教団研究セミナー既成宗教と新宗教との布教態勢の違い井上順孝
私の研究は、 学問の分野としては宗教社会学に近いと考えています。 近いと申しますのは、 必ずしも社会学だけではなくて、 これまでにも心理学的な研究とか、 思想史的な研究も経ており、 特に新宗教の研究を始めてから、 社会学的なアプローチをとるようになり、 それが主体になっているからです。 しかし、 いわゆる社会学者の行います宗教社会学的な研究とは少し違い、 やはり宗教の本質論とか宗教の使命といったことを絶えず考えながら、 社会学的に論じるという立場をとっております。
一、 布教態勢から区分した近代日本宗教 きょうのタイトルは 「既成宗教と新宗教との布教態勢の違い」 ですが、 もちろん両者がきれいに二つに分かれるわけではありません。 ひとくくりに既成宗教と言っても、 さまざまな宗派、 教団がありますし、 内情はバラエティに富むわけです。
近代宗教を広く見渡しますと、 布教の仕方に関して特徴が大きく二つに分かれるので、 多少、 強引ではありますが、 @単純再生産型とA拡大再生産型という区分を、 かねがねやっております。 教団あるいは宗教が一般社会に対してどういう布教の基本的な姿勢をとるかということで、 ここに経済学の用語を比喩的に利用して、 単純再生産型と拡大再生産型に分けました。
これは経済学の用語ですから、 本来は少し意味が違ってきますが、 ここで言わんとしていることは、 結局、 @の単純再生産型のほうは、 教団あるいは宗派が固定的な信者であるタイプを想定しております。 信者がどんどんリクルートされて新しい信者をふやしていく、 あるいは場合によっては前の信者がどんどんいなくなっていく、 つまり変わっていくということを想定しないで、 その土地あるいは特定の家、 つまり地縁、 血縁という変化しにくいものを想定して、 そのつながりの中で布教、 教化をしていくタイプの宗教です。 ほとんどの仏教宗派と神社神道が、 このタイプに入るだろうと考えております。
これに対して、 Aの拡大再生産型の宗教は、 絶えず信者のリクルートと申しますか、 新しい信者をふやしていく。 そのことによって組織が拡大され、 さらに存続の基盤がそこにあるタイプです。 例えば、 教団墓地をもっていない新宗教などにおいては、 絶えず新しいメンバーを引き入れないと教団の維持そのものが不安定になります。 したがって、 既存の信者だけでなくて、 常に新しい信者を獲得しようという基本的な構えを持っているわけです。
キリスト教は世界の他の多くの地域では、 むしろ単純再生産型に入っているわけですが、 日本の場合は、 近代においては新宗教と同じような拡大再生産型の宗教として出てきたと思います。 最近はだいぶ単純再生産型に近づいておりますが、 近代を通して見るならば、 かなり新宗教に近いと私はとらえております。
なぜわざわざ最初にこういうことを申したかというと、 こうした布教態勢の違いは、 今の日本の社会の変化、 都市化とか情報化とか、 さまざまな問題に絡まって、 それに一体どういうふうに対応していくかというときの基本的な違いにかかわってくるわけです。 そこで、 あらかじめこういう特徴づけをしたわけです。
やや誇張した特徴づけでありますが、 これを出発点にしながら、 一応、 仏教宗派というふうに想定しておりますが、 以下、 既成宗教と新宗教との違いをお話しします。 これもかなり強引に宗教社会学的に特徴づけをしている面もあるかと思いますが、 その強引な特徴づけから問題を探り当てていただきたいということです。 したがって、 うちの宗派は実は違うというようなことは、 細部においてはあるかと思いますが、 大きな枠組みとして聞いていただきたいと思います。
二、 新宗教と既成宗派はどこが違うか
「宗教システム」 論の観点から ここに 「宗教システム」 という見なれない表現を出しました。 通常日本の宗教史を議論するときは、 各宗派とか教団を単位にしますが、 私はそれとは違う分析の仕方をしようというアイデアを持っていて、 二、 三年前から宗教システムという表現を使いつつあるわけです。
一口に新宗教と言いましても、 皆さんご存じのとおり、 いろんな新宗教があります。 我々が学術的に新宗教と言う場合には、 一番古いので黒住教、 金光教、 天理教を含めます。 新しいほうではオウム真理教、 幸福の科学、 パワフルコスモメイトという運動が出ております。 人によっては、 後者を新宗教とも呼んでおりますが、 広い枠ではこれらを近代にあらわれた新しい宗教運動ということで、 新宗教というふうに一くくりにするのが、 大体の宗教社会学者の立場であります。
