日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第29号:27頁〜 |
教化学研究 |
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スピリチュアリズムに触れて思うこと西嶋宏明
近藤千雄先生のお話を伺ったり、 ご著書も読ませていただきましたが、 びっくりしたり、 愕然としたり、 最後に感じたことは、 一番霊魂の扱いに近い立場にある私が、 その扱いが粗略であったのではなかろうか、 儀礼的に走り過ぎていたのではなかろうかということを感じ、 大変反省をさせられた次第でございます。
先程の先生のお話の中では、 霊体の知性というものがあるそうで、 その図を見ましたが、 立派な形をしておりますが、 私の霊体は恐らくガタガタになっているのではないか、 また、 本体もずいぶんいびつではないかと思います。
至りませんので、 ただいまからのパネルディスカッションの問題提起になるかどうかわかりませんし、 既に皆さんがご承知のことを反復的に申し上げるやもしれませんが、 しばらくお聞きをいただきたいと思います。 パネラーの先生方、 どうぞよろしくお願いいたします。
私は呉に住んでおります。 呉は創価学会員の多いところでございます。 選挙でも上位で当選しますが、 近年、 少し様子が変わりまして、 私どもの寺に、 葬式だけをしてくれと言ってまいります。 ところが、 この間、 私の町内のはずれに創価学会の支部長の家があり、 そこでお年寄りが亡くなり葬儀がございました。 看板に 「友人葬」 と書いてあります。 お題目一辺倒で四、 五十分、 しかもマイクを使ってやります。 私のところは高台にございますから、 全部聞こえてきます。 驚きました。 友人葬と言って、 坊さんは要らんという雰囲気でございます。
さて、 昨今、 僧侶無用論と申しますか、 戒名も要らない、 葬儀も要らない。 先般 『ノーサイド』 という本を読みましたが、 お骨も散骨で済ませてしまう。 それでいいのではないかということが出ております。 その逆に、 私のほうのお檀家で、 私と同じ年配の方が、 ことしは戦死者の五十回忌で靖国神社へ行く。 あそこには父親の御霊がある。 どうしても参加するんだと、 そういう見方の方もいらっしゃる。 さまざまですが、 今日、 テレビなどマスメディアを拝見しておりまして、 どうも霊魂に対する軽視と申しますか、 不敬と申しますか、 その最も原因となるのが、 人間は死んだらおしまいだという考え方が流れております。 特に若い者は、 目に見えないものは信ずることができない、 認めることができないという意見です。
これについて、 近藤先生のご著書で、 「心霊現象を研究する目的と意義についてエドワーズが述べていることを“まえがき”から引用しておく」 として述べられている部分を抜粋したものを読まさせていただきます。
「“死後の存続”の事実を疑問の余地のないまでに証明することは、 人類にとって計り知れない価値を有する。 この地上生活がさらに一段上の明るい生活への準備段階プレリュードであり、 そこには本質的に今と変わらない個人としての生活があり、 したがってこの世での行ないがその位置づけをすることになるとの認識が得られれば、 おのずとこれまでの生活規範に改革を迫られることになろう」 (『人生は霊的巡礼の旅』近藤千雄著 ハート出版 八九頁)
いわゆる因果律、 懺悔滅罪という意味合いのものではなかろうかと思います。 さらに、
「本当の平和、 真の四海同胞は、 人生の意義と目的とを説く確固たる知識に基盤を置く、 強力な霊的勢力をバックにしたものでなくてはならない。 (中略) 一般の人々が死後存続の意義の重大性に目覚めれば、 人類の文明はますます霊的価値を伴ったものとなり、 社会的規範も、 経済的観念も、 国家的慣習も、 さらには国際的通念も大々的に再構築を迫られ、 人間的努力は詮ずるところ、 人類全体としての平和的で協調的な霊的進化のために為されるべきであるとの理解に立って、 生活を発展させていくことになるに相違ない。 言いかえれば、 究極の目的は、 世の中全体をスピリチュアライズ (霊的に浄化) することであらねばならないのである」 (前掲書 同頁)
と、 ご説明になっておられます。
さらに 「心霊現象とは何か」 の章の 「計画性と秩序」 の項で、
「人間本来の霊性に目覚めさせる 英語でいえばスピリチュアライズする ことを目的として、 地球規模の大霊団が組織され、 地球神界からの指令によって人間生活のあらゆる側面 宗教・科学・政治・医学等々 の浄化活動が推進されている、 というふうに認識していただければよい」 (前掲書 一○八頁)
とあります。 これは我々で申します仏性の開顕、 仏種の自覚に近いことではなかろうかと拝察申し上げるわけでございます。
総じて、 今日、 我々宗門はお題目総弘通運動を推進いたしまして、 信行会と銘打ちまして、 未信徒を中心にした教化を展開しております。 しかし、 実際はなかなかそうもいっていないのでございます。 未信徒の教化が今日大変大切なことではございますけれども、 いま一つ本日私が申し上げたいことは、 以前から私が思っていましたことですが、 臨終のときの重要性が、 ここにうたわれてこなければならないのではなかろうか。 特に通夜などは未信徒がたくさん集まってまいります。 そのときに、 日蓮宗としてどのように死生観を教化していくか。 幸いに最近は通夜の席にはスピーカーがついております。 大々的に声が通ります。
