パネルディスカッション
現代の教化を問う
パネラー 大 村 英 昭
中 野 東 禅
中 野 毅
コーディネーター 赤 堀 正 明(現代宗教研究所主任)
赤堀三人の先生から、「現代の教化を問う」ということで発題いただきました。
中野東禅先生は、本来、仏教は自覚の宗教であるはずだが、現在は無自覚の宗教になりつつあるという観点からの発題でした。
大村先生は、煽りよりも鎮めというところが、現代の教化の新しいポイントではないかというお話をいただきました。
中野毅先生からは、教化よりもむしろ個人の納得ということが肝心なのではないかというお話をいただきました。それぞれ教化のとらえ方が中野東禅先生は出家仏教の立場、中野毅先生は在家仏教の立場から、そして両者の中間的なところにあると言えば語弊があるのかもしれませんが、大村先生は非僧非俗という立場からの発題でした。きょうはこのような、三者三様の先生方においでいただきました。これは特別意図したわけではありませんが、偶然そのような形になりました。しかも、ちょうど昨日の新聞に創価学会の本尊の授与が、大石寺からではなくて、創価学会独自に授与するということも発表されております。そんなところをめぐりまして、三人の先生によってディスカッションを展開していただきたいと思っております。
それぞれのお話をお聞きになりまして、何か質問がございましたらば、その辺から始めていただきたいと思います。
大村中野毅先生のお話は、とてもおもしろく聞かせていただきました。最後におっしゃったように、確かに在家主義を一貫させる、つまり、お葬儀まで含めて僧侶が介在する余地のない法華門流が論理的にはようやくでき上がったんだと。逆縁というか、日蓮正宗から破門されるという逆境を逆手にとって、まんまと自家薬籠中のものにされたと思います。
そういう意味での在家主義で、とりわけ興味深いのは家庭座談会です。家庭での法座みたいなものを大事にされている。ただし、おっしゃったことは、新興宗教というか、新たに興ってくる宗教が必ず通っている道筋であろうと思います。で、非常に極端な言い方をすれば、実は、何も新しいものはない。
きょうはお話しできなかったのですが、私のレジュメの一番最後の三に、「仏教のフェミニゼーションとマイ・ホーム化」ということを書いてあります。よくよく考えてみますと、日本仏教は、最初はご承知のように、鎮護国家という形で、プロの僧侶は国家を鎮護する役を負って出てきたわけです。やがて、どこかで話が間違ってきまして、家父長制的な家の論理みたいなものに既成教団がすっかり乗ってしまった。そのために、特に明治期以降に成長してきた、例えば霊友会が典型ですが、都市に新たにたくさんできた二、三男家族、いわゆるフアミリー、中野毅先生は家庭という言葉を使っておられますが、そういうものが大事なポイントになっていたのに、既成教団はそれをとりこぼしてきたわけです。
私らは、戦後、家の宗教から個人の宗教へと短絡させてしまっているわけです。浄土真宗は、ご承知のように、親鸞の時代に展開したものではなくて、現在の創価学会さんのように、お念仏の声がそれこそ世の中の隅々にまで行き渡っていくのは蓮如の時代でございますが、その蓮如がとった戦略は、先ほど中野毅先生がおっしゃったものすべてを含んでいたと考えます。とりわけて大事だったのは「家」でも「個人」でもない、家庭に重点を置いたわけです。その場合の力点がフェミニゼーションであったわけです。
この場合、私は前提があって、キリスト教にしろ仏教にしろ、女性の救済は要らないのではないか。これは私の偏見ですが、女性は自分自身の救済は身体的にはっきり自覚できる立場におられるわけです。仮に仏を大宇宙の生命の連続無窮性のようなものだと考えますと、自分の体から次の世代を産み出していけるわけでございますから、命の連続性についての自覚は、男性とは比較にならないわけです。
