寺院調査レポート
北海道日宗法華村について
高 橋 謙 祐 (元現代宗教研究所所員)
一、はじめに
北海道陸別から北へ約十数キロ行った所に、「日宗」という、今から八十年前、日蓮宗(正確には佐野前励)が理想郷なる法華村の建設を夢みて開拓を試みた地域がある。
この秋の中頃、筆者は再び日宗・小利別を訪れる機会に恵まれた。過疎の状況にあった日宗・小利別がその後どのようになっているのか、もう一度行って見たくて、その機会を楽しみにしていた。釧路から車で国道二四〇号を北上し、静かな阿寒湖畔を通って津別町本岐より道道陸別上足寄線に入り、陸別に出てさらに国道二四二号を北へ走ると、まもなく日宗に着く。
九年ぶりに見る日宗のたたずまいは、時の移り変わりを全く感じさせないほど静かであったが、若干地勢を変えていたことが一つあった。それは、日宗を縦断していた道が、道道六二〇号苫務小利別線という二車線の一般道路に、まだじゃり道ではあるが、拡張されていたことである。新しく新日宗橋が架設され、まだ工事途中で終っているその道路は、その先かつて日宗神社のあった小さな峠を越えて、いずれ小利別の街に通じる予定であるという。その道路は、昭和六十三年頃に工事がなされており、九年前に三軒残っていた内、一番奥に位置していた井上家(調査時、無住であった)が、道路拡張に伴う凍雪害防止工事のためか、なくなっていた。その道を車が往来する日も、そう遠くはないであろう。
いま一つ日宗での変化は、幼少の時より日宗に住み、日宗の歴史を知る、日宗で唯一の移民の生き証人、村松さんのおばあちゃんが亡くなっていたことである。日宗の歴史を伝える灯の一つが消えた思いであった。
国道にもどり、日宗橋よりいま少し走って法華橋を渡ると、前啓寺のある小利別だ。小利別の方が変化が著しかった。街を走っていた道は、道幅が広げられて道道六二〇号になっていた。この道に、日宗からの新しい道路がつながるという。小利別から訓子府に至る道路も、前啓寺の参道を横切る形で広く新しく造られていた。小利別は一層人家の無住化が進んだようで、もはや街の形態を失っている。街路を歩いても、誰一人にも会わなかった。
二分された前啓寺の参道は、住人に道を尋ねなければわからないほど、木々におおわれ、堂宇は以前ほどに見る影もなく、庫裡の部分は全壊して草木がはえ、本堂も半壊してまさに夢の跡一歩手前になっていた。
街に人影・人の声・物音が消えてしまった小利別には、衰退とは裏腹に、小利別駅(無人駅)が今ばやりのメルヘン調の木作りの駅舎に新しく建て変えられていた。そこは集会所も兼ねており、駅前はレンガが綺麗に引きつめられ、都会でよく見かける公園のように整備されてあった。その雰囲気と街とのアンバランスがいかにも日本的な光景だと思ったのであるが、そこにはまた、「只今の温度マイナス何十度」とハイテクによって標示される、大きなポールが建てられてあった。そう、そこは「日本一しばれるまち」なのである。旧国鉄池北線は廃止されて第三セクター方式によって走る「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」と夢のある?長たらしい名称に変わり、昭和六十二年にスターウォッチングで環境庁から「星座の街」のおすみつきをもらった陸別町と共に、小利別に自然がもたらす酷寒は、「寒暖差七〇度のまち」として今日、小利別まちおこしのキャッチフレーズとなっている。
おおよそ一日の短い滞在ではあったが、日宗・小利別の変わりようは、九年の歳月の流れを実感するに十分であった。
折しも今年は、戦後最悪の凶作にみまわれた。稲穂は実ってたれることなく、畑作も作柄が非常に悪く、収穫はのきなみに低下し、例年の半分にもみたない地域が続出した。サイエンステクノロジーの高度に発達した今日ですらこのありさまであることを思うと、八十年前、大凶作にあえいだ法華村の惨状たるや、推して知るべしである。
二、問題の所在
さて、筆者はかつて日宗法華村・前啓寺の調査に参加し、山梨団体の宗教移民について、「新天地を求めて」と題して少しく報告したことがある。しかしその時は、若干の資料と、かつて日宗に住んでいたいく人かの人達に語ってもらったささやかな話を基にまとめただけで、意を尽したものとは言い難く、内容も十分でなかった。殊に、佐野前励(以下「佐野」と略称す)の法華村建設の発想、福岡団体移民などの問題は、全く追究することができなかった。また、法華村建設に中心的役割を果した実質的な指導者広瀬啓宣(以下「広瀬」と略称す)の建設への動向についても不明確なままであった。
筆者には、なぜ北海道に法華村の建設を目指したのであろうか、という佐野の発想への疑問が常にあった。法華村は、何も北海道でなくても、建設はどこかに推進できたであろう。そして時期の問題、当時の北海道開拓の流れ、あるいは災害救済活動の一環という背景もあったが、それならば、早くから計画がなされて着手できたはずである。佐野の法華村建設事業は、明治四十五(一九一二)年に着手したという時期と、北海道という場所が限定されているところに、この事業の意図、意味するものがあるのではないか、と筆者は久しく思いをめぐらせていた。
近時、近代日蓮宗の資料を読んでいた時、次の記述に眼が止まった。
……日蓮宗の北海道移民事業は、漸やく昨明治四十四年にして、故佐野宗務総監の力に出で、釧路利別村に百八十町歩の地を占め、之に山梨県民百戸以上を移し、此処に醇楽寺なる一寺を建立するの目的有りと存す……(「日宗新報」)
この記事は、北海道の大石養淳という一僧侶の「北海道移民事業より更に山梨団体救済の急事を述ぶ」と題する投稿で、北海道日宗法華村のことを述べた一節である。当時、法華村事業は、このように伝えられていたのであるが、この記事に注目すべき点がいくつかある。
第一点は、(小)利別に山梨県民百戸以上を移す、そのために一八〇町の土地を確保したこと。実際は、法華村は山梨と福岡両県の二団体によって形成されていったが、当初は百戸以上の山梨県民の移住が伝えられていたことがわかる。第二点は、移民の村に「醇楽寺」という寺院を建立することが目的であったということ、この点から、醇楽寺を中心とする法華村が考えられていたのではないか、と思われるのである。山梨から百戸以上の移住であったのを、途中から福岡団体を移住させたのはなぜか、また、醇楽寺とはどういう性格の寺号であるのかが気にかかった。
醇楽寺という寺号に関心を持ってまもなく、「新たに開かれんとする法華村 新たに建てられんする醇楽寺」(「日宗新報」)と題する記事を再び眼にしたのである。これによると、醇楽寺とは前北海道庁長官河島醇夫婦の菩提のために建立しようとしていた寺号であったこと、醇楽寺と法華村とは一つの事業であるかどうかは、この記事からはわからないが、佐野にはこの二つの計画があったこと、そして法華村建設は河島醇と深く関係していることがわかったのである。
ここまで来ると、では、河島醇とはどのような人物であったのか、興味がさらに沸いてくる。なぜ、佐野は河島夫婦の菩提のために新寺建立をまで考えていたのであろうか、佐野と河島醇とはいかなる縁故関係にあったのか、両者の関わりにこそ、醇楽寺を中心とする法華村建設への発想が秘められているのではないか、と思ったのである。
佐野と河島醇とは、河島が福岡県知事の時に推進した、いや推進している時に河島醇が知事に就任したと言った方が正確だが、博多に日蓮聖人銅像を建立する事業を通して親交を持った。しかし、その経緯そして河島醇の人物像が不明瞭であったため、法華村建設への動向についても明らかではなかった、と思うと、もう一度、法華村の形成について明らかにしておきたいと思った次第である。
