日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第28号:183頁〜 現行の沙弥校カリキュラムの実際とその実証的評価−修行による意識の変容プロセスを前提として− ←前次→

現行の沙弥校カリキュラムの実際とその実証的評価
 −修行による意識の変容プロセスを前提として−
 影 山 教 俊 (現代宗教研究所研究員)

はじめに
 この小論では、現在京浜教区において実施されている「沙弥校」、そのカリキュラムの実際を修行による意識変容のプロセスの立場から評価し、さらにそれを『天台小止観』の実証的理解を踏まえて論述することにある。
 それによって宗教教育とはいったい何を指向すべきものであるのか、それはどのように実践されるべきなのかを考える。また、法器養成(僧侶の教育育成)の重要性が問われ、その「総合一貫したカリキュラム教育」も主張されて久しい現在、この種の問題に関する実証的な研究成果は宗門の内外に於いても少なく、具体的な評価を加えるまでにはいたっていない、という問題解決の一助を目指すものでもある。

一、沙弥校カリキュラムの目的について
−子供たちの意識構成の理解が前提となる−
 前年度は「現代法器養成考」と題して、現行の「宗教教育」が本来目的とすべき「人格の向上、資質の変化への指向」を忘れ、一般教育の知識技能教育、一種の職能教育へと偏向していることを指摘いたしました。
 今回は何故このような偏向に陥ってしまうのかを考えてみますと、それは仏教の目標としている「衆生」(生きとし生けるもの)が自ら矛盾し葛藤しながらも、なお自己の本質として抱いている絶対の可能性(仏性)を顕現して、いつの日にか私たちをして仏陀へと開花させることにある、という最も基本的な宗教的事実を忘れているからであります。このような宗教教育の本質に関わる「仏性の顕現」や、また「人格の向上、資質の変化」という心理的な変化を理解するためには、まず私たちの心の成り立ちを理解することが求められます。
 つまり、私たちは宗教的な基礎条件として「久遠実成本師釈迦牟尼仏」(本仏)と等価(無始仏界に具される存在)でありながら、そのような「本仏による教化」(妙法)を受け、その道理に基づきながら自己が成熟していく「本化の菩薩」という存在であるということであります。
 『観心本尊抄』には、「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す。菩薩界の一分也。但仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむることなかれ。(中略)釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ。(中略)妙覚の釈尊は我等が血肉也。因果の功徳は骨髄にあらずや。(中略)釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界也。其跡を紹継して其の功徳を受得す。(中略)我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。(中略)我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属也。」(定遺七〇五−七一二頁)と、さきに述べた私たちに内在する宗教的な基礎条件「本仏と等価でありながら、本化の菩薩として絶対に向かって自己実現する在り方」を示しております。
 また『法華初心成仏抄』には、「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒の仏性と、三世の諸仏の解の妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたる也。故に一度妙法蓮華経と唱うれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天一切衆生の心中の仏性を、唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺也。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給う処を仏とはいう也。譬ば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ。……」(定遺一四三二−三頁)と、それが受持一行の妙行、唱題によって自己実現できることを示しております。
 ところで、このような宗教的理想を私たちの実際と対比するならば、この内在する基礎条件「本仏と等価でありながら、本化の菩薩として絶対に向かって自己実現する在り方」は阻害されており、現実の自己において矛盾し葛藤しているわけであります。
 このような阻害を心理学的に説明しますと、その内在する絶対性は情動という心的エネルギーによって抑圧されていると理解できます。これは仏教でいうところの煩悩に相応するものであります。この煩悩について簡単に説明いたしますと、煩悩には二つの種類があります。
 まず身体性に関わる本能としての先天的な根本煩悩。これは身滅智しなければ克服できないものであります。そして、もう一つは後天的な客塵煩悩であり、成育過程によって情動エネルギーの抑圧として構成されているものであります。つまり、根本煩悩は「仏界の抑圧」(仏界は現じ難い)に関わり、客塵煩悩は「本化の菩薩界の抑圧」に関わっていると考えられます。
 今ここで問題となるものは、日常性に関わる後天的な抑圧、客塵煩悩でありますから、この客塵煩悩としての後天的な抑圧が私たちの心の中に生ずる過程について説明を加えてみたいと思います。
 まず私たちの心は、先天的な素質と、後天的な素因と母子関係という生育環境などの三つの要素によって構成されていることが指摘できます。
 今は抑圧が構成される上で重要な意味をもちます母子関係に焦点を合せますと、私たちは母子関係という生活環境によって、その生育を約束されております。どのようなことかといいますと、私たち人間がほかの動物と大きく異なることは、生理的早産として生まれ、まず一年間は母親の育児にまったく依存し、その依存は三歳ぐらいまで続きます。そして、この三年間に人格的な心の構成がおおよそ決定され、心の基礎のうち約六〇%が構築されるといわれております。
 どのように構築されて行くかといいますと、精神力動論では、意識と無意識の関係から次のように説明しております。生理的な生存欲求、それから発達欲求などが二大欲求として働きかけて、心がの基礎が構築されて行きます。
 まず生理的な欲求は、快・不快の情動という心的エネルギーとして意識され、始めて自己表現されます。どういうことかといいますと、空腹という不快な情動を意識することによって、子供は泣き声をあげることで母親に自分の生理的状態を表現します。その時、母親が敏感にその泣き声が、空腹であると察知して、お乳を与えることで、生理的な不快が快に変わり、子供は生理的に充足すると同時に、そこに泣くことによって母親に自分を表現し、それによって自己充足が行われるという生理的な情動を基礎とした一つのコミュニケーションが成立することになります。また、生理的な欲求は、空腹ばかりではなく、温かいスキンシップを求める眠ぐづりや、排拙にかかわるオシメの状態などがあります。
 ここで少し大切なことがあります。もし生理的な欲求が円満に充足されずに、例えば人間という生き物は機械とは違い非常にファジーですから、いつもより早く空腹になることもありますから、予定外に空腹で泣いているときがあります。そんな時に母親が自分の都合で、さっきお乳をあげたばかりだからと考えて、また、いろいろな都合によってその泣き声を無視したり、あるいは空腹で泣いているとき、オシメを代えてみたりなど、ちぐはぐな関わり方をしますと、子供のほうは生理的な不快の情動を訴えているにもかかわらず、そこで生理的な快が与えられませんから、子供にとって自己表現して外に働きかけても、不快が快にならないわけで、コミュニケーションが成立しないばかりか、もっとも人格的なものの基礎になる生理的な快の情動エネルギーが抑圧されて、いくら泣いても誰も何もしてくれない、私は一人なんだ、人は利己的で生きているということ自体がそもそも不安なんだ……などと不快の情動エネルギーが前面に位置づけられて、そこに生理的な緊張が生ずることになります。そして、このような緊張が抑圧されていると、やがてある時期になると精神的な病気や心身症(器官性劣等などとして)などの発症に関係するといわれております。