信者数の一番多いのが創価学会、 次いで立正佼成会、 三番目が霊友会と、 仏教系が上位を占めております。 そうした仏教系の新宗教があり、 あるいは街角で若者を呼びとめては手かざしなどを試みております真光系の教団もあります。 あれは元をたどりますと広い意味での大本教にかかわる教団です。 そうしたさまざまな新宗教があって、 仏教系、 神道系、 あるいは神仏混淆、 さらにはキリスト教の要素まで持ち込んでいる新宗教もあります。 ですから、 一つ一つの教団にはそれぞれ特色があり、 これを一くくりに言うのはどうかという議論はもちろんあるわけです。 みんな個性がありますが、 大きく見ますと、 こういう運動は共通点が幾つかあります。 その共通点は江戸時代からあったいろんな仏教宗派と比べると、 やはり基本的なところで幾つか違う。 そういう違いを持っているものをまとめて、 一つの宗教システムとして見ていこうというのが、 宗教システム論の考えであります。 教団単位ではなくて、 似たような性格を持つ宗教群として一まとめにして考えてみよう。 その特徴をいろいろ考えることで、 日本の社会の変化との関係がどうなっているかという特徴を引っ張り出そうということであります。
「宗教システム」 と言うとやや抽象的なので、 私は@主体、 A回路、 B情報の三つのポイントに分けて、 宗教システムの特徴を考えていこうと思うわけであります。
@の主体というのは、 もちろん人間のことですが、 社会におけるどういう階層の人、 あるいはどういう背景を持った人々がその宗教の担い手になっていくか、 という発想から分析します。 さらに教団の側として宗教を担う場合と、 信者の側として担う場合の大きく二つがあります。 そういう人間のあり方を問題にするのが主体であります。
Aの回路というのは、 組織論が大体これに含まれますが、 その宗教が一体どんな組織の流れをつくっていくかということです。
Bの情報ですが、 情報というと非常に近代的な響きになりますが、 実は皆さんが日々、 信者さんにおっしゃっていることが情報です。 皆さんが檀家の方々に宗門の話をなさるということは、 ずっと伝えてきた情報を、 また説きあかして伝えているということであって、 宗教の一番基本は情報にあると思います。 また、 言葉だけではなくて、 儀礼、 儀式も私は情報だと思っております。 文字化されない情報です。 これは口伝によったり、 儀礼を執行して、 このように行うんだということを示して代々伝えていく。 何も伝えなかったら、 いかにすばらしい儀礼があっても、 そこで終わってしまう。 ということは、 その本質は情報であるということなのです。 情報というものは、 伝えないと、 そこで終わってしまうという性格を持っております。
主体、 回路、 情報の三つに分けて、 その三点においてそれぞれどんな特徴を持っているか、 その特徴の違いが宗教システムの違いであると、 私は考えている次第です。
そこで、 既成宗教と新宗教を、 先ほど申しましたように、 やや誇張しつつ、 その特徴づけを行っていくとどうなるかということを、 以下、 述べたいと思います。
主体、 つまり人間ということですが、 ここでは共通点ももちろんありますが、 一番大きな違いは何かというと、 既成の仏教宗派の場合には、 僧侶と檀家 (信者、 檀信徒)、 出家と在家とがかなり明確に区分されております。 ですから、 お寺を継ぐ側とお寺を支える側は、 基本的に分かれています。
それに対して新宗教の側は、 古い新宗教と新しい新宗教とではちょっと違いが出てきていますが、 一般的なタイプとしては教祖は別格としても、 教師と信者はそれほど明確な区分がないという場合が多いわけです。 つまり、 だれもが教師になり得る。 最近、 霊友会なども、 法座的な集まりで、 法座の中心になる人を固定化しないで、 その都度だれかが中心になるやり方を取り入れつつあるそうです。 創価学会の初期の座談会もこれに近かったわけです。 何かの集まりで一方が一方に教えを垂れるというか、 そこで情報を流すという場合、 坊さんの側から在家の側へというのが仏教宗派としますと、 新宗教の場合には、 もちろん基本的には教師が信者にという形ですが、 信者と教師の境目がかなり緩やかであります。 場合によっては、 そういうものを設けない。 また教師があちこちに転々とするようなシステムもあります。 PL教団がそうですが、 一人の教師が一つの教会に長くいないようにしている。 長くいると淀むということのようですが、 数年で移っていきます。 ちょうど公立学校の先生がどんどん転勤するような感じです。 そういう意味でも、 あまり固定的な関係ではありません。 さらに、 ある場合には信者が教える側に立つこともある。 かつて創価学会では、 教学試験に合格すると八百屋のおばさんでも教授になれるということを言っておりました。 そのように、 総体的に流動的であるということが言えると思います。
