日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第28号:106頁〜 『法華経』と差別用語−法華行者の立場から− ←前次→

研究例会
『法華経』と差別用語
 −法華行者の立場から−
 野 本 覚 成 (天台宗典編纂所編輯長)

はじめに
私は法華経の専門的な研究家でなくちゃいけないのですが、法華経の専門家のほうは、むしろ日蓮宗さんの皆さんのほうでございまして、私のほうが教わらなければならないことが多いのではないかと思う次第です。お手元にも資料をお配りして、準備万端整えてきたように見えますが、実は赤堀先生からお誘いの言葉がありましたときには、どうも死刑台に上っていくような気がして、お断わりしたのです。しかし、「全日仏の研究会でされたようなお話でいいから」とおっしゃってくださいましたので、むしろ皆さんに教えていただくつもりで参りました。ご指導いただければありがたいと思います。
きょうのテーマは「『法華経』と差別用語」です。資料には「『法華経』の差別的な語の意味について」となっていますが、意図は同じことです。
私ども天台宗は、社会部が同和の問題を担当しており、平成四年の四月から同和推進課ができました。同和推進に努力するという課です。私は部外ですが、ちょくちょくと本を読ませていただいたり、宗政上の問題に絡んで、勉強させていただきました。身分制度がなくなったにもかかわらず、身分差別から発生したことが、いまだに尾を引いて問題が起きていること、「けがれ」の習慣がそれにプラスしていることなどが、わかってきました。その責任を、なぜ宗教家に負わせるのかという問題があります。宗教家の影響は大きいこと、また、現憲法精神に反しているというのが主旨のようです。
大阪の部落解放同盟の研究会に何遍か行きました。京都には各宗の本山がありますので、本山でおやりになる研究会にも何遍も同行してお話を聞きました。日蓮宗さんは加盟してない。「なぜか」と聞いたけれども、担当者が正確に答えてくれない。こちらの赤堀さんに聞くと、そうじゃない、こうなんだという日蓮宗の立場を、かえって自慢らしくおっしゃるわけです。これに私も賛成なんです。
私が今日まで感じることは、宗教家が宗教家の責任を明白にしていない、あるいはどこまで責任を取ったらいいかがよく理解されていない状態ではないかということです。
ここに問題があるやないか、読誦経典や何とかの語録には差別用語がいっぱい出てくる、どういうことなのか。差別戒名もあるだろうと言われます。
真言宗の差別戒名が見つかったという研究会に行って話を聞きますと、糾弾まではいかないのですが、幕末明治初期の同和地域となっている旧村の差別戒名帳が提出されました。「この戒名はひどい差別戒名だ」ということを黒板に書き、プリントにもなっていました。その中に良い戒名があることには触れられません。
その処理は、同宗連等関係者が集まって、差別戒名帳は本山が預かって保管するということを決められているわけです。奇妙なことをするものだと思う。戒名帳というのは、その寺に所属したものですから、第三者がああせい、こうせいと言って処理されるものではないはずです。その寺の住職と檀家総意で決めないといけないはずです。過去帳名はいかなるものであっても部外に出してはいけないもののはずです。宗派の財でなく、その寺の宗教財産のはずです。本山に保管するというのもちょっと理解に苦しみます。それが出たということにも驚くし、「出せ」と言われたら「ハイ」と言って出すというのも、奇妙な話だと思います。それも、江戸時代とか明治初期についた戒名でも問題となります。
墓石もそうです。天台宗の差別戒名墓石だというので、岸和田市がつくった同和推進の宗教編のビデオを見ました。どこが天台宗なのか。字幕スーパーで「天台宗のお寺」と出るのだけれども、何をもって、これが天台宗の差別戒名だと言えるのか疑問な墓石でした。お墓があるのが天台宗のお寺だということらしい。
しかし、それを拝んでいるのですから、目的は、その墓石を埋めるなりして、戒名とも新しいものにする。その費用は宗派と該当寺院が持つべきだみたいな話になるわけです。檀那寺が檀家さんの墓石を造って差し上げるという、奇妙なことが起こる。檀信徒がつくる墓石をお寺がお助けするならわかるけれども、全部改修して、慰霊法要まで全部宗団の費用でやらなければいけないみたいな話を聞かされると、私はどこか主客転倒のような感じがする。各教団が同和対策事業をやっているかのようです。何人もが集まって話はしているけれども、結局はそういう図式になっていて、差別戒名をなくすというだけでも宗教運動とか宗教活動になるでしょうが、なくするのはいいですが、それで終わってしまう話で、宗教的内容が学べないように感じ、<どうも違うな>という感じがするわけです。少々疑念が起こるにしても、差別が起こらないようにする、ということであれば、これで最善を尽すことになるのでしょう。
同和関係の発表者の意見を聞きますと、各宗には差別的な用語がある。天台宗の伝教大師の『願文』にもある。これは一体どうなっているんだというようなことを言われるのです。どうなっているか教えてくださいという話ならともかく、どうなっているのか言うてみい、みたいな話を会費を払って聞いているわけです。
こういうことにならないと、なかなか現実の人間差別の問題が解決しない状況らしいということはよくわかる。今頃の本覚思想批判者によると、正しくないということになるのかもしれませんが、我々は大乗仏教で、五性各別を廃止して、万人成仏の老若男女、すぐれた者もすぐれない者も、病人も健康な人も、仏性説から大乗平等一乗思想を教わって、それを信じているわけです。それに基づいて同和に取り組んでいるとも言えるでしょう。
しかし、現実はそうじゃないことは、だれにだってわかるわけです。私の隣に美男子が並ぶと、皆さんは美男子に関心があるが、私には関心がなくなる(笑)。そういうのは嫌だというのは、みんなよくわかるわけです。美人と、そうでない者がいると、どっちに見とれるかというと、美人のほうに見とれるというのは、自然の成り行きで、大乗でも平等でもないじゃないかということになります。
しかし、本質的な価値とか意味について考えると、それは同じでなければいけない。そこからスタートしないと、何ものも始まらない。大乗仏教の真実とか主義というのは、万人成仏を信じ込むことからスタートするのだろうと思います。五性各別だって、五つあると言いますが、あらゆる人間をメーターではかって区別するわけではないのですから、五つあるように考え、思って行われたわけです。大乗は、キリスト教徒もイスラム教徒も、犯罪者も仏教をののしる者も、仏教を修行する者も、多額浄財などの援助する者もしない者も、老若男女同じ人間ということで、世界観人間観を持ちます。
しかし現実には、名前が異なるように戒名にも違いがあり、あえて差別するのでなく、生前行為や男女の区別は存在しているようです。これは身分差別や部落差別戒名とは異なっているものです。しかし、連続している問題であるかも知れません。無差別の平等はむずかしいことだからといって、無平等の差別があって良いことにはなりませんが、平等の中の区別の基準を現実に厳しく定めることもむずかしいことのように思います。
天台宗が、天台宗独自の立場とか、宗教人としての立場を確保し自覚しないまま、社会問題責任者として問われるのは、どうも納得いかない。差別戒名を懺悔せよと言われても、懺悔しなければならん理由が、ようわからんうちに、懺悔したとしても、それは本当の懺悔にならんわけです。