フェミニストの論客が、法華経にも大無量寿経にもある「変成男子の願」、女性は一たん男にならないと成仏しないというのは偏見である、一種の仏教的差別的女性観だと非難したのに対して、あるベテランの女性学者が、「あんたバカね。もともと女性はあんなものを必要としてないのよ。でも、せっかく男性がそう言ってくれたから、おつき合いして、か弱き女性を演じてきただけよ」とおっしゃった。私はそれで非常にショックを受けましたが、たぶんそうだと思います。そういう意味で、本来は女性救済ということについては、あくまで男性側が勝手につくっているものです。しかし、そこを経由させることによって家庭へ入り込める。
親鸞は「悪人正機」と言われます。つまり、悪人こそ如来様が救いたいと思われた一番のお目当てであるという意味でございます。蓮如の場合は、それが「女人正機」で、女性こそがお目当てであったと言うわけです。特に「出離の縁なきあなた方こそが」という言葉を、蓮如は盛んに使います。あるいは「在家正住の男女たらんともがらは」と言います。こういうところに、むしろ家庭から出るに出られない女性の悲しさみたいなものにピタッと照準する。そういうことを経て、家庭というものを仏教が発見していったわけです。
日本仏教はユニークだと私は思っています。だって、インドの仏教はずっと個人主義だと思います。まず自分が救われる。さっき悟りとおっしゃいましたが、そういう自己救済を含めて、個人主義です。家も親も捨て、子も捨てて山へこもる、こういう線が仏教ファンダメンタリズムでございますが、本来のインド仏教の姿です。
それを、日本仏教(=民俗仏教とでも言いますか……)は、そうではないとして、生活世界を大事にし家庭を大事にする人間に的を絞ってきたわけです。蓮如の時代に我が浄土真宗では、そのことがフェミニゼーションという形で行われてきました。
私は先ほどの中野毅先生のお話は非常によく納得できて、特に私がこれからの創価学会さんがお考えなさらねばならんだろうなと思いますことは、最後にちらっとおっしゃいましたが、王仏冥合という考え方が根幹ですから、これを引っ込めることは難しいだろうと思いますが、これをとっている限りは、やっぱり煽る文化だと思います。結局、これは下手をすると、単なる改良主義にならざるを得ない。そういうことも含めて、そのあたりが蓮如の場合は、真俗二諦論というか、王法は王法だと。世俗世界のことは、おれは知らんということです。それに対して仏法というのは別の論理であるということを力説して、王仏は冥合させられないと。もっと言葉を変えて言えば、仏法でもって国の支配というか国の政治を行うなんていうことは、そもそも仏法に対する冒涜だという形で切り捨てているわけです。ですから、政治的改良主義にはいかないような教えになっています。
それから、創価学会さんに先ほどお教えいただいた議論は、近代主義にうまいこと乗せてきた今までの強みです。特に大企業の組合にも組織されていない、そうかといって既成仏教教団のどこにも入っておられない、貧しかった未組織大衆、戦後、大量に出てきているいわゆる二、三男家族の人たちで比較的貧しい方々を主として組織していったという、蓮如時代と全く同じことでうまく成功してこられた。しかしながら、ここまで成功してこられた理由のすべて、創価学会さんの持っておられる強みは、これからはすべて弱点に変化する。私の理解はそうなんです。
浄土真宗は、こんなことを言ったら偉そうに言っているようですけれども、物すごい強みがあって、何といったって、ここ百年ほどの間に展開してきたご宗派と、展開し始めてから既に六百年以上たっている我が浄土真宗では、それこそ中野東禅先生のお使いになった宗教資産というか手持ちの情報財は比較にならない。我々のほうには、どっちにでも対応できるようなノウハウが十分蓄積されているわけでございます。