Aの回路ですが、 仏教の場合は江戸時代の本山末寺制度の基本的な体系を今も継承しています。 こうした本山末寺というものは歴史がありますので、 かなりきっちりしたものであります。 新宗教は本山末寺という言う方をするところはほとんどありません。 本部教会・支部教会、 あるいは天理教のように分教会、 布教所という言い方で、 中心と支部という関係ができているわけです。
中心があって、 周りにいろんな支部があるという意味では、 本山末寺制度に似ているかに見えますが、 そこには非常に大きな違いがあります。 それは何かというと、 支部における細胞分裂が絶えず可能性としてあるということです。 つまり、 仏教で言えば末寺的なものが信者を獲得してどんどん大きくなっていくと、 そこにまた新しく支部の支部ができる。 支部の支部がさらに大きくなっていくと、 また分かれる。 一種の実力主義と言いますか競争と言いますか、 そういうものがあるわけです。
こういうシステムは恐らく金光教とか天理教のころからできているわけであって、 たまたま細胞分裂という言い方をしましたが、 まさに生物の細胞分裂と同じであって、 ふえるときはアッと言う間にふえます。 二、 三年前幸福の科学が東京ドームで人を集めて、 五百万人とか一千万人達成などと言っていました。 私は、 実際は恐らく二、 三十万人だろうと思っていますが、 それにしても短期間に急速に信者さんをふやしていったわけであります。
皆さんは、 信者というのはそんなに急にふえるものかなと思うかもしれませんが、 いろんな事例を調べてみますと、 それは可能なんです。 例えば天理教は、 戦前は今よりも多かったんです。 明治時代末から大正時代の新聞などでは五百万信者と書いています。 今は公称信者数でも百万人台ですから、 昔に比べると小さくなっています。 戦前、 実際に五百万人あるいは三百万人の信者がいたかどうかは別として、 現在より多かったのは間違いありません。 今でも全国に一万五千ぐらいの分教会があります。 それだけあるということは、 かつて大変な力の盛り上がりがあったことを物語っていると思います。
天理教は一八三八年 (天保九年) に中山みきの神がかり体験があって、 一八五○年代ぐらいから組織ができ始めたわけです。 信者がだんだんふえて、 いつの間にかそういう数になったのかというと、 そうではないんです。 中山みきが一八八七年 (明治二十年) に死にますが、 そのときには公称で三万人ぐらいと言われています。 ところが、 死後十年間に公称三百万人と言われるようになった。 それは布教態勢の問題とか、 いろんな事情があって簡単には言えませんが、 大きくなるときというのは、 短期間に大きくなります。 十年間で一けた、 二けた違っていくという例はよくあります。
かつて創価学会の池田会長が、 皆さん一人ひとりが新しく一人を折伏すれば、 創価学会はきょうの三十万人が、 あすにも六十万人になるという演説をしていますし、 戸田城聖も似たようなことを言っております。 そのころは日の出の勢いでしたから、 自信があって言ったのでしょう。 しかし、 そういうことは少なくとも一時期に限れば算術的には間違いではないわけです。
問題は、 そういうふうに信者がどんどんふえていったときに、 組織の側でそれに対応できるかどうかということです。 この間、 真言宗のあるお坊さんと話をしておりましたら、 本当かウソかわかりませんが、 都市のお坊さんは檀家がふえるのは困ると言う。 檀家がふえるとお葬式がやたら多くなる。 今でも毎日のように行かなくちゃいけないし、 これ以上檀家がふえると、 境内にも墓地のスペースがないし、 本音ではふえてほしくないんだということをおっしゃったわけです。 それは冗談半分としても、 もし本音の部分があるとすると、 既成宗教としては信者がふえることに対しての対応の回路ができていないということです。