日蓮宗さんのお話を聞くと、他団体の干渉にはあまり関係しない、宗団独自でやるという立場だそうです。私はそれが一番あるべき姿だろうと思います。宗教者として問題を解決しようというのがないと、本当の解決にならないと思います。部落差別も男女差別も、まず宗教問題として自らが解決しなければならないと思います。
法華経の主旨
天台宗には、懺悔・勧請・随喜・回向・発願という五悔の構成でできた懺悔法の中で、安楽行品の偈文を読誦します。これは、たとえばほかの寿量品を入れてもいいわけですが、あえて安楽行品を入れてある。なぜかという問題があるわけです。それは教学上の問題ですから、ちょっとおきます。その安楽行品の中に差別用語がある。ある偉い方が安楽行品を一時取ってしまった。
なぜ取ったかというと、差別用語の問題でギャンギャン言われたらかなわんというわけです。何で、言われたらかなわんのか。後ろめたいことをしてきたんですかと言いたい。要するに、問題がよく理解できないからです。とにかくくさいものにふたをして見えなくしておけばいいという姿勢では、そこにいかにもくさいものがあるみたいだ。くさくもないのに、「くさいもの」にするなというのが正直な感じです。よくわからない人は、大切な法儀が正しいのかどうか、よく聞かせてくれという人もあると思います。
それで、「安楽行品の差別用語は、差別を助長するものかどうか」という諮問が、天台宗の勧学院議に上がりまして、勧学院から「それはない」という答申が出ました。
私もこれを検討して見たいと思います。気がついたものを資料としてお手元に差し上げてありますが、法華経の中に差別用語とされるものがポツポツあります。差別用語があるかないかにこだわると、極端なことを言えば、同和関係の著書は差別用語だらけです。それをけしからんと言えるかというと、そんなことはない。なぜそれが許されるかというと、差別をなくそうとしているからです。では、法華経のほうも、そういう立場に立って、差別をなくそう、一乗思想を説こうとしているものだから、構わないじゃないかということが言えるはずです。しかし、単純にはそうじゃない部分もある。
端的に言いますと、序品の中には、「金剛諸珍奴婢車乗宝飾輦輿歓喜布施」というのがある。「金剛諸珍」は珍しい宝です。「奴婢」は奴隷です。それを車に乗せて、宝で輿を飾って、喜んでお釈迦さんに布施したという表現です。これはインド的な文学的表現で、ありったけの財産を寄付したという表現であろうと考えたらいい。人をつかまえて奴隷にしてお布施しなければいかんという意味ではないと思います。
譬喩品の「謗斯経故……諸根暗鈍……盲聾背傴……口気常臭……貧窮下賤……多病瘠……」という表現は、意気込みとしてはよくわかります。病気の因果関係がよくわからない昔は、そういうことを言っても、あるいは通ったかもしれないが、今これを言うと、逆に言うほうがバカにされます。ですから、これは昔はそう思ったことだけれども、今は時代に通用しないから、こういうものは使うのをやめたらいいと思います。そのことについては、お釈迦さんもお祖師さんも間違っているとはおっしゃらないと思います。
経典の中に、間違っている部分があるのかと厳しく言うなら、私はないと思います。この経典を重視してくれというつもりで書いているわけで、そのこと自体は何も間違ってないはずです。言葉の端、端をとらえて、発音が悪いから間違っている、単語の内容がけしからんから間違っているみたいな話になったのでは、一大説法の内容が乱れて伝わらなくなる。時代に通用しないものを無理に引っ張り出して誤解を招いてまでやることはないというのが、安楽行品の趣旨ではないかということを感じてきたわけです。
同じようなことは、勧発品に法華経をそしり「若有軽笑之者 当世世牙歯疎欠 醜唇平鼻 手脚繚戻 眼目角眸 身体臭穢 悪瘡膿血 水腹短気 諸悪重病」とあります。歯が欠け、唇が醜くなり、鼻が平べったくなり、手や足は曲がってしまう。うろこ目になり目が見えなくなり、体は臭くなる。おできがいっぱいできて血膿が出る。おなかはふくらんで気が短くなり、いろいろな重病にかかると書いてあるわけです。<ここまで言わんでもええやないか>という感じもするし、言うたところで、これは説得力はないでしょう。逆に疑われます。使うのは経典の骨格の部分が良いでしょう。
だから、法華経の精神を弘めるためには、使える部分を使う。誤解されるものはあえて使うなということが、安楽行品の中に書いてあるのだろうということです。これについては後で申し上げます。
信解品には、「猶故自謂 客作賤人 由是之故 於二十年中 常令徐糞」というのがあります。長者窮子の譬えの中で、見つけてきた自分の子供が、育ててもなかなかうまくいかない。みずから賤人になってしまいたがるので、二十年間トイレ掃除をさせたという話のところです。
また、薬草品では、「如雨普潤貴賤上下持戒毀戒……」とあります。
これらは、そういう当時の社会状況であるから、当時の表現でわかるように書いているのだろうと思います。賤人がこの世に存在すべきだと法華経が説明しているはずはないと思います。
五百品では、「無有諸女人 亦無諸悪道」(諸の女人あることなく また諸悪道なけん)とあります。女の人はもろもろの悪道と同じことになっている、というふうに読んでいいのかどうか、問題がありますが、たぶんそういう意味でしょう。一般社会の法華経を聞かない女人を指して女人を悪く書いてある。
提婆品には、八歳の竜女が即身成仏するシーンの少し前に、「女身垢穢 非是法器」(女の体は汚い。だから、法器になるはずはない)だとか、悟りを開けるはずはないだとか、「女人身 猶有五障」(女人の体は五つの障りがある)という表現が出てきます。これは、お釈迦さんだって長い間修行をして、やっと悟りが開けた。それを八歳の女があっと言う間に悟りを開くことがあるはずがないじゃないかという表現に使った言葉です。ところが、八歳の女の子があっと言う間に即身成仏してみせるわけです。一度男の子の姿になり変わる。サンスクリットでは、性器がぶら下がっていると露骨に書いてあるのだそうですが、漢訳では「変成男子」というきれいな言葉になっています。男の体になり変わって成仏した。そこで、女の体のままでは成仏できないんだという解釈をした平安、鎌倉の文学、お説教本もあるようです。
しかし、天台宗の教理学では、それを認めないんです。「変成男子」しなければならないというのは、その時代に合わせた言葉だと解釈します。変成男子しなければならないという前提や条件をつけると、法華経の一乗精神が崩れてしまう。即身成仏にならない。そもそも直ちに悟りを開くということ自体が、奇想天外な内容です。あり得ないことを書いていることになる。なおかつ八歳の竜の(人間でない)女の子が即身成仏するということが書いてあるのだけれども、理解させるために、男女というこだわりをなくするために、男の子に一遍なり変わるという変貌自在を説いているだけです。結局、法華経は通俗的な個定価値観を否定しているわけです。実は男子にならなければならないという必要はないということを書いた論義書があります。鎌倉時代の恵鎮の『宗要白光』という本の中の短い文章ですが、明白に書いてありますから、それは本当なんです。男身・女身という概念を離れて真理を見よというのが、元来の法華経教理であるはずですから、「変成男子」しなければならないという概念規定すらもなくすはずです。むしろ法華経はそれを教えようとして書いていると思います。
