日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第29号:89頁〜 研究ノート ←前次→

  臨終についての一考察

望月昌光         一
 人は死んだらどうなる?
 また、 この世に生を受けている自分はナゼここにいるのか?
 どこから現われ、
 どのようにしてここ現在に至り、
 ここよりどこへ進み、
 死んだらどこへ行くのであるか?
という疑問を不安の中で、 我々は毎日を積みあげています。
 祖師の言葉に 「さればまず、 臨終の事を習うて後に他事を習うべし……」 と示されているように、 人の生死の問題は、 長短に関係なく訪れるものでありますから、 仏法を学ぶ者は、 他のことはさておき、 生死の件、 臨終を迎えることに追求解明をなし、 悔いることがないよう準備すべきであると伝えています。
 祖師ばかりでなく僧形をしている者は、 少なくとも一般の人々よりも 「生死」 の件に関し、 人一倍関心があり、 死を迎えることに対しこだわりを持っているものと思います。 決して我々僧侶は、 「生死」 を解決しているのではありません。
 近年は、 一般の方々におきましても、 「死の解決」、 臨終に臨むことに関心が広がり、 「よりよく生き、 よりよく死を迎える」 という形の本・雑誌が一般にも出まわり、 医療現場においても 「ホスピス」 という形で実行されています。
 さて 「生死」 の問題・ホスピス等々の件に関すると、 医療現場の意見や報告の他に、 宗教者にも意見というものが求められ、 その返答として限られた方がお答えになります。 直接には聞こえては来ないものの、 一般のそれに対する反応は、 不充分、 不信感ただようものです。 他の宗派においては、 研究や活動を進められている機関が存在していますが、 はたして本宗において、 「生死」 「人の臨終」 に際していかなる見解を持ったらよいのか。
 本宗でも 「ホスピス」 なるものを持つべきか否か? を今回の一考察とします。
         二
 講談社より 「クォーク」 という科学雑誌が出版されていますが、 その中に 「最新 『大往生』 マニュアル」 という報告がありました (一九九四年八月号)。
 近年の日本の 「死に方」 事情は貧しく、 一九八〇年代には、 自宅で臨終を迎える在宅死は四三パーセント。 一九九〇年代になると二五パーセントとなり、 四人に三人は病院のベットの中で死を迎えます。 死が家庭から病院へと移り、 医療機器に囲まれ、 自分の意思がどうであるか否かに関わらず、 鼻から尿道まで数多くの管が体の穴の中に差し込まれ、 いわゆる 「スパゲティ」 と医療現場で呼ばれている状態になります。 その状態で、 患者本人が死と闘わざるをえなくなり、 苦しみぬいてやがて死を迎える。 そのような状況は人間らしい死に方なのか? という疑問から、 自分の納得いく死に方を追求しようという運動が起こり、 現在では少ないながらも 「ホスピス」 が作られています。
 そこで紹介されているのは、 仏教思想に基づくターミナルケア施設 「ビハーラ病棟」 (サンスクリット語で 「休養の場」 という意を持つ) です。 仏堂があり、 朝夕の勤行があり、 二十四時間常に僧が悩みを聞く体制を作ってあります。
 そこでの臨床例から、 死を受要する場合のイメージの仕方は、 「新しい世界へ行く」 「懐かしい世界へ還かえる」 「真のふるさと、 本当のふるさとへ還る」 という表現が臨終間近の方には効果があり、 根源的に懐かしい感じのする所に回帰するイメージを持たせるとよいと報告されています。 ここで重要であるのは、 あの世の存在の有無ではなく、 死を目の前にした当人にとって 「あの世」 をイメージさせることは、 苦しみを和らげるという事実があるということです。
 次に指摘されていることは、 死を迎える対象となる人間は、 その人間の住む文化・風俗・習慣をぬきにしては考えられないとして、 特に日本人にとって死を考えることは、 意識をしないまでも、 精神の依りどころとして仏教があると指摘しています。 そして源信の 『往生要集』 がデススタイルのマニュアルでもあると紹介しています。
 今、 日本の仏教は、 アフターデス中心の考え方で、 葬式仏教と批判されがちでありますが、 浄土教の教えは、 往生するまでのビフォアデス (死に至るまでの教え) があることを教え、 それが念仏結社により事細かく実践されていたことを報告しています。
 この報告の要点は、
  一、 自分自身が、 死を意識・自覚すること。 死を迎える心構えをつくること。
  二、 日本人の精神において、 内容の違いは問わずとも、 精神の依りどころとして仏教に期待のあること。
  三、 アフターデスだけでなく、 ビフォアデスを考えること。
この三点がここから読み取れます。
         三
 次に 「ホスピス」 についてふれておきます。 「ホスピス」 が取りあげられるようになったのは、 医療現場より意見を出した山崎章郎やまざきふみお氏の著書が、 一つの原因を作りました。
 山崎氏は、 「ホスピス」 について次のように要点をまとめています。
  一、 ホスピスは末期患者、 特に末期ガン患者及び、 その家族を応援する為の施設であり、 応援のプログラムであること。
  二、 ホスピスを支える理念は、 末期ガン患者がその最後の時まで、 快適で患者自身の選択と意志に基づいて生き抜くことを応援すること。
  三、 ホスピスでは、 常に患者に対して正しい情報が伝えられなければならないこと。
