教化学研究人生は霊的巡礼の旅 スピリチュアリズムの死生観
近藤千雄はじめに 本日は妙長寺のご住職とのご縁で、 こうしてお話をさせていただくことになりまして、 大変光栄に存じております。 私は今までいろんな会合で、 神道系、 仏教系、 キリスト教系、 その他いろんな宗教関係の方がいらっしゃることは承知の上でお話をしてきましたが、 きょうのように一つの宗派の方たちばかりの前でお話しするのは初めてでございます。 私は日蓮宗については、 正直いってよく存じておりません。 ですから、 言葉に失礼なこと、 不行き届きなところがあるかもしれませんけれども、 何とぞご容赦いただきたいと思います。
スピリチュアリズムという言葉そのものには、 あまりこだわっていただかなくてもよいと思います。 といいますのは、 ちょっと話はそれますが、 仏教が六世紀半ばに日本に入ってきましたが、 それまでは日本は今で言う随 神かんながら (神道) が名称なしで、 ごく普通の慣習として日常生活に行きわたっていた。 それが仏教が入ってきて、 仏壇を飾る、 ああする、 こうするという全く異質のものを見て、 一体今まで我々がやってきたのは何なのだということになったのだそうです。 その結果として、 随神、 つまり自然のあるがままにという言い方になって、 それがその後、 神道となったと聞いております。 こういうふうに、 日本の古来の原神道が名称なしに生活に馴染んでいたところへ仏教が入って来て、 やむを得ずそれとの違いを明確にするために随神という名称ができた。 それと同じだと思ってください。
きょうお配りしてあります二つのイラストレーション (図−1・2) を初めてごらんになって、 びっくりなさっている方もおいでかと思いますが、 十九世紀半ばから始まった英米での心霊研究の結果、 こういうものに帰着したわけです。 スピリチュアリズムという言葉は英語で書きますと、 「イズム」 という言葉が出てきますけれども主義主張というものとは全く違います。 ある思想の集団がこういうふうな説を主張しているというのではなくて、 結果的にそうなったということですから、 本当は名称はいらないのです。 とにかく西洋ではキリスト教がものすごい影響力を持っておりますし、 キリスト教による弾圧とか、 いじめとか、 いろいろありまして大変な道のりだったのですが、 ともかくもそういう結論ができて、 一時は非常に下火になったこともありましたが、 その後、 脈々と受け継がれてまいりまして、 私もそれとの縁ができたわけです。 当福山市での間まな部べ詮敦あきあつという、 私の師匠と言うよりも私の人生を完全に方向づけてしまった方、 どうしようもない影響を受けた方との出会いで、 スピリチュアリズムを知ることになりました。
スピリチュアリズムとは何なのか、 お配りしたイラストをどう理解するかにつきましては、 後ほど申し上げることにいたしまして、 まず私が間部詮敦という大変立派な指導者と福山市で出会うまでの経過をお話ししたいと思います。
スピリチュアリズムと出会うまで 私は昭和十年、 台湾で生まれました。 父は当福山市の妙長寺さんと同じ駅家の出身です。 父の父親、 私の祖父はもともと造り酒屋で、 恥ずかしい話ですが、 三道楽をすべてやり尽くしたような大変な道楽者で、 株に手を出して失敗して破産状態になりました。 父は長男で、 当時は小学校の五、 六年生でしたが、 兄弟はみんな学校へも行けずに、 豆腐、 納豆を行商して歩くというつらい目に遭っております。
父は、 こう言っては何ですが、 大変な秀才で、 みんなから嘱目もされていましたし、 向学心が強かったものですから、 これでは自分の人生はむちゃくちゃになると思って、 当時、 我が国の植民地だった台湾へ行こうと決心します。 これには、 ちょっとしたおもしろい話があります。 父は福山の稲荷神社に願をかけて毎日お参りをしますが、 満願の日に 「南へ行け」 というお告げをいただきます。 南といえば九州だが、 九州へ行ってどうということはないはずだ、 もしかしたら台湾かもしれないということで、 台湾へ行くことを決めて、 稲荷神社の神主に相談します。 すると、 三年たてば必ず運が開けるはずだ。 三年頑張ってもダメなら帰ってこいということでした。 そこで、 兄弟を呼び寄せて、 おれはこれから台湾へ行って一旗上げ、 おまえたちを台湾へ呼ぶという約束をして、 親に黙って出ていきます。 下関から船に乗る前に、 十数人の親戚縁者あてに手紙を送ってから台湾へ渡ります。
父は成功し、 台湾総督府のナンバー・ツーの地位になって終戦を迎えます。 母は熊本の人間です。 母の父親は警察畑の人間です。 父は台湾へ渡ってから警察学校へ行き警察官になり、 苦学をして文官試験に通るわけですが、 警察学校の教官をしていたのが、 私の母のお父さんです。