ただ、今ならそういうことを幾ら言ってもショックではないですが、インドも男性社会ですから当時、たぶん女の人が即座に成仏するなんていうことを言ったら、それだけで迫害ものになる。そういう宗教は許さんということになりかねないので、一遍「変成男子」するということにしているのだろうと解釈したほうがよさそうだということです。インドで女性の教団を認めたのも、釈迦が最初でしたね。
この場にも美しい女性がいらっしゃるので、あえて言わなければいけないですが、確かに昔は女身が穢れているということを言ったようです。大きな理由は「血」をけがれとしてきらったからでしょう。しかし、今はそんなことを言ったら、逆に女の人にバカにされる。「男は汚い」と言われて終わりです(笑)。お坊さんはみんなそういうことを思っているわけじゃないということを、私は特に強調して申し上げたい。法華経は女人差別を説いてはいないのです。女身には五つの障りがあると言うけれども、男だって障るものは五つでなくたくさんあります。大して違わない。社会に女人差別があるのです。
身分差別があって、カースト制度があるインドで、絶対平等主義を説いて通用するでしょうか。どういうことかというと、インドのヒンズー語をしゃべるのが正統な仏教徒だというので、日本でもヒンズー語を話せと言われるのと同じことで、それはむちゃなことですよ。だれも理解しません。そういうようなことになってはいけないので、女性についても、インド社会時代に合わせた表現を使って一乗思想を説こうとしているわけですから、ここに差別言句があるからということによって、説こうとしている内容までダメにすることはないと思います。
これを安楽行品についても言いたいわけです。
「栴陀羅」という言葉が出てきます。日蓮聖人は栴陀羅の子だとご自分で書かれたそうですが、それは漁師の出身だという意味でしょうか。だから、栴陀羅という表現には身分的な意味で、卑しいとか、あまり高くない身分、という意味があるのかもしれませんが、身分差別上の非人を栴陀羅と呼ぶんだというのとは、ニュアンスがちょっと違うように思います。法華経に近いのは日蓮聖人の用語の方でしょう。
安楽行品の中には、資料に挙げてありまように、まず@は、「常離国王 及国王子 大臣官長 凶険戯者 及栴陀羅 外道梵志」(常に国王及び国王子・大臣・官長・凶険の戯者及び栴陀羅・外道梵志を離れよ)と書いてある。栴陀羅だけから離れよと言っているのではない。国王にも大臣にも近寄るな、危ない遊びをする者にも近寄るなと言っている。プロレスとか相撲も入るのでしょうかね。栴陀羅にも近寄るな、仏教以外の修行をしている外道梵志にも近寄るなと書いてあります。
Aは、「屠児魁膾 畋猟魚捕 為利殺害 販肉自活 衒売女色 如是之人 皆勿親近」(屠殺業、皮はぎ職人、狩猟や魚を獲るなど動物を殺害して利益を得ている者、肉を売って生活している者、色を売って生活している女の人、是の如き人には親近することなかれ)と書いてある。布教するのであれば、そういう人に積極的に近づいていかなければならない、夜のネオン街にだって出ていかなければいけないと言って、出かけて行く方がおられるかもしれませんが(笑)、そういうことをしてはいかんと書いてある。
Bは、「或与種々珍宝……奴卑人民」「奴卑財物」とありまして、これは「奴卑財物」「奴卑人民」などと人間が物扱いになっているという例です。
Cは、「読是経者 常無憂悩 又無病痛……不生貧窮 卑賤醜陋」(是の経典を読む者は、常に悩みがなく、又病痛がなく、貧窮・卑賤醜陋を生ぜす)とあります。法華経を読んでいて病気になったら、どうなるんだという疑問を感じますが、読誦が足りんのだということになるんでしょうか。しかしこれも強調喩説でしょう。
「栴陀羅」というのが出てくるところが、天台宗でも問題になったわけです。ここに職業差別も出てくるではないかということを言う若い人もあります。身口意誓願の四安楽行をやるというのは、一般の信者ではなくて、法華の行者です。法華の行者たる者は、山の中に籠って、夜、ネオン街にも出てはいけない。それはなぜだということを教えているわけです。逆に、近寄れと書いてあるのは、閑所です。静かな場所で修行する。その心を静かにおさめ整えることが大事だと書かれています。
『法華文句』の中に、「比丘、国王に親近すれば十悲報あり」とあります。国が繁栄している時はいいが、現在の我が国みたいに、金丸事件、佐川急便事件などのような国家的不祥事が起きたときに、お坊さんがそういうところにちょろちょろ出入りしていると、こういうことが起きたのは、あの坊主のせいだということになる。あの坊主は呪術がうまいから、きっとそうなる呪術をしたに違いないということで、その罪を比丘に負わせられることがある。そうなれば、謗仏謗法の声が国中に広がって、安楽行をやっているどころではなくなる。必ず権力者によって教団や仏教が弾圧されてしまう。それもただ一人の行者だけでなく、その教団の存続にかかわるということを心配して、国王には近寄るなということが書いてあるのだろうと解釈できます。
栴陀羅については、何も触れていません。特に言うほどの内容がなかったのかもしれません。『法華文句』では、栴陀羅は人を無慈悲にする者だと書いてあるだけで、それ以上のことは書いてありません。しかし、目的は同様でしょう。
現在、屠殺業や肉を売っている人に、「あんた、殺生はあきまへんで」と言ったら、商売するなということになります。麻薬を売っている人に、「それはあかん」と言うのは、<あの坊さんは、ええこと言うてくれた>と、だれにも納得してもらえるでしょうが、今、肉屋さんへ行って、「あんた、やめなはれ」と説教してごらんなさい、迷惑だから出ていってくれと、たたき出されるでしょう。しかし、江戸時代以前なら通用したことです。
現在に檀家さんに養鶏、養豚あるいは牛を飼っている人がいたとして、この人たちは卵なり肉を売るためでしょう。それをやめなさいと言えますか。「殺生したらあきまへん」と強く言ってごらんなさい。逆に人格を疑われます。現代社会にそぐわない面が出て来ます。インドのカースト制度は五つどころでなく何百とあるそうです。カースト階級にも属さない最下級のアンタッチャブルと呼ばれる階層の中にも、部外者にはわからんランクがあるそうです。そういうところで「あんた、差別したらあきまへん」と法華経の一乗思想を説いたら、えらいことになるわけです。それを法華経の信者はたぶんやったんです。だから、インドから法華経がなくなっちゃった。法華経のかけらもなくなっちゃった。仏教もなくなっちゃった。
学術研究によれば、仏教を支えていた商業階級の信者層が、イスラムの侵入によって、イスラムに変わったので、仏教が滅んだということだそうです。本当は、思想的に受け入れられなかったからではないでしょうか。現在、小乗仏教として仏教はスリランカとかミャンマー、パキスタン、タイ、カンボジアにまだ少しあるそうです。これは五性格別で、カースト否定ではありません。
