寄稿
日持上人開教の事跡
−津軽十三湊をめぐって−
木 立 随 学 (ポートランド日蓮宗みのり会主任開教師)
はじめに
日持上人開教のロマンに情熱を傾けて海外布教師となって渡米して以来、実に三十七年の星霜が過ぎ去ろうとしている。自坊を捨て、郷里を捨てた国際無宿の宗門開教師の立場から、日持上人の史実を私なりの仮説作業により、日持上人の大陸渡航の旅程を構築してみたいと思って来た。しかし、伝説の中に静かにおいでになる日持上人の雄姿を汚してはと恐々の念で仲々思い切った私見を述べる事が出来ずに時はつれなく流れ去って行くのみであった。
日持上人の七百年御遠忌が来年に迫り、ここに今までの文献、資料を整理している過程で自分の生まれ育った土地の遠い昔の歴史が、再び生命の息吹きに満ちて当時の光景や事件が生き生きと蘇って来る事に心躍らせながら、従来とは別な方向から史実の裏付け作業を展開して見ようと思う。
日蓮聖人が御入滅の直前六人の直弟子を、つまり日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持と御選定になられた。そして一番最後になる日持上人が四十六歳の時に静岡の蓮永寺を後にして東北、奥羽、津軽経由で松前に渡り、その後沿海州を通過して中国伝道に生涯を捧げたと後世の資料が伝えている。
日持上人は一二五〇年、駿河国(静岡県)庵原郡松野に生まれ、学究の徒として、また名文家として日蓮聖人にも信任篤く日持上人の書である『持妙法華問答抄』には、日蓮聖人が御印可をなされたとの伝承もある。その日持上人の中国伝道の旅は四百五十年も過ぎた、一七三五年刊の『本化別頭仏祖統紀』が伝えるところによると日持上人は四十六歳の一二九五年、永仁三年の元旦を期して海外伝道に旅立たれた事になっている。しかしそれ以後の旅程からこれという歴史的に立証出来る第一資料が無いまま、上人御伝記のみに幻の上人像をとどめながら語り継がれて今日に至っている。
今、私の試みる上人大陸渡航の史的裏付け作業は、これまで語られて来た宗門の常識である伝記や出土品からの論証とは全く違う観点に立っての上人像に迫ろうとするものである。それは、三津七湊として廻船式目に残る日本良港の一つ津軽の十三湊と、当時の国際交易の史実を踏まえながら日持上人の大陸渡航の可能性の事実をより具体的に描こうとするものである。
また一方では、日本史の中に長い間埋もれながら冬眠していた北国津軽の歴史に雪解けの春を告げようとする北方日本史復元作業の一端にでもなりえたらと願っている。
一、平泉藤原三代
平泉・藤原三代(四代泰衡は二年足らず)百年余りの歴史は、日本史上余りにも有名であるが、全く同時期頃に平泉と並列的に栄えた北方王国の安倍氏、十三藤原氏、安東水軍の海洋豪族の事は殆ど知られていない。それは、これまでの歴史家の怠慢というよりはエゾが住む本州最北端の津軽地方は低級文化の僻地と見なされていた事によると思われる。しかし事実は全く違っていて、中世における津軽は、知る人ぞ知るの広範な国際交易ルートとを持った海洋豪族が平安時代の後期から室町時代までの四百年以上にわたって勢力を振るっていた地域であった。従来ともすればアイヌが散在する文化果つる、わびしい世界と思われていたが、最近の資料、文献、考古学の成果から北方日本史の叙述が基本的に書き改められる必要性が論議される程事実が変わって来ているのである。例えば、国立歴史民族博物館調査団の過去三カ年にわたる青森県北津軽郡市浦村の十三湊遺跡調査報告(平成五年夏共同時事提供)によれば、安東氏の居住したと見られる大規模な館跡、土塁や道路跡、中国製、高麗製の青磁、日本の珠洲焼、常滑焼、それに銅銭などが、日本海の十三湖に面した「十三湊」遺跡より出土したと公表されている。ちなみに、三津七湊とは室町時代の廻船式目に載る日本全国の十の重要良港で伊勢安濃津、筑前博多津、薩摩坊津、和泉堺、十三湊等の内外重要航路の事である(『日本国語大辞典』九巻)。