 次にこのような生理的な欲求を基礎としながら、発達欲求としての働きかけが始まります。ハイハイをしながら、いろいろな物を口に入れたり、触ったり、壊したりしながら知的な学習を始めます。この時代の教育といいますか、この時代の過ごし方は、いろいろな物を自発的にあれを見たい、これを触りたいなどと発達欲求の働きかけによって、俗にいう知恵が付いてゆくわけです。そして、これらの欲求を充足統合するかたちで人格が出来上がって来るわけです。
 世間でいう「知・情・意」とは、大脳生理学的には次のように説明できます。意とは「生きようとする意欲」(脳幹の視床下部から分泌される甲状腺刺激ホルモンなどに支配される)、情とは「快・不快による生理的コミュニケーション」(大脳辺縁系から分泌されるドーパミンなどに支配される)、知とは「発達欲求によって生ずる人格の統合」(大脳新皮質から分泌されるβエンドルフィンなど)という段階で人格的に統合されて行く過程を示しているわけです。
 ところで、この発達欲求に動かされている時期に、その何かをヤリタイという情動が充足されずに抑圧されることがあります。どういうことかといいますと、そこに生活環境が関与します。つまり母親の関与です。母親はすでに自分の生活基準を持っておりますから、子供の発達欲求に価値観をもって教育指導をはじめます。これをするのは悪い子、これをするのは良い子というように、本来発達してゆくために必要な行動を親の都合、母親の価値観で情動エネルギーが抑圧されてしまいます。
 この抑圧が何を意味するかといいますと、子供は母親に依存して生きているのですから、当然のこと母親の指導には適合して行きます。「あれをやりたい!」という発達欲求を我慢して、母親へと過剰に適合して行くことになります。つまり、お母さん好みの良い子へと変身してゆくのです。
 この適合で子供の心のなかでは、「あれをやりたい!」という情動が意識野に残っていると、当然ストレッサーになり不安を生みますから、心理機制が働き「あれをやりたい!」という情動エネルギーは無意識の倉庫へと抑圧され忘れてしまいますが、その情動は隠れているだけ、本人には意識されていないだけで実際には生きております。やがて、この抑圧された情動エネルギーの量が増えてくると、無意識の倉庫に納まりきれずに意識野に影響を及ぼしはじめ、神経症などの発症に深い関わりをもつと指摘されております。
 ここまでお話を進めてきますと、なぜここでこのような心の成り立ちについてお話したのかがご理解いただけたと思います。それは私たちの心の成立過程を生理心理学などの諸学を基礎として整理することで、私たちに内在する基礎条件「本仏と等価でありながら、本化の菩薩として絶対に向かって自己実現する在り方」を抑圧する後天的な情動エネルギー(客塵煩悩)が生ずる過程が実証的に理解できると同時に、宗教教育によってなぜ人格の向上や資質の変化が可能になるのか理解できるからであります。
 具体的にこの情動エネルギーの抑圧によって生ずる心の問題点を挙げますと、上述したような初期の欲求が抑圧された人間はそのレベルの機能に固着する。例えば、子供のころあまり好かれなかった人は、生涯を通じて自己評価の欲求にこだわり、自己顕示欲の強くなることが知られております。また、このレベルでの抑圧は六歳前後には潜在化してしまい、ちょうど小学校の高学年頃に顕在化するまでは日常性に影響がでることはありません。登校拒否などが割り合い高学年に多いのはこのためなのです。
 ですから宗教教育とは、このような「本化の菩薩へと自己実現する健全な欲求」を妨げる過去の否定的な経験による利己的な悪癖や悪習、また自分自身との接触を不可能にする内的防衛、生理的欲求の欠如(基本的な生理欲求・快感の追求の阻害)などの心身両面にわたる情動エネルギーの抑圧を解消し、沙弥となる子供たちに生理的欲求(食欲、睡眠、性欲など)、安全欲求(安定、秩序など)、所属と愛の欲求(家族、友情など)、自己評価欲求(自尊心、承認など)、自己実現欲求(能力の開発など)の段階を通じて、「本化の菩薩として絶対性へ向けた自己成熟」という自己の健全な在り方を実現させるプロセスであり、具体的には「沙弥校カリキュラム」ということになります。

二、修行を前提とした宗教教育の意義を実証的に理解する
−沙弥校カリキュラムは修行を前提として、
   煩悩という情動エネルギーの抑圧を解消するプロセスである−
 ここでそのプロセスを概観いたしますと、修行の指南書である『天台小止観』には、その基本的なプロセスは「修五番止観」の実習あるとし、それによって情動エネルギーの抑圧が解消する実際を次のように示しております。
 まず抑圧された情動エネルギーを発散(情動発散)させるために、「変性意識状態」を誘導する基本的プロセスは坐禅(坐中に於て止観を修す)を中心に「修五番止観」を「一、初心の麁乱を対治せんとして止観を修す。二、心の沈浮の病を対治せんとして止観を修す。三、便宜に随って止観を修す。四、定中の細心を対治せんとして止観を修す。五、定、慧の均斉ならしめんがために止観を修す。」(『天台小止観』岩波文庫 九三頁七−八行)として示している。
 また日常生活の全般を「十二の事柄」(六種の縁と六塵の境)に集約し、生活全般のいちいちについて「修五番止観」が前提となっているならば、全ての行為が修行となるとも示されている。
 そして、『天台小止観』では、修行を始める条件としての第一章から第五章(縁を具える、欲を呵せ、蓋を棄てよ、調和、方便行)までを実習し、修行を始めるために、心と身体をリラックスさせる身体的条件を調え、続いて修行者が坐禅を組んで座ったとき、初めのうちは心が粗々しく動いて安定しない。その心を落ち着かせるために、三種類の止の方法が挙げられております。
 一に「繋縁守境の止」として、意識を眉間、鼻先、臍下丹田という身体的要素へ集中することで、心の散乱を止める方法。
 二に「制心の止」として、心は五根(眼、耳、鼻、舌、身)という五つの感覚器官、つまり、身体的要素からの情報によって動かされるのであるから、その五根からの情報に一定の距離を置き、意識的には動かすまいと心を制止する方法。そして、この二つの方法が修行中に散乱する心を止める基本であるともいいます。
 更に三の「体真の止」として、前項の「繋縁守境の止」「制心の止」をそれぞれに即して実習し、心を身体的要素(事の相)に意識的に集中して一応の安定を得たところで、次にはその集中しようと意識する心、止めようとする意識に一定の距離を置き、それを生ずるままに受け流し、能観と所観の分別できない意識、一如の状態を維持するように指示している。
 次に「観の方法」を説いて、初心の行者は坐禅中にも心が種々の対境に捕われており、心が一つに絞れず、「体真の止」の方法を用いても妄念が止まない場合には、無理にそれを止めようとせずに、返ってその心がひっかかっている妄念(精神的要素)に意識を集中することで、現状の自分より一次元止揚された高所から、第三者的に自分の妄念を観照し、心の動揺を制して行くことを指示しております。
 つまり、止観の二業の修行は、止の方法として「意識の身体的要素への集中」と、観の方法として「意識の精神的要素への集中」によって、心身共に安定した状態、実証的な意味では、心と身体を弛緩させリラックスさせることで変性意識状態を誘導し、抑圧されている情動エネルギーが発散する自律性解放の状態を作りだし、普段は抑えられがちな自己調整能力の回復を目指しているということであります。
 以上の過程を整理しますと次のようになります。
  1、「訓練を始めるために、心身をリラックスさせる条件」
