証的な学問的探求の対象として定め、 大がかりなプロジェクトとして人材と資金を投入している第一の理由は、 立正佼成会が 「世界宗教者平和会議 WCRP」 の運営の中核として、 自らを位置づけていることがあげられる。 当初、 この運動を推進する上で、 立正佼成会の協力運動の体制のありかたと理念を検討するものとして、 第一次の研究活動が開始された。 その成果は、 中央学術研究所編 「宗教間の協調と葛藤 一九八九年」 にまとめられた。 この過程で、 多くのスタッフとして共同作業を行った宗教学を専攻する大学院生と交流をすることが、 次の 「宗教間対話論」 研究へのステップとなった。
それらの共同によって宗教者はどのような相互理解にたどり着いたのだろうか。 何を行動の成果と考えているのだろうか。 (中略) 布教と協力・対話の緊張関係をどのように克服して行くのだろうか。 この運動はこれからどこへ行くのだろうか、 というさまざきな疑問が生じてきました。(「宗教間対話の可能性と課題」 二三九頁) 
  「宗教間対話論」 へのアプローチは、 当時日本にも研究者が多く輩出し海外の研究の邦訳が増え、 文献的にも整いつつあったキリスト教内の 「宗教対話」 の論議モチーフを方法論的に使用し、 日本の宗教が本当に対話と協調を実現することができるのか、 できるとすればその方法とは何かを見極めることを目的として始まった。
キリスト教的な和解のプロセスという土俵に果たして日本の宗教は乗ることができるのだろうか。 いわば真理問題を避けて通る宗教協力型の運動と、 真理問題に決着を見ないと協力できない宗教対話型の運動を対比させることによって、 救済のための協力のない真理対話と真理対話のない対症療法的協力の成果や問題点を明らかにし、 双方がより豊かな内実を整えるための相補的な知恵となるような研究・実践が求められていると考えました。 (「宗教間対話の可能性と課題」 二四○頁)
 このような立正佼成会の探求への出発は、 理想・動機・目的などに照らし合わせて整合性のあることは認めうる。 しかし、 この道程において乗り越えなければならないところの障壁は、 山ほどあった。 学習院大学教授飯坂良明氏は、 「そもそもダイアログとは何か。 (中略) 対話の神学は、 話せばわかるというけれども、 楽観主義的デモクラシィーと変わらない甘さがある。 現実的にはわからないことがある。 話せばわかるというのは、 ヒューマニスティックな楽観主義である。 実は、 人間と人間を引き裂いている深遠は、 余りにも深くて話しても解らない。 そういう深遠の前に我々は立たされている。」 (前掲書 三○五頁 平成三年度の 「宗教間対話研究会」 の同氏の発表を梅津氏が要約したもの) という。 この障壁こそ、 第一義的に宗教間対話の実践の理論の構築を困難かつ複雑なものにしているだろう。 さらに、 宗教間対話を実践する参加者の個人のレベルと帰属する教団のレベルにある種のずれ、 ないし乖離が生じるだろう時、 宗教間対話は、 政治的なあるいは教団の戦略的なものと偏見のもとに参加者の意欲をくじく結果を招くかも知れない、 という危険ととなりあわせにあった。
    (2)カトリックの見解と立正佼成会の見解の相違点
 J・W・ハイジック (南山大学教授 南山宗教文化研究所所長) が指摘するように、 「対話の心は、 宗派主義あるいは国家主義の囚われから離れて、 お互いの宗教心を養うことを第一の目的にしています。」 (『宗教と文化』 人文書院 一九九四年 南山宗教文化研究所編 十一頁)という目的に到達するためには、 二律背反するさまざまな対立と衝突は避けられないが、 二○世紀末に起こっている 「歴史的対立」 そのものに参加することが、 宗教対話にコミットすることだという。 この意味で、 立正佼成会の 「宗教間対話」 の出発点は批判を受けることになる。
仏教やキリスト教の思想家の一部は最近、 諸宗教対話が人権、 貧困、 少数民族の圧迫、 環境保護などの問題に対話の焦点を当てなおされなければならないと主張し始めました。 そうすれば、 対話は 「現実の世界」 との接触を確保できると言われています。 しかし、 話し合いの対象を取り替えることだけによって対話が二次的都会から脱出できるわけではありません。 同じように、 対話を途中で切り上げて、 政治的活動に向かうという態度も、 それだけで対話の歴史的意味を徹底することになるわけではありません。 対話の歴史性の基準は、 どこか他に求めなければならないと思います。 (『宗教と文化』 十二頁)
 ハイジック氏は、 対話が何らかの現実の社会的動向にコミットすることで、 その人 (団体) の道義的責任感を充たすことはできても、 世界の諸宗教の原理主義との対決である 「諸宗教と対話の目的」 は達成することはできないという。