もし法華行者が現在でもインドへ行って、カースト制度をやめろということを言うてごらんなさい。たぶん暗殺されて終わりです。そう思えるほどカーストは強くて、いまだに悩んでいる。しかし、仏教の平等精神は忘れたくない。だから、現在のインドの国旗には、よく見るとアショーカ王の紋章が入っています。あれは仏教の平等思想をシンボルにしたいがしかし、なかなかカーストはなくならない、そんなインドを象徴しています。安楽行品ではそういう人々に親しく近づいて一乗思想を説くなということを言っている。たぶんそういう事例がたくさん起きたのでしょう。そんなことをやっていれば安楽行ではなくなる。安楽行をしたいときは、そういうところへ近寄るな、ぐあいが悪いことが起きるというのを、経験上から書いてあるのではないか。それが、種々の職業の人とか、王子だけでなくて、世俗の文筆家とか、外道梵志というところまで書いてあるわけです。
近寄るなとありますが、その続きとして、資料のDのところにあるように、安楽行品に、「如是人等 或時来者 則為説法 無所希望」(是の如き人等あるいは来たらば、則ち説法を為し、希望するところ無かれ)と書いてあります。自分からは行くな、向こうから仏教の教えはどうなのですか、教えてくださいと言って来たときには、ちゃんとお説教しなさい。それ以上のことは望むなと書いてある。法華経の安楽行品の差別用語はそういうふうに読めませんか。私はそういうふうに解釈して、間違いはないのではないかと思います。
屠殺、漁業、肉を売っている人に、あえて強く不殺生を説き、平等思想を強く打ち出す政治家は、政治ができないようになる。聖者であっても、聖者の教えとして聞かれなくなる。無理強いから問題が起きてくるから、やめなさい。それが不親近の意味でしょう。けれども大乗仏教は、種々の身分や職業とは無関係なんだということを言っているのではないと思います。
大体、法華経信者には強い人が多い。比叡山は昔、天皇だって脅しました。権力を何とも思ってないようなところがある。それで比叡山の寺が焼かれるんです。そういうことが起きるので、権力者にむやみに近寄るなということを、既に法華経が教えているのです。信長だけが悪いのとちがいまっせと、法華経が説いている。今なら<そうや、そうや>と、比叡山の方も言うてくださるでしょう(平成四年九月、信長公慰霊法要が行われた)。
そういうことが安楽行品には説かれているからこそ、経典の価値があると私は思うんです。社会的な迫害を避けるような布教をしなさいということが、安楽行品の趣旨でしょう。その中で身・口・意・誓願を守って修行しなくちゃいけない。そうすれば四安楽の行となる。わざわざ安楽行ということを言わなければならないほど迫害を受けているから、こういう経典をつくって説明しなければならんわけでしょう。うまくいっていたら、こんな品は要らないはずです。法華経だけわざわざ四安楽を説かなければならん理由があるはずじゃないか。私は単純にそのように考えているんです。偉大な便宜主義が説かれていると思うんです。
昔、信長に比叡山を焼かれたのも、しようがない。しかし、これから未来について、外道梵志に近寄るなと言われても、比叡山は宗教サミットで世界中の他宗教の偉い人を集めて、あそこで平和を祈っている。交際するなどころでない。平和の祈りでは、握手し、抱き合って、ほおずりまでしてはりますやないか。そうすると、安楽行品の趣旨と違うやないかなということが問題になる。現代の日本は、そういう差別とか垣根、価値概念の違いを超えることについて、違和感がない時代になっているわけです。世界的にもそうです。法華経の一乗思想がより実践できる時代になっています。むしろ恐れず実践しなければなりません。
職業の壁を超えることも違和感がない。お坊さんがネクタイをすることもできる。昔はそれは絶対ダメだった。身分によって着るものからヘアスタイルまで決められていた。好きなようにできない。着物の材質、模様も、決まっている。きれいな色やなと思うても着られない。今はだれだって好きなようにしはったらよろしい。それを寝間着にしようが、外出着にしようが、好きなようにしたらいい。あらゆる既成概念、枠がずいぶんなくなっている。昔はお坊さんという特殊な身分があった。今は、なくされました。身分差別もなくなっています。一つだけ天皇制だけは身分区別がある。これだけは歴然として残っていますが、他には身分差別制度はありません。しかしこれは五十年も経ていないのです。
今、すべてのものがそういうふうになっていますので、むしろ今は法華経の一乗思想が積極的に説ける時期です。身分や階級差別がある中で苦労して説くことはない。今は当たり前になったから、積極的に説くと喜ばれるかと言うと、逆にありがたみがない。「人間はみんな平等なんだよ」と言っても、「知ってるよ、父ちゃん」みたいなことで、小学生だって覚えています。昔はそんなことを言うことすらできない。そういう概念すら持てない。今はむしろ法華経の時代になっちゃったから、のんびりしていると法華経は要らんのではないかということになる。法華の平等をむしろ行動しなければならないんです。
中世の仏教の説話では、病気になった理由を考えたら、うっかり経典をまたいだ、それが理由で病気になったんだという話が出てきます。経典をまたいだ罪というのは大きい。今の我々はあまり関心を持ちませんが、中世では、経典だけではなく印刷されたものというのは特殊なものです。それ以前に字を書くというのは特殊な力を持ちます。呪文と一緒です。「南無妙法蓮華経」と書かれた日蓮聖人ご自筆のものがあるとすると、それは日蓮聖人のご自筆だから特にそうですが、あの七文字自体が力を持っている。昔の人も、だから決して粗末にしません。そういうふうに感じていた。言葉も力を持っています。同じ言葉でも強くガーッと言われてごらんなさい、いつまでも忘れられないでしょう。言葉は人間を拘束する力を持っています。警察官に「こら待てェ」と言われたら、何も悪いことをしていなくても、ギュッと足がとまる。言葉の力です。「ここは娯楽室です。ご自由になさってください」と書いてあったら、その文字の力によって、私たちの気分はずいぶん変わるでしょう。文字に力がある。ましてや昔は印刷物は高価なものです。それが経典であれば、<おまえは触っちゃいけない。生意気だ>というぐらいなものです。合掌してからでないといけない。自然にそういうふうになる。今は印刷物が氾濫して、ボタン一つで文字が出てくる時代ですから、何とも思わない。<またいだことが罪になり病気になるなんて、何でや。昔の人間は不思議なことを言ったものだ。バカじゃないか>みたいなことになってしまった。
昔は、印刷物は大変高価で貴重なもので、しかも経典はマジカルパワーを持ったものですから、粗末にしてはいけない。それをまたぐとは何事だという概念が既成概念としてあるわけです。だから、経典をまたぐと病気になるわけです。ましてや法華経をそしるなんてのは、病気になって当たり前だという気持ちは歴然としてあるわけです。ですから、病気の話がたくさん出てくる。今は貴重な印刷ではないから、昔流では通用しません。
同様に今は、「屠児魁膾 畋猟魚捕 為利殺害 販肉自活 衒売女色 如是之人 皆勿親近」などということを一生懸命説いてもあまり説得力はないでしょう。だから、あまり説く必要はない。隠す必要もないと思いますが、無理に説くと、あらぬ誤解を逆に受けるので、ぐあいが悪いのではないかと思います。現代的に変貌してむしろ積極的に、建設的に本当の平等を説くべき時代だと思います。
これが私が考える法華経の差別的な用語の意味するところです。そんなことはもう知っている、百遍も聞いたとおっしゃる方もあるかもしれませんが、そのように私も考えるわけです。
『願文』 −伝教大師−