さて、日持上人がどうして表玄関の九州を選ばす、裏街道の奥州を経て津軽から船出して渡島し、中国大陸に渡航されたのであろうか。これは、当時の仏教僧侶の中国渡航に比べ異例中の異例であった。これまでの日蓮宗の後世伝記では、何か間口が狭く現代世代への説得力としては弱すぎて、その上史的根拠を失う伝説の弱みから為宗的護教的立場での研究発表のみに終始された憾みがある。日持上人像も、依然として幻の城内に在します上人であった。これまで上人に纏わる幾つかの疑問に対して、私は英国のアガサ・クリスティーにご登場をお願いしたいくらいである。
日持上人が一二九五年の元旦、東部環球開教の目的をもって旅立ったのは、奥羽平泉藤原三代の独立王国が滅亡して約百年が経った頃であった。鎌倉時代に生きた上人は、平泉文化について十分な知識を持っておられたはずである。
藤原三代は、一〇八七年から一一八九年までの約百年有余の間に京都以北の地つまり東山道の奥に人口十万人の京都に次ぐ大都会をつくり上げていたのである。丈六の金色釈迦三尊の金色堂をはじめ中尊寺塔四十余宇、坊舎三百余宇を建立した清衡、そして二代目の基衡に至っては中尊寺を凌ぐ毛越寺の金堂、講堂、二階創惣門、鐘楼、経蔵、堂宇四十余宇、房舎五百を数えた大伽藍が中尊寺に相対して東山道の奥に出現したのであった。初代清衡のごときは七千余巻の一切経を輸入するに際して十万五千両の黄金を支払った程である。これ等は京都中央の人々がそれまで東北人になした寃罪を払拭しようとした意図と同時に背後にある豊富な産金経済力があっての事であった。
芭蕉が中尊寺に詣でて「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ元禄二年、一六八九年頃でもかなりの建物が残っていた事から、日持上人が奥羽へ向かわれた一二九五年頃の平泉の状況は推して知るべしである。天台教団出身の日持上人には、藤原滅亡から百年が過ぎた平泉であっても大陸渡航には欠かせない情報、資料が入手出来る確信があったに違いない。というのは日持上人の通過された津軽や船出の十三湊一帯は後述するように平泉藤原氏と姻戚関係を結んだ十三藤原氏や安東水軍の海洋豪族の直接支配下にあったところである。上人通過の津軽の歴史や十三湊集結の国際交易ルートを述べる前に、鎌倉時代頃までのわが国と中国の交易ルートや仏教僧侶の往来について触れておきたいと思う。
二、中国と仏教僧の往来
さて、日本と中国の国家的次元での交渉は、推古天皇十五年に小野妹子を隋に遣わした第一回の遣隋使(六〇七年)がその新紀元である。爾来遣唐使停止になる八九四年までの二八七年間幾千人もの文化人が、中国に渡り文物の吸収に努めたのである。七世紀頃の遣隋、遣唐船は通常中国への道程として朝鮮沿岸に沿って、陸が見える範囲の近海航路を続けていた。つまり難波||博多||朝鮮西岸を北上||勃海を横断||山東半島に上陸||そして長安へ。これが、新羅の朝鮮統一によって直接博多から玄海を横断して揚子江口に入り、その後楊州を北上して、長安に到るという南路に変わって行ったのである。
それとは別に日本では、七二七年から始まった勃海入貢による国交が二百年程続けられていた。特に勃海は三十五回も使節団を送って来て修交に努め、やがては貿易に重点がおかれるようになった。遣唐使廃止の八九四年以後、短期間ではあったが勃海が唯一つの交易国であったのである。そしてこの勃海の二百年に及ぶ通交は、日本海がその舞台であった。ウラジオストックから日本海を横切って敦賀、小浜に上陸したものである。こうした史実は、その後の日本の国際交易ルートに極めて重要な意味を持った日本海交易の夜明けともいうべきものであった。それが、やがて日本海の北方海洋豪族の着眼となって日本史の裏街道に活躍する事になるのである。