ところが、 新宗教の場合は、 先ほど言いましたように、 細胞分裂型の組織になっていますから、 ある地域で信者が
ふえたら、 すぐその細胞を二つ、 三つと分けて、 それぞれが独立した活動単位になっていく。 これは、 墓地を持たない強みと言ってしまえば、 それまでかもしれませんが、 それだけではない問題もあると思います。 つまり、 都市化して人口の流動が激しくなる、 そういう近代的な社会に適応した組織だと思います。 ある程度時間が経過しますと、 いつまでも細胞分裂を続けるわけにはいかなくなってくるので、 だんだん既成宗教化していくわけですが、 全体としての新宗教の特徴は、 中心部における細胞分裂によって大きくなっていくというところにあるわけです。
Bの情報ですが、 仏教系と神道系で若干違いますが、 それでも既成宗教の場合、 「教典に依拠し、 歴史的教義を重んじる」 というような特徴づけができると思います。 既成仏教宗派の場合には、 「宗祖に帰れ」 とか 「釈尊に帰れ」 とか、 「原始仏教に帰れ」 とか、 言い方はいろいろあるかと思いますが、 その宗教あるいは宗門の原点は非常に重視されますから、 歴史的な教義、 その時代に書かれた文言を非常に大切にします。 お上人様はこういうふうにおっしゃったという形で、 出発点に戻ろうとするというところがあります。
新宗教も基本的には同じ構造ですが、 教祖が近代に生まれた人ですから、 近代の言葉で語るわけです。 近代の言葉で語って、 今、 生きている社会への適応を重んじた教え、 情報内容になるわけです。 後でも触れますが、 新宗教といえども全く独自のことを言っているわけではありません。 仏教系の新宗教であれば、 ほとんどが仏典に引かれた教えに依拠しているわけで、 ただ、 しゃべり方が今の時代の普通の人にわかりやすい言葉、 わかりやすい例でしゃべっているというところが特徴だろうと思います。
儀礼にしてもそうです。 例えば、 仏教系でも密教系と言われる立川の真如苑の教主誕生会とか、 幾つかの儀礼を見たことがあります。 現代風の装いはまさに新宗教の特徴ぴったりですが、 密教の儀礼を見た人に言わせると、 基本は密教の法会の儀礼にのっとっていると言います。 しかしながら、 出てくる人はお坊さんの格好はしていない。 若い青年男女が出てきて、 西洋音楽が流れたり、 表現形態は現代のテクノロジーも駆使して、 ときにはレーザー光線を使ったりして現代的な雰囲気を醸し出しております。
これは真如苑に限らず、 ほとんどの教団がそういうことなんです。 最初、 見ると、 新宗教というのは実に現代的なイベントを好んでいるように見えますが、 一皮はぎますとアイデアは伝統的なものにしっかり依存している。 よって立つところは古いけれども、 使う手段は新しいわけです。
つまり、 情報の特徴で言いますと、 情報の本質はそんなに変わらないが、 コミュニケーションの手段、 相手に伝えるときの手段が古いか新しいかという違いがあると思います。 単に古い、 新しいだけではなくて、 かなり学問を積んだ人でないとわからないような言い方か、 あまり勉強をしていなくても聞いてすぐわかるような表現にしてくれるかどうかという違いもあるわけです。
もちろんお坊さんの中でも、 説法が非常に上手で、 わかりやすい話で、 人気のある方がいらっしゃると思いますが、 宗門が全体的にそうかというと、 そうではないと思います。 そういう中でユニークなお坊さんが出るから注目されるのであって、 教団として見るならば新宗教との違いというのは指摘できるかと思います。
三、 両者の交わるところ 主体、 回路、 情報の三つの点で、 やや強調しながら新宗教と既成宗教の違いを述べてきましたが、 この両者は実は非常に深い関係があって、 私などは調べれば調べるほど、 両者はどこで切ったらいいのか難しくなる。 根っこのところではいろいろ交錯しております。 新宗教とは言うものの、 例えば既成宗教の再生運動、 リバイバルみたいなものとどう違うのかということになると、 ちょっと首をひねる場合も少なくないわけです。
そこで、 どんなふうに両者が関係しているか、 既に申し上げてきたわけですが、 もう一回ここに四点ほどにまとめてみました。