法華経だけでは申しわけないかと思って、法華の行者伝教大師の『願文』を用意しました。お手元の資料の三ページ目です。解放同盟から、この中に差別用語が出てくる、どうなってんのやというご指摘もあるわけです。私自身も<はて、どういう意味だろうか>ということを考えたわけです。まして、日蓮宗の諸先生の前で伝教大師の『願文』を読むなどという機会はめったにない。一世一代の機会だと思いますので、短い文章ですから、読ませていただきます。
       願文
悠悠タル三界・純ラ苦ニシ無テクレ安キ・也・擾々タル四生・唯患ニシ不テレ樂カラ也・牟尼ノ之日久ク隱レ・テ慈・ノ月未タスレ照サ・近ッキニ於三災ノ之危ニ一・没ム二於五濁ノ之・ニ一・加以・風命難クレ保チ・露體易シレ消ェ・艸堂雖レ無シトレ樂ミ・然モ老少散シ二曝ラス於白骨ヲ一・土室雖二闇ク・シト一・而モ貴賤爭ヒ二宿ス於魂魄ヲ一・瞻レ彼ヲ省ルニレ己ヲ・此理必定セ・リ仙丸未タスレ服セ・遊魂難シレ留メ・命通未タスレ得・死辰ィッ何トカ定メン・生ケル時不ンハレ作サレ善ヲ・死スル日成ラン二獄ノ薪ト一・難クシレ得テ易キハレ移リ其レ人身ナリ矣・難クシテレ發シ易キハレ忘レ斯レ善心ナリ焉・是ヲ以テ・法皇牟尼ハ・假リテ二大海ノ之針・妙高ノ之線ヲ一・喩二ス人身ノ難キヲ―レ得・古賢禹王ハ・惜ミテ二一寸ノ之陰・・寸ノ之暇ヲ一・歎二勸セリ一生ノ空ク過クル一・・ヲ無クシレ因テ得ルハレ果ヲ・無クレ有ル・二是ノ處ロ一・無クシテレ善・ルルレ苦ハ・ヲ無シレ有・二是ノ處ロ一・伏シテ尋ネ二思フニ己カ行迹ヲ一・無戒ニシ竊テニ受ケ二四事ノ之勞リヲ一・愚癡ニシ亦テ成ル二四生ノ之怨ト一・是ノ故ニ・未曾有因縁經ニ云ク・施ス者ハ生レレ天ニ・受クル者ハ入ルトレ獄ニ・提韋女人ノ四事ノ之供ハ・表レ二末利夫人ノ・ト一・貪著利養ノ五衆之果ハ・顯ル二石女擔・ノ罪ト一・明ナルカナ哉善惡ノ因果・誰ノ有慙ノ人カ・不ランレ信ャセ二此典ヲ一・然レハ則チ・知リテ二苦因ヲ一而不ルヲレ畏レ二苦果ヲ一・釋・ハ・シ二玉闡ヒ提ト一・得テ二人身ヲ一徒ニ不ルヲレ作サ二善業ヲ一・・・ニ嘖メ玉ヘリ二空手ト一・於テレ是ニ・愚カ中ノ極愚・狂カ中ノ極狂・塵・ノ有・・底下ノ・澄・上ハ違シ二於諸佛ニ一・中ハ背キ二於皇法ニ一・下ハ闕ケリ二於孝禮ヲ一・謹テ隨ヒ二迷狂ノ之心ニ一・發ス二三二ノ之願ヲ一・以テ二無所得ヲ一而爲シ二方便ト一・爲ニ二無上第一義ノ一・發ス二金剛不壞不退ノ心願ヲ一・我レ自リレ未タルレ得二六根相似ノ位ヲ二以-還タ不二出假セ一・其一自リレ未タルレ得二照スレ理ヲ心ヲ一以-還タ不二才藝ァラ一其二自リレ未タルレ得レ具二足スル・爭ヲ戒ヲ一以-還タ不レ預ラ二檀主ノ法會ニ一・其三自リレ未タルレ得二般若ノ心ヲ一以-還タ不レ著ト二世間人事ノ縁務ニ一・除ク二相似ノ位ヲ一・其四三際ノ中間・所修ノ功・・獨不レ受ケ二己カ身ニ一・普ク回二施シテ有識ニ一・悉皆令メンレ得二無上菩提ヲ一・其五伏シテ願ク・ハ解・ノ之味獨不レ飮マ・安樂ノ之果獨不レ證セ・法界ノ衆生ト・同ク登リ二妙覺ニ一・法界ノ衆生ト・同ク服セン二妙味ヲ一・若シ依リテ二此願力ニ一・至リ二六根相似ノ位ニ一・若シ得ン二五・通ヲ一時・必不レ取ラ二自度ヲ一・不レ證セ二正位ヲ一・不ランレ著セ二一切ニ一・願クハ必所レテレ引二導セ今生無作無縁ノ四弘誓願ニ一・周ク旋ラシ二於法界ニ一・遍ク入リ二於六道ニ一・淨メ二佛國土ヲ一・成二就シ衆生ヲ一・盡スマ二未テ來際ヲ一・恒ニ作サン・二佛ヲ事ヲ一
これは誓いの文です。それが何で残っているのか。仏に誓うものですから残るはずがない。ところが、この願文が有名になった。<なぜか>と私も思っていたんです。「願文」と書いてあるから誤解を受けるわけです。確かに伝教大師が自分の誓いを書いたものですが、実は提出する義務、あるいは提出せざるを得ない事情があったので書かれた「お願い状」なのです。
最澄は、近江の石山の国分寺の所属です。そこで延暦二年(七八三年)に出家得度して、延暦四年(七八五年)四月、二十歳のとき、奈良・東大寺の戒壇で具足戒を受け、ただちに比叡山に隠棲し修行に励みます。奈良に行っている間に、石山の国分寺が火事で焼けて、行くところがなくなったから、故郷の坂本の山の中に籠ったわけです。本来ならどこかの国分寺に転勤させられるはずです。年分度者ですから、どこに、どういう目的で住んでいるかということを僧綱に報告しなければならなかったと思われます。そうしないと、あの坊主は呪術力があるので、だれかに頼まれて、山に籠って天皇の命を縮めるように呪詛しているのとちがうかとか、大臣の命をねらっているのとちがうかとか、権力者は常に恐れているわけです。それでお坊さんを特に管理して、山に籠って修行するなという命令を出す。ところが、天皇が病気だというと、あの山の中に偉い修験者がいるから、それを呼んでこいというので、山に籠ってはいけないという法律を出したことも忘れて、呼んできて祈祷させるという矛盾することをやっている時代です。
最澄は生真面目な方だから、黙って山に籠っていればいいものを、わざわざこれだけの文章を数えの二十歳、今で言う十九歳のときに書いて、お師匠さんのところへ届けたんでしょう。それが僧綱に届いたか何かして、桓武天皇の目にとまったらしい。それは『叡山大師伝』の中にも書いてあって、まず南部の寿興がその文章を見て非常に気に入り、桓武天皇にご注進に及んだ。それで桓武天皇は、後に比叡山に籠っている最澄を援助するわけです。比叡山開創一千二百年を四年ほど前にしましたが、それは、最澄が二十歳のときに比叡山に入られた年から数えて一千二百年目というわけで、この『願文』を書かれた年でもあります。
『願文』はなかなかの名文で記され、「愚が中の極愚。狂が中の極狂。……<底下の最澄」。自分は本当にバカ者だ、何もわかっていない。五つの願文を記し、六根相似の位になるまでは、人里に出て布教をするようなことはしませんということが書いてあります。
「六根相似の位」とか、「無作無縁の四弘請願」、あるいは未曽有因縁経を用いて善因善果、悪因悪果を説く文章は、『摩訶止観輔行傳弘決』の文章です。『摩訶止観』の十悲心を説くところの「五闡提の如し、これ地獄の心を欲す」という文章の解説の部分を、そっくり引用している。ですから、このとき天台学を相当知っていたということです。どこで天台学を勉強したのか、昔から疑問なのですが、実は、その一、二年前に奈良に行っており、そのときに、中国唐代の僧で、この世の仏様のようにあがめられた華厳宗の法藏のことを勉強した。その法藏の著書に、天台の止観のことをすごく褒めて書いてあった。そこで、天台の止観を書いた本はどこにあるか、探し回った結果、奈良のどこかに石の蔵があって、その中に鑑真和上が持って来られた仏典を、だれにも見せないように密閉してあったそうです。その中から天台三大部を見つけた。「天台三大部に邂逅値遇せり」と書いてある。邂も逅も値も遇もみんな会うという意味です。喜んだということがよくわかるでしょう。それで、たぶん非常に短期間に天台学を勉強し理解した。すごいと思う。私は今だにさっぱりわからんですがね、先生もいないのに偉いものだと思います。それが数え年二十歳の最澄の書いた文章にちゃんと引用されている。
最澄は、私はこういう発願で山に隠棲しますから、お許しくださいという僧綱に対する願文を書いて、だれかに持たせた。