かつて「日蓮正宗から破門されると弱い面が出てきますよ。何だったら、お念仏でバックアップしましょうか」と私は言ったことがあります(笑)。何ぼ友人葬でも、友人だけでというのは、いつかはきっと不満が出てきます。だから、坊さんを頼まなければならない。そのときには、「もし、お念仏でよかったら、私らはやらせていただきますけど」(笑)と申し上げたことがあります。ところが、どうやらこの会場では、既にお気づきのように、<何てバカなことを言うじゃないか。これからは日蓮正宗よりも日蓮宗の檀家化を図っていこう>と考えておられる野心家がずいぶんおられるはずであります(笑)。
創価学会のここまでの成功の理由は、これからはむしろ弱体化の理由になる、というご認識みたいなものが、どの程度おありになるか。もし質問と言えば、そういうことになります。
赤堀近代主義に乗せてきた創価学会の長所が、すべて逆転する。王仏冥合も引っ込めたほうがいいのではないかという大村先生のご指摘に対して、中野毅先生、ぜひお答えいただきたいと思います。
中野(毅)どうも刺激的なご質問ありがとうございました。まず最初に、皆さん大村先生に騙されないほうがよろしいと思います(笑)。「鎮めの文化」だとかとおっしゃっていますでしょう。ところが、一番煽る人なんです(笑)。「煽りの文化」の権化みたいな方が大村先生でありまして、今の話も何か法論をふっかけられているような感じでありまして、私は、きょうは研究者として来たわけで、創価学会を代弁するつもりは毛頭ないのですが、大変おもしろいご質問をいただきまして感動しております。
幾つかおっしゃられましたが、まず家庭の問題、これは本当に日本の仏教の特徴だと思います。実は学会の中でもあまり気づいてなく、当然のことのようにして考えているのです。私が学会の運動で家庭が拠点になっているのは大事なんだと気づいたのは、何を申しましょうか、真宗の歴史を勉強して気づいたわけです。昔、毛坊主とか看坊とかおっしゃっていたと思いますが、北陸や関東に広がっていったときに、真宗の運動のかなめになったのが、半僧半俗の人だちで、農作業をしながら必要に応じて坊さんになる。自分の家の一角をお寺にして、みんなに開放した。そこで村の問題を話したり聞法したりした。私は<やっぱりそうなんだな>と感じました。
キリスト教の歴史を見ても、これはクリスチャンの研究家から聞いたのですが、明治になって長崎に新しく天主堂ができ、赴任されてきた宣教師のところへ、ある日、五、六人の農民が訪ねてきて、実は自分たちは隠れキリシタンであったと打ち明けるわけです。そこで、隠れキリシタンの存在が明らかになったわけです。キリスト教が禁教されていた時代は、家庭で信仰を続けていたのです。ところが、オープンになって、これからは家庭ではなく、むしろキリスト教の正しい信仰は教会に来ることだと一生懸命化道したところ、隠れキリシタンとして信仰を続けてきた人たちの信仰がそのうちつぶれてしまったそうです。日本の場合は、やっぱり家庭が大きな意味を持つわけです。
ただ問題は、大村先生もおっしゃっていましたように、家と家制度、家父長制は違うわけです。本来の家というのは、人々の生活の場だったわけですが、室町末期から江戸時代にかけて制度化され、明治になって法的に固まってくる。その「制度化された家」「家父長制」と家もしくは家庭そのものは違うわけです。伝統仏教の場合は、やむを得ない面もあったわけですが、基本的に制度化された家制度もしくは家父長制と一緒になってしまった。
家制度の論理の骨格にあるのは、家元制度と同じ形なんです。伝統仏教の本末関係とか寺檀関係はみんな同じです。家元制度的な家制度の論理、日本的な家父長制の論理で社会全体が統一されていった。そこに仏教が制度化、ある意味で形式化してしまった大きな要因があるのではないかと思います。そういう意味で、フェミニゼーションの問題も含めて、もう一度家庭というものに焦点を当てて考えていくことが大事だと思います。