まず第一は 「新宗教は既成宗教に依存する」 ということです。 新宗教というのは教祖が何か独特な宗教体験をして、 全く新しいことを言い始めて、 それで新しい宗教ができたというのが一般的な考え方のようです。 確かに教祖が新しい教団をつくったことは間違いないことです。 それゆえ新宗教と呼ばれるわけです。 しかしながら、 教祖がしゃべっていることをよく聞きますと、 独特の体験というものはあっても、 それはごく一部です。 大半は先ほど言ったように、 伝統的に日本人の心にしみ込んでいるものを、 いかにやさしく、 みんなにわかるように言うかという、 一種の翻訳者みたいな仕事を教祖はしているわけです。
そういう意味では、 既成宗教あっての新宗教である。 幾ら宗教的に独創性の高い人であっても、 それまでの宗教的伝統の影響なくして、 宗教的な教えを説くというのは無理なんです。 皆さんはよくご存じと思いますが、 イエス・キリストだって、 キリスト教ではもちろん神の子として多くの人が信じているわけですけれども、 イエス・キリストが言ったことはほとんどユダヤ教の中では常識のことばかりだとされているわけです。 イエスはユダヤ人ですから、 それは当たり前かもしれませんが、 今日、 旧約聖書と呼ばれているユダヤ人の聖典の中に書かれていることを、 彼なりに独自の視点から人々に語ったというのがイエスの教えであります。 新しい宗教の創始者がやることは、 大体そういうところで共通しているのかなと思うことがあります。 決して特異な体験をして、 わけのわからない神の言葉で動かされているというのではありません。 もちろん独自の体験はあります。 でも、 それは本当にそのように感じられた一瞬があったにしても、 いつも、 どこからか神様なり仏様の声が聞こえて行動しているわけではない。 普通の人として生きている。 そのときに言うことは、 その人がそれまでにどこかで身につけてきた考えなわけです。 したがって、 新宗教は教えの面でも、 また儀礼の面でも、 既成宗教にはっきりと依存しております。
神道系ですと仏教の話は直接関係ありませんが、 神道系の新宗教の場合、 儀礼の仕方についてはしばしば国学院大学などに来て神道科の儀礼を学びます。 国学院大学文学部には神道学科があります。 神職の免許が取れる大学が全国に二つあって、 国学院大学と皇学館大学です。 そのうちの一つですから、 いっぱい来ます。 ところが、 そこには神職だけではなくて、 天理教とか金光教、 黒住教、 あるいはかつて教派神道と呼ばれたいろんな人、 さらには横浜にある大山

命神示教会の人とかが来ます。 神道系の新宗教が儀礼をやろうとしたら、 やっぱり神社神道がモデルになるわけです。 それ以外に求めようとしても、 なかなか無理です。 神の前にいろんな神饌を供えるとき、 神社はどうやっているかということをモデルにして、 多少それをアレンジしながら行うというのが一般的な形態であります。 そういうふうに、 神道系の新宗教の場合でも、 情報の面あるいは儀礼の面で既成宗教があって初めて存在するということです。
しかしながら、 二番目に 「新宗教は既成宗教に対抗する」 ことも指摘できます。 これはすべての新宗教がそうなるわけではありません。 新宗教がなぜ出てきたかという背景を探っていきますと、 既成宗教の方々には厳しい言い方になるかもしれませんが、 私は、 本来、 既成宗教が果たすべき宗教的機能が、 近代においては十分でなかった、 それゆえに新宗教が必要とされたと考えております。
江戸時代の仏教のあり方をいろいろ言っても仕方がないわけですが、 確かに檀家組織を通じて経済的な基盤は保障されていたわけですが、 人々に教えを説いていく、 あるいは実際に人々が悩み苦しんだときに、 それにどう対処していくかという面においては、 江戸時代の仏教宗派のあり方は非常に機能が低下したということが言えると思います。 近代においてはその反省も一部あったかと思いますが、 歴史ある宗教は、 変化が必要だと思っても、 組織的に臨機応変にという態勢をとりにくいので、 必要だ、 必要だと思いながらなかなか動きがとれないでいる間に、 新宗教という形で新しい運動が次々に出てきて、 信者のニーズにこたえたということだと思います。 その意味では、 教義を説くとしたら既成仏教があったけれども、 その教義を聞く場が既成宗派から新宗教に移っていった面があるわけです。 信者が、 より信頼を置く面においては、 新宗教は確かに既成宗教のライバルになってきたということであります。