結婚して子供が六人できました。 私は三番目の子で、 妹が一人いて、 あとは男です。 長男に当たる私の兄の死が、 言ってみれば私がこういう人生を歩む起爆剤になりました。 というのは、 兄の死の直前にいろいろな心霊現象が起きているのです。 兄が死んだのは昭和二十年八月十六日です。 ということは、 八月十五日が終戦日ですから、 その翌日です。 台湾も昭和十九年ごろから空襲が激しくなってきました。 当時、 私たちは父の勤務地である台北から少し南西に行った新竹州の警察の官舎に住んでいましたが、 空襲が激しくなったものですから、 父は官舎に残り、 母と子供は田舎に疎開することになりました。 そのときに、 高砂族の酋長の娘で私たちが 「末すえ子」 という名前をつけていた女中が同行しました。 この女中が実は霊的能力を持っていたわけです。
母の不吉な予感 兄が十六日に死ぬ一週間ぐらい前から、 母にいろんな不吉な現象が起きました。 長男を奪われる、 長男が死ぬという意味にしか取れないような現象が起きるわけです。 一番大切にしていたものが盗まれる夢を見て、 目が覚めて非常に不吉な感じがする。 疎開した先の家は山の中腹にあって、 庭には竜眼といってブドウの巨峰をさらに大きくしたような、 果肉の分厚い、 南国独特の甘い果物の木が植わっていました。 その下で洗濯をしていましたら 昔の洗濯は、 たらいに水を張って、 しゃがみ込んで洗濯板でゴシゴシと衣類などを洗ったものですが とても折れるはずのない、 人間の太腿ふとももよりもっと太い竜眼の枝が、 風も吹いていないのにミシッと折れるんです。 折れた部分がささくれ立っている。 母はそれまでに夢を見て、 長男のこれからという若い命が奪われるという不吉な感じがしていましたから、 洗濯中に頭の上の竜眼の枝が折れたことで、 今度は長男は戦争に行って戦死するんだと思ったわけです。 ほかにも幾つかありますが省略します。
当時、 陸軍が学徒動員といいますか、 学生を狩り出してトーチカ (コンクリートで固めた小砲塁) の構築工事をやっていました。 兄は当時十五歳でした。 弁当を持って麓までおりると、 軍のトラックが待っていて、 それにみんな乗り込んでトーチカ構築工事の現場へ行って作業をして夕方帰ってくるという毎日でした。
兄が死ぬ前の晩、 終戦の日です。 七時ごろ夕飯を食べましたが、 夏のことでまだ外は明るいので、 子供たちはみんな遊びに出て、 母は買い物に出かけ、 先ほど申した女中一人がお膳の片づけで家に残っていました。 流しに母と六人の子供それに女中、 都合八人分の食器を持っていった後、 居間で一服していると、 流しで食器を洗う音がする。 家にはだれもいるはずがない。 おかしいなと思って流しを見ますと、 牛若丸がかぶっていたような白いベールをかぶった人物が食器を洗っている。 だれかなと思ったとき、 その人物が洗う手をとめて、 女中に背中を向けて裏口から出ていきました。 後を追っていくと、 ちょうど買い物から帰ってきた母と出会うわけです。
「奥さん、 今、 食器を洗われましたか」
「何を言ってるの。 私は買い物に行っていたのよ。 ホラごらん」
と買い物かごを見せます。
「変なんです。 今、 流しでだれかが食器を洗っていました」
「え? その人どっちへ行ったの」
「裏口から出ていきました」
裏口へ回ってみましたが、 だれも見えない。 流しのところへ行ってみると、 なんと兄の茶碗と箸だけが洗って置いてあったのです。 その瞬間、 母はまた何か不吉な気がしたそうです。
長兄の死 その夜中のことですが、 真夏であるにもかかわらず、 母は左足の太腿のあたりが冷たくて冷たくてしようがない。 氷を当てているように冷たい。 それで目が覚めて、 そばにあった衣類を無造作にたぐり寄せて足に当てがいます。 よく見るとその衣類は兄の学生服だったのです。 申しわけないなと思いながらも、 ねむいものですから、 そのまま寝てしまいます。 実は、 兄は次の日の朝、 母が夜中に冷たさを感じた左太腿に致命傷を負って死ぬのです。
後で母が言うには、 兄は起きたときからいつになく元気がなく、 布団の上でじっと考え込んでいるような格好だったので、 兄は豪ひで雄おという名前ですが、
「豪ひでちゃん、 ぐあいでも悪いの」
と聞くと、 けだるそうに
「いいや」
と答えて、 ゆっくり立ち上がって着がえて朝食をとったというのです。
神道では 「魂魄」 ということを言います。 「魂」 が抜けたら死んでしまいますが、 体力を司っている 「魄」 が抜けると、 兄のような状態になります。 たぶんそのときには既に兄の 「魄」 は抜けていたんでしょうというのが、 神道系の人の話です。