王仏冥合の問題ですが、真宗は真俗二諦説をとりまして、ですから現世から逃避してしまう傾向性をもつのではないですか。家庭とか生活を重視していく信仰であるならば、当然の展開として信徒は経済の面とか、政治の面とか、いろんな面に関心を持ってくるし、信仰の関心の領域が広がらざるを得ない。一宗でもって政治権力を活用して他宗を抑圧していく、そういう国教化という問題と、日蓮が説いた王仏冥合とは全然違う話だと思います。国教化的な形で理解されたのは、明治に入って国柱会などの論理が先行した結果であります。
正直、創価学会も歴史を見ますと、戸田会長の時代は国教化に近い概念を持っていたことは確かです。参議院選挙に出るときも、参議院で議決して戒壇を建てるんだと言ったこともあります。しかしその意味は、国民の意思の反映を参議院に見ることができるからということであり、国民の多数の賛意を得る国立戒壇はそういう手続を踏まなければいけないということだったわけです。それは割と当初から否定はされていましたが、昭和四十五年のいわゆる言論問題のときに公式に捨てたわけで、今は一切そういう意図はありません。
信仰というのが生活の場で展開していくものであるならば、当然の延長として自分の生活にいろんな面で影響を及ぼす経済や政治の面も含めて、どうすべきか。仏教の論理、例えば大乗仏教の慈悲の精神でもって政治は行われるべきだという、仏教信仰の一つの当然の発露として政治の世界にも仏教の論理で影響を及ぼしていこう、その一つの方法として、公明党はつくられたと思います。そういう点で、社会性を豊かに持った運動であったと思います。繰り返しますが、国教化していこうという意図は毛頭ありません。
世間では、今でも国教化をめざしているんだと思っている方もいらっしゃるようですが、私の知っている範囲では、一切そういうことはありません。むしろ選挙がある面では重荷になってきている面もありますので、信仰活動を純化していこうとすると、やっぱり選挙の支援運動はもう少し軽くやれるようにしたいということまで議論されています。
ただ、仏教の慈悲の精神を政治やいろんなところに反映させていくという意味での王仏冥合の論理というのは、社会性を持った宗教運動としては、やっぱり大事なのではないかという気はします。
大村特に国教化という意味で申し上げたのではなくて、話を中野東禅先生のほうへ振れば、中野東禅先生のおっしゃるような意味での、いわゆる在家性があまり強調されますと、一般世人の普通で言う幸せを願う運動になって、それであったら、極端に言えば公明党のほうでいいということになります。
出世間性と言いましょうか、中野東禅先生のところだったら当然そうなんですが、我が蓮如様があくまで真俗二諦で押し込んでいった、家を捨てるというような、俗で言う幸せでないものこそが我々のすべてなんだと、ここを言うためにこそ真俗二諦ということを強調されている。もちろん在家教団としては、当時から一向一揆にワアッと、あれだけ行くわけですから、蓮如さんとしたら、あのままガンと行けば、今の公明党さんみたいに反体制運動でガッと行くようになる。それと我々僧侶というか親鸞教団は、やっぱりあるギリギリのところで出家性なり出世間性のようなものを残していて、人間の幸せというものについて、在家の方が考えられる幸せとは違う、別の論理を持っていますよということを言うための真俗二諦論だと、私は理解しているんです。
そういう意味で言えば、先ほど来お尋ねしたのは、中野毅先生のご説明で非常によくわかるのだけれども、王仏冥合論も含めて在家的な日蓮解釈です。日蓮大聖人様のものすごくやさしいお手紙は私も好きです。さっきもおっしゃるように、霊山浄土でお会いしたいというか、そこだけが法華経をいただいた人間の幸せの極点なんですね。ここをどう強調するか、それを失いますと、単なる改良集団、社会をよくする運動であって、幸福の科学とほとんど変わらなくなるということを、たぶん中野東禅先生なら言いたいだろうと思います。先生いかがですか(笑)。
赤堀それでは、中野東禅先生、その辺をお願いいたします。