三番目の 「新宗教は既成宗教を補完する」 というのは、 二の 「新宗教は既成宗教に対抗する」 ということを違った角度から言ってもいるわけです。 新宗教がふえると、 既成宗教はどんどん勢力が衰えてくるかというと、 そうではないわけです。 新宗教のせいで既成宗教の勢力が衰えているという現象は、 今の時点では私は極めて少ないと分析しております。
それはなぜかというと、 ひとえに新宗教が葬儀にほとんど着手しなかったからであると思います。 しかし、 これはどうなるかわからないということで、 最後に述べますが、 今までのところ新宗教はあまり既成宗教の葬儀の面には関与しなかった。 これを宗教の 「棲み分け」 と言うわけです。 つまり生きている間に現世利益的な面とかカウンセリング的な面でニーズが起こったときには新宗教のほうに行っても、 いよいよ死ぬんだとか、 あるいは死んでからの法要ということになると、 やはり既成宗教に足を運ぶという形で、 だんだん役割が落ちついてきた。 そういう意味で、 全体として見るならば、 宗教が果すべき社会的な機能が分担されているのではないかという考えです。 そういう考えを、 「新宗教は既成宗教を補完する」 と表現したわけです。
最後に 「新宗教は既成宗教を補強する」 ということについて触れます。 新宗教はどうも既成宗教にとっては目の上のタンコブで、 攻撃されてばかりいると思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが、 それは多分に創価学会が折伏を激しくやって、 他宗教攻撃を行った。 その創価学会が新宗教の中では一番大きな組織であるということが関連していると思います。 それ以外の新宗教を調べていきますと、 既成宗教に対する信仰を支持する教団の方が圧倒的に多くなります。 お寺参り、 あるいは神社参拝はやったほうがいいですよと。 例えば神道系であれば、 神社の境内の掃除とか、 伊勢神宮への奉仕とかを言っている新宗教は数多くあります。 神道系の新宗教のそういう動きによって支えられているような神社もあります。
信者の数で言えば創価学会が一番多いので、 既成宗教に対抗するという面が前面に出ているわけですが、 小さな教団まで含めて全体の傾向を見るならば、 むしろ既成宗教に対抗するというよりも、 既成宗教のあり方を支持する、 あるいは補強するという活動をしたり、 教えを説いているほうが多いと言えます。
以上が、 いわば現状分析であります。 次の四番目が、 実は皆さんがこれからどうすべきかという議論に一番かかわってくる教団論、 その中での布教論になってくるかと思います。
四、 これからの布教はどうなるか 今まで申しましたのは、 近代に生じた新宗教と既成宗教の大きな特徴づけであります。 ところが現代社会になって、 特に一九七○年代後半から八○年代に入って、 我が国では情報化が大変に進行しました。 それに伴って、 若い世代の意識がどんどん変わってきております。 一時期 「新人類」 という言葉がありましたが、 その新人類さえもが理解できないという 「超新人類」 が出ておりまして、 この世代間の意識のギャプはどうなるんだろうと、 私自身もちょっと予測がつきかねているところです。
今の段階では、 既成宗教の方は、 変化が大変大きなものであるということにあまり感づいておられないような気がします。 しかし、 さすがに若者を多く扱っている新宗教は、 どうも違う若者が出てきている、 人々の意識が違ってきているということで危機意識が出てきています。 つまり、 近代に適応した新宗教ですら戸惑うような問題が、 ここ十年ちょっとの間にどんどん起こりつつある。 恐らくそれは二十一世紀になるとはっきりとあらわれてきて、 宗教界は大変な事態を迎えるだろうと、 私はひそかに考えています。
そういう変化が、 どうして起こっているのかを、 以下、 三つの点に分けてお話ししたいと思います。
新しい意識はなぜ生まれるかということですが、 第一にはメディアの変化があります。 新しい世代というのは新しい感覚を持っていて当たり前のことなんです。 「近ごろの若い者は」 という言い方は、 どの時代にもなされてきたと思います。 そういう意味での新しさというのは、 いつの世もあるわけですが、 日本の最近の変化は、 社会の構造自体も変化しておりますので、 布教ということを考える上では、 これはゆゆしき事態で、 これから大変だろうなと思うわけです。