    『天台小止観』第一章「具縁」、第二章「呵欲」、第三章「棄蓋」、第四章「調和」、第五章「方便行」
  2、「意識の身体的要素への集中」
    第六章「正修行」の「止の方法」
  3、「意識の精神的要素への集中」
    第六章「正修行」の「観の方法」
  4、「その結果として生ずる心身の変化」
    第七章の「善根が発する相」
に相応して、心身両面にわたる情動発散を示している。
 そして、この変性意識誘導の過程を実証的に理解するために、生理心理学的知見を前提として整理しますと、次のように評価できます。
 つまり、修行のプロセスは、精神性の変化、精神性の向上を一つの指標として、霊的な変化を目指している、と文献的には考えられます。
 そして、その精神性の変化を促す基本的なプロセスは、身体性の変化、つまり、身体生理の弛緩を促すプロセスであることもそこから理解でき、また、人間が抱えている抑圧された情動エネルギーによる不健全さの一面は、心理的過程、生理的過程を経て、自覚的には、筋緊張などの形で表出していることが経験的に知られておりますから、修行は、この身体性に見られる生理緊張の解放を一つの指標としていると理解できます。
 ところで、修行のプロセスが生理的な緊張の解放を一つの指標としていることは、大脳生理学的には情動系をつかさどる「辺縁系回路」、解剖学的にいう辺縁前脳、視床下部の緊張を解放するプロセスであり、生理的状態の指針となる自律神経系の機能から見れば、自律神経系機能が昂進した状態でしかも副交感神経系が優位になっている状態といえます。
 そして、この状態は修行の基本的文献である『天台小止観』から評価すれば、止業と観業の双用によって、このような生理的緊張の弛緩を促している状態といえるものです。また、そのプロセスを修行者の意識状態の面から評価すると、修行は、経験的には現状の意識活動の停止、自意識の活動レベルの低下、または停止を意味していることが理解できる。
 つまり、天台は止観の双用によって、はじめに身体性(身体的要素)、次に精神性(精神的要素)に自意識を注意集中することで、生理的な緊張の弛緩を促し、上述の自意識の活動レベルを低下、または停止させることを目指しており、通常この意識状態は「変性意識状態」と呼ばれているものであります。
 そして、この生理的な緊張を弛緩によって促される自意識の活動レベルの低下、または、停止の意味するものは、心理力動的には、下意識(無意識)の活動レベルが活発化し、意識野にその無意識からの情動が表出してくる。これは心理療法の「自律訓練法」にいう「情動発散」「自律性解放」の四種類のパターン、『天台小止観』にいう「発善根相」に相応するものである。
 また、その情動の発散によって無意識の倉庫に抑圧した情動エネルギーにより歪み変形していた自意識が、健全な方向で安定すると、これによって人格の向上、資質の変化が生じる。これは修行の心理療法的な一面であるといえます。
 ところで、上述のように人格の向上、資質の変化が生じたということ、不健全な意識状態が健全なものへと変化するということは、この私という自意識の背後に、自伝的レベルの無意識と集合的レベルの無意識の存在が予想され、さらにその意識全体の根底には、健全なもの、完全円満な何者かの存在(仏性など)が前提とされていると考えられます。
 つまり、上述したような私たちの宗教的な基礎条件「本仏と等価でありながら、本化の菩薩として絶対に向かって自己実現する在り方」(内在する仏性や神性)などの存在が経験科学的な意味で予想されるのであります。
 ちなみに、ここで「読誦・唱題行」を実習する場合も『天台小止観』を中心に評価してみると、「読誦・唱題行」の形態、坐してお経を読み、暗唱し、また、経題を唱える方法は、みな十二の事柄(六種の縁、六塵の境)に納まることは先に述べた通りですが、今はこの十二の事柄に「止と観」を実習する過程を一々について説明を加える余裕がないので、「行」についてだけ略説いたしますと、「止の方法」(意識の身体的要素への集中)について、本文には「行に因るが故にすなわち一切の善・悪等の法あるも、しかも一法の得べきなし。」(『天台小止観』同一一一頁八行)といい、その身体的行為そのものへと意識を集中する、つまり「繋縁守境の止」「制心の止」によって、心が行為という身体的要素に集中されると、修行者には、その行為に繋縁された所観の境だけが意識されることになる。そして、その意識に引かれてしまうと妄念が生じ相続されるので、「体真の止」として妄念と一定の距離を置き、それを生ずるままに受け流しておけば、行為そのものとなっている状態が持続され、妄念に乱されることなく、心は安定する。
 これに続いて「心が身を運ぶによるが故に去来往反あり。これに因ってすなわち一切の善・悪等の法あり、故に名づけて行となす。反って行の心を観ずるに相貌を見ざらん。」(同一一一頁九−十行)といい、自分が行為しようと意識しているから動作できるのであるが、その中には善事、悪事、無記、三毒などの意識が生じてしまう。
 その場合には「観の方法(意識の精神的要素への集中)」を用いて、行為しようとする意識そのものに心を集中し、高所から第三者的に自分の行為を観照して行けば、「行く者および一切の法は畢境して空寂なり。」(同一一一頁十二行)と、それによって心身共に安定した理想の状態が維持できることが述べられております。
 以上のことから、「読誦・唱題行」の実習においても、止の方法として「意識の身体的要素への集中」と、観の方法として「意識の精神的要素への集中」を基礎とし、その臨機応変の応用によって、上述した「修五番止観」を前提として坐禅(坐中に止観を修す)と同様に、修行者の心と身体の宗教的価値を含んだ変化(変性意識状態によって誘発される情動発散)が期待できるのであります。
 そして、『摩訶止観』には、このような「修五番止観」を前提とした修行のパターンを四種類に分類して次のように示している。 
「行法は衆多なるも、略してその四をいう。一には常坐、二には常行、三には半行半坐、四には非行非坐なり。」(『摩訶止観』岩波文庫 上 七二頁三−五行)といい、『天台小止観』では「十二の事柄」に集約されていた日常生活の全般を、更に「常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧」の四つの具体的パターンへと集約しております。
 つまり、『摩訶止観』は、(1)常坐三昧(静止、瞑想、黙想など)、(2)常行三昧(目的を持った身体的な行為、体操、食事、書道など)、(3)半行半坐三昧(読誦、唱題、声明の所作など)、(4)非行非坐三昧(見返りを求めない無意の行為、掃除など)の四つの具体的パターンを通じて、「修五番止観」による抑圧された情動エネルギーの解放を実現しているわけであります。

三、沙弥校カリキュラムの実際を理解する
−現行の沙弥校カリキュラムの実際を修行の実証的プロセスから評価する−
 ここで上述した「修五番止観」を前提とした常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種のパターンを基準として、現行の京浜教区で行なわれている日蓮宗僧風林(沙弥校カリキュラム)の実際を評価してみたい。
 まず四つのパターンは次のように整理できる。
  (1)常坐三昧(じっと坐って静かになる)
  (2)常行三昧(目的をもった行為そのものになる)
  (3)半行半坐三昧(読経、唱題、声明の音声や所作そのものになる)
  (4)非行非坐三昧(見返りを求めない無意の行為そのものになる)
 この四つのパターンを基本として、現行の日蓮宗僧風林カリキュラム、六泊七日の全課程で日間一貫して行なわれている起床に始まり就寝に終わる十四課程のカリキュラムを評価すると、次のようになる。
  @朝のおつとめ  =(1)常坐三昧
            (3)半行半坐三昧
  Aラジオ体操   =(2)常行三昧
   掃除      =(4)非行非坐三昧
  B朝食      =(2)常行三昧
  C自習時間    =?