中野(東)大村先生は、なぜ蓮如上人が真俗二諦説の真を主張したかというお話をされましたが、道元禅師が京都時代から永平寺時代に変わっていって、永平寺に出家主義になっていくが、ここに日本の宗教を考える上で重要な点があると思います。
私の問題提起の一番最後に書いておきましたが、僧をなぜ民衆が必要としてきたかというのは、中野毅先生のおっしゃった自己納得体験主義にどんどん引きずられていくと、大事な仏の教えが見えなくなってしまうわけです。これに対して、いつでも本物を維持していかなければならない、これが僧侶を必要とする理由です。だから、儀礼だけではないと思います。そういうところに僧侶の機能があるわけです。そういう意味で法の維持、檀林が必要になってくるわけです。それが、今、弱くなってきているから見えなくなってきているわけです。
そういう点で、実は大村先生にお伺いしたかったのは、儀礼、この儀礼というのはあらゆるものを含みます。法服を着ているのも、頭を剃るのも儀礼に入りますから、そういう宗教的な儀礼すべてを含みます。それと日蓮宗で言えば霊山浄土で成仏ということの中身との関係です。阿弥陀様にお任せするという、阿弥陀様へのあこがれ、民衆一人一人のニーズがなかったら、浄土真宗だって日蓮宗だって創価学会だって要らないわけですから、必要性という個人の内容と儀礼との関係というのは、果たして真宗なら真宗の中で教育しているときはいいけれども、教育してなかったときにどうなるか。創価学会は、中野毅先生は二世だそうですが、早い人は三世も四世もいますし、立正佼成会だって会長さんはもう二世ですから、そういうようなことを考えたとき、法は個人の内面において実現するのかということです。曹洞宗の檀信徒を見ていたら、よくわかります。全然ないんですから(笑)。そういう点で、私が皆さんに質問したいのは、そこなんです。そこが実現するためには、どうしたらいいのか。努力してもダメな人はダメだ。幾ら創価学会の会員だって縁なき衆生はいます。ところが、縁のできるのはどういう場合にできるのか。日蓮宗の場合だって、御祈祷で救われている人はいるけれども、日蓮さんは全然わかっていないという人はいるはずです。そういうようなところをどうするのかということを、私は伺いたいのです。
赤堀大村先生、お願いいたします。
大村話がこちらへ振り向けられてきましたが、先ほどのフェミニゼーションの話とちょっとひっかけまして、その辺をお答えしますと、インド仏教というのは、まず自分が救われる。我々の御開山のお言葉で言えば「小慈小悲もなき身にて衆生の利益思うまじ」というような、世の幸せを祈る資格すらないと。そういう意味で、まず私自身が救われるかということ、これが悟りの仏教の基本であったと思います、ところが、日本人に受け入れられるときに、先ほど中野毅先生もキリスト教の例を出されましたが、昔、橋本峰雄先生がしばしば引かれた例を申しますと、カトリックが日本へ入ってきて九州一帯にかなり信者を得たわけです。ところが、宣教師様からポルトガルの本部へ書簡が送られているわけですが、そのうち非常に目立つのが、「日本の信者はみんな同じようなことを尋ねる」と書いてある。どういうことかといいますと、「私たちは福音に会えた。だから天国に召され神の御許に行けると教えてくださったけれども、私たちより先に死んだ親や子供など最愛の人たちは福音に会わずに死んでいる。この人たちは地獄へ行っているのか」と尋ねる。これに対して宣教師は「そうだ」と答えている。偉いですね。そうすると信者さんはみんなウォウォ泣くという。これは日本人のすごい感性なんです。
私は新興宗教だけではなくて、生駒のいろんな宗教を調査したとき、石切神社の前でお百度を踏んでおられる若い方が多かったから、ちょうど大阪大学の院生を連れていたので、インタビューをさせましたところ、自分のことを願っている方は一人もいない。みんなお父さんが今ガンで死にかかっている、あるいはお母さんがそうだとか、きょうだいがそうだとかという形で、医者に見放されている。「私は何もしてあげられない。こんなお百度を踏んでも、たぶん何の効き目も御利益もないと思いますけれども、やむを得ずやっている」とおっしゃる。私はこれに非常に感動しました。これが日本人の宗教なんです。つまり、自分ではないんですよ。人を救ってほしいんです。