これを後世の弘法大師空海も、どういうわけだか知っていた。なぜわかるかといいますと、泰範という最澄の弟子が空海のところから戻ってこない。戻ってこいと言うけれども、断りの手紙を泰範が空海に頼んで書いてもらっている。その内容がちょっと失礼な文章だなと思うのは、「あなたは六根相似の位につかれたのだから、これからはどうぞご自由にご活躍ください」みたいな文章です。これは、六根相似の位というのは、出假の位といって、人に教える位であるということを知っているのと、最澄の『願文』の「我自未得六根相似位以還不出假」(我れ六根相似の位にいまだいたらざるよりこのかたは出假せじ)という文章を知っていたからこそ、そういうふうに皮肉を込めて書けるのだろうと、私は思うのです。それほど有名なものになっていたということです。
最澄が認められる最初の原因は、この短い『願文』によるものなのです。比叡山に籠って修行している、援助しようということになって、比叡山の根本中堂の一乗止観院は、最澄が二十三歳のころ建立されたらしい。おやじさんの財力もあったかもしれませんが、それだけではなくて、その時すでに桓武天皇のバックアップもあったのだろうと思います。
その『願文』の中で未曽有因縁経を引いて、「顕石女擔輿罪」(石女擔輿の罪とあらわる)とか「釋尊遮闡提」(釋尊は闡提と遮したまい)というのがあります。未曽有因縁経というのは、大正藏経十七巻に有ります。その未曽有因縁経には次のように書いてあります。
「五人の悪比丘は、専ら巧みに偽を行い、邪濁の心をもつ故に、命終して地獄中に生まれ、八千億劫に大苦報を受け。つぎに餓鬼に生まれ八千劫魑魅魍魎となり。つぎに畜生の身を受け、主人に報いて八千世。つぎに人身を受けても諸根闇鈍に、男女根無く、名づけて石女となり、八千世に常に筋力を以って主人に報いなければならない。……四人は王の擔輿(御輿担ぎ)となり、一人は宮廷の厠の除糞(トイレ掃除の係)となる。」
お釈迦さんは、これを助けようとして、姿を変えて出てきて、「おまえの生活は楽しいかい」と聞くと、「楽しいわけねぇじゃないか。何てひどいことを聞くんだ」と、そっぽを向いちゃう。お釈迦さんは姿を変え、手を変え、品を変えて教えるけれども、なかなか心を開いて聞かない。そういう苦しい生活をくり返す考え方や、自分の行為の過ちを認めない者を「闡提」と言っているわけです。身分ではありません。正法に耳を傾けない者を指しているのです。
『願文』に「貪著利養五衆之果顕石女擔輿罪」(貪著利養の五衆の果は、石女擔輿の罪と顕る)とあるのは、五人の闡提の悪業は、修行をしないで供養を受けた罪です。
五人の怠け者の比丘がいて、全然勉強をしない。経典も覚えない。>なに、坊さんなんて格好さえ整っていればいいんだ。苦労して修行し、早死にすることはない。人間は生きるのが肝心よ<なんて今みたいなことを言って、山の中に籠って、いかにも修行しているようなふりをする。韋提希夫人が来て、立派な修行僧だと思ってお布施を供養する。それを聞いてたくさんの人がやってきて供養する。実際は全然修行していないのですが、それがバレないまま死んで、地獄に落ちるわけです。善因をしないで供養を受けた悪いお坊さんは地獄に落ちるというのが、未曽有因縁経の話です。今だって価値ある経典だと思います。
最澄は、自分はそれと等しいことをしているようだ、もっと努力して修行しなければいけないというので、「我自未得六根相似位以還不出假」(我れ六根相似の位にいまだいたらざるよりこのかたは出假せじ)あるいは「不預檀主法會」(檀主の法會に預からじ||布施はいただけません)と記されているんです。
では、その間、だれが生活を支えたのかという素朴な疑問が起こりますが、年分度者ですから、この願文を提出することによって、住所登録をし、居所がわかれば、食い扶持が届けられるのでしょうか。そして、地方国分寺への転勤も免除されたのだと思います。
次に、石女擔輿の話ですが、日本の場合、産まず女(子供の産めない女)のことを石女と卑下して言います。中国ではそのようには言わないらしい。石女というのは筋力の強い女だと書いてあります。筋肉隆々たるアマゾネスみたいなのが石女なのかなと思って、アマゾネスの映画を見たことがあります。しかし、あれはやわらかそうで、石のようには見えない。ともあれ、悪いことをした者は、生まれ変わっても石女になる。どんないい身分になっても、生まれ変わって御輿担ぎだぞ。幾ら立派なお坊さんのふりをしたって、地獄に落ちて闡提になるぞという未曽有因縁経の話です。
考えようによっては、これは人間差別、職業差別ということが言えるかもしれませんが、そう解釈すべきかどうかです。天台宗の大乗仏教は、法華経は、結果はそれを趣旨にはしていないことは明瞭です。結論から見れば、人間を差別しようとか、身分階級をつくろうという意図はないわけです。ただ、この文章だけを見れば、闡提は栴陀羅のことだし、石女擔輿というのは差別的な内容を持った言葉ですけれども、「苦労が止まないぞ」との論旨です。積極的にそういう身分をつくろう認めようという意図はないと私は思います。
子供が産めない女の人は、十人に一人いるということを読んだことがあります。そんなにたくさんいるのかなと思いますが、結果として子供が産めないということなのかもしれません。その方の前世は悪いお坊さんだったわけでしょうか。そうではありません。生まれ変わるというのは、あくまでも比喩で、悪因縁を続けると望みどおりにはならないよという意味だろうと思います。
お坊さんに供養するというのは大変功徳があるということになっています。南アジアでも日本でも今でもそうです。我々の布施もその意味で、労働報酬ではありません。お坊さんが托鉢すると、みんなが布施をする。その布施をする側の功徳になる。全然修行をしないで格好だけしていれば、みんなが供養してくれるというので、格好だけつけて中身がない修行をし信用を裏切ると、大変怖いぞという話です。ですから、用語は確かに差別的ですが、趣旨は差別的な意図はないだろうと思います。
もし、これがひどい差別的な内容になっていると言うのであれば、我々はこの『願文』は使えないし、誇りにもできないわけです。しかし、天台宗はこの『願文』を使います。要するに、自分は非常に未熟者で、不出来で勉強していない。これからちゃんと修行しますので、それまでは山籠りを認めていただきたいという願文です。これは僧侶に限らず、誰でも学ぶべき内容があると思います。
しかし、これをみんなに読んで聞かせても、布教にならない。「ところで、和尚さんは山に入って修行しはったんですか」と聞かれたら、青ざめるでしょう。これで一生懸命布教せいという天台宗もひどいものだと思いますが、頭のいい檀家さんには「和尚さんもよっぽど勉強せんと、布教はできんはずやな」とかなんとか嫌みを言われて(笑)終わりです。冗談じゃない。こんな立派なものを布教の材料に使ってほしくないわけですけれども、宗祖の人柄をしのぶという意味で、この『願文』を解説した本が出されております。
「業」について
もう一つ、説明が必要なのが「業」の問題です。資料として『摩訶止観』と一行記『大日経義釈』を挙げました。どちらも法華の行者の書です。
天台宗が特に身分差別とか部落問題を起こしたというのであればともかく、それを認めていたという罪はあるかもしれませんが、社会に明瞭に身分差別があるときに、「士農工商なんてけしからん、身分差別をやめなさい」と言うのは、「屠児魁膾畋猟魚捕為利殺害」をやめろと言うのと等しく、四安楽行なんかしていられなくなる。仏教が滅んじゃう。ひどいことになっちゃうよという話と同じで、身分差別を権力者がやっている場合は、それを宗教家が、ああせい、こうせいということは、なかなか言えるものではないと思います。現代も宗教対社会の矛盾はあり、未来にもあるでしょう。