それは何かというと、 人間の価値観が形成される手順が、 このところすっかり変わってしまったということです。 ちょっと前までの日本社会で考えますと、 人間が成長する場合、 幼児期にあっては家庭教育がありますし、 学校に行くようになると、 学校で先生が教育してくれる。 同時に地域共同体がそれを補完してくれる。 会社に入れば入ったで、 会社のおきてを学んでいくということで、 小さいときから成長するまで、 どんな価値観を身につけるかについて、 おおよそのルートがあって、 それは家族、 地域共同体が大体どこの地域でも似たようなモラル、 常識を持っていましたから、 結果的には同じようなものを育てていたわけです。
ところが、 情報化がどんどん押し寄せてきて、 今や家庭での教育は非常に困難になってきています。 家族のみんなが忙しくて顔を合わさない、 ホテルみたいに家には泊りに帰ってくるだけ、 お互いにコミュニケーションがない。 それを 「ホテル家族」 と言います。 もっと大きな問題は、 親以上に子供たちがさまざまなところから情報を入手できるようになっているということです。 親の言うことよりもテレビの画面が語りかけるだれかの言葉のほうが説得力があるわけです。 そういう状況が小さいときから身の回りにある。 学校に行っても、 今や学校の先生というのは倫理的なしつけもほとんどできない。 新人類が先生になったわけですから、 もう違う時代になったと言えばそれまでですが、 だんだん学校が知識供与の場だけになって、 社会の常識を伝える場ではなくなってきています。
そのほか、 社会ではいろいろメディア変化が起こってまいりまして、 ようするに 「長老」 が威張れなくなってきているわけです。 以前ですと、 経験とか勘を積んだ人の言葉が重かったわけです。 ところが、 今はメディア自体がどんどん変化しておりますから、 例えば、 コンピューター一つとっても、 お年を召した方はなかなか使いこなせないわけです。 テキスト・ファイルだ、 MS―DOSだ、 ウィンドウズだ、 何だかんだという言葉が並ぶとわからない。 ヘェーと聞いているだけです。 それは経験だとか勘だとかではできないわけです。 そういう逆転関係が起こってきているわけです。 つまり、 社会全体が非常に変化している場合には、 若い人ほど柔軟に対処できます。 より上の世代は急激な変化にはどうもついていけない。 それが技術の面だけならばまだいいのですが、 モラルとか人間関係にも関係しておりますから、 昔はこうだったとか、 社会はこういうものだよというような言い方が通じなくなるわけです。
こういうような一般的な変化というものは、 宗教の面にも及んでまいりまして、 例えば先祖供養一つとりましても、 恐らくこれはいつか日本人の常識とは言えなくなるときがくるかもしれません。 どういう曲線になるかわからないのですが、 NHKの世論調査を見ますと、 仏教は二十代にはえらく人気がない。 信じる人は一割ぐらいです。 でも年齢とともに信仰する割合がふえて、 五十代あたりで無信仰者の数と逆転して、 無信仰者と信仰者のカーブが交差していきます。 ですから、 若いころは関心がなくても、 やがてそうなるよという楽観的見通しが一方にあります。 しかしながら、 他方には、 確かに上がることは上がるだろう、 しかし、 今までみたいに急速には上がらないかもしれない。 緩やかに上がるだけで、 ひょっとしたら無信仰の数と逆転しないかもしれないという予測もあるわけです。
仏壇とか神棚に手を合わせる行為も、 年齢が上がるにつれてふえていくわけです。 ですから、 今の若い人も年をとるにつれてふえていくだろうという予測がありますが、 これも信仰の場合と同じで、 その曲線が今までと同じように、 三十代、 四十代を過ぎたところからふえていくかどうか、 疑問符がつきます。 十年後ぐらいに回答が見えてくると思います。
創価学会は、 最近、 日蓮正宗との問題で友人葬を言い始めております。 葬式自体にも、 そのような意識の変化があらわれていることは、 日本人の宗教的な常識が次第次第に変わってきている。 若い人は恐らくかなり違うと思います。 それがもし伝統的なやり方で再教育されなかったとすれば、 二十一世紀には日本人の宗教的常識は今までとはかなり違ったものになっていく可能性があると思います。 自然葬とか、 散骨とか、 お墓は要らないという人の割合は確実にふえています。 それは短期間に一けたふえるというふえ方ではありませんから、 まだそれほど注目されておりませんが、 ふえる傾向にあるというのは間違いのないことです。