とりわけ女性の気持ちはそうです。はっきり言えば、女性は大丈夫なんです。心配なのは、むしろ先立った子供であったり、先立った夫であったり、先立った親だったりする。先ほどちょっと言いかけたのは、実は蓮如様がそれにピタッと合わせていった。ここが日本仏教のすごみで、親鸞と蓮如の大きな違いは、どっちも偉い方ですが、親鸞様はまだまだ仏教ファンダメンタルなインドの個人主義を引きずっておられる。ところが、蓮如様に至って、日本の民衆は何を求めているか、このニーズをきれいにつかまえられた。地蔵菩薩本願経に「大悲闡提」という言葉があります。地蔵菩薩はあまりにもお慈悲が深いから、みんなを救ってからでないと自分は成仏しないんだと誓われる。地蔵菩薩の御誓願は、そういう誓い方です。普通だったら、先に自分が成仏してから、その仏力、法力でもってみんなを救いますという願を立てられる。ところが、次々と新しく生まれてくるので、地蔵菩薩はいつまでも成仏しないわけです。そういう意味で、地蔵菩薩は大悲闡提だとお釈迦様が説明してくださっている。闡提というのは、普通は成仏しない悪いやつのことを言うのですが、この場合は上に「大悲」がついている。この心は、金子大栄先生が昔、「これはお母さんの気持ちですよね」と説明してくださったことがあった。事実、地蔵菩薩本願経は劈頭で、「釈尊、仞利天とうりてんにいます母のためにこの経を説きたまう」という言葉で始まります。つまり、母親の心をこれほどつかんだお経はないだろうと、さすがに金子大栄先生が教えてくださったことがあって、仏を願う民衆の心は、こんな形ではないかと私は感動しました。これではお答えになりませんでしょうか。
中野(東)悩みを持った人の救いと悩みを持たない人の救い、人それぞれだと思いますが、特に仏教は存在そのものが真実であるというわけでしょう。そうしたら、悩みを持たなくたって救われているわけですね。普通、仏性であり、生まれついたら檀家だったのですから、救われているわけでしょう。だから、その人が無自覚に死んでも仏さんと言うでしょう。あの論理はすごいと思います。
実は、ターミナルケアの場で、こういう議論がありました。ある人がイワシの頭を信心して、今、死にかかっている。この人は間違った信仰をしているではないか。どうやったら救われるかという議論になったときに、「あなたの信心は間違っている。阿弥陀様でなければ……」と言ったって間に合わない。かといって、「それでよし」と言ったら、これまたおかしいじゃないか。そのときにキリスト教のチャプレンで斉藤武という人は「そんなことはわけないじゃないですか。人が死にかかっているときに、あなたの信心は間違っているとかなんとか言ったって始まらない。そんなことは関係ないことだ。あなたの人生はよかったねと言ってやらなかったら、どうして救いになりますか」と言うんです。「だけど、その信心がイワシの頭だということが見えてなかったら、プロの坊さんじゃないですね」と言ったんです。
私はそう思うんです。信心が間違っているか間違ってないかということを言ったら、死にゆく人にとっては救いは出てこない。信じている人はいいけれども、信じていない人間は全然救われない。今やっている我々の葬式は、まさにこれです。みんな「よかったね」と言って送っているんですから。ところが一方でもって、我々は正しい信仰とは何かと研究している。これはえらい矛盾です。日本人の救いということを考えるときに、その人がその場にあるのは「よし」と言ってやりながら、仏が記

を与える立場で我々は見ていなかったらウソだと思います。そういう意味では、二重構造だと思います。