遣唐使が廃止になったとはいうものの、商人、僧侶等の私的な交渉はあとを絶たなかった。次いで宋代になると益々盛んとなり、源信に至っては自著の「往生要集」を寛和二年に宋の商人周文徳に託して天台山国清寺に納経させているくらいである。こうした事実は最早日本仏教が中国仏教から独立した証左であり、仏教の逆輸入であったというべきであろう。日持上人を遡る三百十年の昔であった。その後、仁安三年には我が国禅宗の開祖栄西が、貞応二年には永平寺の開祖道元がそれぞれ入宋している。そしてその後の宋代には、名の顕著な僧侶のみに限っても六十余人が海を越えて渡っているのである。また、これとは反対に来朝の僧侶の中にも名僧が沢山いた。中でも日蓮聖人遺文にも見える法敵の代表者の一人建長寺開山道隆や円覚寺開山祖元等がその名を連ねている。
次の元朝になると、入元僧、来朝僧の数は増加の一途を辿り、史実に見えるものだけでも二百余人を数えるのである。中でも特筆すべきは鎌倉極楽寺良観の弟子円種が日持上人の二、三年前に入元して、帰朝に際して一切経を持ち帰っている事である。
以上私は日本と中国の特に仏教僧侶の往来について述べて来たが、これは彼等の殆どが日本から中国に学ぶ留学生的立場に在った者であり、また、中国からは教師的立場に立つ来朝僧侶であった。この事実とその往来は文永、弘安の役という国家非常時の緊迫事態にも関わらず、全て当時の正常ルートであった難波、九州からの往来であった事実をはっきりさせておきたかったからである。仏教僧侶とは別に日本から商魂たくましい商人らが文永の役と弘安の役の間に幾度も中国に赴き貿易を行っていた事も『元史日本伝』が伝えている。日持上人は師日蓮聖人の理想に燃焼すればするほど反逆の情熱でもって当時の常識に従わなかったのではないかと思われるのである。「臨終すでに今に在りとは知りながら、名聞利養に著して。命すでに一念にすぎざれば。名を十方の仏陀の願海に流し。有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば三途に恐れなく八難にはばかることなし」等の言葉には、これを心静かに拝読すると日持上人と、師日蓮聖人との信仰的直結が見られるばかりでなく、日持上人の極限的内面にその決意と行動の動機が理解されて来るのである。そして、その事がお題目の開教という前代未聞の伝道渡航となったと思われるし、また、当時の各宗に見られる留学的立場からの渡航と違っていた事や、当時の中国は日本にとっては文物は勿論の事、仏教に至っては宗家同然の格式を持っていた国であった事等から、敢て日持上人は大見得を切らず、門下に迷惑をかけては相済まぬという配慮から、敢て一人裏街道たる奥羽からの中国渡航を計画なされたものと思われる。
三、津軽史
正式に日本史に現れる津軽は、鎌倉幕府の威力ですら平定する事が出来なかった蝦夷(アイヌとは異なる)が住む地であった。県人の太宰治が昭和十九年に書き上げた『津軽』に古代民族史、歴史地理学の日本の最高権威学者であった喜田貞吉博士の奥羽沿革を引用して別の範疇に属する人種集団部族ではなかったかと述べている(『津軽』太宰治 昭和十九年 小山書店)。
参考までに直接喜田貞吉博士の説を引用して見ると次のようである。
「頼朝の奥羽平定以後と言えども、その統治に当たり自然他と同一なること能わず、出羽、陸奥においては蝦夷の地たるによりて。」とあって興味深い。