  D訓話      =(2)常行三昧
  E法儀(2回)  =(3)半行半坐三昧
   声明(2回)  =(3)半行半坐三昧
   写経、境内巡拝 =(2)常行三昧
   読経      =(3)半行半坐三昧
  F昼のおつとめ  =(1)常坐三昧
            (3)半行半坐三昧
  G昼食      =(2)常行三昧
  H読経(3回)  =(3)半行半坐三昧
   法要習礼(2回)=(1)常坐三昧
            (3)半行半坐三昧
   唱題行     =(3)半行半坐三昧
  I夕方のおつとめ =(1)常坐三昧
            (3)半行半坐三昧
  11夕食      =(3)常行三昧
  12講義      =(2)常行三昧
  13唱題行     =(2)半行半坐三昧
  14入浴      =(3)常行三昧
 以上の十四課程は、「修五番止観」を前提とした常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種のパターンと全て相応するものであるところから評価すると、この現行のカリキュラムはなんらの訂正を加えることなく、「沙弥校カリキュラム」として機能しうるということが予測できます。
 しかしながら、現状の「宗教教育としての沙弥校」の姿が、一般教育の知識技能教育、一種の職能教育へと偏向しているのは何故なのでしょうか。
 それは現行のカリキュラム、起床に始まり就寝に終わる十四課程が上述の基本パターンの類型に当てはまったとしても、そこには修行が修行になるための基本条件である「修五番止観」によって抑圧された情動エネルギーを解消するプロセスが機能していないことを意味している。
 つまり、現状の十四課程が形式的であって、そこには精神性の変化を促す基本的なプロセスとして先に掲げた「修五番止観」による変性意識誘導の実際の過程が欠けているために、止観の双用(身体的要素と精神的要素に自意識を注意集中する)によって生理的な緊張の弛緩、自意識の活動レベルの低下による変性意識状態の誘導が起きていないためであると評価できるのであります。
 それは先に「一、沙弥校カリキュラムの目的」で指摘したように、それは仏教の目標となっている「衆生」が自ら矛盾し葛藤しながらも、なお自己の本質として抱いている絶対の可能性(仏性)を顕現して、いつの日にか私たちをして仏陀へと開花させる道であるということを忘れているからであり、結果として現行の「宗教教育」が一般教育の知識技能教育、一種の職能教育と混同されてしまったからであると考えられます。
 この誤りを正すためには、宗教教育が「人格の向上、資質の変化」という精神性の変化を目指すものであるという観点にたち、とくにその宗教教育に携わる指導者方が今まで述べたような「沙弥校カリキュラムの目的と実際」を正当に理解し、そして、自らが精神性の変化を促す基本的なプロセス(修五番止観)を前提とした止観の双用(意識を身体的要素及び精神的要素へと注意集中する)によって生理的な緊張の弛緩、自意識の活動レベルの低下、自律神経系機能からは自律神経系機能が昂進した状態で、しかも副交感神経系優位の状態に維持することで変性意識状態の誘導を経験し、宗教教育の講釈師ではなく、宗教教育のインストラクターとして実際に身体的な調適に対する指導が出来るように修練されることが必須条件であると考えます。

四、宗教教育のインストラクター養成と
沙弥校カリキュラム実習の七つのポイント
    POINT 1  簡単な修行理解
 「修行の基本プロセス」という視点からお話を始めたいと思います。
 ここで修行を実証的に評価しますと、
  @「道徳的訓練」
  A「肉体的訓練」
  B「精神的訓練」
という三つのプロセスに分類できます。これは仏教学の「戒、定、慧の三学」にあたり、ここが大切なポイントになります。
 そして、この三つのプロセスの実習によって、心と身体の調和を促し、私たちに霊性として備わっている健全な生命(仏性・お釈迦さまの完全円満な久遠のいのち)が導きだされることになります。
 平たく言いますと、このプロセスは「なぜ人は苦しむのか」(結果)を理解して「その苦しみから救われる方法」(原因)を教えているのです。
 ここでこの三つのプロセスを簡単に概観してみますと、
 まず@「道徳的訓練」を実習して、自分の苦しみを他人の責任にすることを止め、「心と身体の悪循環」を断ち切ります。
 続いてA「肉体的訓練」を実習して身体のストレスを改善し、「身体の正しい感じ方」を実感する。
 更にこの身体の気持ち良い感じを通じてB「精神的訓練」を実習して「心と身体を浄化し」、心の痛手を癒し、霊性を目覚まし、本当の健やかさを経験するプロセスになります。それでは、この修行の基本プロセス@「道徳的訓練」、A「肉体的訓練」、B「精神的訓練」の三つについて具体的にお話しいたしましょう。
 まず@「道徳的訓練」とは、簡単にいいますと、修行するための環境づくりのことなのです。古い言葉でいえば「持戒清浄」ということです。
 では、なぜこんなことが必要なのでしょうか。よく考えてみますと、私たちは「自分の苦しみ」を、割り合い人の責任にして「あいつが悪い!こいつが悪い!」と思い煩ったり、また、その思い煩いをどこかでごまかして、なんとか楽になろうとするものです。しかし、その場で「あいつがこんなに悪い!」と、その責任を押しつけてみても、実のところ心はかえって緊張し、実際には「あいつのせいだ!」とやっている時、心の痛手はもう身体へのストレスとして影響し、「呼吸の不完全・筋肉の緊張・血圧の変化・内臓機能の低下」を来たして、今度は身体の不健康なストレスが心を悩ませ、ついには「心と身体の悪循環」が始まってしまうものです。
 ですから、その解決には「道徳的訓練」として、「人の悪口をいわずに、人の悪を責めずに、自分のこの苦しみは、自分自身の悪癖や悪業によって作られた」と気づくことが必要です。「心と身体の悪循環」を断ち切るために、戒めを持ち、心を清くするのです。
 次にA「肉体的訓練」を中心にお話を進めることにいたしましょう。
 まず「肉体的訓練」がなぜ必要なのかと申しますと、私たちの「自分という意識」と「身体の感覚」との間にズレがあるからなのです。
 少し難しくなりますが、本来、私たちの意識と身体は一体となって働き、私たちの健康、私たちの生命を保っているのですが、よく考えてみますと、私たちの日常生活は「知性の座としての精神」に偏り過ぎて、身体からの危険信号にすら気付かずに、社会的な問題にすらなっている慢性病や成人病、あげくの果てには子供の成人病などに悩まされている。
 簡単に申し上げますと、食事は、一日三食という観念にしばられ、時間が来れば空腹にならないうちに物を食べてしまい、更に化学調味料などで味付けを良くすることで、不必要に過食してしまう。睡眠は、身体が眠りを求める時間になっても、テレビや雑誌や音楽などの興味にしばられて、昼夜が逆転した生活をしていても平気であるなど、例を挙げればきりがありません。
 紙面の都合で話を急ぎますが、これらのズレは最終的に死への不安、つまり、私という意識は「自分はこのまま永遠に生きられる」と錯覚し、身体は毎日「死に向かって時を刻んでいる」という事実を認められない「宗教性の欠如」を招くからなのです。
 ですから、このような「意識と身体感覚のズレ」を解決するために、「肉体的訓練」として身体の緊張を解きほぐしながら、「身体に聞いて心を調える」必要があります。
 その方法は、身体の上方から余分な力を抜き坐を調え、ゆっくりと下腹で呼吸を調えていると、自然に「意識と身体の調和した心」へと調うのです。これは『天台小止観』にいうところの「調身、調息、調心の三事」という修行の最も基本的な方法であり、ここがポイントです。
 この方法で心身を調えて、次にB「精神的訓練」へ進むわけです。