いつものように弁当を持って出かけた兄は、 十歩ほど行って帰ってきて、 「お水ちょうだい」 と言います。 母にすれば別れの水盃のように思って、 嫌な感じがしたそうです。 それが現実になるわけです。
裾野までは歩いて五分ぐらいかかります。 大勢の学生が軍のトラックを待っています。 兄が家を出て何分もしないうちに、 母はどういうわけか兄に弁当を持たせるのを忘れたと思います。 本当は、 弁当をつくって持たせているんです。 急いでおにぎりをつくって兄を追っかけます。 そして着いた時は、 ちょうど軍の大型トラックの荷台に五十人ぐらいの学生が乗って、 その一番最後から兄がトラックに乗ったところでした。
「豪ちゃん弁当」
と言って渡そうとすると、 兄は
「持ってるよ」
と、 見せます。 あ、 そうだったかと思ったけれども母は
「もう一つ持っていきなさい。 二つくらい食べられるでしょう」
と言って差し出します。
「いいよ」
「せっかくだから、 持っていきなさい」
「いいったら」
と押し問答しているうちにトラックは出ていき、 母は弁当を両手で持ったまま、 トラックが見えなくなるまで立っていました。 そして、 何分もしないうちに事故が起きるわけです。
なぜ事故になったかといいますと、 兵隊たちは前の日の十五日に玉音放送を聞いたのですが、 日本が勝ったのか負けたのかはっきりしない。 しかし、 敵機が飛来しなくなった。 やっぱり日本は負けたんだと思う一方で、 いや、 これはもしかしたらアメリカの謀略かもしれないから、 とにかくトーチカ構築工事は続けようということで、 前夜は徹夜でヤケ酒を飲んでいたのです。 一睡もせず、 その上二日酔いの酩酊運転ですから、 乗っていた学生は危ないと思ったそうです。 案の定、 トラックは欄干に激突して、 最後部で後ろむきになって靴のひもを結び直していた兄はいちばん遠くへ飛ばされ、 河原にたたきつけられ、 左腿を骨折し、 皮膚一枚でつながっている状態で、 結局、 出血多量で死ぬわけです。 母にその情報が届いたのが、 十五分か二十分たってからです。
「豪ちゃん、 弁当」 「持ってるよ」 「でも、 せっかくだからこれも」 「いいったら」 と押し問答しているうちにトラックが出て、 母は弁当を持ったままトラックに乗った長男を見送ったばかりのことです。 これが後で大変な意味を持ってきます。
兄の葬儀が終わった後、 父は司令官の立場にあったものですから、 必ずつかまえられるというので、 徹夜で敗戦処理をして、 本土に引き揚げるために家族は着のみ着のままで夜陰に乗じて新竹の港まで出ていきました。 私は小学校五年生でした。 私の一番下の弟は、 今、 福山に在住していますが、 当時は乳のみ子で、 母はその子をおんぶして、 左手で当時三、 四歳だった妹の手を引き、 右手に荷物を持って、 私と、 今、 北海道で酪農をやっている、 すぐ下の弟は両手に荷物を持って、 線路伝いに逃げたのを覚えています。 父と次男の二人は万一を考えて私たちと別行動をとりました。 どうにか港で落ち合って、 船に乗って無事帰ってきました。
後で聞くと、 その翌日、 中国の軍警察が私の父を逮捕に来たそうです。 もし、 父や我々がつかまっていたら、 最近、 中国の帰国子女の問題がありますが、 あの中に私たちも入っていたかもしれない、 人ごとじゃないという思いがします。 幸い私たちは、 ほんの一日の差で無事帰ってくることができました。 そして、 一たん九州の母の親戚の家に落ちつきますが、 一年後に父の里の福山に移り、 きょうのこの会場付近にあった引揚者住宅に入りました。
母は終戦の翌日、 不慮の交通事故で死んだ長男のことが忘れられません。 死んだ長男の魂はどうしているか、 消息が知りたかったので、 霊能者の話を耳にすると訪ねていきました。 しかし、 母は霊感がありましたから、 それらの霊能者が言うのを聞いて、 「これは違う」 と思ったそうです。
稀有な霊覚者との出会い 本土に引き揚げて九年目のことです。 福山の芦田川を越えたところの小林さんという家に、 元子爵で間まな部べ詮敦あきあつという霊能者が逗留していることを聞いて、 母は会いに行きます。 この方は、 人格もご立派でしたが、 霊感が鋭く、 霊視・霊聴能力にすぐれ、 相手の心が読め、 手を当てることによって病気を直す心霊治療もなさいました。 数百年に一人の人物であろうといううわさでした。
間部先生は、 外へ出られるときは洋服でしたが、 家の中では和服で座机に向かって座っていらっしゃる。 母は先生に会った瞬間、 霊感的に 「私の求めていたのはこの方だ」 と思います。 川を泳ぎ切ってやっと向こう岸にたどりついた感じがしたと言います。