 ただし、 原理主義の傾向は対話を始める自己自身にもあるのであって、 諸宗教との対話は他者の欠点を指摘するのと同様に、 自己自身の原理主義も自覚されることになる。 レナード・スィードラーは次のように言明する。
パートナーの質問に答えるという、 まさにその過程で我々は自分たちの内的自己と伝統の中へ目を向けるのであり、 これは、 おそらく他の方法でするようなものではないであろう。 そして、 このようにして我々は自分自身を知るようになるのだが、 これは対話からはずれてはあり得ないことだ。(「宗教間対話の可能性と課題」 三三○頁 「対話とは何か」 における 「五、 対話の目的」)
 多少のニュアンスの違いはあるが、 最近、 本宗の立場においても同様な発言がなされた。
他の宗教を学ぶことによって、 自己のよりどころになっている日蓮聖人の教えを少しでも理解したい (中略) 自己の顔は鏡に映さなければ見ることができないと同じように、 自己の依ってたっている教えが、 いかに尊いものであるかを知るためにも、 他の宗教を鏡として理解を深めたい、 というものである。(「日蓮宗新聞」平成六年一○月一○日の論説 論説委員 北川前肇)
 宗教間対話の問題の複雑さとは、 レベルの問題、 ベクトルの問題に加えて、 我々は 「代表者の次元」 のほかに 「日常生活の次元」 「教室の次元」 「実習の次元」 (NCC宗教研究所所長 同志社大学教授 幸 日出男 「宗教間対話の可能性と課題」 二八五頁)と、 我々は住み分けているのであって、 各次元に即した異質な対応をも求められているからである。 幸氏は、 「対話は、 自分が話して相手が聞くというだけでは対話にならないのであって、 自分も聞き、 相手も聞くというものである。 相手の信じるものを聞きながら、 我々の信ずるものの教えや言葉や歴史支配の意味を学ばせてもらう」 ものだと言う。
 キリスト教カトリックの立場は、 立正佼成会の考える 「宗教間対話」 の目的とは微妙に異なるものである。 この相違は、 どこから生まれてくるのだろうか。 キリスト教の有神論的な立場、 即ち、 唯一神教の長い伝統においてなされる提言と、 個我における 「悟り」 と 「個」 において他者救済の実践をもとめる仏教的伝統の非有神論的な立場における相違が、 まずあげられる。
 立正佼成会は、 「法座」 を自らの生命として活動してきたが、 そこには、 「日常生活の次元」 に他の次元を帰納させる基本構造を見いだせる。 この基本構造を拡大し、 世界を意識したところに立正佼成会の世界に向けての 「宗教協力」 と 「宗教間対話」 はあるのではないかと思われるのである。 立正佼成会を含む戦後の新宗教が、 「貧・病・争」 などの現実苦をもとにそれらの克服を同信集団による対話と疎外された個人の救済を弁証法的説得で果たさせてきたことも投影しているのではないか、 と考える次第である。 疎外をうけ現実の苦しみにあえいでいる人間は、 隣の家にもいるが世界にもいる。 そうした人々に語りかけたい (「導き」)、 手を差し伸べたい (「手取り」)、 ということ自体が、 立正佼成会の基本にある信仰の態度なのであろう。
 カトリックが宗教対話を始めた第一義的理由は、 カトリック自身の主観によれば、 「教会以外の世界の中でも神の働きがあるということを認めるようになった」 という神学の認識の変化に連動したものであった。 それゆえ、 宗教対話には、 「根本的に無目的的でなければならない」 (『宗教と文化』 人文書院 一九九四年 南山宗教文化研究所編 六四頁)というのが前提となる。 その説明として、 ハイジック氏は、 三つの 「比喩」 と説明をあげる。
その一つは、 対話は何より聖なる冒険だという比喩、 もう一つは、 対話そのものが宗教的求道だ (なぜ宗教的求道に入るか、 なぜ宗教が存在するかについても、 宗教には目的がないと返事するしかないと私は思います)。 そして、 最後に愛の業だという比喩です。 他宗教の兄弟と別れたままで生きて行くことに耐えられなくなるということが根本にあると言えると思います。 そして、 愛にも目的がないと思いますね。 (『宗教と文化』  六四頁)
 立正佼成会の宗教間対話の理念は、 カトリックの指向する宗教対話 (諸宗教の対話) とは、 この 「無目的性」 という観点で、 ずれが生じていると言うことができる。 対話は、 各宗教が協調して協力 (救済) 活動にあたる前提を切り開くものであるとして、 立正佼成会中央学術研究所研究員梅津礼司氏は、 次のように言う。
私たちの宗教協力運動を世界的な宗教現象の潮流の一つとして確固たる基盤を形成しようと努めてまいりました。 この運動の特徴は宗教集団間の政治的対応を強化しようとする連合体に参加し、 比較的教団の社会的役割を強調する教団群、 あるいは宗教家に保持されてまいりました。(「宗教間対話の可能性と課題」 四六二頁)