三、河島醇について
法華村建設に当って、佐野が運命的と言うべき出会いを持った河島醇とは、どのような人物であったのであろうか、まず、彼の足跡から見ていこう。
一般に、日本勧業銀行初代総裁が河島醇であったことは、あまねく知られている。
さて、河島醇(以下「河島」と略称す)は、弘化四(一八四七)年三月、薩摩藩士河島新五郎の嫡男として生まれた。幼名を新之丞といい、成人して醇と称し、壮年に入って盤谷とも号した。幼少より伯父から漢学を仕込まれ、八歳の時、藩校造士館に入学するが、教員と学問上の論争で十二歳の時に退学処分となる。彼の剛愎で議論ぐせの性格が早くも出ている。十六歳で藩兵に編入、十八歳の時、西郷隆盛に属して幕末の動乱、戊辰戦争を体験して故郷に帰還した。ほどなく新常備軍士官補として山本権兵衛(後の首相)と共に東京の昌平学校に入学するが、やがて川田剛の甕江塾に転じて漢学を修める。この頃の河島は、大久保利通から「自己錬成の鑑」と称えられている。
時代の流れに伴って西洋文化に眼を向けた河島は、ヨーロッパへの留学を志すようになる。折しも明治三(一八七〇)年、東伏見宮彰仁親王のイギリス留学随員を命じられ、文部省留学生として三年間ドイツに留学した。帰国して外務省書記官となり、翌年、ドイツ公使館勤務のため再びドイツに渡った。滞在中、ベルリン大学で社会科学などを学ぶ。明治十一(一八七八)年にロシア公使館へ、翌年にはオーストリア公使館へ転勤、勤務の傍らウィーン大学で財政・法律などを学んだ。河島の論理的、学問的議論弁舌の素地は、明治十四(一八八一)年帰国までの前後十一年間に及ぶ海外生活によって培われたのである。
長期の公使館勤務を終えて帰国し、大蔵省兼外務省権大書記官となった。学制改正に関連して意見書を参事院議長伊藤博文に提出、この建言によって憲法制定調査のメンバーとなり、翌年、憲法調査のため伊藤博文に随って渡欧した。渡欧一年後帰国してからは、殖産興業政策問題に関わるが、しだいに松方正義大蔵相より敬遠されるようになって、まもなく海外勤務を命じられ、明治十八(一八八五)年から四年間またもやドイツに滞在することになる。帰国して大蔵省首席参事官に昇進する。河島のヨーロッパにおける生活は、前後四回、都合約十六年に及び、青年期の大半を国際畑を中心に歩み過ごしている。
河島は、辛酸をなめながらも、順風に帆を挙げて次期大蔵次官と嘱望されるまでに、官僚の出世街道を歩んでいったが、勤務の誠実なる反面、至って短気で直情径行なためか、なかなか意見が浸透されず、ついに参事官を辞して下野してしまったのである。これには、ライバルの次官補が重用されていったためという説がある。しかし、野に下って納まる河島ではなかった。以前から藩閥政治の在り方に不満を抱いていたこともあって、河島の野望は政治の世界に向っていく。
故郷鹿児島で政党を結成して歩みはじめた政治への大志は、明治二十三(一八九〇)年、国会開設とともに衆議院議員となった。時に四十四歳である。高級官僚としてはぐくまれた法律的、行政的手腕と才能、海外生活で培われた合理的精神と論理的な思考、そして歯切れのよい弁舌は、国会の場でも大いに発揮され、白熱した演説は多くの喝采を浴びた。第一議会においては、財政問題で大蔵大臣を鋭く追及して止まなかった。薩摩藩の出身であるにもかかわらず、藩閥政治攻撃の急先鋒で、政治の場では、常に藩閥打破を叫んだ人である。連続四回当選、約六年の議員生活を送ったが、河島にとって、政治の世界もまた気焔万丈の道であった。
日本勧業銀行法公布に基づいて、明治三十(一八九七)年に日本勧業銀行が設立されると、経済にも造詣が深く、殖産興業に積極的であった、同設立委員河島は、その初代総裁に推挙されて議員を辞職した。総裁に就任すること二年、勧業銀行の基礎を築いたが、銀行内外情勢の悪化などの事情で、任期一年を残してやむなく退任する。これで河島は、一応政・官・財の三つの世界を歩んだわけで、総裁辞任を機に第一線から引退する決意であった。
しかしながら国政からの引退、官僚としての才能と手腕を憂える声も多くあって、明治三十二(一八九九)年、西郷従道の強い要請で、滋賀県知事に就任することになったのである
これ以降、河島は行政長官として中央から地方へ下り、中央から離れていくことになるが、一般にいう左遷ではない。それは、河島でなければ収まらないという行政手腕が高く評価されていたからである。当時、政治的難治県と悪評の高かった滋賀県にあって、県議会を「河島学校あり」と評判せしめるほどの施政の改革を断行した。「明晰果断 不撓不屈は予の所信」とは、この時に銘記した河島の精神である。河島はこの言葉を好み、よく色紙に書している。
河島の地方長官としての才覚は、明治三十五(一九〇二)年、日本の大陸進攻の重要拠点であった福岡県の知事へと転任せしめた。そして八幡製鉄所の創業に象徴される石炭産業興隆に努めたのである。福岡県知事在任中に、楽子夫人(三十二歳、鹿児島県士族飯田次助の長女、昭和三十一年十二月死去)と結婚、また貴族院議員に勅選された。佐野とは、この時代に出会うことになる。
福岡県知事は在任四年二カ月、明治三十九(一九〇六)年、今度は、官有地払い下げに関連してとかく黒いうわさの多い北海道へ赴任していったのである。その頃の北海道は、前長官園田安賢時代の政治的腐敗がひどく、河島の行政手腕でなければ、とうてい収まりがつかなかったからであろう。その悪弊を摘発するに当って、河島は「われ、北海道の伏魔殿を征服せん」と豪語したというが、北海道庁長官に着任した河島は、早速、官有地払い下げに関わる疑惑の一掃を図り、抜本的な改革を実行した。
第一期拓殖計画を成立させ、官有未開地一五〇万町歩の開墾、人口倍増三〇〇万人など十五年計画を策定し、従来の不在大地主の激増と優良農民の減少とによる弊害の払拭を計った。一区画五町歩の開拓地の無償付与による優良自作農の創設と育成、五〇〇町歩以上の有償貸付による大規模農業開設などの政策を進め、団体移民の奨励など本格的な開拓の基礎を作った。常に自主財源を目指し、これらの政策は昭和元(一九二六)年まで実施されたのである。その計画の援護策として、社寺の建立、村落共有財産の造成、愛郷精神の作興などを積極的に進めたのであった。日宗法華村建設も、河島のこの政策方針の下に推進されていったのである。
河島プランが軌道に乗った矢先、明治四十四(一九一一)年四月、河島醇は心臓疾患のために波瀾に富んだ生涯を閉じたのであった。享年六十五歳、「重要なる北海道拓殖問題について」と題する論文執筆が最後の仕事となった。従三位勲一等瑞宝章を追賜され、遺骨は、東京西麻布の永平寺別院長谷寺に埋葬された。
河島が日本勧業銀行初代総裁であったことは広く知られるところで、一時、政治の世界に身を置いたが、どちらかというと、河島は、自ら銘じた不撓不屈の精神を生涯貫き、一生国に身を挺した、有能な官僚であったといえる。元来、ドイツ学派を信奉する、国家主義者であったという。
生来、他人に従わず、議論好きであり、「根は正直者にて、駈け引き多き薩摩人に不似合いに、一本調子の漢おとこであった。ただ何事にもよらず意見多く、よくいえば、経倫湧くが如しともいい、悪あしくいえば、出来る相談でも出来ない相談でも、いくらでも注文に応じて出すという人物であった」(徳富蘇峰評)、そして「躯幹肥大、資性剛毅果断、故に一旦なさんと欲せし事は、必ず之を遂行せざれば止まざる人」(鵜崎熊吉著『得意の人、失意の人』)であった。