そして、 やおら先生にお尋ねしようとしたとき、 間部先生が 「奥さんの脇に若い男が立っていますよ。 両手で何か持っていますね。 ほう、 お弁当だそうです。 お母さんには申しわけないことをしたとおっしゃっています。 何かお心当たりがありますか」 とおっしゃった。 この一言が母には、 間部先生が霊視しているのは、 まさに自分の息子だという最大の証拠になったわけです。 間部先生は、 長男が死ぬ直前の弁当のいきさつを知るわけがない。 母はそのとき、 子供たちが次々と病気になる。 それがみな霊障だということがわかっていたので、 何とか除霊をしてもらおうとして先生を訪れたわけで、 長男のことはもちろん知りたかったでしょうが、 弁当のことなどは全然念頭になかったわけです。 それを先生から弁当のことを言い出された。
長男が事故に遭う直前、 弁当を持っている長男に、 弁当をまだ持たせていないと錯覚した母が、 今にも出発しそうなトラックに乗っている長男を追っかけて、 「弁当よ」 「持ってるよ」 「でも、 せっかくだから、 これも持っていきなさい」 「いいよ」 と押し問答したあげく、 トラックは発車してしまい、 母はぽつねんとして弁当を持って長男を見送っている姿が、 九年たったその時点でも長男には焼きついていたわけです。 それを兄は自分である証拠として見せているわけです。 母は 「あの子はちゃんと生きている。 死後の世界はあるんだ」 と確信して、 その場に泣き崩れます。
その後、 私たち兄弟妹は毎月のように先生に心霊治療をしてもらいました。 私たちは普通では考えられない病気によくなりました。 例えば、 だれかが頭痛になる。 頭がガンガンして寝込むほど痛い。 そのうちパッと治る。 と思ったら、 今度はほかの兄弟が 「頭が痛い」 と言い出す。 それが治ると、 また次の兄弟が 「頭が痛い」 と泣き出す。 あるいはおなかが痛いと転げ回る。 と思うとパッと治る。 すると、 今度は別の者がおなかが痛くなる。 母は、 何かが障さわっているんだと思っていた。
確かにその通りで、 たとえば間部先生は 「二人の弁髪の台湾人が斜め後ろを見ながら去っていくのが見えます。 何かお心当たりはありますか」 とおっしゃる。 実は、 父は司令官でしたから、 父が命令して中国のスパイ二人の首を切っているわけです。 その恨みであったわけです。 その後も、 毎月先生が福山にこられて、 二、 三日あるいは三、 四日逗留されましたが、 その都度、 私たちは母に連れられて治療を受け、 奇妙な病気をしなくなりました。 両親は亡くなりましたが、 五人とも大学を出て、 子供もできて、 元気にやっております。
そういうことがありまして、 私は先生がおっしゃるスピリチュアリズムに関心を持つようになりました。 私が高等学校の二年から三年になる年の冬、 津田江山という霊媒による心霊実験会が当福山市で催されました。 こうした実験会は、 あまり催されないのですが、 私がこの道に進む人間として、 こういうことが用意されていたのかなと思うのです。 その実験会に、 今、 山口大学に勤めている兄と二人で出席しました。 唖然とするような超常現象です。 理屈でどうのこうのではないんです。 とにかく目に見えないだけでなく、 知性をもった存在であって、 我々をからかうのです。 私たちを凌駕した知性で、 死後もちゃんと生きていることを見せる実験会でした。 きょうは生と死がテーマですが、 私にとっては、 そのときを限りに死というものがなくなり、 生のみの哲学になりました。 それまでは生とは何ぞや、 死とは何ぞやと、 死と生を並べて考えていましたが、 その実験会に出てからは、 死がなくなってしまい、 生のみの哲学になりました。
スピリチュアリズムの著作に出会う それからもう一つ、 たまたま、 その家に置いてありました浅野和三郎の翻訳書を読んだのが、 私にとって大きな意味を持つことになります。 私は高校二年生ごろから、 自分でも不思議なくらい英語がよくできるようになってきまして、 スピリチュアリズムの浅野先生の翻訳書にめぐり会ったころは英語がえらくできて、 得意でもあると同時に好きでもありました。 私は浅野先生の翻訳書を、 翻訳とは思わず、 先生自身が書かれた本だとばかり思って読んでいました。 ということは、 それだけ翻訳がうまいということです。 後で翻訳だということに気がついて、 スピリチュアリズムの内容そのものもさることながら、 こんなに見事に訳をなさる先生がいらっしゃるんだということで、 翻訳の魅力を感じました。 浅野先生は抄訳とか部分訳が多いので、 「よし、 大学は英文科に行って、 原書で読もう」 と決心します。 それが結果的には実現したわけです。