 しかし、 このような連合体は、 イニシアティブをだれがとるのか、 各教団間の利害の対立によって自己崩壊する危険もある。 その認識に立ち、 「開祖様の宗教協力にあたる信念ですが、 宗教の本義によって世界が一つになれる、 宗教は教義にあるのではなく行動の中に存在するのだという現証主義」 により、 行動母体としての連合体は維持されなければならない。 そして、 この行動の継続に関わる阻害要因は何であり、 また、 どうすれば取り除くことができるのか。 梅津氏は、 「宗教間対話」 の立正佼成会としての目的の中心を次のように言う。 宗教協力を実のあるものにしようとすればするほど、 各宗教の相違がますます顕在化する。 この宿命的なアンビバレンツな様相をいかに克服するかが、 問い直されることになる。
しかし、 各宗教伝統の内実を理解しない宗教協力は、 やがてその展開とともに価値観の相違をあらわにし、 宗教勢力の新たな葛藤と対立の要因となる。 このような宗教協力運動不確実性を克服するためには、 真理問題を含めた各宗教伝統への理解が不可欠であると考えます。 宗教間対話による宗教伝統への相互理解の深まりは、 自己理解と他者理解を前提として、 対話者の宗教的成熟を促すものになると考えます。 ここでいう宗教伝統の相互理解とは、 お互いの固有の信念体系、 儀礼、 組織、 歴史、 人格、 感情への理解であり、 その宗教が発生ないし育まれた文化的・社会的背景に理解は及ぶものであります。 これによって現実的諸課題の解決に向けた宗教協力は周辺社会において一層説得力のある宗教運動として世界の人々から期待を持って受容されることになるだろうと期待しております。 (「宗教間対話の可能性と課題」四六二頁)
 カトリックにおける 「宗教対話」 と対照することで立正佼成会の 「宗教間対話」 の相違点を際立たせる論証を試みた。 もとより、 対立するどちらの主張が正しいかあるいは価値が高いかの判断は、 各人のおかれている立場による。 ここに、 各宗教におけるヘモゲニー争いの構図をみてしまうのは間違いである。 人類の危機は、 この一○年あまりで大幅に変化した。 核戦争の脅威という人類の共通の敵が存在しない現在の方が、 お互いの本質的な違いが改めて更に問題になる。 むしろ、 違いが明確になってこそ対話が意味を増すのであり、 また、 対立する対話論を調停していく必要があろう。 ハイジック氏は、 「(対話論は、) 対話のあらゆる側面を方法論的に意識しようとするものの、 対話論それ自体の出現の理由やその必要性を問題にしないのです。」 (『宗教と文化』 十三頁)といい、 対話論は不必要性だという。 はたして、 そうであろうか。 これから、 「宗教対話」 が指導者のレベルを離れて下部構造化されていくべきと思うが、 新規の参入者への適切なガイドを示すことは不可欠である。 宗教が多元的であるとき、 各々の宗教的目的と主張にもとづく対話論もまた多元的であるはずである。 対話論の基本的スタイルを幾種類かに統合し、 初心者にオリエンテーションしていくことも先駆者の責任であろう。

  註*@宗際化という言葉は、 湯浅八郎 『湯浅八郎先生に聞く  -信仰と生活』 (一九七八年)の中川秀恭の 「序」 による。
A 「宗教間対話の可能性と課題」 は、 平成五年十二月立正佼成会 中央学術研究所 刊行
B現代アメリカの宗教状況については、 『宗教の神学 その形成と課題』(古屋安雄 四九〜五二頁 一九八六年 ヨルダン社)   『キリスト教国アメリカ その現実と問題』 (古屋安雄 一九八六年 新教出版社) を参考にした。
C 『世俗都市』 (Harvy Cox 塩月賢太郎訳 一九八六年 新教出版社 三頁) 「多元主義と寛容は、 世俗化のうみの子である」
D 『現代キリスト教と将来』 (古屋安雄 一九八四年) に 「アジアのキリスト教の意義  欧米の神学者へのひとつの苦言」 として詳しく紹介されている。
Eヒックの主張の整理に当たっては、 『現代の宗教哲学』 (間瀬啓充訳 勁草書房 一九九三年) を参照した。
F一九九四年の本宗の第二十三回教化学研究集会 (新宿 常圓寺) のヤン・スィンゲドー南山大学教授の講演での私の 「ヒックの多元論をどう評価するか」 の質問に対して、 「異端」 ですとの答えがあった。
G 『開かれた社会の哲学』 (カール・ポッパー 未来社 一九九四年) の 「ヨーロッパ文化の起源」 十四頁

 ※本稿は平成六年十月二十七日、 宗務院において開催された第四十七回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものに加筆したものである。
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