 大切なことですから繰り返しますが、「肉体的訓練」としてまず「調身」(身体の上方から余分な力を抜き、坐を調える)、続いて「調息」(ゆっくりと下腹で呼吸を調える)、すると自然に「調心」(意識と身体が調和した状態)の三段階のプロセスがあります。ことに「調心」(意識と身体が調和した状態)は、呼吸が自然呼吸となり、ゆっくりと浅くなり、手足が温かく感じられたり、重く感じられたりします。これは身体の緊張が解放された証拠です。ここがポイントです。
 そして、この状態になると、心の解毒作用が始まり、過去の恐怖心や悪癖による不安な思い、不快な思いを経験する(変性意識状態の誘導)ことがあります。これは修行が進んだ証拠、心の解毒が終われば楽になります。
 しかし、ここにB「精神的訓練」が必要になります。つまり、「肉体的訓練」で心の解毒作用が始まりましたので、ここで隠されている私たちの本当の生命(仏性・神性)を呼び覚ますために、精神的訓練として「呼吸や身体の気持ち良い感覚」に心をまかせながら、お釈迦さまの姿、観音さまの姿など、宗教的な最高の理想を観念いたしますと、私たちの不健康な意識生活が改善され、健康的な自己実現が可能となるのです。
 以上が「修行の基本プロセス」の心理学、生理学を含めた経験科学的な評価であり、日蓮宗の「唱題行」を含めて、禅宗の坐禅、浄土宗の念仏、ヨーガの瞑想、キリスト教の霊操、黙想などの基本プロセスでもあります。
    POINT 2  湯川式唱題行の実証的プロセスの理解
 「POINT 1 」で修行の基本プロセス@「道徳的訓練」、A「肉体的訓練」、B「精神的訓練」を私たちの心と身体の両面、心理と生理からお話いたしました。
 そこには運動と感覚と認知の働きを少なくさせる方法、身体を操作することによって、心に働きかけようとする「身心的なテクニック」(身体に聞いて心を調える)に特徴があります。
 ごく簡単にいえば、私たちを動揺させる外側からの刺激を減少させる方法であるといえます。
 ではここで現在、日蓮宗で統一信行の修行方として実習されている湯川式「唱題行のプロセス」を上述の修行の基本的プロセスの三段階から説明して、実証的に理解して行きましょう。
 まず唱題行の実際について湯川猊下のお言葉に伺いますと、「礼拝行、浄心行、正唱行、深信行、誓願行」の順序で行なわれ、時間はだいたい一座四〇分から六〇分程度といわれております。
 そして、この実際を修行の「科学的プロセス」と比較すると、次のように相応します。
  (2)道徳的訓練「礼拝行」
  (1)肉体的訓練「浄心行」
  (2)精神的訓練「正唱行・深信行・誓願行」
 では(3)道徳的訓練「礼拝行」から、具体的なポイントを明らかにしながらお話しいたしましょう。
    (1)道徳的訓練「礼拝行」
 まず「道徳的訓練」とは、修行するための環境づくりのこと、古い言葉では「持戒清浄」ということ、「人の悪口をいわずに、人の悪を責めずに、自分のこの苦しみは、自分自身の悪癖や悪業によって作られた」と気づき、心を清くする大切な訓練です。
 これを湯川日淳猊下は「人間本来の霊能妙徳をくらまして、しらずしらずの内に不善非行におとしいれる悪魔ともいうべき厄介なものは、われわれの慢心であって、慢心があっては信仰に入れない。信仰は懺悔の心がもとになるからである。ここにまず礼拝行をなさねばならぬわけがある」と語られております。
 ですから、この「礼拝行」のプロセスは、まず理屈などを考えずに、私たちの理想の姿をかたどった「久遠のお釈迦さま」(ご本尊)のみ前にひれ伏し、み仏の足をいただくように肘をつき、両手のひらを上に向けて耳のところまで上げる姿勢で、「ご本尊」(お釈迦さまの完全円満な姿)をうやうやしく礼拝すると、宗教的な情緒が自然に湧き出て、懺悔の心を引き出してくれるようになることを示しております。
 この場合、合掌から礼拝へと進むポイントは、
  @「合掌する手の温かさに気持ちを置く」
  A「息を吸いながら礼拝し、伏拝の時にはユッタリと息を吐き」
  B「息を吸いながら身体を起こす」
ようにすると、より宗教的な情緒が湧き出やすくなる。ここがポイントです。
 ここで具体的なポイントをお話しいたしますと、「道徳的訓練」としての「礼拝行」は、まず私たちが慢心を捨てて、「人の悪口をいわず、人を責めずに健やかな心」を実現するための環境づくりのことでした。 
 その一つとして「身体の状態を含めた生活環境」を調えることが大切です。
  一、仏間などの静かな場所を選んでください。
  二、座る前に、身体の筋肉と関節を伸ばしてください。大きく背伸びをする。深呼吸をする。手首足首等の関節を入念に回す。手のひら足の裏を入念に揉む。首をゆったりと回し、身体のコリをのぞき、気血の循環をうながす。
  三、楽な姿勢で座り、両手を合せて合掌する。
 そして、更にもう一つは心の状態を高く調え、日常生活から脱皮し、無邪気な童心にかえって修行させていただくために、
  ○礼拝(本尊拝)
   @「合掌する手の温かさに気持ちを置く」
   A「息を吸いながら礼拝し、伏拝の時にはユッタリと息を吐き」
   B「息を吸いながら身体を起こす」
  ○道場偈(合掌の手の温かさに心を置きながら、ユッタリと唱える。)
   「(導師)まさに知るべし、(付)このところは、すなわちこれ道場なり。諸仏ここにおいて三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう」
  ○三宝礼(生身のお釈迦さま、日蓮さまを礼拝する心持ちで行なう)
   南無(付)久遠実成(礼)本師釈迦(伏)牟尼仏
   南無(付)平等大慧(礼)一乗妙法(伏)蓮華経
   南無(付)本化上行(礼)高祖日蓮(伏)大菩薩
 是非このように実践していただきたいと思います。また、ここで「礼拝行」の続きとして、私たちがあまりにも日常的なために見過ごしている「合掌」の意義についてお話しいたしたいと思います。
 先ほどは「礼拝行」を具体的に説明するために、合掌のときは「合わす手の温かさを意識する」こと、「道場偈」では「合掌の手の温かさに心を置きながら、ユッタリと唱える」ことを示し、いずれも「合掌の手の温かさ」にポイントがありました。
 それはどのような理由によるかといいますと、「合掌の手の温かさ」に意識を向けることで、「身体がリラックスし、そして、心が安定する」という身心的な反射を利用したテクニックによったものでした。
 そして、それは「有難い気持ち」「健やかな気持ち」を導きだす基本でもあります。
 もう少し具体的に申し上げますと、私たちの感情といいますか、その一番深いところには、私たちがまだお母さんに抱かれ、その温かい胸、その温かい乳房などの接触による身体からの気持ち良さ、「赤ちゃんがオッパイを飲み、もう眠くなっているとき、その手足が温かくなり、リラックスしているときの安心」が生きているからなのです。
 つまり、私たちの「有難い、健やか」という感情的な言葉の後ろには、身体の気持ち良い経験が生きているわけですから、「礼拝行」では「合掌の手の温かさ」を経験することが大切なのです。
 そして、「合掌の手の温かさ」が充実し、更に身体がリラックスし、心が安定すると、「お腹の温かさ」が感じられるはずです。ここがポイントです。
 次に、合掌から礼拝へと進むときのポイント、「呼吸」についてお話しいたしますと、まず「合掌の手の温かさ」が身体の感じであったのに対して、「呼吸」は心と身体をつなぐ懸け橋の役目を果します。息という字が「自らの心」と書くように、「呼吸」は心の状態を表現しています。
 たとえば、胸の上の方で浅い呼吸をしている人は「不安感のある人」、胸全体で大きく呼吸をしている人は「闘争寸前の興奮している人」、下腹でユッタリと呼吸している人は「安心してリラックスしている人」、これは赤ちゃんが気持ち良く眠っているときの呼吸と同じです。
 ですから、合掌から礼拝へと進むとき「下腹でユッタリと呼吸する」と「有難い気持ち」「健やかな気持ち」が実現できやすくなるのです。