当時、 東京・白金三光町にあって、 今は横浜に移っていますが、 明治学院大学の英文科に入りました。 その最初の年の教科の中に 「英書講読」 というのがありまして、 先生はオルダス・ハクスレーという哲学者の原書を選んで読ませました。 その授業でボケっとしていましたら、 「近藤、 訳してみろ」 と指名されました。 指定された個所もわからなかったものですから、 隣の者に聞いて、 ゆっくり立ち上がりながらその個所の英語を急いで黙読して、 日本語訳を答えたわけです。 先生はテキストを持ったまま、 黙って学生の机の間を行ったり来たりして、 最後に、 「君はなかなかできるね」 とおっしゃった。 つまり、 直訳ではなくて、 うまく意味を取っているというわけです。 これが私にとって非常に大きな励みになりました。
その後、 試験のたびに私の右後ろに立って、 私が答案を書いているのを見ている。 気になって振り向くと 「いいから書きたまえ」 とおっしゃる。 書き上げて、 答案を出して出ていこうとすると、 それを手に取って窓際へ椅子を持っていって読まれる。 そんなことが試験のたびに続いた後、 「家に遊びに来るように」 と、 私の友人を通じて連絡がありました。 先生のお宅は横浜でした。 お訪ねして雑談をしていて、 ひょいと先生の蔵書を見ましたら、 スピリチュアリズムの原書がいっぱいあるではありませんか。
「先生はスピリチュアリズムをおやりですか」
「ああ、 僕は信じるよ。 イギリスやアメリカのあれだけの学者が本物だと言っているんだから、 それだけでも僕 は信じるよ」
先生は熱心なクリスチャンでした。 キリスト教はスピリチュアリズムを嫌うのです。 しかし、 先生は 「信仰はキリスト教で、 教会にも行くけれども、 霊の実在に関して、 僕はスピリチュアリズムを絶対信じるよ」 とおっしゃる。 私は先生のお宅を訪問するたびに、 一、 二冊ずつお借りして読んだのが、 私がスピリチュアリズムの原書を読むようになったきっかけです。
その後は、 自分で原書を注文して読むようになり、 それを在学中からどんどん翻訳して、 雑誌に載るようになりました。 卒業後も迷わず翻訳をやりました。 しかし、 なかなか翻訳では食べられなくて、 結局は英語の塾をやるようになりましたが、 スピリチュアリズムとのおつき合いは今もずっと続いております。 ことしで私は五十八歳ですから、 四十年間、 スピリチュアリズムとのおつき合いです。 ここ十年ばかり、 ずいぶんあちらこちらから出版させてくれという依頼があって、 著書はもう五十冊を超えました。
人体の構造と死後の世界 さて、 資料の人体の図をごらんいただきたいと思います (図−1)。 これはRuth Welchの著書から取ったものです。 が、 Ruth Welchが見たのではなく、 霊視家が霊視したものを借用しているわけです。 一人の霊視家だけでなく、 多くの霊視家が人体を霊視した結果、 人体以外にその図にあるような幽体 (Etheric)、 霊体 (Astral)、 本体 (Mental) という三つの層があるという結論に達しております。
図で肉体の周りに白く書いてあるのが幽体です。 言ってみればオーラです。 千変万化と言いますか、 刻一刻その色彩、 つやが変わっているのだそうです。 肉体が食欲、 性欲の媒体であるように、 幽体は感情を司っています。 ですから、 幽体を見れば、 その人が今どんな心境でいるかということがわかります。
幽体の周りに卵を立てたような格好をしているのが霊体で、 知的なもの、 理性的なものを扱う一種の媒体です。 理性が円満に発達した人の場合が、 図のような卵型のきれいな形になるのであって、 みんながみんなこういう形をしているわけではありません。 女性はどちらかというと感情的、 情緒的な面が強いですから、 意外に霊体は発達しておりません。 また、 同じ知的な人でも、 理屈ばかり言う人間と、 善悪是非の判断の加わった理論家とは違うと思います。 最近、 テレビで宜保愛子を相手にして大槻何とかという方が、 やたらに青筋立てて何でもかんでも反対していますが、 ああいうことをしていると、 あの人は身の置き場がなくなるのではないかと思います。
本体というのは、 皆さん方のような宗教的な面に携わっている方に多いそうです。 これも霊体と同じで、 発達している人と貧弱な人とがあり、 色もいろいろあるんだそうで、 霊覚者にしか見られない。 普通の平凡人は九割が幽体までで、 霊体、 本体はほんのわずかしかない。 結局、 霊的なものに目覚めないと本体は発達しないわけです。 この幽体、 霊体、 本体は図で示したようにきちんと層をなして存在するのではなくて、 肉体にも浸透しているわけです。 肉体を中心にして幽体、 霊体、 本体が広がっているということです。 融合しているわけです。