奥羽とは奥であり、出羽とは出端しという境界外の異民族集団が居住する地域を意味する言葉であった。しかも、その先の極北の津軽半島の如きは熊や猿の住む土地くらいにしか考えていなかったようである。それは正に日本の歴史にとり残された日本のチベットに他ならなかったのである。津軽に住む蝦夷は、遠い古い時代から日本海を渡ったり、漂流したりして辿り着いた異人達との混血によった人種で、先住民のアイヌとは違った人々であったと言われている。津軽地方に津保化族や阿曽部族が住んでいて、紀元前六百年頃の中国春秋時代の西晋の王族公子一族が敗北の後、東に新しい国を求めて津軽十三に漂着したという伝説が残っているが、津軽に出土する遺物、遺跡から一場の伝説や説話として一笑に付せないものがある。そして幾世代にわたる北方アジア人との混血から荒吐族となり、最後に到って日本史に登場する程の勢力を持った安倍族となったと伝説は伝えている(『市浦その史跡を訪ねて』葛西安十朗著 平成元年五月 西北刊行会)。
津軽では昔から、反抗する相手や嫌な相手の事を津保化(つぼけ)と津軽弁特有の濁音で呼び敵対視したものである。また、混血を証左する顔の輪郭が主流を占める日本人と違っていて大変興味深い。それは主流を占める日本人に比べて鼻が高い事である。その他、蝦夷の名を留める蝦名という姓が数多く津軽に散在している事実がある。要するに、津軽は日本の何処よりも閉鎖的な隔離された別世界を形成しつつ、独自なしかも隠れた裏日本史を積み重ねて行った地域でもあったと言えよう。日蓮聖人のお言葉に津軽に言及なされた個所がある。文永二年聖寿四十四歳の時には津軽地方の交易船について、十年後の五十五歳の時には津軽の歴史事件についてで、それぞれ貴重な価値を持つ歴史的資料である。この事については後で触れたいと思うが、直弟子であった日持上人は必ずや津軽の事情を予め存じ上げておったはずである。
現在の津軽には、東西南北それに中の五郡があるが、日持上人の船出と思われる十三湊は津軽でも本州最北端の日本海に望んだ北津軽郡と呼ばれている地域である。この北津軽郡に生まれ育った私は、小学生頃よく十三湊の先の小泊村の海浜に遊んだものである。そして、この小泊村海浜丘陵から渡島の松前がよく見えたのを記憶して今に懐かしんでいる。小泊村から松前まで僅か十七マイル程度の距離しかない。師父から日蓮聖人の偉いお弟子さんが津軽を通過して松前に渡り、最後は中国に渡って布教されたとよく聞かされたものである。今、北米天地の一隅に在る事三十七年になろうとしている私が日持上人開教のロマンを描くに当たり、星霜七歳一眠中、巡錫無涯西又東という上人の七言絶句が聞こえて来る私情をお許し願いたい。
四、幻の安東一族
十一世紀の奥羽では、幾世代にわたる北方アジア人との混血から荒吐族となった子孫の安倍頼時、その子貞任・宗任・則任等が衣川を根拠地として勢力を拡張して、なかなか中央の命に従わなかった。しかし安倍頼時が、末子の則任に有時を考えて津軽十三に居を構えさせたのは、頼時が前九年の役で衣川で戦死する前であるから一〇五〇年頃であったと思われる。安倍家の祖先の地であった津軽十三に子孫の将来を託した事は、その後の安倍一族に繁栄をもたらした賢明な策であったと思う。
実は、頼時が戦死した翌年長子の貞任も厨川で討ち死にして、ここに史上有名な前九年の役が終わるのであるが、貞任の子である高星丸が叔父の則任の子である安倍氏季の許に預けられ、成長して藤崎城を築き安東と名乗りつつ安倍一族の再興にこれが繋がって行ったからである。頼時の末子則任は十三湊に築城した稲城を視浦城に増築したが、氏季には実子がなく、平泉藤原の三代秀衡の弟秀久を養子に迎え、津軽の安倍一族と平泉藤原は姻戚関係を結ぶ事になったのである。この秀久は後年秀栄と改名して、城主を秀元に譲って檀林寺を建立して隠居した。以上のような事情からその後の津軽では安倍一族と平泉藤原一族が一体となって北の海・日本海を制覇していく幻の安東豪族水軍が日本史上に現れるのである。