特に国会において、中国の遼東半島還付問題では、伊藤博文首相の失政を弾劾して「河島醇(盤谷)」の名声を馳せたのは、余りにも有名な話である。地方長官に赴任する頃には、頑強不遜な性行は温和敬慎となり、傲岸尊大な言動も至って穏健になったとは言われるが、議会に望んでは、忌たんなく正論を主張し、常に公平無私の施政を遂行していったのであった。このような精神は、生来の上にヨーロッパで見聞した体験から育まれていったことは言うまでもない。
このように、河島醇はキャリアを積んでエリートの道を歩んでいった、極めて有能な高級官僚であったのである。
四、佐野前励と河島醇との邂逅
筆者は、河島の人となりを調べていく内に、佐野にも共通したところが見られると思ったのである。佐野の行動に見られる剛愎なところなど河島と重なって見える。河島のような広く人脈を持つ高級官僚と近付きになったならば、どのようなことが思い浮ぶであろうか。特に野心的な行動派の人にとってはどうだろう、強い味方を得た思いになる、心強く思うのではなかろうか。そう想起すると、佐野と河島との邂逅に強い関心が寄せられるところだ。
ところで、佐野は、いかなるいきさつで、この有能な官僚河島と邂逅し親交を深めるに至ったのであろうか、次に述べていこう。両者の出会いが、河島の福岡県知事時代であったことは、先に触れた。
明治二十一(一八八八)年、福岡警察署長湯地丈雄は、長崎での中国人によるたび重なる国辱事件をまのあたりにして、国防精神涵養の必要性を痛感した。そのために、時の知事安場保和と図って元寇記念碑建立を計画したのである。各方面大方の賛同を得て翌年、元寇記念会を創立、知事が建設委員長となって記念碑建立事業は開始された。記念碑には、鎌倉武士の英姿ということで、北条時宗像に決ったのであった。
この事業を聞き及んだ、本仏寺住職佐野は、元寇記念には元寇を予言した日蓮聖人の勇姿こそは事業の意に適うものである、と日蓮聖人像の造立を申し入れたのである。しかし、時宗像の建立はすでに決定済みであり、佐野の強引な主張は他宗派など多くの反対に会い、衆論を重んじる湯地らとやがてたもとを分かつことになる。日蓮聖人銅像建立の経過については、『元寇記念日蓮聖人銅像造立誌』『佐野前励上人』等に詳細に報告されているので省略するが、結局、県側と意見が折り合わず、佐野は強引にも独自に建立事業を進めることを決意したのであった。ここに、元寇記念碑を巡って二つの事業が推進されるという、変則な事態になったのである。
佐野の行動は早い。佐野は里見日晴らと日蓮聖人銅像建設請願書を内務省に提出するが、同じ場所に同じような記念碑建立は不合理と却下された。その間、福岡勝立寺で建設発会式を挙げ、貫名英勇・林鳳宣・頂岳龍観・本化日将ら一〇名の建設特派布教師を九州はじめ全国に派遣し、管長の諭告を達せしめて建設浄財勧募を開始している。請願書の提出、却下を再三繰り返すうちに、佐野自らの内務当局へのじか談判に功を奏して、明治二十四(一八九一)年五月、ついに建立の許可が下った。銅像建立は、途中困難を窮めるが、十七年という長期に及ぶ資金勧募を経てようやく完成を見たのである。
一方、湯地ら県側の進める建立事業は、途中で銅像が時宗から、元寇の際に「身を以て困難に代らん」と祈願したという亀山上皇像に変更されるなど、また資金難に陥り、不況や戦争などで暗礁に乗りあげていた。この窮地打開に援助を惜しまなかったのが佐野であった。すなわち亀山上皇像の造立は、佐野の尽力によって成就したのであった。佐野の援助がなかったならば、亀山上皇像は建立し得なかったと言ってもよい。
河島が福岡県知事に赴任して建設委員長になると、恩賜金の下附を受けて資金調達を図るが思うようにいかず、結局、佐野に援助を依頼したのである。佐野と河島とは、ここに邂逅したのであった。
湯地丈雄の発起でこと始まった元寇記念碑建立事業は、幾多の困難にあいながらも、明治三十七(一九〇四)年十一月、日蓮聖人並びに亀山上皇二つの銅像除幕式が同じ日に挙行されて終了した。「軍国主義の波にのって日蓮聖人を愛国者として売りこむのが、彼らの製作意図であった」(戸頃重基著『近代社会と日蓮主義』)とは、少し言い過ぎであるが、除幕式は、戦勝祈願の国祷会が修されるなど盛大であった。式典に列席した建設委員長河島知事は、「今や曠古未曽有の困難に遭遇し、此巨像を仰ぎ瞻みあげて誰か上人の偉勲を追懐し、感奮興起せざるものあらんや。予、亦盛典に列し、転々今昔の感堪えざるものあり」と祝詞を述べている。
苦難の末、除幕式に至ったことは、もちろん慶祝に堪えなかったが、佐野にとっていま一つ生涯忘れることができないことがあった。それは、この偉業を成し遂げた佐野の功績に対して、河島知事から感謝状と金属製香炉が贈呈され、深甚なる謝意が述べられたことである。その感謝状には、事業の端緒、日蓮聖人の外患の予言に触れ、一頓挫した経過を告げて、次のように表白されている。
予は前約に基き更に君に謀るところあり。其銅像の材料は其筋の下附を得、君は専ら之が鋳造建設の事を担任す。爾後工事を督励し夜以て

ひかげに継ぎ予定の工事を遂行し、茲に十里松原白砂青松の地に高さ七十有余尺の大碑を完成し、尊厳なる異彩を発現するを得たり。嗚呼、既往十有七年間の長日月、幾多の障碍を受け其成功を見る能わざりし本県の難事業にして、刻下一般経済の恐慌、商工業の不振の時難に際会し、恰も振古無比の事業の裡に之が完成を告ぐるを得たるは、偏に君が終始一貫熱誠尽瘁の力に由るものにして、其功や実に多大なりと謂うべし。仍て金属製香炉一個を呈し、聊か感謝の意を表す。(『菅上小伝』)(注 予|河島、君|佐野)
建設委員長河島からの、このような感謝状と香炉の贈呈は、佐野にはことのほか歓喜に満ちたものであった。後日、「日蓮宗の僧侶が、宗祖の銅像を建てたということは当然な話だが、亀山上皇の銅像建設にも与って努力したことは無上の光栄だ。これだけは後世に伝えていいことだ」(『菅上小伝』)と、佐野はよく口にしていたというが、その時の真情を余すところなく吐露している。知事河島から誠を告げられたことは、佐野には無上のよろこびであったに相違ない。この言葉の中に、公職をこえた河島と邂逅した喜びの気持が集約されていると見てよいであろう。そしてこの時を機に河島との親交が一層深まっていったと見ても想像に難くない。その時の感情こそが、後日の醇楽寺建立、法華村建設計画へとつながっていった、と筆者は考えるのである。
一般に語られる河島の足跡には、銅像建立事業については何ら触れられることはない。河島から見れば、建設委員長とはなったものの、それは前約に従ったまでのことで、事業の推進は知事職務の一つにすぎなかったのかもしれない。しかし佐野にとってはちがっていた。多才で有能なる官僚河島と親交を深めたことは、大いなる力を得た思いであっただろうことが想像される。佐野には、河島と性格など似たところがいくつか見られる。共に野心的、思ったことは反対に合っても貫徹する不撓な精神、合末論や朝鮮開教などを強引に推し進めてきた佐野も、また果断な精神の持主であった。強いて言えば、理路整然、明晰な河島に対して、佐野には大ぶろしきという悪評が聞かれた違いはあるが、厚い親交の中で、お互い共感、共鳴するものを感じ取っていただろうことも、また容易に想像できる。だが、どのくらいの親密さを保持していたかはわからない。
五、法華村建設と醇楽寺建立の計画