  四、 ホスピスでは、 キリスト教でも仏教でも、 他の宗教でも、 患者の望む宗教的援助が受けられること。
  五、 ホスピスを支える人たちは、 医者、 看護婦だけでなく、 ソーシャルワーカー、 栄養士、 宗教家、 多種多用からなるボランティアなどであり、 これらの人たちが、 チームを組み、 患者のニーズを可能な限り応援すること。
などをホスピスを運営するにあたり示しております。 ホスピスは、 対象となる患者本人が主体となり、 積極的に死を迎える準備が出来るようにし、 それを援助する場所であり、 そして病名等で本来のことを患者に知らせないで、 医者や家族に対して不信感をいだかせないように、 正しい情報を本人に提供する。 そして宗教家の必要性、 積極的介入が望まれていることを示しています。
 しかし宗教援助の大切さを示しているとはいえ、 日本において宗教援助は、 困難であると指摘しています。 それは宗教的背景が諸外国よりもうすく、 宗教的ニーズに応えられないからだということです。
 山崎氏は、 宗教に代わるものとして次のように提案しています。 「臨終間近の人々は、 自分は決して孤独でなく、 自分を愛し、 信頼し、 共感してくれる人々があり、 自分もそれらの人々を愛し、 信頼していることを実感出来る関係が成立すれば場所を選ぶことなく、 生き生きとし、 死を乗り越え、 死を受け入れていくことも可能であると宗教を持たぬ患者より教えてもらった」 と示しています。 宗教に代わるものとして、 「安心あんじん」 を得られる条件がそろえば充分に対応出来るとしています。 この件もふまえ、 ここでは、
  一、 患者本人が積極的に生きる場所、 環境の提供が必要であること。
  二、 宗教者の必要性。
この二点を取りあげておきます。
         四
 次に浄土念仏、 他の仏国土を批判した祖師は、 「生死」 をどうとらえていたか? ということに触れておきます。 田村芳朗先生のまとめられたものを紹介します (『死』 仏教思想10 平楽寺書店 三四一頁〜)。
 日蓮の思想は、 三つに区分が出来るとして、
  第一期は、 三十代 現実肯定の時代。
  第二期は、 四十代 現実対決の時代。
  第三期は、 五十代 現実超越の時代。
とわけています。
 第一期は、 他の祖師たちと較べると家庭的不幸にみまわれないため、 学問追求型で絶対真理の探究から、 現実肯定へと展開し、 生死のこの身こそ、 そのまま永遠の仏であり、 生滅のこの土そのまま常住の浄土、 此土浄土という立場を主張し、 他の国土を求める考え方、 西方浄土、 言うなれば相対浄土に批判を向けます。 徹底した現実肯定の論 (『守護国家論』 等々) を示しています。
 第二期において、 数々の法難、 特に伊豆流罪・佐渡流罪等により生死観に新らたな展開があり、 死を自覚的に受けとめる方向へ変化していきます。 苦難に耐えての真理、 現実の実践、 忍難殉教の菩薩行にはげむ 「法華経の行者」 という表現を用いて、 現実改革を目指して世界の浄土化を志します。
 第三期では、 佐渡流罪が長びくにつれて変化していきます。 佐渡での絶命を予期していた祖師は、 命終えて帰るべき世界を想定します。 即ち浄土来世を志向しはじめます。
  『開目抄』 『四条金吾殿御書』 等に示されている 「霊山浄土」 という言葉で、 来世浄土が表現されています。 来世浄土への往生を思い苦難の人生を忍ぶ形となり、 身延期においては、 自らは現実超越の境地に立っているものの、 生死無常の人生という実存的状況から死を見つめる立場をとるようになります。
 はじめは、 常寂光土という絶対浄土の立場から死後の来世浄土が否定されましたが、 晩年に至っては、 愛する者への再会を表現する形で、 霊山浄土という言葉を用いて来世浄土を表現し、 次の世界を示しているとまとめられています。 田村先生は、 最後に祖師の生死観というのは、 日蓮自身が日本人へ立ち帰ったと評価しています。
 これより祖師自身も、 次の世界を表現することによって、 弟子信者に 「安心」 を与える方法を晩年にあたり表現せざるをえなかったと判断します。
         五
 以上から、 臨終を迎えるにあたり対象となる人間が個々において、 生死のことを自覚し、 受け入れることを目指すこと。 宗教者は特に、 対応出来るように日頃より考え、 行動出来るように心構えること。 アフターデス−死後の事も重要でありますが、 ビフォアデス−死に至るまでの宗教者の役割も考える必要があり、 宗教者の積極的取り組みを志すこと。 これは祖師が晩年にあたり、 来世浄土を表現したことです。
 本宗では次の世界の想定をなし、 法華経の世界での霊山浄土へ参ることを示し、 「安心」 を示していくべきであり、 その形態はどのような形式でも、 本宗僧侶が積極的に、 実行に移さなければならないということが、 現時点で提示出来るものです。
 今後の課題として、
  ○ 「生死」 をどのように規定していくか
  ○宗教意識をどのように日本人に根付かせていかなければならないか
  ○ 『往生要集』 の研究
  ○祖師の持つ浄土思想の整理
  ○両者の思想の違いの整理
  ○ビフォアデスの取り組み
等、 研究を進めるべきと考えます。

 ※本稿は平成六年十月二十七日、 宗務院において開催された第四十七回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものです。

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