則任の子の氏季の時代、一〇八八年頃から津軽十三湊では交易船が造られ十三海賊と異名をとる安東水軍が誕生を見るに至ったと、十三湊、今の青森県北津軽郡市浦村史の資料が伝えている。従ってこれまでの日本史の上では、平泉藤原は四代泰衡でもって、義経ロマン同様終わりを告げているが、実は裏街道北方の歴史にその後も暫く名を留めているのである。この平泉から津軽の養子となった秀久は名君と言われ、視浦城を更に整備、増築して福島城と改めて面目を一新した。そしてこの福島城が後の城主秀直の時、一二三〇年頃に先の安倍高星丸の子孫である貞季に破れて津軽一体は完全に安東一族の掌中に治まるのである。日蓮聖人の「種々御振舞御書」にある「蝦夷は死生不知のもの、安東五郎は因果の道理を弁えて、堂塔多く造りし善人なり。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』第二巻九八〇頁)のお言葉は、安東一族の消息が窺える貴重な資料であると言えよう。
以上述べた奥羽と津軽の経緯を要約すると、平泉藤原氏が一〇八七年から一一八九年までの約百年余り、安倍氏と十三藤原氏が一〇五〇年頃から一二三〇年頃までの百八十年間、安東一族が一二三〇年頃から室町時代頃までの二百五十年間という長きにわたって、これら豪族は自由な交易を北の海に展開させたのである。津軽では、子供が泣いたりすると“モコ来るぞ”と言って、蒙古が泣く子供を止めさせたものである。隔離された土地での伝承は歴史そのものであったのである。文永の役には北条幕府の要請により水軍を派遣して元軍と交戦した事や、弘安の役では残船の蒙古兵を軍船に乗せて帰国させた為、国王から感謝された伝説や、さんしょう太夫の『日の本将軍』が実在の北の海の豪族、安東将軍をモデルにした中世の語り物を種本としていた事等、伝承は歴史の大衆的語りそのものだったと思う。
五、国際交易港・津軽十三湊
私は、初めて津軽地方の歴史に接する方々に年代、人物、地域をよりよく理解して頂きたいので、ここに系図、年代、七道等を掲載した。日本全土からの津軽、平泉藤原との並列的に栄えた安倍、十三藤原、安東、そして津軽と松前がより近くはっきりと見えて来た事と思う。
さて、安東貞季が十三湊藤原の秀直を破って十三湊福島城主になってから約六十五年が過ぎた一二九五年に、日持上人は津軽に足を踏み入れたのである。日蓮聖人御書に安東五郎は因果の道理を弁えて、堂塔を多く造ったとあるように、津軽一帯の覇者安東一族は神社仏閣を多く建立していたようである。少しばかりの寺塔では日蓮聖人は多くというお言葉を使われなかった筈である。現在に残る十三湊「現在北津軽郡市浦村」近辺の遺跡、郷土資料、伝説等から中世の十三湊には、海路安隠を始めとした祈願や海神信仰が盛んに行われていた事がわかるのである。また、日蓮聖人は「薬王品得意抄」に当時の海上交易ルートをお書きになられ、「世間之小船等自筑紫至坂東。鎌倉より夷の島なむとへと着けども、唐土へ不至。唐船必自日本国至震旦国無障也。」と九州、鎌倉、蝦夷へのルートに加え遠海は唐船つまり、大船でなければならぬとまで申されているのである。
中世の十三湊は、三津七湊の天下の良港の一つに数えられていた。湊に停泊していた船の中には様々な船があった。十三湊には五つの海上交易ルートが集結した湊であった。この十三湊は潟湖の天然良港でもあった。長い冬季と陸上では中央に遠過ぎた津軽の人々には天恵にも思われた湊であったに相違ない。ここに比叡山を移そうとされた当時の地方豪族達の心が伝承の中に生き生きと表白されているのは、極めて自然な人の世の習いであったという事が出来よう。この津軽の比叡山を詳細する前に今暫く日持上人当時の北海ルートについて述べたいと思う。