身分制度も、そういう工夫をしないことには、うまいことまとまらないという社会的な必然性もあったということが言えると思います。政治制度が十分確立していないときには、必ず身分制度があります。日本の場合は民族紛争というのはあまり起きませんが、今の民族紛争は難しいものです。グルジアだとかなんとか、覚えられないような名前のユーゴスラビアの内乱はすごいものだと思います。身分差別がいけないというなら、宗教差別・民族紛争もしちゃいけないわけでしょう。宗教家は、部落差別だけでなく、南アフリカへも、ユーゴスラビアへも、カンボジアにもインドへも行って差別をやめなさいと言いなさいということになると思います。それを行うのが本当なのでしょうが少々言ったって、そんなものなくならない。
幸い現在の日本はそういう状態でないし、差別を憲法で認めていないので、差別なく権利の主張ができるわけです。アメリカのおかげだと思いますが、定着したのは、これはむしろ大乗仏教の素地があったからと言えないでしょうか。インドではむずかしいでしょう。
しかし、現在の憲法に基づく現在の日本があります。法華経の信者が憲法を作ったわけではありません。平安時代も鎌倉時代も江戸時代も現代も私たちは、同じく制約されています。社会的には、自己の信仰と教団と社会(憲法も含む)の中に共存しています。仏教よりも憲法に制約され支配されています。そんなつもりはなくてもほぼそうなっております。
天台宗はあまりお説教が上手でない。私はよくしゃべりますが、話はあまり上手じゃない。聞いていてわかるでしょう。>あんたの現在の苦しみは、前世の「業」によるものだから、あきらめなさい<みたいな説教をする人を私は知りません。そんな上手なことを、よう言わんのです。>「業」って何だ。そんなもの天台宗にあるのか<みたいな人がほとんどです。確かに天台学、教理学の中に「業」というのは、あんまり出てこない。しかし、確かにあります。
資料の二枚目に「業」についてというので書いてあります。十の心の中の境を一つ一つ観法する十境十乗観法を『摩訶止観』には説いてあるわけです。その四番目に「業相境」というのがあり、次のように説いています。
「第四に業相境を観ずるとは、行人無量劫よりこのかた作す所の善悪の諸業は、或いは報を受け或いはいまだ報を受けざるも、若しは平平の運心に相則し現れず。今、止観を修すに能く諸業を動ずる故に善悪の相、現わる」
つまり、「業」は普通には出てこない。禅定を始めた途端に前世の「業」が出てきて、心がかき乱される。善悪の相が心の中に出てきて、それが気になって、修行どころでなくなることがある。そのときには、こうしなさいというのが書いてあるわけです。
「業」というのは、そういう考え方です。それは上手に観法すれば消えてしまうものだということです。確かに「業」は歴然としてある。「業」の報いを受けることもある。しかし、それは永久にどうしようもなくて、なくならないというものではないと書いてあるのが『大日経義釈』です。
中国の密教の基礎を築いた善無畏(インド・マガダ国の王族)が、七一六年、唐に入って大日経を漢訳します。一行という中国・唐代の僧が、「大日経の意味がようわかりませんから、善無畏さん、説明しておくれやっしゃ」と頼んだところ、善無畏さんが大日経の説明をします。大日経というのは、本来は『大毘盧遮那成仏神変加持経』という長い名前の経典です。密教の経典は長い名前をつけますが、大日経のことです。善無畏の口述を一行さんが筆記したのが『大日経義釈』です。これには異本が多く、長い間に何種かできたようです。
天台宗が使うのは『大日経義釈』で、よく整ったほうです。『義記』七巻と非常によく似たものに『大日経疏』というのがあります。これは二十巻です。これらの中身は一緒です。これは弘法大師が日本に持って帰ったときに、十か二十に上手に分けたか、中国でそういう本があったものを「疏」と言われたかして、『大日経疏』という本がある。これは真言宗が使っています。『大日経義釈』(十四巻)ができてから、十巻本の『義釈』ができました。いずれにしても、これらには日本人はかかわっていません。
一行というのは、天台学を勉強された法華経の坊さんです。ですから『大日経義釈』を読むと、皆さんは法華経や天台学のことをおやりになって、日蓮聖人の教学をよくご存じですが、>何だ、これはお聖人さんと同じことを書いてあるな<と思われるでしょう。大日経には密教のことばかり書いてありますが、義釈には諸法実相の話とか、十如是の文章がどんどん出てきて説明している。法華学をやった者でないと、これを読んでもわからない。真言宗の人はわかるのかなと心配になるようなことが書いてあります。
その『大日経義釈』の第十一巻に、資料の二枚目に挙げた次のような文章があるわけです。
「護摩は是れ焼くの義なり。内護摩に由って能く諸業を焼除す。一切衆生は皆な業より生じ、生によって転ずるを以て輪廻しおわること無し。業除かるを以ての故に生も亦除かることを得たり。即ち是れ解脱を得るなり。若し能く業を焼かば、名づけて内護摩と曰う。……謂わく煩悩業苦に従って而も解脱を得るなり。……諸業を尽くし諸障を浄除することを得る。……次に菩提之心を観ず。まさに知るべし、菩提心に約して種子を生ずることを得るなり」。
内護摩というのは、部屋の内、外という意味ではなくて、護摩の諸作法で観法することを内護摩と言います。観法によって諸業を焼除するわけです。「業」をなくすれば、後に何が残るのか。灰だけかと思うのですが、実は菩提心を起こすことが目的です。端的に言えば、「業」というのは観念によってできたものだということを言いたいらしい。変成男子ということはあるけれども、変成女人はないから、私が女に生まれたいと思っても、もう女に生まれられないというのが正解かというと、そうではなくて、「できる」ということにならないといけない。「業」の概念をなくすというのは、男女の区別すらなくさなければいけないということです。無用な価値観をなくす。罪の「業」もなくす。
顕教のほうでは長い間懺悔をすることによってなくすけれども、密教の場合は焼いてしまうわけですから話だけは簡単です。円珍によると、顕教も密教もそんなに違うことを言っていない。ただ、具体的な事相の法については、密教のほうがすぐれているとして、「密勝顕劣」ということを言います。それは事相のことに関してだけ考えるとそうだということで、密教全部がすぐれていて、顕教は全く劣っているという意味ではないのに、今頃どうもそういうふうに解釈し過ぎていると思います。
八歳の女の子が直ちに八十歳の老人になるのかというと、なるんだと考えなくちゃいけない。なぜかというと、なれないという概念を持ってはいけない。そういう概念にこだわると、「業」ができてきて不自由する。そういう概念にこだわらない価値観や論理、理念の世界を思えというのが、「業」を滅却するという話らしい。例えば、もっと美男子にしてほしいと思っても、美男子にならない。これが現実です。それを美男子になると思えと言ったって、そんなもの、屁理屈やないか、実際にならへんでと言うかもしれないが、そもそも美男子であるとかないとかにこだわるなということが、「業」を滅却することだというふうに読めるわけです。