そういうふうに考えると、日本人の宗教を考えるときに、非常に多元主義的なプルーラリズムでなかったらダメなんじゃないか。一元主義では人間は救われないのじゃないか。そういう意味では、私は、僧侶と在家という二元性は既に多元主義の構造をそこに持っているのではないかと思っているんです。
赤堀その二重構造や多元主義というところを一元化しようとしているのが、実は創価学会だと思いますが、その辺から何かご意見をお願いします。
中野(毅)在家主義では法が維持できないではないか、もしくは法が見えなくなるのではないかということです。ですから、僧や聖職者の方々が、自分たちの本質的な存在意識がどこにあるのかということを十分にお考えになって、法の真正なる維持、伝承もしくはそれを深めていくという働きの中に、自分たちの役割を見出される、そして、そこに純粋に生きることには賛成です。そのような、出家者に対する尊敬はあるわけです。在家主義ですと、自分たちは在家なんだという意識は常につきまとうわけです。そういう点では利点もあって、お酒を飲んでも遊んでも構わない、生活の中に仏法を生かしていくんだということを言うわけですけれども、それでもなおかつ仏法者として生きなければいけないんじゃないか。その仏法者としての生き方の一つの模範みたいなものをどこに求めるかというと、学会の場合は名誉会長とか会長という幹部に求めるわけです。でも、そういう人もしょせんはやっぱり在家ですから、失敗もあるし、いろいろあるだろう。そうすると、現実の社会における模範として僧というものを考える。もしくは期待しているわけです。
今回の日蓮正宗との問題は、その期待がものすごく裏切られた。その怒りがこんなにすごいとは思わなかった。私もいろいろなことが出てきて、こんなに僧侶というものはひどかったのかということがよくわかりました。要するに、すがすがしくあるはずなんだという期待感が投影されていた。それが微塵になくなった。
先ほどの私の話は、一応、在家主義で一貫して話をしてみたわけですが、そうであったにしても、正直言って、なおかつそれを横からなり支える出家の論理みたいなものがあったほうがいいなと思っております。そういう意味では、プールラリズム的な構造というのは、伝統教団であれ在家主義で一貫しようとしている教団であれ、特に日本ではということでなくても、宗教の世界では必要なのじゃないかと思います。
学会の中でも出家の中の在家、もしくは在家の中の出家、ある人は出出世間(世間を出て、また世間に戻ってくる)という行き方が、学会の信仰で大事なんだと言う人がいます。それを制度化してしまうと、それが聖職者になっていくわけですが、そこはどうするかという問題が確かにこれからあるわけですが、少なくとも出世間的な側面が信仰運動、宗教運動、仏教運動として創価学会を展開していく場合には大事なんだという認識は、かなりあると思います。
そういう点で、大村先生に対するお答えになりますが、世俗的な場面での文化運動、政治運動を展開しつつも、自分たちの運動をもっと仏教の大きな視野の中で見つめ直していく信仰のメカニズムみたいなものを持った運動として、今まであっただろうし、そういうふうに展開していってほしいなと、私も思っています。
赤堀時間のほうが既に超過いたしております。きょうは現代の教化をめぐる問題ということで、三人の先生から発題いただき、ディスカッションしていただきました。宗教の時代といわれるなかで、仏教の教化は大きな曲がり角にきているように感じられます。それを反映してか、オモチャ箱をひっくり返したように、諸問題を皆様の前にバラバラに提示したかたちで終わりましたが、ぜひ第二弾も考えてみたいと思っております。
三人の先生には短時間の中で、思っておられるところのほんの一部分しかお話しいただけなかったのではないかと、非常に心苦しく思っております。ご来会の皆様には、きょうの諸先生の提言、ディスカッションを参考にしていただきまして、現代の教化について、きょう、あすとご討議いただきたいと思います。(拍手)