津軽十三湊に集結していた五つの交易ルートの中の三つまでが北方アジアとの交易ルートであった。一つは北海道の日本海を北上して樺太間宮海峡を経て黒竜江に出て、それを遡上して中国に結ぶルート、二つには北海道東海岸、千島列島を経てカムチャツカに至りロシアと結ぶルート、三つには津軽から日本海を横断して直接大陸と結ぶルート。これが日本沿岸太平洋側と日本海沿岸若峡までのルート以外にあったのである。日持上人のルートは以上の中の初めのルート間宮海峡経由と三番目のルートであったと思われる。行程としては三番目の日本海横断は間宮海峡経由に比べて半分以下の距離であるが、これまでの宗門史や遺跡上の傍証から考えて間宮海峡経由の中国への渡航であった事が有力である。
六、「十三往来」と中世の津軽
次に日持上人の船出の十三湊を当時の「十三往来」という伝記によって眺めて見たいと思う。この「十三往来」は、北方日本史の歴史家も引用する一三三五年頃の記述である。まず、その原文を掲げておこう。
「十三往來」
夫天竺王舎城。震旦長安城。我朝平安城。三國相應之都也。干茲コノ親近アタリ奥州津輕十三湊。於二新城一並レ肩城郭。從二坂東一不レ可レ有。此城郭方八十町。柵築廻。内面々構二要害一莫太也。從レ外見明白也。樊檜養由之成レ勇。輙引レ弓打物取難レ向。其外景物多過二八景一。可レ言二十景一。東山之野澤。為二眇々一牧也。數千匹之馬。交二麋鹿一。成二思々之勇一。心々遊行。見二風情一。誠希代景物也。南湖水濃々。照二月水底之暗一。青波靜有二漁浦之便一。遥見二巌木嶽一。交二花残雪一興二遠眼一。出レ谷鶯舌依レ聞近。雲霞靉レ麓。山之嶺高而顯二大空一。誠諍二富士山一程名山也。西滄海慢々。而夷船京船群集。並二艫先一調レ舳。湊成レ市。亦濱之大明神之奉レ拜二社堂一。並レ甍玉籬立圍。嚴ニ神殿之床十四丈。立二遠鳥居一。其問畳二切石一。不レ異二瑠璃扉一。奉レ尋二此明神本地一。東土淨瑠璃世界教主。醫王善誓垂レ跡給事年久。十二大願之網張二法界海一。爲レ救二無縁之群類一。瓦礫塵砂交レ身。風波擔二海邊一。垂レ跡給事。寔悲願頼母敷靈

也。北深山連二堂塔一。

坊無レ透。圓宗修學禪林寺。過現未堂三千佛。光明赫々面靈山淨土覺。亦龍興寺之爲躰見。後青山峩々而峯清嵐鳴レ梢。前瀧水漲落座禪驚レ睡。阿吽寺之鐘聲成二諸行無常之告一。後夜晨朝之勤聲穿二寂滅爲樂之雲一。是亦殊勝之景物也。新町並レ棟接レ軒。數千萬家造。商人賣買任レ心。民烟稔。相内河水清。許由洗レ耳。巣父牽レ牛歸。穎泉流不レ異。

環穂磨明神奉レ拜二レ堂一。前臨二海邊一。岩崛峙レ峯。松風颯々調レ琴。麓白浪疊レ花千片。于レ茲熊野之權現垂レ跡事年久。靈驗少不レ劣二本

一程名山也。亦館之内奉レ崇二羽黒之權現一。宜三御神樂無二怠轉一。桝橙之皷聲梢二五衰雲一。感應之圓大

々鈴音振二捨乳霞一。偏利生之花鮮也。頼母敷哉。禮レ是拜レ彼。無レ不レ催二心肝一。惣而此

島之城郭。左青龍。右白虎。前朱雀。後玄武。四神相應之靈地也云。
<現代語訳>
それ天竺には王舎城、震旦には長安城、わが朝には平安城、これ三国相応の都なり。ここにまのあたり、奥州津軽の十三湊は、新城(福島城)においては、肩をならぶる城郭は、坂より東(箱根から東即ち関東地方から東北をさす)に、あるべからず。城郭は、方八十町柵木を築き廻し、内は面々要害を構うること、ばく大なり。外より見て明白なり。焚噌(はんかい)養由(二者とも中国古代の豪傑と弓の名人)の勇を成すも、たやすく弓を引き、打物取って向い難し。その他、景物の多きこそは、八景に過ぎて十景ともいうべし。東山の野沢はびうびうたる牧なり。