なぜそういうことが起こるのか、 それが次の 「家族・家の変化」 です。 これには女性の意識の変化というものも大変大きいかと思います。 最近では夫の墓に一緒に入るのは嫌だという女性も多いと聞いております。 結婚したら、 夫の家の墓に入るという考えが変わってきて、 実家の墓に入る。 アジアにはそういうタイプの埋葬法がありますから、 別にとっぴな主張ではありません。 その意味ではむしろ伝統的な考えの一つではあります。
ところが、 よく聞くと、 そこに一種の個人主義の芽生えがあるわけです。 私は私だ、 ほかの家に所属するものではないという 「個」 の意識の強まりというのは、 今までの家族とか家によって支えられていた日本の仏教宗派にとっては大きな問題だと思います。 人間が最終的にどこにつながりを求めるか。 これは宗教にとって大変な問題だと思います。 最期は家族にみとってもらいたいとか、 何かあってもやっぱり家族だという意識が、 ご先祖様につながる。 そういうことが恐らく伝統的な思考とされていたものであろうし、 日本仏教を支えてきたものだと思います。
ところが、 必ずしも家族でなくてもいい、 むしろ親しい友達のほうがいいという新しい意識が生まれ、 そこには 「個」、 自分の選択、 自分が選んだ人、 自分がつくり上げた人間関係を重視しようとする意識が、 少しずつですがふえていく。 これは今の宗教のあり方、 教団のあり方に対してボディーブロー的な効果をもたらすだろうと思います。
最後に、 「新宗教の既成化」 です。 これは既成宗教化とはちょっと違いますが、 新宗教がいくつかの面で既成宗教と似たような存在形態になってくると考えていただければよいと思います。
新宗教と既成宗教との違いは、 いろいろあると申しましたが、 既成化すると、 新宗教自体が、 既成宗教が今までやっていたことをやり始めます。 そうすると、 これから新宗教と既成宗教の関係が余計複雑になっていくのではないかと思っております。 端的に言えば、 既成仏教宗派が問題意識を持って布教をする場合と、 一部の古いタイプの新宗教の布教とがほとんど同じになっていくのではないかということです。
新宗教の既成化の中で、 恐らく皆さんが一番関心を持っておられるのは、 やはり葬儀の問題だと思います。 先ほど申しましたように、 新宗教の大半はまだ葬式には着手しておりませんし墓地も持っておりません。 しかし、 中には教団で独自の葬法を考えているところもありますし、 墓地を持っているところがあります。 たとえば、 仏教系ではありませんが、 青森県に松緑神道大和山というのがあります。 小さな教団ですが、 信者さんが亡くなると、 骨を教団の墓地というか納骨堂に一緒に納めます。 どれがだれの骨だかわからなくなる。 生前も共同体であり、 死後も共同体であるという考え方です。 あるいは九州に善隣教という教団があります。 納骨堂形式の墓地を持っておりますが、 従来の墓地のイメージとは全く変わっていて、 納骨堂はきれいに装飾が施されていて、 建物の中では、 妙なる音楽が流れています。 教祖が納骨されている近くに信者さんも納骨される。 これもやはり死後の共同体ということを、 象徴的に表現しているわけです。
このように、 確かに新しい形態の葬儀、 納骨を始めているところがあります。 全体が葬儀に深くかかわるということはないと思いますが、 大手の創価学会が、 今後、 友人葬とか墓地をどうするか。 そのことがほかの新宗教にどんな心理的影響を与えるかということは、 私も大変関心を持っております。 今までの家代々の墓地のあり方がどう変わるかです。 仮に、 生前も仲間であった者が死後も仲間でという形で墓地をつくるということになりますと、 これはひょっとしたら新しい一つのモデルになるかもしれません。
そのほか新宗教はいろんな面で既成宗教化しておりまして、 代々天理教であるとか、 代々金光教であるというように、 家の宗教、 つまり檀家制度に似たような側面が既に生じております。 創価学会のメンバーも今は二世信者がかなりふえております。 生まれたときから両親とも創価学会だったから、 創価学会であるのが当然だと思って育ったという人がふえているわけです。 そういうふうになると、 信者の意識も変わってきますし、 教団のあり方も変わってくるわけですし、 既成仏教の機能との重なり合いは大きくなるので、 既成仏教宗派との関係はいっそう複雑になるであろうと考えています。
※本稿は平成六年三月十五日、 新宿区常圓寺会館にて開催された第六回教団論研究懇談会にて講演されたものを筆録したものです。