 ことに伏拝の時には「下腹からユックリとながく引くように息を吐く」、呼気にポイントがあります。
    (1)肉体的訓練としての「浄心行」
 続いて、(2)肉体的訓練「浄心行」についてお話しいたしましょう。
 まず「肉体的訓練」として修行の最も基本的な方法である『天台小止観』には三つの事柄(三事)が、
  @調身として「身体の上方から余分な力を抜き、坐を調える」
  A調息として「ゆっくりと下腹で呼吸を調える」
  Bすると自然に調心として「意識と身体が調和した状態になる」
と示されていることをお話しいたしました。
 ことに「調心」(意識と身体が調和した状態)は、呼吸が自然呼吸となり、ユックリと浅くなり、手足が温かく感じられたり、重く感じられたりし、これは身体の緊張が解放され、心が安定してきた証拠で、ここがポイントですとお伝えいたしました。
 これについて唱題行の湯川日淳猊下は「信仰心の性格は、純浄無垢であらねばならぬ。心を清浄にするためには、身心の調和と安定が必要である。浄心行とは、端座調身、整気調息、随息調心の行法を修めることで、身と息と心とを調和せしめるのである」と述べ、そのプロセスが「身体と呼吸と心」の調和にあると、やはり「天台小止観の三事」を前提として示しております。
 ここで(2)肉体的訓練「浄心行」を具体的に示しますと、まず前述したように「礼拝行の三つのポイント」を実習し、続いて、この「浄心行の八つのポイント」を実習いたしましょう。
 一、楽な姿勢であっても背筋は真っすぐにする。そして、手のひらは上向きにし、軽く股にのせる。そして、軽く目を閉じ、口も結ぶ。
 そのところで、手に関して湯川猊下は「法界定印」を勧められ、右手の上に左手を置くという中国禅を取り入れておりますが、生理学的に右利きの人は右手の方が大きくて重いので、初めて実習する方はインド禅のように左手を下に右手を上にした方が安定しやすい。ここがポイントです。
 二、頭から足に向かって順に筋肉の力を抜き、力の入りやすいところを確認して行く。その時、力が抜けないところは、一度力をいれると抜きやすくなる(まぶた、ほほ、あご、首筋、かたなど)。ここがポイントです。
 三、初めのうちは意識的に呼吸をする。呼吸は吐く息が基本ですので、まず身息といって身体についた息を下腹をへこませて吐き切る。そして、下腹でユッタリと大きく呼吸をする。
 四、吸い終えたとき、吐き終えたとき、会陰と呼ばれる肛門のあたりを絞めながら、呼吸を止息して苦しくならない程度に吸いもせず、吐きもせず休息の時間をとる。
 五、呼吸は、吐くときも吸うときも、苦しまぎれに急激に強く行なわずに、下腹でユッタリとできるだけ長く行なうように留意する。
 六、そのうち身体と心がリラックスすると、呼吸は気持ちの良い自然呼吸となり、ゆっくりと浅くなります。呼吸数は一分間に約七、八回ほど、心拍数は約四十回前後になり、血圧は最高血圧が十ミリから十五ミリ下がります。
 ただし湯川猊下はこの「浄心行」に五分程度の時間を指示しておりますが、上述のような生理的安定が実現するには、少なくとも十五分以上の時間をかけてほしい。ここがポイントです。
 七、そして、このように自然呼吸になり心身がリラックスすると、股の上に置いた手が重く感じられたり、上向きにした手のひらが温かくなります。この手の温感、重量感といった感覚は右手より始まり、やがて全体へと広がります。これは身体の緊張が解放され、絞まっていた筋肉が弛み血管が広がり、神経的に副交感神経系が優位になった証拠です。ここがポイントです。
 八、この状態になると、私たちの現業の浄化である心の解毒作用が起こり、恐怖心や不安な思い、不快な思いを経験することがあります。これは修行が進んできた証拠、心の解毒が終われば楽になりますので、自然呼吸や身体の気持ち良さに心を向けて、あくまでもリラックスに心がけていてください。
    (2)精神的訓練としての「正唱行・深信行・誓願行」 
 ここでは「正唱行」を中心としてお話しを進めましょう。
 先の「肉体的訓練」までの実習で心の解毒作用が始まりましたので、ここに(3)「精神的訓練」が必要になります。つまり、ここで隠されている私たちの本当の生命(仏性・神性)を呼び覚ますために、精神的訓練として「呼吸や身体の気持ち良い感覚」に心をまかせながら、お釈迦さまの姿、観音さまの姿など、宗教的な最高理想を観念いたしますと、私たちの不健康な意識生活が改善され、健康的な自己実現が可能となるのです。
 もう少し具体的にお話しますと、まず(3)肉体的訓練「浄心行」では「心の解毒が終われば楽になります(2)…」と、述べましたが実際にはそう簡単に行かないのです。
 ですから、ここに精神的訓練として「南無妙法蓮華経のお題目」を一心にお唱えすることが必要となるのです。湯川猊下は「唱える声を中心にして身と意との二業をととのえ、自行化他の修行をすすめるのが唱題行である。意業中心の観念観法から一転して、口業中心の行法にすすんだ事行の三業受持の唱題行である」と、坐禅的要素の色濃い浄心行から一転して、事行としての正唱行を説きながら、「唱えることと聴くことに全身全霊を傾倒して、口で唱え意で唱え腹で唱え頭で唱え、唱えて唱えぬいて、自分が唱えるのか題目に唱えられているのか、わからないようになるほどに唱えるのである。(中略)純浄無垢の鏡のように心が澄みきった時、我入仏といって、仏さまが自分の中にお入りになったような、ありがたいなんともいいようのない軽妙愉快な気持ちを体得するのである」と、ご自身の唱題三昧、自受用法楽の境地を明らかになされております。
 ではここでその方法をお話しいたしますと、まず身体的訓練を通じて心身のリラックスを促進して、その時の呼吸や身体の気持ち良さに心を向けて、素晴らしい、有り難いという言葉を心に観念いたします。ここがポイントです。
 一、とにかく右手と左手を合わせ合掌して、手の温かさを感じながら、この気持ち良さに心を向けることです。そして、朗々とお題目をお腹から声を出す心持ちでお唱えすることです。
 二、そして、この時に安定し、リラックスできるお題目の速さは、心臓の速さ、そのリズムに近くなります。ここがポイントです。
 この唱題の早さについて異論のある方もありましょうが、湯川猊下は「音調は、緩調(一分間に十回前後)から急調(一分間に三十回前後)へ、そして急調から緩調にかえり、最後に引声(一分間に四、五回前後)に終わるように、順次に緩急の調子をととのえることにする……これは多人数の場合で修行する場合を述べたのであって、かならずしも緩・急・緩調と唱題に変化をあたえねばならぬというのではなく、始めからおわりまで、緩調でゆるゆる唱えてもよいのである」といい、私が示した生理学的に最も安定するお題目の速さのポイント「心臓の速さ」(緩調)を指示している。
 実際に猊下の側にお仕えたお上人は、自行の時には緩調の唱題をなされていたと語られております。
 三、このような緩調で唱題が安定してきますと、やがて妄念や悪感情が必ず沸き起こって来ますので、そうなりましたら、沸き上がって来る感情的なものに心を向けながら、「このお題目で浄化されて健やかになる」と観念して、お題目を一心に唱え続けることです。
 四、また、お題目を唱え続けるときの心持ちは、自分だけの祈りをせずに、「この業が浄化されて、みんなが幸福になりますように!」と、裾野の広い大きな祈りをすることです。
 自分だけの幸福を祈るような利己的な心は、かえって業が浄化するときに悪感情が増幅して、自分をもっと苦しめることになりますので注意が必要です。ここがポイントです。
 五、そして、そのお題目を唱える声だけに成りきっていると、自然に業が浄化され心身共に健やかになれます。
 六、終わりに、お題目を止める順番を簡単に申し上げておきますと、今まで心も身体もお題目と一つになり、せっかく健やかに安定しているのですから、急に心も身体も動かしてはいけません。