日本でも神道で荒あら御み霊たま、 和にぎ御霊、 幸さき御霊、 奇くし御霊の四つを言います。 やっぱり四つあるということは、 昔の霊感者がちゃんと知っていたわけです。 ただ、 私が神道で欠けているなと思うのは、 死後の世界のことについて、 はっきりしたことを言っていない。 黄泉の国とか、 神の国とか漠然としています。 神道では神話風に語っていますから、 よくわからないのですが、 もう一枚の資料 「死後の界層」 (図−2) のイラストが出て、 私はひざを打って喜んだわけです。 これはコナン・ドイルが死後、 霊媒を通じて送ってきたものです。 地球という物質界のほかに、 幽界、 霊界、 神界の三つがあります。
ドイルは幽界、 霊界、 神界を、 図にあるようにそれぞれ三段階に分けていますが、 私はこれはそんなにこだわることはないと思います。 とにかく大事なのは、 虚相の世界と実相の世界の違いです。 死んで幽界の世界に行ってもまだ虚相の世界です。 地上時代の記憶が中心になって生きているので、 霊界通信によると煙草もあれば酒もあるそうです。 もちろん性欲も忘れずに、 地上の遊びの世界へしょっちゅう出入りしている霊がいっぱいいます。 霊界へ行ってからが実相の世界になります。
神界は形態なき存在の世界です。 人間のように手や足があり、 目、 鼻があるという形態がなくなって、 ただ光り輝く存在となるのが神界です。 この神界までのぼれるかどうかについての判断が行われ、 その結果、 神道風に言いますと、 産土うぶすな神のお許しを得て、 再び地球へ戻ってくることが多いわけです。
ドイルは神界の第三段階で、 「ニルバーナ (涅槃)」 を挙げていますが、 その後に 「超越界」 というのを書いてきています。 人間的理性でははかり知れない世界があるそうです。 そこから先はそこへ行ってみないとわからないわけです。
我々の地球の属している銀河系と似たような別の銀河宇宙があって、 それはほぼ二千億個の太陽の集団から成っているそうです。 我々の太陽系でも水・金・地・火・木・土・天・海・冥という衛星があります。 それと同じで、 二千億個の太陽一つずつに衛星があるわけですから、 その数は膨大なものになり、 この太陽二千億個の集団である銀河の中に我々の地球と同じものが存在する可能性は幾らでも考えられるわけです。
地球に幽界、 霊界、 神界があるのと同じように、 太陽系全体として幽界、 霊界、 神界があります。 さらに、 銀河系全体として幽界、 霊界、 神界がある。
銀河が幾つか集まって局部銀河団をつくって、 それがさらにまた集まって超銀河団をつくっているわけです。 最近の 「読売新聞」 に、 天の川の背後方向に三百個ほどの銀河が集まった巨大銀河集団があることを、 京大理学部グループが発見したと報じております。 別の新聞では、 アメリカのプリンストン大学では最も遠い天体を発見したと報じております。 地球から百二十億光年以上のかなたにあるそうです。 このように、 今は宇宙の果てがわからないんです。 どこまでいくのか。 どこかに壁があるかに思うのは人間的思考から生まれることで、 もし壁があると仮定すると、 ではその壁の向こうは何かということになります。 無限に広がっているのです。
こういうとてつもない距離になりますと、 キロメートルという単位ではどうしようもありません。 天文学では単位として光秒、 光分、 光年という言葉を使います。 光が一秒間あるいは一分間、 一年間で進む距離を言います。 月は地球からちょうど一光秒の距離にあります。 太陽は八光分の距離になります。 つまり、 光の進む速度で八分かかる距離にあるということです。 ということは、 今、 我々が見ている太陽は、 八分前の太陽ということになります。 先ほど申しましたように、 銀河系宇宙には太陽と同じものが二千億個ほどあります。 そのうちの一つで地球に一番近いのは、 ケンタウルス座のアルファ星です。 これは四光年の距離があります。 光は一秒間に地球を七周り半するわけですから、 そのスピードで四年かかる距離にあるわけです。 それが地球に一番近いもう一つの太陽です。 そんなのが二千億個もあって、 最も遠い天体は百二十億光年のかなたに存在するというわけです。 そういう銀河規模の幽界、 霊界、 神界になってくると、 地球圏の幽界、 霊界、 神界とはけたが違ってきます。 人類の知性ではどうしようもない段階にくるわけです。