天台学では、「決定業転」(けつじょうごうてん)ということを言います。決定業というのは、決定された「業」です。私が今このように存在しているというのは、決定された「業」によるものです。コップのお茶を飲むと、お茶がなくなる。腕時計を腕から外して、別の場所に置くことができる。コップにお茶が入っているということ、あるいは腕時計と腕の関係は決定された「業」ではない。不定業です。お釈迦さんの晩年の背中の痛みは決定業です。外すことはできません。病気は体と一緒のものです。その決定業を転じて、なくすことができるかできないかというのが、天台宗の「決定業転」という論議です。
密教の場合は、先ほど述べた護摩の理論で「決定業転」が、簡単に行えます。ただ、理屈だけです。お釈迦さんは、ありがたい呪文で痛みがすっかりなくなりましたみたいなことはないと思います。しかし、理念の中では、決定業として取り払うことができないと考えているようなものも、なくすことができる。固定概念を除去するという意味が「決定業転」の理念らしい。だから、お釈迦さんの背中の痛みは転ずることができないかといえば、結論は「できる」です。昔の文献を見ますと、そのためにいろんな理論を持ってきますが、難しそうです。何とか経に曰くと、前例を持ってくるわけです。しかし、それは声聞の「業」の場合であって、釈尊の場合とは違うという反論もありますが、「業」というのは既成概念のかたまりであるから、それを取ることはできると言っているのが「決定業転」の趣旨です。そういう意味では、「業」を存在させてはいけないのです。悪因悪果の業も本当はないのです。現実に存在しても無くすことができる業である訳です。
逆の場合。きょう、ここへ来る途中で、『週刊読売』を買ったら、天台宗の瀬戸内寂聴尼と桂三枝さんの対談が載っていました。瀬戸内さんは天台学がよくわかってないのに、わかったようなことを言う人です。
その対談では、瀬戸内さんが桂三枝に祖先との因縁を説明しようとしているらしい。尼は「ひろ・さちやさんは、子供は親を選ぶことができると言うんですが、私はその辺がわかんないんですけどね」と、素直に言っている。親が子供を選ぶとか、子供は親を選べないとかという日常一般の概念で人生を見たのでは解決がつかないということを、仏教は教えているはずです。だから、親が子供を選ぶことも、子供が親を選ぶこともできるはずです。そうやって成り立った「得がたい親子の関係」だと思わないと、価値が出てこないということを言わなくちゃいけないのに、「子供は親を選べないのに、ひろ・さちやさんは、そうじゃない。子供は親を選んで生まれてくるんだと言うけれども、私はそこのところがよくわからないんですけどね」と言っている。私は生意気だから、>この人は七十歳にもなって、まだこんなことがわからないのかな<と思うんです。
業論は、一般普通の日常の感覚で物を見たのではダメ、得がたさとか、ありがたさとか、ほかのものでは置きかえることができない高い次元の価値観人生観が、生まれてこないということを教えているように私は思います。「業」というのも考え方だから、有益にお使いなさい、有益な業にしなさいということを言っているのだろうと思います。
「業だ、あきらめろ」とか、「おまえの不幸は、もう定まったものだからあきらめろ」というのは、使いようによっては立派なお説教だと思います。しかし、全部それで片づけちゃうから悪く言われる。お茶漬けもいいときもあるわけですが、いつも「腹が減ったらお茶漬けを食べなさい」と言ったのではいけない。「業」は無いとか有るとかという議論をしますが、「業」はあるんです。概念としてあるし、定まったものはどうしようもないわけです。
病気がちの体に生まれた者は、医学の力で治そうとしても、なかなか治らない。私ごとで恐縮ですが、おふくろが高血圧で、半身不随で七カ月病院で寝て、結局、夜中に痰が詰まったらしくて、呼吸不全で死にました。私はつくづく思うのは、高血圧の体というのは、体質として確かに親からもらったものかもしれない。高血圧だから、薬を二十年もの長い間服用していました。食生活を改めれば治りますからと言われているにもかかわらず、しょっぱいものとか、高血圧になるようなものを食べている。努力しない。自分で「業」を招いているわけです。私らが幾ら注意しても改まらない。よく「好きなものを食べて、好きなように生かしてもろうたほうがええわ」という話を聞くことがあります。それは自分で生きていく分にはいいですが、半身不随になって家族に迷惑をかけるということを考えると、好きなものを好きなように食べればいいというわけにいかないということになります。どこかで野たれ死なはったというだけなら、>ああ、気の毒にで終わります。立派なお位牌をつくりましょう、立派なお葬式を出しましょう、立派なお墓も建てましょうということはできます。しかし、一年、二年、十年と寝込まれたのでは、まわりの者は大変な苦労をするから、自分の健康は自分のものではない。家族のものです。一族の健康です。国家の健康にもなるでしょう。
体を大事にしなければならないとか、長生きするというのは、そういう意味でしょう。精神生活も、大事に長い生命あるものに整えなければなりません。若者でもぐうたらぐうたらした生活で長生きされたらまわりの者が迷惑だから、それが業だと言うのであれば、善業に転じたら良い。病で仮に寝込んだとしても、その生活業の中で、有益な価値を見出すことこそ決定業転となるはずです。「人生修行をさせて下さっている、努力しよう」と言うぐらいに有益な業に置きかえなければならないでしょう。善業に作らなければならないのです。ただ単に前世の業だからあきらめる、という話では、味わいが少ない。もっと味わいのある有意義な業にしたいなと思います。
「業」が有るか無いかみたいな次元で、差別問題だけにこだわって、「業」の問題を考えるのはやめたほうがいいように思います。仏教はもっと深くて広いものを教えているような気がします。日蓮聖人様の書物を読んでも、たぶんそういうものが出てきているはずです。それを上手に読み取れない解釈が悪いのではないか。親鸞上人もそうだと思います。私がそう思うぐらいですから、偉い先輩やお祖師様ならなおのこと、もっとすぐれた教えがあるはずです。
今、差別問題に「業」が挙げられるのは、仏教学の問題ではなく、現代に至っても業論、悪しき業論によって差別を助長し、一部の人々を苦しめたことで問われています。身分差別がない今、こんな悪業論は直ちに止めねばなりません。身分・男女差別は、社会にあるものですが、現憲法では許しません。部落差別も認めていません。現在の法華行者は、宗派がどうであれ、一乗平等を説くべきです。
しかも、現憲法は歴史の中では一時代のものです。仏教は永遠に続けられるもののはずです。仏教徒としては、現憲法に融合することを考えずに、自由に真理を探究する精神で臨み社会問題を把えないと、本当の解決はできないでしょう。悪業を行ずれば悪社会となる訳ですが、業論は深い考えのもとに行なわれなければ、かえって害悪となる、取扱注意の概念だといえるでしょう。しかし、現代的でないからといって、「業」の説教を止めるのは良くないと思います。悪行は悪業となって現れるのですから。
法華経の差別用語とか、伝教大師の『願文』の話、「業」の問題について、無責任な表現もだいぶ使ったかもしれませんが、私は以上のように考えているわけです。長時間にわたりましたが、この辺で失礼いたします。ありがとうございました。(拍手)

※本稿は、平成四年十一月二十五日、現宗研研究例会にて講演されたものを筆録したものです。


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