その後、両者はどのような交流を暖めていったかは、いま知る資料を持たないが、少なくとも菩提に資したいほどの関係を持っていたことは確かだ。除幕式の二年後、河島は、北海道庁長官に再転任していったのである。河島が長官に就任してからの接触もわからない。河島が長官をしていたのを幸機として、佐野が北海道に渡ったと一様に伝えるが、そうではない。
河島は転任に伴ってしだいに中央から離れていったが、自宅は東京麹町区平河町にあった。そして明治四十三(一九一〇)年六月、佐野は日蓮宗宗務総監に就任し、東京に進出している。河島は北海道と東京を往復していたであろうから、あるいは東京で旧交を暖めていただろうことは十分考えられる。銅像建立事業成就を念頭に置いてさらに言えば、佐野が、河島北海道庁長官在任中に、何か事業を興したいという野望を懐いていただろうことは、過去に照らしてあり得ることだ。それが法華村の建設であったかどうかは、知る由もないが、そのことに関連する、次のような記載がある。
多年の宿望を抱いて道庁を訪れたる結果として是に法華村を新たに開かれ、法華寺の新たに建てらるる……(「日宗新報」)
これによれば、北海道庁訪問が長年の望みであったようだ。また法華村建設も道庁訪問以前から佐野の頭の中にあったようだ。それを実現させるために道庁を訪れたといえようか。「法華寺の新たに」とは醇楽寺のことであろう。では、秘めていた計画がいつ頃具体化されたかと言うと、筆者は、河島の死去に接してからであったと思うのである。
佐野が総監として蓮永寺朝鮮移転問題や大逆事件の対応などで奔走している時、そして第一期拓殖計画(河島拓計ともいう)が着実に動きだしている折節、河島は東京の自宅で死去している。
河島と佐野との信仰的関係も見出せないが、河島の死に、佐野は深い哀しみにつつまれたことであろう。佐野にとって河島の死はある種のショックであったことは、佐野が河島の死去したわずか三カ月後に、北海道庁を訪問していることから類推できる。表向きは、宗門教線の視察であったが、北海道庁に出向くことも目的の一つであった。佐野は、道庁で石原長官に面会し、先の二つの計画を告げているのである。その辺のことを、「日宗新報」は次のように報じている。
天塩北見両国の境なる北名寄村より北見方面に入ること約二里の地点を卜し未開の地二百町歩を請い受けて之を開拓し、模範的法華村を開き率先して未開地開拓の範を示さんが為、不敢取甲州より三十戸許りの本宗信徒を移し、之が世話役たる新村長としては北海道石狩国夕張郡由仁村広宣寺住職広瀬啓宣師之に任ずべく百般の事皆宗教の力に因って発展を計らんと欲する旨を、佐野総監自ら北海道庁に出頭し石原長官に告ぐ処あり。
これは、佐野の渡道後、法華村建設が実動する以前の記事である。先の大石の述べるところと若干ちがうが、これによれば、法華村建設のために道庁を訪れたことがわかる。佐野は河島長官在任中に、銅像建立と同様、できうれば、法華村の建設を考えていたのではなかろうか。それが死に接して急きょ渡道となった、と思うのである。そしてすでに、この時点で広瀬啓宣を道庁拓殖課に紹介している。とすると、山梨団体の移住は早くから考えられていたことになる。それはやはり明治四十三(一九一〇)年の再度の富士川大洪水救恤対策の一環として行なおうとしたのではなかろうか。それを、河島が長官在任中になしとげたいという(宿)望を持っていたのかもしれない。そう思うと、山梨県塩山出身で黒沢宮沢寺に縁を持つ広瀬啓宣が指導者として適任であったこともわかってくる。この時、道庁で、「未来の村長たるべき広瀬啓宣師を長官及び部長に紹介し、明年四月頃までには取り敢ず三十戸を移住せしむべく約せられた」(「日宗新報」)のである。ちなみに、ここに述べられた「天塩北見両国の境……」という部分が、諸著にみられる、法華村の位置を説明する根拠となったのである。
そして、いま一つ醇楽寺建立を願い出ている。この計画については、次のように伝えており、以下、少しく醇楽寺について見ておこう。
氏(河島醇=筆者)が北海道に長として臨まるるや、令名一世に高く北海の発展の為に極めて速かなるものありしは、今猶お人の知る処、氏が菩提に資せんことは、北海道としてもふさわしき事業の一つなれば、長官部長に大に此の議に賛し、地勢上北海道の中心地なる十勝国十勝をぼくして法華道場を建立するの議成りて、之が敷地の選定にも道庁に於て万事便宜を計ることとなれり。(「日宗新報」)
このような佐野の発想は、河島との旧知もさることながら、日蓮聖人銅像建立の発願の時によく似ている。本格的な北海道開拓に貢献した偉業を伝え、遺徳を称えて河島の菩提に資せんために法華道場を建立するというのである。この法華道場が「醇楽寺」なのである。醇楽寺建立のあかつきに安置すべき河島の像を造立してすでに道庁に送り、敷地の選定を待つばかりであった。その醇楽寺とは、河島醇と楽子夫人の一字づつを取って命名した寺号であって、十勝山と号し、北海道発展の中心をなすという意味から、北海道の中心的位置にある十勝国の十勝を山号と考えていたのであった。
佐野には、この菩提寺を中心とする法華村の建設が理想としてあっただろうが、佐野は、「醇楽寺は自分一個人の事業として故人に対するの赤誠を常久に致さん念願なり」と、同寺建立に特別な思いのあることを語っている。醇楽寺建立の思いは、菩提に資せんためとて、河島死後のことである。
醇楽寺用地選定の便宜を得た佐野は、帰京後、直ちに事業推進のため新野正観を派遣した。新野は帯広・釧路方面に用地視察を行っているが、醇楽寺建立のその後のいきさつは不明である。ただその後、新野正観は、大正元(一九一二)年十二月、醇楽寺創建に関する次のような挨拶をしている。
前経王寺松井日量師監督の下に、大正元年八月三十日本年度の建築を終り、九月十八日入仏式並びに創立起工式執行の予定に候処、九月七日佐野僧正は遷化せられ、爾来或事情の為に中止の状態に候処、北海道庁山田部長殿は自ら河島前長官の木像と位牌とを経王寺まで御届下され候に就き、十一月二十一日奉安式並に創立起工式執行仕候間報告申上候。
大正元年十二月
北海道天塩国留萌港
醇楽寺創立事務所
新野正観
(「日宗新報」)
これは、留萌感応寺建立起工式の挨拶状である。これによると、醇楽寺建立は「或事情の為に中止の状態」となり、途中、山号寺号が称行山感応寺と変わって留萌に建立されたことを述べている。いや、感応寺は後日の寺号であって、当初、この留萌の日蓮宗説教所こそは醇楽寺なのである。しかし、佐野の意向通りの十勝ではなかった。ちなみに、感応寺の寺歴には、「開山上人 新野正観(称行院日慧)、寺号公称 昭和二十一年七月二十九日、開基上人 佐野前励(体精院日菅)、開基檀越 河島醇・林乙吉・林善十郎」と記されている。
このように見てくると、佐野は、河島の死を契機に、法華村の早期実現、醇楽寺建立のために急ぎ北海道視察を行なったといえるだろう。法華村建設事業に、河島追悼の意味が込められていたこともわかった。事業について、佐野は「法華村だけは是非宗門の事業として永遠の発展を期し度きの希望を有する。但し之が為め決して宗費を用ゆるにはあらず」(「日宗新報」)と語ったという。宗門の事業としても宗費は投入しないというのである。宗費を得ず自力で銅像事業を成就させた自負がここに感じられる。