数千匹の馬ども麾鹿を交え、思い思いの勇をなし、心々に遊びゆく風情を見れば、まことに稀代の景物なり。南は湖水濃々として、月は水底の暗きを照し、青波静かにして、魚獲るの便あり。はるか巌木獄(岩木山)を見れば、花は残雪を交えて遠く眼を興じ、谷を出ずる鴬舌は、聞くによって近く、雲霞麓にたなびいて、山の峰高くして、大空にあらわれ、まことにこれ富士山とあらそうほどの名山なり。西は滄海浸々として、夷船京船群集し艫先を並べ舳を整え、湊は市をなす。また浜の大明神の堂を拝し奉れば、甍を並べ、玉垣立ち囲みて厳かに神殿の床は十余丈、遠く鳥居を立て、そのあいだに切石をたたみて、瑠璃殿に異ならず。この明神の本地を尋ね奉れば、東士浄瑠璃世界の教主、医王の善聖垂跡なし給うこと、年久しく、十二大願の網を法界の海に張り、無縁の群集を救わんがために、瓦礫、塵砂を身に交え、風波を海辺に担いて、跡をたれ給うこと、まことに悲願たのもしき霊社なり。北は深山に連らなり、堂塔僧坊すき間なく、円宗の修学、禅林寺過現未堂三千仏の光明、かくかくとして、霊山浄土とも覚ゆらん。晩にまた、竜興のていたらくを見れば、後には青山蛾峨として峰の清風、梢を鳴らし、前には滝の水みなぎり落ちて、坐禅の睡眠を驚かし、阿

寺の鐘の声、諸行無常の告をなし後夜寂朝の勤声は、寂滅為楽の雲をうがち、これまた殊勝の景物なり。新町(十三)は棟を並べ軒を接し、数千万家を造り(民家が多いさまを形容したもの)商人は売買心に任せ、民のかまどは煙ににぎわい、相内川の水清うして、許由の耳を洗うべく、巣父牛を引いて帰る。穎泉の流れに異ならず(中国古代の故事を相内川の流れに結びつけ、きれいな川を形容している)。はるかに穂璃磨明神の社堂を拝し奉れば、前は海辺に望んで岩屈峰にそばだち、松風さつさつとして琴の調べ、麓は白波花をたたむこと、千片たり。ここに熊野の権現跡をたれ給うこと、年ひさしく、靈験少なくも、本社に劣らざるほどの、名山なり。また館(羽黒舘)のうちに羽黒権現を崇め奉り、よろしく祈年御神楽、怠転無かるべし(祭りや御神楽をなまけることない)。椒頭の鼓(山椒の木でつくった太鼓)の声は五甕(五つの厄)の雲を消し、感応の月まどらかにして大なり。ぎょうぎょうたる鈴の声は、捨乱の霞を振い、ひとえに利生の花鮮かなり、たのもしきかな。是を之し彼を拝するに、心肝をたのしましめざるはなし。惣じてこの福島城郭は、左に青竜、右に白虎、前に朱雀、後に玄武(四方を譲る神)四神相応の靈地なりをいう。
十三往来の記述者
相内山王坊阿

寺(現在北海道松前町に在り)の僧侶弘智法師(印)が建武年間(一三三四|一三三七年)に書いたと伝えられる。
『津軽の夜明け』より写す。
津軽考古学会編
新潟県三島郡寺泊町野積
西生寺(真言宗智山派)
この「十三往来」は、渡島の僧侶弘智法師によって書かれたもので名文である。十三湊の様子が手にとるようである。十三湊がそのまま十三千坊に重なっているのである。津軽の岩木山の秀峰は花残雪を頂き、湊は外国船、京船が停泊し、深山に堂塔連なり、数千の万家の篭は煙に賑合い、十三湊こそ左右前後に四神相応しい浄土なりと結んでいる。この「十三往来」に中世の津軽が実に見事に描写されて美しい。津軽と比叡山の結びつきには余りにも距離的無理があるように思われるが、日本海沿岸の当時の交易ルートを考慮に入れると簡単に解決されるのである。津軽と若狭は直結の沿岸ルートであり、船が若狭の小浜に上陸すれば九里半で坂本・比叡山に到る事が出来る。実際には想像以上に津軽は京都・幾内に近かったのである。一四四七年には安東康季が若狭国羽賀寺を後花園天皇の勅命で再建している事実等は、その間の事情を明確に語るに余りあると言わねばならない。