 まず心の方から準備を始め、続いてユッタリと大きく深呼吸をしましょう。そして、手や身体を確かめるように、心・呼吸・身体の順番で感覚が戻るように調えてから、静かに実習を終えるようにいたしましょう。
 ところで、「深信行・誓願行」はこの六番目の作法に集約されており、「正唱行」で深い唱題三昧の境地に入り、自受用法楽(生きていることが、ただただ有難いと感ずる気持ち)の状態から、健やかな心の状態を乱さず日常生活に戻る方法が示されております。
  ※湯川日淳猊下の唱題行の詳細は、湯川日淳著『法華経信行要文』(求道同願会刊)をご覧ください。
    POINT 3  坐法と呼吸法の意味について
 まず坐法について、精神医学的な精神身体療法でも「身体を調えて、精神(心)を調える」というプロセスを重要視しており、その要に「坐る」という行為があるといいます。なぜなら、生理学的に立つという行為は交感神経系優位の緊張状態をつくり、寝るという行為は副交感神経系優位の弛緩状態をつくりだし、「坐る」という行為はその中間に位置して交感・副交感神経系のバランスを取り、この状態で呼気に力点をおいた腹式呼吸を付加して、副交感神経系機能優位の調和した状態を維持することで「精神を調える」というのです。
 この意味でも坐法に対する理解の重要性がうかがえます。仏教ではこの坐について、インド以来の伝統から「正定の作法」として「結跏趺坐」(パッドマアーサナ)「半跏趺坐」(シッダアーサナ)などの坐禅で用いられている作法を伝えております。しかし、現代ではその作法の殆どは、幼児や子供、そして女性が実践するには不向きであるとし、日本風の作法として「正座行」を応用しております。
 この「正座行」についてお話しますと、正座が日本風というのはいただけません。なぜなら、正座の歴史は茶道の歴史であり、比較的新しいものなのです。茶道の歴史が始まる室町期から戦国時代の初期までは、お茶会でも茶をたてる亭主は正座でそのお手前を披露していたが、その亭主以外は安座(あぐら)であったというのです。では茶道以前はどのようにしていたのかといいますと、東南アジアへ旅行した方はご存知でしょうが、日本でもそれと同様に男性は安座で、女性は正座をくずしたような横座りがほとんどだったようです。
 日本人が正座へと坐り方を変えた理由は何処にあるのでしょうか。一つはお茶席のスペースが狭いという問題、さらに正座の姿があでやかで機能性に富んでいるということが考えられます。
 ここで身体の構造面から理解しますと、私たち日本人はインドを始め東南アジアの人々と比較すると、体形的に手足が短く「正定の作法」として伝えられた「結跏趺坐」(パッドマアーサナ)「半跏趺坐」(シッダアーサナ)などの作法には不向きなのです。どのようなことかといいますと、脚を組み上げることが出来ずに腰に負担がかかってしまうのです。
 ですから、日本の坐禅では「座布団」を当てているのです。その点正座は両足を折って坐っただけで腰が安定するので、日本人には合っているのでしょうが、長く坐るには脚の痛みが伴ない無理が生ずることも事実です。
 ここで坐法の簡単なプロセスを申し上げますと、坐禅でも正座でも要は「腰の状態」が大切なのでして、坐法のポイントは「腰椎の三番を中心として二番四番でそれを支えている状態」なのです。ですから、このポイントさえ押さえておけば、坐法はどちらでも良いということになります。
 要するに無理なく安定した姿勢で長く坐れることが望ましいだけです。よく正座行などで、脚の痛みを我慢させることが修行であるなどという方がおりますが、我慢は交感神経系を刺激するだけで修行によって安定した心身の状態を乱しますので止めるべきです。ちなみに、インドでは正座を「バジュラーアーサナ」(金剛坐)と呼び、もっとも安定した坐法で、胃の悪いときに多く用いる坐法です。この坐法は東洋医学でいう脚の「三里」というツボ、胃経という経絡を刺激するからだといわれております。
  端坐のポイント(趺坐・正座をとわず)
  @項脊端直……首筋から背中までの自然な背骨のS字ラインを維持できるように腰を上げる。(趺坐ならば座布団をあて、正座は踵の高さ)
  A不  動……余分な動きをしない状態を維持する。
  B不  揺……ゆれない
  C不  萎……ちじまらない
  D不  倚……かたよらない
 以上は坐法のポイントである「腰椎の三番を中心として二番四番でそれを支えている状態」を基本とし、@の項脊端直の状態を実現することが大切なのです。そして、坐法を調節してこの状態を実現しますと、重心が臍下丹田(『天台小止観』では臍下一寸、『摩訶止観』では臍下二寸半という)の辺りにかかり安定します。
 ここで呼吸法の意味について触れておきますと、この丹田という場所は陰陽五行という自然哲学に支えられた中国医学では、生命の維持をつかさどる気エネルギーが流れている十二の経絡(道)の胃経や小腸経の働きと密接に関係しているといわれております。
 またこの場所は現代医学の神経生理学的からは、腰骨と脊椎に関係する神経系に支配されている場所で、とくに胸髄(背骨)の五番目から九番目に支配される腹腔神経節と深く関係しており、肝臓、脾臓、副腎髄質、胃腸管、膵臓、腎臓などの主要な臓器を支配していると理解されております。
 ですから、この部分で血液を含めた体液の循環が円滑に行なわれると、とくに胃経にかかわる臓器が活発に働くことになり、日常的な健康度、基礎的な体力の有無などの生命維持に密接に関わることになるわけです。
 また、この腹腔神経節は腹脳とも呼ばれ、昆虫などは私たち脊椎動物のような脳、中枢神経系の大脳皮質などはありませんが、腹脳としてのこの腹腔神経節によって日常生活の情報をコントロールしております。例えばミツバチが蜜を発見し、仲間にそれを伝えるためにダンスをしたり、羽音を出したりする信号も、腹脳である腹腔神経節で行っているのです。
 ところで、この昆虫の腹脳は、今でも私たちに無意識のうちに働いていて、感情の状態が食べるという行為に影響しております。どういうことかといいますと、例えば皆さんにも経験があると思いますが、イライラ、またはクヨクヨしている時にはご飯が食べられなかったり、うれしい時にはたくさん食べられたり、感情と食べることとには深い関係があります。
 ですから、この腹脳の安定はまた、心の安定にも十分関係しており、修行をするうえで腹式呼吸をうるさく指導することも、横隔膜の上下運動で腹腔神経節を刺激して安定させることを意味しているのです。
 また、インドのヨーガでもこの消化器系に関わる場所を「マニプラ・チャクラ」と呼び、燃える火を意味しており、やはり生命の根源的なエネルギーに関わる場所を象徴しております。
 ここで呼吸法について大切なポイントを挙げておきますと、とにかく先のように「正座」「シッダ・アーサナ」(半跏坐)のいずれかで坐り、下腹でユッタリと呼吸をしながら、その時にこの「丹田」辺りから息が出入りしている、それと同時に「生命エネルギー」がその「丹田」辺りから出入りしているようにイメージを描きながら、息を吸い終えたとき、吐き終えたときに「会陰」(肛門の辺り)を締めたり、緩めたりしながら、まず下半身の気力を充実させ「下実上平」の安定した状態を実現します。
 そして、その安定したところから、また「丹田」に意識を向け、とくに呼吸のときに喉の一番奥のほう、つまり食道の所から「生命エネルギー」が胃の方へ入って行くことをイメージし、胃の中に冷たく快いものが入って行くことをしっかりと意識することがポイントです。多くの人は呼吸をするときに、胃の上部あたりが緊張しがちですので、この方法を実践すると緊張が解けて楽に呼吸が出来るようになります。
 これは『天台小止観』の「身息」に相応し、修行を始めるときに呼吸によって身体の状態を調え、外界に向かって散乱している意識を内面へと誘導し、「身、息、心」の三事を調和させるための基礎となるものです。
    POINT 4  食養、食膳、受食の作法