法華村事業が佐野遷化五日後に評議員会決議で宗門の事業となったということは、それまでは佐野の私的色彩をもった事業であったということになる。それには河島との私的な関係があったからだと考えられるが、それが「宗費を用いるにはあらず」ということを意味していたのであろうか。自治制を目指していたからかもしれないが、この事業は道庁からあるいは個人的な支援は得られても、宗門からの建設資金は計上されていない。宗門に負担をかけないと言っても、銅像事業の時のように資金は思うほどには集まらなかった。そのため、広瀬は事業資金調達に当初から大変な苦労を強いられることになる。こういう点を思うと、この事業は、資金的裏付けを持たないまま、見切り発車したと言うことができる。またそのためか、日宗新報社が、「北海道法華村移民に声援せよ」とさかんに呼び掛け、手桶・鍋・鍬の代価をもって寄付金募集を行なっているほどである。
六、山梨団体移民について
法華村建設は、佐野と河島のいまみてきたような関わりがあって興された事業であった。
法華村事業に対して、「如何なる好因縁ぞ、事若し成功せば、故河島長官の霊を弔うのみならず、国家の発展に伴える宗教的適当の施設として少なくとも日本仏教界に於ける斯の種妙仏事の嚆矢ならずや。ああ宗教移民、法華村、一語すでに吾人の心胸躍動するを禁ずる能わず」という期待の声があった反面、危惧がなかったわけではない。
吾人は本事業の前途に向って幾分の杞憂なしとせざりき。……佐野総監の余りに多方面なるは其第一の理なり。今や挙宗財団に専注して他を顧るに遑なきは其第二の理由なり。曰はく三教の会同、曰はく旭森霊蹟の復興、総監の身辺数え来れば、其繁務激忙察するに余りある。元来本事業が難中の難事に属す、是等のすべてを思い合せば、杞憂は寧ろ絶望と云わんかた近きやも知るべからざりしるなり。(「日宗新報」)
という憂慮する声があり、また「佐野が紙の上でツラッパを吹く」という批判もあったのである。
土地の選定を要請してまもなく、北海道庁から、建設予定地に「北見国網走郡飜木禽に約百七八十町歩の土地を選定」した旨、回答を得た。これを以て、法華村建設事業は本格的に実動したのであった。河島が死去して半年後、佐野が北海道庁を訪れて三カ月後のことである。事業の推進が急ぎ図られている様子が窺える。
山梨団体が入植する半年の間、事業を一任された広瀬の行動には、眼を見張るものがあり、まさに東奔西走する日々であった。十月末から十一月上旬にかけて、広瀬は飜木禽(現在の本岐)を早速に実地調査している。土地の案内人と共に検分して、「暗き木下を抜渉して精細なる調査を進めしに、計らずも面白からぬ結果を得候えば、是非共他に適当なる箇所を選定して交換せんもの」との結論に達している。その時に宿泊した旅館で、運命的にも広瀬は、「小利別の停車場を去る五、六百間の箇所に一帯の沢にて肥沃なる土地あり」という話をたまたま耳にしたというのである。その時、「実に予をして大成せしむる天の声」を感じたそうだが、直ちにその足でそこを見地した結果、確かに「土地肥沃にして交換せん」と決したのであった。飜木禽から小利別への変更は、このような単純な動機からであった。
広瀬は、上京してその旨佐野の承諾を得て、再び現地を実地調査した。そして「市街の前方約二十町の山林に小流を溯りて実地を調査し、午後は後方なる山林に入りて雪と熊笹とを抜渉す。何れも土地肥沃にして且つ運送に便なれば、先づ以て上等」なることを確認したのである。しかるに、大正五(一九一六)年の農業技術指導員の調査報告によれば、その一帯は、「平坦として見る処極めて稀にして、開墾其他に於て困難しつつあるものの如し」であって、地勢の判断に、素人と専門家との相違が指摘できる。
小利別は、網走線(後の池北線)の開通(明治四十四年)によって徐々に木材事業が興され、すでに十五、六戸の人達が住んでおり、「未だ学校寺院の設備なきも、茲に日蓮宗徒を移住せしめて段々好く鳴る法華の太鼓と、近き将来に一大発展の基礎となるべき土地は、奈何に隣座敷の一声は果して天の声なる乎。奈何に思慮百出未だ富源の宝庫は銷されぬ」、と広瀬は希望に満ちた感慨を持ったのであった。その地域が北海道屈指の酷寒の地であったことを、その時、広瀬の認識にあったかどうか。だからこそ、北見国を含む北海道東部の開拓は遅れていたのではなかっただろうか。それはともかく、数日後、北海道庁より「要求に応じて直に交換することを快諾する」通知を得て、法華村建設は、釧路国釧路郡小利別駅より南方約二十町の地域と確定したのである。
山梨出身の広瀬がいて、山梨移民募集となったのではなく、被災者山梨県民の移住の計画があって、開教に意欲的な、同県出身の広瀬に白羽の矢が立って実務を委嘱されたとするのが自然であろう。道庁と再三諸般の打ち合わせをし、道庁から移民についての協力依頼状が山梨県庁に発送されて、いよいよ広瀬は、とりあえず三十戸移民募集のため山梨の故郷に赴くことになったのである。それは、明治四十五(一九一二)年一月下旬のことであった。
一月二十二日、由仁の広宣寺を発った広瀬は、途中宗務院に佐野をたずね、三十日山梨に入った。故郷に来たからといって、すぐに移民が集まったわけではない。県庁や西八代郡役場で、去る四十一年の山梨開拓移民募集の際の苦労話を、また今回は何の助成金もなく豊和村にての募集は一層困難であることを聞かされた広瀬は、「飛んだ難事業に着手せしものかなと独り談露館(注、投宿先)上に淋しき夢を結」んだのであった。不安を抱きつつ広瀬は、黒沢宮沢寺を拠点に募集活動を開始するが、まず豊和宮沢寺と高田長生寺(豊和と高田の二村は中でも最悪の水害地であった)で募集のための演説会の開催を試みた。その時の演説は、「舌端火を吐くが如く、尤も熱烈を極めた」と伝えている。移民の一人が、「切り倒した根っ株の上に立って四方にパラパラと種をまけば、労せずして実が獲れると聞かされた」と語っていたが、あるいはその時の演説であったのかもしれない。明治四十一年の開拓からすでに帰郷した者もおり、その辛苦は広くうわさになっていたであろう。その時は移住者に給与が支給されたようだが、今度は無給である。このような状況にもかかわらず、被災者をして先祖以来住みなれた土地から遠く異郷に心を向わせしめたのは、広瀬の「舌端火を吐く」熱意であったにちがいない。鋭く熱い弁舌で説きたてる意が通じて、黒沢で二十二戸一二一名の移住申込みがあった。この人達が移住することになる。高田の方はわからない。
しかし、早々の応募者二十二戸は全て借家に住む小作人、しかもその日稼ぎの人達ばかりで、旅費を出せる者は一人もいなかったのである。そこで広瀬は、「旅費迄の心配は小生の背込みに属するものにて予算以外のものなれば、移住後両三年の辛苦に耐ゆることは、富者の貧者に及ばざること遠し」と覚悟し、この二十二戸一二一名の全旅費を負担して移住させることにしたのである。そして一応三年の開拓を目安としている。後日のことを思うと、この時の人選に問題はなかったか。ここでも取り急ぐ広瀬の姿が浮んでくる。が、早くも旅費に事欠く状態であった。
広瀬は、この時、身延山日蓮聖人廟所に参拝して事業の円成を祈願し、久遠寺より数百円寄付の確約を取り付けている。そして佐野と最終打ち合わせして、一カ月ぶりに北海道にもどった。
かくして二月二十一日、日蓮宗信徒団結移住者規約書が、戸籍謄本・移住証明書及び日蓮宗信徒団体契約書と共に、北海道庁に提出されたのである。実に、佐野が道庁で事業計画を請願してから半年後のことである。ここで言えるのは、難事業と認識する割には、十分な計画のあとが見られないことである。
さて、提出した「日蓮宗信徒団結移住者規約」は、目的・戸数・権利義務・総代人・規約違反者処分・雑則など十四条から成っている。要点を挙げると、
@自作農と法華村の開拓を目指すこと。
A団体員二十二戸一二一名より成り、異動しないこと。
B自作農にして土地貸付期限中は小作しないこと。
C勤倹を旨とし質素であること。