この比叡を北国に移したような十三湊の堂塔も、安東豪族の城壁も、湊も、民家も興国二年(一三四一年)八月の大地震と津波に襲われ全てが一瞬のうちに壊滅し、死者十万人、牛馬五千頭を失ってしまい、安東一族の港は小泊方面へ移って行ってしまったのである。この大きい地震と津波で破壊された十三湊の水戸口は極端に浅くなり大型船の出入りが不可能になり、安東は再起を期す事が出来なくなった。やがて南部勢力に屈して松前に一族が追われ、津軽から永久に姿を消して行ったのである。幻の安東一族と言われて来た所以である。十三湊を襲ったこの地震と津波は北海豪族の歴史まで奪ってしまい、兵どもが夢の跡として、現在の十三湖の湖底の砂に埋もれながら、年に一度の「十三砂山祭り」の語りに伝えられているだけである。先日の北海道の奥尻島の地震と大津波を思う時、郷土史が今に語り伝えている伝承が確かだと思うのである。
日持上人はこれまで述べて来た津軽の埋もれた歴史の流れの中に、四海帰妙の仏勅をおびて一人、当時の北の国際港であった十三湊から中国へ旅立ったものと思われるのである。このように眺めて来ると日持上人の大陸渡航に無理がなく、万人に素直に理解されて来ると思う。
幻の安東豪族の謎も、最近の遺跡調査等でこれまでの北方史上の存在から、日本史上における重要な存在に変わりつつある。同時に幻の日持上人の大陸渡航も津軽十三湊の史的裏付けが確証されて来た今日では、上人のこれまでの疑問であった、どうして奥羽、津軽へと向かわれたかという謎が解かれて来たように思う。ご遠忌七百年をお迎えするに当たって私は上人開教の雄姿を奥羽、津軽の北方日本史の上に見るのである。
七、開教ロマン
一二七一年パレスナのアッカーから出発したマルコ・ポーロは、草原ルートで三年半を費やして元の上都に到着してフビライに会見した。その後十五年間の滞在中に東方見聞し日本は黄金花咲く国として後日西洋に紹介される事になるのだが、そのマルコ・ポーロの帰国に着いた一二九〇年から僅か五年が過ぎて日持上人は中国に渡った事になる。マルコ・ポーロの東方見聞にもきっと平泉の金色堂は純金ずくめの阿弥陀堂として耳に入った事だと思われる。日本海を挟んだ国際交易は互いの情報入手に大きく役立った事は言うまでもない。日持上人二十一歳の時にフビライは国号を元と改めている。もしも上人が訪れていたならば、中国の上都、大都でマルコ・ポーロに纒わる話を随分と聞かされた事であろう。シルク・ロードだけでも何千マイルの想像を絶する距離である。イタリア人のマルコ・ポーロはその倍以上の行程を旅して来たのである。上人もきっとその不屈の精神に感動と敬意の念を抱かれたに違いない。それは命を賭ける者のみが知るロマンでもあるからである。今上人が中国に来てみてはじめて世界は広いという実感に胸一杯となり、日蓮聖人の四海帰妙という次元に烈しい共感を覚えた事であろうと想像するのである。
この原稿をとじるに当たって正法弘通の心の強さ、広さに感慨に咽ぶのは、些たりとも開教最前線に過去三十七年近くの歳月を捧げて来たからであろうか。日持上人の世界的、国際的次元のビジョンを頂いて、益々真実一路の開教ロマンを展開させて行きたいと心弾ませているのである。
参考文献
『青森県市町村史』『板柳町史』『市浦村』『日本史』(旺文社)、『日本文化史概説』(サンソム)、『極東史』(ライシャワー)、『世界史の円仁』(ライシャワー)、『中国史』(陳舜臣)、『日本文化史』(辻善之助)、『日蓮教団史』(影山

雄)、『日蓮とその弟子』(高木豊)、『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)、『津軽』(太宰治)、『日本分県地図地名総覧』(人文社)、『日本国語大辞典』(小学館)、「正法」(日蓮宗)