天保の霊言実録 『幽顕問答』 が教えるもの 最近、 イギリスで出ている本に私が発表して、 関心を持たれている事件があります。 今から百五十年ぐらい前の天保十年の事件です。 福岡の造り酒屋で、 庄屋をしていた岡崎家の長男の市次郎という人がいました。 この人は結婚はしていましたが、 まだ子供はいません。 年齢は二十七、 八だったろうと推定しておりますが、 その年の七月四日に急に発熱します。 そして寝ついたまま食事も一切しないものですから、 どんどんやせていきます。 そして四、 五十日たったころから、 うわごとを言うようになり、 狐がついたのではないかというので、 父親は神主に依頼して修法、 西洋で言う悪魔祓いをしてもらいます。 私は詳しくは知りませんが、 神道では刀や弓矢などの道具を使うそうです。 医者は五人も待機し、 村人も三、 四十人集まって見守る中で、 宮崎大門という神主が修法を行います。 その最中に、 危篤状態のはずの市次郎がガバッと起き上がり、 いかにも武士らしい端然とした態度で布団の上で正座をしたかと思うと
「拙者は数百年前、 この場所にて切腹したる加賀の住人の霊でござる」
と語り始めました。 加賀の人間がなぜ福岡にいるのかと聞くと、 拙者の父は殿から三振の刀を拝領するほど信任が厚かったが、 お家騒動が起こり濡れ衣を着せられてお国払いとなった。 拙者は父を探すために伝家の宝刀を携えて国を出奔し、 六年後にやっと (当福山市から近い) 沼田という港町にて父とめぐり会うことができた。 ところが、 父は 「そちはたった一人の男児ゆえ、 国へ帰って家を継げ」 と言い、 翌朝、 拙者の寝ている間に博多へ向けて出立してしまった。 後を追い再会するが、 父は振り切って唐津へ去ってしまった。 絶望した拙者は父の後を追うのをやめ、 この地に来て切腹して果てたのだと、 いきさつを話すのでした。
事情はわかったが、 なぜ庄屋の息子の岡崎市次郎に祟るのかと尋ねると、 「実は一つの願望がある。 拙者の石碑を建ててほしい」 と言います。 石碑を建てるにしても、 主君の名前、 そなたの姓名などがわからないのでは碑文が書けないから、 それを教えてほしいと言うと、 武士の情で主君の名前を明かすことだけは勘弁してくれと言って、 やっと自分は 「泉熊太郎」 だと名前を明かします。 切腹した日を聞くと七月四日だと答えます (年号も、 それを言うと主君の名も分かってしまうので、 と言ってついに明かさなかった)。 そう言われてみると、 庄屋の岡崎家は代々七月四日に急死したり事故に遭う者が異常に多かったのですが、 その理由もわかったわけです。
これが、 碑文に刻み込むために泉熊太郎の霊が書いた命日の 「七月四日」 という文字です (図−3)。 どうみても五十日間、 高熱にうなされ、 ほとんど食事を摂らずやせ細った市次郎の書いた字ではありません。 不思議なのは、 「日」 という字です。 書家に聞いても、 こういう 「日」 という字は現在では使わないそうです。 泉熊太郎の時代には使われていたのでしょう。 私の計算では一三○○年ごろ、 南北朝時代になります。 その時代にこういう字を書くところをみると、 相当なインテリだったことが想像できます。
神主の宮崎大門が、 「そなたの望み通り石碑を建ててしんぜよう」 と言うと、 武士はさも嬉しそうに
「吾が年来の願望ようやく叶い、 今後は人を悩まさぬばかりか、 当家を守護し、 また諸人もらびとをも救うべし」
と述べるので、 大門が
「かく誓いしのちに、 もしそこもとが重ねて人を悩ますことあらば、 その時は容赦せぬぞ。 骨を掘り起こし、 糞くそ 壺つぼに入れて恥をかかせん!」
と言い放つと武士も
「武士に二言はござらぬ!」
と言い返します。 そこで大門が
「しからば念のためにその旨を記せる一通の証文を書かれよ」
と要求すると、 武士はそんなものは不要だと言い返しますが、 いや、 ぜひとも書かれよと迫られて、 仕方なく書いたのが、 これです (図−4)。 大体の意味は、 本日宮崎大門師の修法によりやっと自由の身となった。 本日八月二十四日を限り岡崎市次郎殿の体から去って二度とかかりませんという誓約書です。 古書体で書かれていて、 江戸時代の崩し方ではありません。
最後に、 せっかくの縁だから、 記念に書を一筆書いてくれと言いますと、 亡霊がこの世に書を残すなどとは、 と拒絶します。 「泉熊太郎」 と書いた字は世間に漏らすなとおっしゃるから、 それは約束する。 しかし、 あなたはなかなか達筆なので、 ぜひみんなに見せることのできるものを書いてくれと言って頼んで書いてもらったのが、 これです (図−5)。 いかにも武士の書いたものという筆勢です。