D聖祖立教の主旨を奉戴して立正安国の実を揚げ、自治制の模範となるを期す。
E異体同心の祖訓を忘れず、一致共同の美風を養成し公徳を重んずること。
F佐野前励・広瀬啓宣を総代人と定め、財産の保管等事務全般を執行する。
G規約違反者は総代人の説諭、違反金の徴収、除名を行う。
等々を河島政策に従い謳って常に団員の相互扶助、自作農の確立、模範となるべき自治制による法華村建設が申し合わされている。法華村建設にむけて「日宗新報」は、「一は以て王法の御為め、一は以て仏法の御為め、色心健全にして異体同心なれかし。任は重し、忘れても宗門に恥辱を与えざれよ」とげきを飛ばし、宗門大方の寺院に支援を呼びかけた。
移住手続も完了し、入植準備が整って、四月上旬、広瀬は団体引率のため再度黒沢に入ったのであった。
規約に捺印、記名したのは、二十二家族(戸主高野雄寿・小池太吉・大木善十郎・村松伝重郎・井上藤作・今村藤吉・小林市太郎・村松守造・酒井亀三郎・村松儀一・渡辺政十郎・村松藤吉・村松元蔵・小林喜重・佐野致利・渡辺治一・渡辺堅・小林政吉・山田茂吉・伊東金作・村松文吉・宮沢定次郎)である。親戚関係であろうか、同姓が多い。しかし実際に故郷を離れた者は、十五家族八十八名であった。「日宗新報」は総勢八十八名と伝え、『移民農事指導復命書』(大正六年、指導員佐々木晴吉報告)には十五家族九十名の移住が報告されており、団員数に相異が見られるのであるが、出発までの間に九家族が何らかの事情で取り止め、一家族が新たに加わっている。人数の減った理由はわからないが、異郷での生活に不安を感じて躊躇した者が、中にはあったであろう。
いずれにせよ、山梨移民団は、四月九日午前十一時、「日蓮宗北海道移民団」旗を掲げて甲府駅を後にしたのであった。当初、横浜から船で北海道小樽に上陸する予定であったが、老人・女性・幼児が多いということで、急きょ鉄道を利用することになった。午後六時に東京飯田橋駅で宗務院職員や東京宗務所役員の出迎えを受けた一行は、その夜は谷中瑞輪寺に入って期待と不安の一夜を過した。
翌日、浅草と上野公園に案内された後、出発に当って宗務院より、この移民が故河島長官との深き縁によること、国家の発展にして宗門の理想なるを目指すことなどの訓示を受け、一行は、その夜、青森行夜行列車に乗ったのである。十歳で両親と共に移住した一人が、「もう東京に来ることはあるまいと、上野動物園に連れて行ってもらった」ことを語っていたのは、この時の印象であった。東京・神奈川の寺院有志より多くの慰問品が寄付され、一一六円二二銭の義援金が寄せられた。有志の一人安孫子栄明が広瀬を助けながら旭川まで同行している。
東北線を三十六時間走り、青森より小さな連絡船で函館へ、十三日夕刻に旭川妙法寺に入って一泊した。途中、函館や札幌では、地元の寺院より熱烈な慰問を受け、札幌駅では、醇楽寺建立を委嘱されていた新野正観(当時、北海道西部録所布教師)も一行を出迎えている。翌朝、旭川を発って、途中、四名の病人が出たものの、十四日午後八時半頃、全員無事に網走線小利別駅に到着したのであった。
結局、山梨団体は、途中から三家族(秋田県出身二戸・宮城県出身一戸)十一名が加わって総勢一一一名(『復命書』より)の移民であった。十七日入山式を行い、まず、各自定められた所に居住のための小屋掛に着手した。法華村建設の開始である。だが小屋掛は、「山中積雪二尺程有之候。為に以外に遅延致し、本月(五月||筆者)八日漸く出来、移転仕候」(「日宗新報」)という状況であった。粗末な小屋に、一家族平均六、七人が生活した。建てられた住居といっても、一家族五町歩を開墾することになっていたので、各々が数百メートルも離れており、家々は小路で結ばれていた。いわゆる小屋は一軒家もしくは二、三軒がまとまり、一般にいう集落の形態は成していなかった。小屋掛を終えてからは、原生林伐採の毎日で、ある時は、伐採を急ぐあまり、放った火で小屋を消失した家族もあった。
とにかく、移住して一年の内に二町歩(六〇〇〇坪)以上の開拓を目指した。最初の作付けは、馬鈴薯・菜種・もろこしなど二三丁五反五畝で、一戸平均一丁五反強の開墾作付反別、馬鈴薯一戸平均三十俵の収穫は、まずまずの出だしであった。しかし九月には霜が降りるため、そう楽観はできない。
そもそもこの地域は、九月に入ると初霜が降り、六月になっても遅霜にあう寒冷地、十一月に初雪を見、雪溶けが四月下旬、しかも地中はまだ凍結状態で六月に入らなければ、耕作は困難であった。故に、常に先々の食料を考えていなければならなかった。長い冬期の救済策として広瀬は、三千敷の割木を一敷一円で伐採する約束を鉄道管理局に取り付けている。
移民達が生活に苦難を強いられている時、佐野前励の遷化に遭遇したのである。「今後の食料に差支うるの悲境に陥った。嗚呼、先には僧正(佐野||筆者)を奪われ、後には作物を掠められ、実に自然の破壊力程恐ろしいものはない」(日宗新報」)という、指導者広瀬の悲痛な叫びが聞えてくる。佐野は現地の状況を一度も眼にすることなく遷化したのであった。
佐野遷化の訃報に接した広瀬は、「事業は即ち国家的にして又宗教的である。此の国家的宗教的事業を、若し万々一にも中止せなければならぬ様の事があっては、最早宗門は滅亡である。……吾宗門が社会に生きておるものとすれば、須らく活動すべしだ」(「日宗新報」)と再度事業を位置付けた。また、「佐野僧正の遺志を継紹して益々鞏固に益々発展する様に」と北海道庁の嘱望もあり、広瀬は、「事業を継紹してばかりではいけない。法華村は益々発展の道を講じなければならぬ」と心機一転、新たに移民三十戸募集を計画したのである。その第二次移住を図るべく、既開墾地と小利別との中間に、新たに一八〇町歩の開拓を道庁に申請、快諾されたのであった。これで、法華村開拓地は三六〇町歩の地域となったのである。
七、福岡団体の入植
佐野の遷化を契機に、第二次移住は始動するのであるが、山梨移民を指導した結果を、広瀬は二点書き残している。第一点は、「数十年来小作して生活せるものなれば、容易に小作根性を脱却せしめ難く、些々たる事にも、一同協議の上、両三名の総代を選びて事務所に来るが如き、実に極めて不活発に而も忍耐力に乏しき、凡て消極的の農民」であったこと、二点は、「殊に奇怪なるは、身延山を中心とせる山梨県民は、他国人のそれに比して信仰心殆どゼロなりざれば、之を教養し善化する道、誠に以て容易の業に非ず」ということであった。山梨移民に対する、広瀬の落胆ぶりが読みとれる。山梨団体移住は、いうなれば実験的ではあったが、事業を通して、山梨移民が忍耐力や信仰心に乏しく、しかも活動も消極的、小作人根性丸出しの農民の姿に、広瀬には映ったのである。したがって、次期募集には、幾分かの信仰的な期待が寄せられている。すなわち「明年は、是非共信仰に富みて而も勇気のある農民募集して、法華村の村是を確立せしめたく、北国若しくは九州地方より募集せむ」と山梨県以外の移民募集を思考していた。山梨移民百戸以上の移住はこのように変更されたのである。
その冬十二月下旬、法華村日蓮宗説教所は予定より遅れて落成した。法主頂戴の曼荼羅を奉安し、佐野の偉徳を追慕して開山と仰いだ。宮城県からの移民小松寛静が主任となり、この説教所が、後日(昭和二十四年)、甲福山前啓寺に発展改称するのである。
第二次募集を九州に求めたのは、一つには事業の創始者佐野の遺志を継ぐ意味もあり、また佐野自身が存命中に住職寺本仏寺檀家の中島常吉に命じて法華村移民を募集させていたことによる。佐野は地元からの移民を考えていたのである。そしてすでに筑前方面より一六〇戸程の応募者を集めていたのであった。その中から五、六十戸を送りたい意向で、「法華村大繁盛の気運」を期すが、「予算に衆望を満足せしむる能わざる」結果、移住はその半数に減らしたようだ。この時も資金不足が如実である。