先般、 私とほぼ年齢が同じ男性の方がなくなりました。 この方とはよく団参に参りまして、 ほとんどの霊跡を参拝しました。 葬儀に御子息が東京からはせ参じてまいりました。 実に冷静な男で、 「おやじは死んだか」 というような顔をしておりました。 通夜が終わりまして、 棺をあけましたが、 普通の姿をしておりましたので、 「行衣があるはずだから持ってきなさい」 と申しましたら、 奥さんが探して行衣を持ってきました。 私とたくさん団参をいたしましたから判がいっぱい押してあります。 それをご子息がご遺体にかけてあげておりましたが、 右の肩口に、 そのご子息の名前が書いてあり、 その下に 「当」 何とかと書いてあるのを発見します。
「お上人さん、 これは何でしょうか」
私が見ると、 墨の色も薄らいでいましたが、 その右には 「家内安全 身体健全」 と書いてある。 それは私が書いたものです。 その左に何か小さく書いてある。 それは、 ご子息が東京で交通事故に遭って、 片足がほとんどダメになりましたが、 亡くなった方が息子の名前を書き、 その下に 「当病平癒」 と書いてあったわけです。 それを知ったご子息は、 初めて涙を流したのであります。
私はそれを見て、 親子の関係ではありますが、 霊魂もそうでございますが、 そこには大きな慈愛というものによって受けてこたえるものがあるのではなかろうかということを、 通夜の席ではっきり感じた次第でございます。 さらに我々は直接死に携わりまして、 死後の尽七日、 年回、 回向、 供養、 みずからの積功累徳によって、 霊山往詣の安心を与えて、 現安後善のための大きな指針となるべく、 悲しみを悲しみとして乗り越えてもらわなければならない。 懺悔滅罪によってみずからの心に目覚めさせ、 新しい前向きの人生に転ずるチャンスが生まれてくるのも、 やはりこういうときではなかろうかと考えましたときに、 大変重要な問題であり、 近藤先生がおっしゃいましたスピリチュアライズされていっているのではなかろうかと感じるわけでございます。
宗祖は 『生死一大事血脈鈔』 におきまして、 「夫生死一大事血脈者 トハ 、 所謂妙法蓮華經是也。 其故は釈迦多寳二佛寳塔の中にして譲上リ二行菩薩給ニ一、テ 此妙法蓮華經の五字過去遠遠劫より巳来寸時も不離血 ル レ レ脈也。 妙は死、 法は生也。 此生死の二法十カ界當ノ體也。」 (定遺五二二頁) と述べられております。 そういうものを感じてきましたときに、 宗祖の常に持っておられました法華経は、 寿量品による久遠本仏の開顕することによって本眷属でありますところの御弟子も久遠であることを示し、 宗祖の表明されました上行所伝のお題目の三業受持以外、 真の成仏はない、 霊山往詣はないんだということ、 いわゆるこれは三種教相でございますが、 そういうことを確信を持って我々は死に臨んで説いていかなければならないのではなかろうか。 そういうことを近藤先生のご著書を読みながら、 我々僧侶として感じたわけでございます。
『生死一大事血脈鈔』 には、 さらに 「今日蓮が弟子檀那等、 南無妙法蓮華經と唱ん程の者は、 (中略) 過去に法華經の結縁強盛なる故に、 現在に此經を受持す。 未来に佛果を成就せん事不可有疑。 ヒ 過去の生死、 現在の生死、 未来の生死、 三世の生死法ニ華經を不離切法 ルヲ レ レ 華の血脈相承とは云也フ。」 (定遺五二三頁) とあります。 ここをもって四海帰命、 広宣流布の大願をかなえなければならないということになろうかと拝察するわけでございます。
我々は先ほど反省しましたように、 布教師でありながら、 どうも儀式的になり過ぎて、 現世のことだけに目を向け霊魂のことをなおざりにし、 見過ごしていることが多いのではなかろうかということを感じた次第でございます。
近藤先生は、 霊魂には死はなくて、 死はさらなる次の生へのスタートであるということをおっしゃっておられますが、 私どもはお通夜の棺の前で、 「今身より仏身に至るまでよく持ちたてまつる、 南無妙法蓮華経」 と、 はっきりと霊魂に伝えているわけでございます。 霊魂の来世得作仏を願って、 最も霊魂に近いところにある私自身はもっと反省をして、 スピリチュアライズしていくべく精進をしていかなければならないのではなかろうかということを、 先生のお話を通じて感じた次第でございます。
問題提起まではいっておりませんが、 皆さんのご意見がありましたらどんどんお聞かせいただければ、 布教師会としてもありがたいと思っております。 どうぞよろしく。 ご無礼しました。 (拍手)
※本稿は、 平成六年二月一日、 福山市良縁閣にて開催された第二十二回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
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