 医学的にもその人の食事の食べ方は病歴を現すといわれるほど、食事の仕方が私たちには大切な意味を持つことが指摘されております。事実、私たちは一日に三度の食事をいただきますが、三度三度の食事が美味しくきちんと食べられることが大切なのです。そこには自分の身体から、自分のコンディションを聞いてその適量を予め感じて、その適量だけ食べるという生命のダイナミックな営みが働いているからです。
 ところが、現代では食べ物にアレルギー反応をおこす子供が増えておりますが、そういう子供たちは卵や鯵などの青い魚類、人参やピーマンなどに対して過敏に反応します。また、近頃のアトピー性皮膚炎などでも実際の食物アレルギーの反応は二〇パーセントから三〇パーセントで、多くは心の状態、食べ物に対する情動エネルギーの抑圧による不安感が原因であるというのです。
 古来より「躾」の代名詞に「受食作法」が取り上げられるのはこのためなのでしょう。ですから、作法として食べ物に敬いと感謝の念をもつて、@にありがたく、Aにつつしんで、Bにいただく心の状態によって、心身が健康に保たれ、食べ物の本当の栄養が発揮されるのでしょう。
 ここに食物に対する感謝の念と謙虚な気持ちを食事の度ごとに習慣づけることの意義は、宗教教育では極めて大切なことであると思います。
 日蓮宗で用いる「食法」もこの意味で大切でありますが、「天の三光に身を温め……」という昭和十二年に片山日幹上人の作ったものだけで良いでしょうか。日蓮聖人のご遺文や法華経のご文、場合によっては普通の言葉で食に対する感謝の言葉を述べる方法など再考が必要なはずです。古典的に日蓮宗の檀林では、『法華礼誦要文集』が用いられておりました。
 また食養としての精進料理も再考されなくてはなりません。精進料理といいますと、野菜料理を考えがちですが、ようするに精進とは努力の意味ですから、元来修行の妨げにならない食べ物を意味しております。ですから、暑い時期には身体を冷やす食べ物を作り、冬には根菜類など根の付いた身体を温めるものを作ったのです。そして、古来から五辛といって修行中に食べてはならないものは、刺激物であるため心身を興奮させ緊張させるものであったので禁止したのです。
 現在はこのような食養に対する理解もなくなっており、陰陽五行などを含めた食養論の再考が必要です。
    POINT 5  体操の重要性と種類について
 従来、カリキュラムの中にラジオ体操というようなストレッチ指向の体育を取り入れているが、本来仏教系の修行法の前提には、身体の状態を調える方法としてヨーガでいうところの「アーサナ」、『天台小止観』では「自按摩」と呼ばれる方法が存在している。曹洞宗などの禅系の修行寺院のカリキュラムでは、それが作務という形で、とくに横板仕立の廊下を脚を開き腰を折り、両手を雑巾に乗せ左右に大きく動かす作業が、それらの運動の代わりとして行なわれて来た経由がある。
 しかし、近頃は永平寺においてすらそのような大切な意味を持った作務が行なわれなくなり、結果として「POINT 3 坐法」で述べたような禅の坐法である「結跏趺坐」の組めないほど身体や手足の硬い修行僧が増えているという。
 ここでポイントとして、ストレッチ系の体操と、ヨーガの「アーサナ」(姿勢と訳す)や「自按摩」などの根本的な違いを挙げておきますと、生理学的には一般の体操は、交感神経系を刺激し、身体の心肺機能の増進など循環器系機能を高めて基礎代謝を活発にします。
 かたや「アーサナ」や「自按摩」などは、副交感神経系を刺激して身体全体をリラックスさせます。両方共に必要なのですが、修行する場合には、日常生活で神経系は交感神経系に偏っておりますので、また修行の場合は上述しているように副交感神経系が優位で働くことが望ましく、ストレッチ系の体操の他にヨーガの「アーサナ」や『天台小止観』の「自按摩」に相応するものを取り入れる必要があると思われる。
    POINT 6  宗教教育の環境と指導方法
 これを簡単に整理してみますと次のようになります。
 カリキュラムを始めるためには、まず心身をリラックスさせる条件が求められます。基本的には心理的、身体的な緊張を弛めて行くための条件であり、従って練習の前に弛緩しやすい環境が求められる。つまり、求心性刺激の除去といわれ、外から働きかける刺激を可能なかぎり低い生理的水準へと抑制することを意味している。
 一、外界からの刺激の除去として
 静かな環境で適度な気温の部屋等の条件があげられる。要するに練習を妨げられることの少ないくつろぎやすい部屋が良く、また、ネクタイやバンドや帯や腕時計など身体を圧迫するものは、同じく刺激を遠ざける意味ではずすか弛める。
 二、内部刺激の除去として
 身体内部の生理的刺激を抑えるために過度の空腹や満腹の時は避け、排便や排尿にも心がける。また、今しなければいけないような仕事も無理のないものは終えてしまい、気になるものを後に残さない。
 三、姿勢の安定(坐立行において)
 何れの場合にも基本となるのはユッタリとくつろげる姿勢、筋肉が弛みやすい姿勢、そして、筋肉が弛緩したときに不自然にならない姿勢である。これは生理的に随意筋の活動的な神経支配が最少となり、身体は骨格と靭帯組織にぶら下がり楽にしていられる状態であるといわれる。
 四、閉眼する(坐において)
 上述の三つの条件が調ったら軽く目を閉じ、更に求心性刺激を減少させる。このような極端な受動的状態の下で閉眼する心理生理的意義は、睡眠に入る場合とおなじ目的を持つといわれている。 
 以上の四つの条件下では、結果的に横紋筋(随意筋)の全般的な弛緩状態(リラックスした安定状態)が進み、求心性並びに遠心性神経活動の極めて低い生理的水準における心的活動、つまり、一連のカリキュラムを実習するために必要な身体的、心理的条件が調う。
 さらに実際に指導する場合のポイントは、言葉による指示を少なくし、実習者たちの不必要な会話を実習期間中は極力排除するように努めることが大切である。
    POINT 7  知識獲得志向の禁止
 ところで仏教思想とは、通仏教的な意味合いでは「無分別(nirvikalpa、avikalpa)」の境地、つまり、知的思弁性の否定、あるいは、知的思弁の優位性の否定という観点から出発する思想であることは、多くの方に異論のないところであると思います。これを言い換えると、仏教とは、その無分別の智(nirvikalpa−jnana)を体得するために用意された教えであり、その境地を体験するための方法が修行ということになります。そして、この修行によって体得された経験内容を知的に分別し(vikalpa)、説示する(nirdesana)企てだけでは、仏教が本来志向すべき問題の本末を転倒した態度であると思われる。天台大師が「偏えに禅定福徳を修して智慧を学せざるは、これを名づけて愚といい。偏に智慧を学して禅定福徳を修せざるは、これを名づけて狂という。」(『天台小止観』同二五頁)」と『天台小止観』の序文の一説で述べようとしている志向は、このことを意味しているのではないだろうか。また、その第一章「縁を具えよ」の第四「諸の縁務を息むる」の四には「学問の縁務を息む。……もし縁務多ければ、すなわち行道の事廃し、心乱れて摂し難し。」(同三九頁)といい、仏道修行からは「学問」ですら心を乱す煩悩として扱われております。
 これは上述してきたように、精神性の変化を促す基本的なプロセスである修行は身体生理の弛緩を促すプロセスであり、それは行者の意識状態の面から評価するならば、経験的には現状の意識活動の停止、自意識の活動レベルの低下、または停止を意味しており、生理学的には自律神経系の交感神経系を抑制し、副交感神経系を優位にするものであるといえます。

 以上は宗教教育のインストラクターを養成するための心得と、沙弥校カリキュラムの基本に置くべき七つのポイントであり、今後詳細に検討されるべき課題であると思われます。


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