多くが本仏寺周辺地域からの応募であって、そのほとんどが、これまた、「何等の余裕あるに非ず。貧困者のみにて家財等を売却するも、是れを以て旅費等一切を所弁する能わざる者」ばかりであった。このように、福岡団体は比較的容易に集められたが、その応募者も、被災者ではないが山梨移民と同様な生活状態の人々であった。その他、北国より十戸の申込みがあったという。
大正二(一九一三)年一月、広瀬は福岡県本仏寺に赴いて二十七戸一三〇名(『復命書』は二十八戸一三一名と伝える)を選定し、第二次法華村福岡団体は発足したのである。
福岡団体の場合は、準備がスムーズに進行し、四月十四日、日蓮宗第二次移民団二十七戸一三〇名は、福岡県二日市駅に集合した。翌日午前五時、汽笛と共に生まれ育った故郷を後にしたのである。吉塚駅では、日蓮聖人銅像事務所職員に歓送され、その夜、下関発新橋行夜汽車の乗客となった。一行一三〇名の団体は、「一家を片付けて移住する団体なれば、沢山の荷物は勿論、幼老男女取りまぜての団体なれば、汽車・汽船の乗り替えに際しては、其混雑実に一方ならざるもの」(「日宗新報」)があった。途中、広島・神戸・大阪・名古屋・静岡の各駅で、地元の有志寺院から励ましや慰問を受けながら、十六日午後十一時すぎ、宗務院役員の出迎える中、品川駅に到着した。一行が高輪二本榎の承教寺に落ち着いたのは、十七日午前一時であった。
その日は、東京寺院方の案内で皇居二重橋や日比谷公園に遊ぶなど、東京に二日滞在して夜行強行の身心の疲れをいやした。十八日、出発に際し、神保弁静宗務総監より「懇篤なる挨拶」があった。浅草・上野公園に遊んで午後七時、総監ら見送る中、上野発青森行夜行列車の人々となった。連絡船で函館へ、北海道に上陸したのが二十日午後六時半、再び夜行に乗り、函館・小樽・札幌の寺院から慰問品が送られ、札幌駅では北海道庁から拓殖部員の慰問を受けた。二十一日午後十一時落合駅(現在の根室本線の落合)に着き、そのまま車中で夜を明かし(旅館にとまると費用がかかるということで)、早朝五時出発、十勝池田で網走線に乗り換えて、四月二十二日午後四時十五分、病人が出ることもなく、全員元気に小利別の土を踏んだのである。みんなの「意気頗る盛ん」であった。翌日、早速三戸づつ共同で住居の小屋掛に着手したというのが、法華村福岡団体の移住経過である。『復命書』を見る限り、北国の移住はみられず、結局、第二回移民は全員福岡県民である。その一戸あたり平均四、五名の家族構成であった。
福岡団体の入植した一帯も、小利別駅には近いが、「隅々盤石の地下に或は地表に露出せる処ありて、開墾には非常に困難せる処」であった。もっとも開拓は、荒地や原生林を耕地に切り開いて行くことであるから、困難を伴なうのは当然であるが、福岡団体もまた苦難の道を進むことになる。
福岡団体が入植したその年は、近年稀に見る大凶作に見舞われ、法華村もご多分に漏れず、作物は「平均二割の収穫」であった。新しく移住してまだ不慣れな福岡移民は、それでもその土「地に存在せる立木を伐採して之を売却しつつ衣食の道を立て」て窮地に備えられたが、耕作に頼る山梨移民の方は、「収穫無之に至っては、実に法華村の死活問題」という惨状であった。男達は、冬は常に丸太切りや製材所に働き賃金を得ているが、全くの不作にはなすすべを知らなかった。法華村のほとんどが、「新春一椀の雑煮も事欠く」窮状に瀕し、極めて粗食となり、馬鈴薯や裸麦などが主食となった。これからという時に、法華村は大凶作によって大きな試練に立たされたわけである。
このような惨状は法華村に限ったことではないが、大凶作に瀕する法華村救済賑恤に、宗務院は諭達を発し、義援金募集を門末寺院に呼びかけた。後日、宗務院教学課長が一度法華村を視察はしているものの、この諭達が、宗務院が法華村について、全寺院に援助を呼びかけた唯一の行動である。諭達に基づいて、どのくらいの義援金が集まったかは知らないが、日宗新報社扱いで、総計二四七円五五銭の報告が見られる。北海道寺院は救助義会を起こしたり、慈善演芸会を開いたりして援助していった。この時ばかりは、広瀬も広宣寺を高橋智眼に任せて、惨状に対応すべく自ら法華村に常住したのであった。
八、その後の法華村
見出した資料を基に、法華村建設に至るいきさつを跡付けてみた。結局、法華村建設は理想郷を目指した百戸以上が入植することなく、山梨・福岡の二団体五十戸にも未足ない移民で終り、理想郷の成就をみることなく建設途中で一頓挫をきたしたわけであるが、細い点はともかく、大筋でどういういきさつで建設が推し進められていったかが、多少なりとも明らかになったと思う。この二団体が、その後農業技術指導のあった大正五、六年の間に、どのようになっていったか、いま少し見ておこう。
まず、山梨団体は次の通りである。先の『復命書』によれば、山梨団体は十八戸一〇〇名で入植、その後、子供が生まれた家六戸十一名、死去した者十七名八戸、五人亡くなった家族もあり、全員が病死、過酷な自然条件であったことが窺える。途中で一名が入植して一名が帰郷した。同行者間の結婚一組あって、四年間で入植時より四名の減少を見た。また開墾反別は、入植時十七町七反、一戸平均九反少々の開墾が、四年後には五十七町九反、約三町二反平均となる。収穫(馬鈴薯・そば・もろこし・菜豆・裸麦・えん麦・その他)は、入植時十六丁七反(平均約九反)が五七丁九反となり、一戸平均三丁二反となっている。
福岡団体の場合は、二十八戸一三一名で入植、子供が誕生した家十戸十一名、死去した者六名六戸で全員病死、途中一名入村、二家族が帰郷、同行者結婚一組、他地域へ嫁入り一名、行方不明一名、入営二名である。開墾状況は、当初十九町八反(一戸平均七反)が四年後には一一六町、一家族四町一反で、作物収穫は、入植時十七丁十四反、一戸当り約六反平均から一一九丁十反(一戸平均約四十二丁二反)への発展がみられた。
大凶作を何とか乗り越えて、大正五年頃になると、苦しい経験から「気候及耕作の方法、作物の撰定等を合理的に行」なえるようになり、生活に安定が得られて定住する決心が見られるようになった。『復命書』には、「今後更に一層の注意を以てせば、将来に於て見るべきものあらん」と述べつつも、先行き「普通農業にして今後の計画頗る至難なりと考える故に、該団体に多少の共同放牧場を与え、混同農業法に組織変更せしむるときは、生計安全ならん」と農業の見直しを示唆している。自治制が建て前であったので、先々の生計が常に問題であった。冬期の副業が開拓とは別になされ、広瀬は、大正五年に多額の資金を投じて澱粉工場を設置し、移住者をその製造に従事させたりした。
移住して四、五年たっても、農業がまだまだ安定した状態ではなかったことが、『復命書』から窺える。農業の方向転換を図らなければならないような指導があってか、第二次以降の募集は行われていない。それだけ、現実は予想以上に厳しかったのであろう。大正五年までに、山梨・福岡二団体の他に、単独で移住してきた者十二戸二十六名あったというが、百戸以上の移住を目指した法華村は、その後、募集されることなく、先の二団体等約六十戸の入植で終っている。なぜであろうか。いろいろな理由が考えられよう。その理由というべきいくつかは、すでに若干触れてきた。決定的な理由を示すことは難しいが、強いて言えば、この計画そのものの中に、発展をなし得ない要因めいたものがあったような思いが、法華村建設について跡付けてきて感じられるのである。見切り発車したものは、大方が目指すところに到達しないのが普通だからである。