もし記憶の層が脳であったら、 肉体はとっくになくなっていて脳はないのですから、 何もわからないはずです。 なのに死後、 数百年たって亡霊となっても、 自分の名前も、 生前のいろいろな出来事も、 自分の書体も記憶しているということが不思議です。 ということは、 スピリチュアリズムで言うように、 人間は今この世に存在するうちから霊であって、 肉体という道具を使って生きているのである。 死というのは、 その肉体がなくなるだけで、 自我の本体は次の幽界で生活するのだということが、 これでわかるわけです。
一八四八年、 アメリカで、 これと似たような出来事が起きましたが、 それを単に無気味な話とするのではなくて、 学者が寄ってたかって研究して、 それがスピリチュアリズムに発展し霊魂説となりました。 霊魂は存在するのです。 死後も生活があって、 地上はその出発点にすぎないという結論になっております。 スピリチュアリズムではいわゆる御利益信仰というのがないのです。 地上世界はトレーニングセンターであるから、 いろいろな体験を積み苦労をするほうがいい。 若いころの苦労は買ってでもしろというのと同じことです。
スピリチュアリズムの時代
最近、 関英男という方が 『高次元科学』 という本を出されました。 ことし九十歳ですが、 かくしゃくとしていらして、 紫綬褒章を受章された科学者です。 この方はどんどん霊的な世界に踏み込んでいまして、 UFOの世界にも踏み込んでいっています。 私はこの本を読んで、 こういう人がいてくださってありがたいと思っています。 この方のおっしゃっていることは、 スピリチュアリズムと全く同じなのです。 ただ、 関先生はスピリチュアリズムという言い方ではなくて、 サイキックス (心霊学) のサイを取って、 サイ科学とおっしゃっています。 実は、 関先生から 『高次元科学』 を英訳してくれという依頼を受けました。 二月十二日に大阪で関先生と私の二人でジョイント講演会を開きますが、 そのとき、 どういうふうに訳すかお話ししようと思っています。
関先生は私よりも三十歳も先輩で、 科学の分野を徹底的に勉強なさった上での話ですから、 「現代科学では、 地球の表面をひっかいた程度しかわかってないのですよ」 とおっしゃっても重みがあります。 例えば電気一つをとってみても、 「電気とは何ぞやを説明できる科学者はいないんですよ」 とおっしゃる。 なぜ電気が進むのかわからない。 コンセントを入れたらパッと電気がつく。 なぜかわからない。 そういうものだということにしてやっているだけです。 医学で言えば、 メスでスパスパ切って手術をしていますが、 後で皮膚と皮膚がくっついてくれるからいいんですが、 なぜそうなるのかわからない。 くっつくんだということを前提にして切っているわけです。 もしくっつくという事実が確認されていなければ、 怖くて切れないわけです。 現に病的な人はくっつきません。 そういう点からどんどん解明していけば、 なぜかということがわかると思います。 とにかく科学の世界、 医学の世界ではわからないことだらけなのだそうです。 関先生の場合は科学的ということの意味をどんどん広げていっていますから、 「高次元科学」 と呼んでいるわけです。
関先生はこの間インドへ行かれ、 サイババという有名な霊能者と会えて喜んでおられました。 先生はこれまでにも、 例えばUFOに百何十回も乗った人など、 いろいろな体験をされた人に会っておられます。 去年の六月に福山でもUFOの会が開かれ、 私も呼ばれてスピリチュアリズムの講演をしました。 何億光年ものかなたからUFOが飛来してくるわけがないと思う人がいますが、 それは現代科学で考えるからそう思うので、 霊的に考えれば、 物質を気化し何億光年のかなたの天体から地球に瞬間的に飛来し、 再び物質化するということはできるわけです。 現に関先生が会ったインドのサイババという霊能者は、 みんなが見ている前でパッとダイヤモンドを出したりします。 そういう話を去年のUFOの会でしましたが、 UFOの研究者たちはスピリチュアリズムの話を聞いて納得がいくと言っていました。 そのときにUFOに乗ったことがあると言う人が三人いました。 私もUFOは十数回見ていますが、 乗ったことはありません。
ここへ来て、 関先生のような科学者でしかも霊的なことを当たり前のことのようにおっしゃる方が出てきて、 いよいよスピリチュアリズムを広めていく時代が来たと思っております。
きょうは生と死にかかわっていらっしゃる方がお聞きくださったので、 思い切ったことを申し述べさせていただきました。 ありがとうございました。 (拍手)
※本稿は、 平成六年二月一日、 福山市良縁閣にて開催された第二十二回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。