自作農の創設、育成を一目標とした河島の拓殖政策は、自作農による自治制を目指した法華村においては、必ずしも成功したとは言い難い結果になっていったのは、何とも皮肉なことであろう。自作農を目指すには、すでに広瀬も言っていたが、あまりにも移民達の小作魂が強かった。その上に自然条件が予測以上に苛酷であった。さらには、宗門に移管された割には、その後事業に対する積極的な取り組みが見られなかったのである。日蓮宗徒による法華村建設といっても、信仰的指導だけでは決してなしえない。その点、広瀬は、よくめんどうをみてくれたというが、彼はあくまで農業には素人であった。
その上に、資金の問題もあったであろう。『菅上小伝』によれば、佐野は、法華村建設事業に対し資金として私財一三〇〇〇円(当時)を投入したというが、その資金が事業推進にどのように運用されたかは、いまは知り得ない。しかし移住のための旅費一つ取ってみても、その資金調達に、広瀬は当初から大変な苦労を強いられている。ここに、福岡団体の二日市駅出発から入植して七月二十三日までの諸経費決算が見られるが、いまのところ眼にした唯一の報告である。参考までに列記してみる。
総収入 三〇八八円四九銭
内訳 二〇六〇円 九州移民団より
三一七円十二銭 北海道拓殖協会より
一五〇円 橋本家寄付
五六一円三八銭 広瀬負債
総支出 三〇八八円四九銭
内訳 六三五円六七銭 汽車賃
一一四円二二銭 荷物運賃
二〇四円二〇銭 小屋掛費
一一二円二〇銭 家具・農具費
一八六三円三五銭 食費・種物費
一〇八円八四銭 事務所費(食費共)
五〇円 雑費
この報告には、広瀬が奔走した費用は含まれていない。まず目につくのは、日蓮宗からの収入がない。山梨団体の時、広瀬は何の援助もないと記していたが、この報告には、拓殖協会からの助成金が報告されている。山梨団体にも拓殖関係機関からいくらか入っていたかもしれないが、この中で特に広瀬の負債が目立っている。全体の約五分の一、奔走計費などを含めると、広瀬が自腹を切った費用は大変な額になる。一戸平均約七六円二九銭を納めていたようだが、移民の生活状況からみると、精一杯の額であったろう。山梨団体移住の時も多分にそうであったが、この報告に見られるように、広瀬は多額の借金までし、常に事業運営資金調達に大変苦労していたことは確かなようだ。
佐野が遷化して五日目に開かれた、日蓮宗の最高機関である日蓮宗評議員会において、法華村事業は承認され、宗務院の管理下に置かれたわけだが、大正も五年頃になると、宗門の事業となっていたにもかかわらず、法華村についての関連報道は、宗門の広報機関紙「日宗新報」から見られなくなり、それに続く「日蓮宗宗報」にも報告されることはなかった。関心がなくなっていった。佐野が宗門の事業として発展を期し、広瀬をして、事業の中止は宗門の恥辱と言わしめたこの事業は、宗門に事業への熱が高まることなく、歳月が流れていった。宗門が本格的に推進、支援なり関わった形跡がみられないのである。
現場では、五町歩を開墾すれば、無償で付与して自作農の育成を目指したはずが、五町歩を開墾して自分のものになると、「他へ売り渡して帰国又は移住する者が出来、代って居住する者には他宗徒があって、約十戸許りも他宗徒が住んで居る」「現在居住して居る本宗信徒の中でも、相当の資本が出来たならば、帰国したいという意向を有もって居る者も少なくない」「この儘に放任して置いたならば、折角苦心した法華村も、名ありて実なきものになる恐れがある」「説教所の維持も中々骨折れる相で、小利別にある真宗や禅宗の説教所に比して甚だしく見劣りがせられるようであった」(馬田行啓「北海の印象」法華所収。大正八年夏に法華村を訪れ、“法華村の人々に幸福あれよかし”と記している)という現象が、大正八(一九一九)年、入植六、七年にして早くも見られるようになったのである。
開墾地が自分のものになって他へ売り渡し、日宗法華村を離れていった現象は、高度経済成長期を経て近年まで続いていたのである。しかしながら、佐野前励と河島醇との邂逅がなかったならば、北海道に信仰的理想郷なる法華村を建設する計画は、あり得なかったことである。
九、むすび
以上、広瀬が日宗新報社に書き送っていた幾通かの書簡を材料に、佐野と河島の深い因縁によって興された法華村・醇楽寺建設事業の主に初期の経過について述べてきた。法華信仰による宗教の理想郷を目指した日宗法華村は、現在二軒の家を残して「日宗」という地名のみをとどめている。その状況は、もはや“秋草や開拓どもが夢の跡”である。結局、法華信仰による日宗法華村は、宗教の理想郷には至らなかったのである。
ここまで追考しきたって、気にかかった以下の点を列挙してむすびとする。
@事業が急なるテンポで行われていた様子が窺える。それが広瀬の動向にみられる。河島の死去によって急いだと思われるが、永遠を期す理想郷としての法華村を建設する割には、周到な計画性がみられない。どちらかというと、取りあえず移民させてみるという、いきあたりばったり的な在り方であったということだ。それは、初めから日蓮聖人銅像を建立するという目的があってなされたのではなく、たまたま銅像建立の計画があって、それに便乗して遂行された博多日蓮聖人銅像建立事業の在り方に、基本的に類似しているところがあると思われる。
A計画性のなさは、宗門の事業へのバックアップのなさにつながっている。そもそも法華村建設事業の発想が、いわば佐野の私的なことによるところが強く、佐野と河島の私的な関係から出されてきた。宗門事業といっても、佐野の私的な事業の色彩をとどめており、それは、いみじくも事業主佐野への批判の声にも表われている。それはまた、日蓮宗と河島の関係の稀薄さにも起因していると思う。したがってこの宗門の事業ということに対する熱意が今一つである。事業が宗門としての事業に位置づけられたのは、佐野の遷化後、評議員会の日蓮宗移行決定からである。日宗新報社はよく支援を呼びかけていたが、宗務院からは大凶作に関する諭達が目に付くぐらいである。さらに、五、六年が過ぎて、土地が開拓者のものになって他へ売却されていった現象に、宗門は何ら手を打っていない。このことからも、この法華村は、宗門の推進した日蓮宗法華村とは称しても、基本的には佐野の意向で促進された色彩を持った事業であった。宗門の事業にはなり得なかったといえるだろう。
B人選の問題がある。河島の開拓政策の一つは自作農の育成を掲げているが、急ぐあまり、集まり次第の人達を移住させており、広瀬は、その人達の小作人根性が強く指導に苦労したこと、信仰心が比較的稀薄であったことを告白している。殊に九州団体では、人選は広瀬が行わず、北海道の状況を知らない人が行ってしまい、第二次に期待した広瀬の経験や意向が活かされ反映されていなかったのではないか。多く集まった中から、どのようにして最終人選が行われたのか、広瀬は引率したのみであった。九州団体は山梨団体よりも比較的街に近い立地のよいところに住んだが、開墾五年たって、まず九州の人が出ていったという。
C予想をはるかに越えた、過酷な自然環境、とりもなおさず、気象条件が事業の先行きに常に重くのしかかっていったのであった。
付記 合わせて、調査報告「日蓮宗開拓移民|法華村の成立と現状|」(日蓮宗現代宗教研究所編「現代宗教研究」第十九号所収)を一読して頂ければ幸甚である。注記は紙数の都合で省略した。