日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第28号:37頁〜 二十二世紀の本門佛立宗を予測する−本門佛立宗の宗門のきりかえ運動その後の運動− ←前次→

二十二世紀の本門佛立宗を予測する
 − 本門佛立宗の宗門のきりかえ運動その後の運動 −
 加 藤 淳 真 (本門佛立宗経王寺住職)

 本門佛立宗については、立正大学の冠先生、糸久先生、庵谷先生あたりがかなりお書きになっております。北川前肇先生もこの間お書きになっておられますので、ある程度ご理解をいただけるのではなかろうかと思いますが、簡単に佛立宗の略史を説明させていただきたいと思います。


 長松日扇というお方が講をお立てになって始められましたのが、現在の本門佛立宗団でございます。長松日扇というお方は、長松清風と言ってみたり、得度されましたときの所化名が無貪と称せられております。日扇上人が仏法にお出会いなされましたのが天保の改革の時期で、二十歳代のころとご理解をいただきましたら結構かと思います。
 そもそも長松という苗字は後ほどおつけになったもので、出生の字(あざな)は大路家、幼名を仙二郎、長じて仙右衛門と申されました。ご家系は近江源氏の末裔と言われており、江州(滋賀県)に生家があります。一家が京都に移りまして、四条蛸薬師の近辺で小間物商を始められたときにお生まれになったのが、大路仙二郎、後の長松日扇でございます。お生まれになってすぐ父親が亡くなっています。代々が書とか画をたしなまれた家系でございます。そういう関係で、長松日扇上人も幼少の時分から書と画にお心得がありまして、十歳のとき、今で言えば人名録ですが、『平安人物誌』の書の部と画の部の両方に名前が載せられております。「清風」は、そのときの雅号で、大変お気に入りでした。「長松のもとに清風あり」という古歌があるそうで、そこから「長松清風」というのを終生お使いになっておられます。書も画も卓越した才能を発揮されたほか、十七歳のとき既に『源氏物語』を当時の公家の屋敷で毎月一回開講せられております。当時の京都では最年少の講師であったと言われております。日扇上人は、国学者城戸千楯の門下に入られて国学を学ばれ、江戸に出て渡辺華山の師匠である松崎慊堂という儒学者の門下にも名を連ねて儒学を学んでおられます。ご生家が浄土宗ですが、浄土宗を初め真言宗、天台宗、日蓮宗、禅宗の勉学をされ、叡山に入って得度もされておられます。しかし、自分の意にかなうことができ得ませずに、毎日、疎んでおられました。
 二十六歳のときに母親が亡くなりました。それが一つの大きな転機となりまして、一層、八宗兼学を進められております。その折、書のご関係で筆師文学堂の店主の紹介で、本能寺の塔頭長遠院で門人を連れて席上揮毫の展観をされています。そのお席を借りられましたのが、本門法華宗に入られる大きなきっかけになり、後に佛立講を開講される遠因になっているわけであります。
 本能寺の檀家になられまして、貫主の日肇上人から教えを受けられ、秀典日雄というお方からも八品教学を学ばれました。無著日耀上人という本門法華宗の学僧とは気心も合われ師事されます。三十二歳の四月二十八日の立教開宗会に、このお方のご自坊である淡州淡路島の西海岸津井村の隆泉寺へ京都から行かれ、無著日耀上人を御師匠に得度剃髪をされておられます。そのときの僧名が無貪でございます。実は師匠の「無著」と弟子の「無貪」を合わせますと「無貪著」となります。それほど師匠と弟子が盟約を結ばれ気心も一致して、我が分身のようにお考えになって「無貪」という僧名を授けられたと伺っております。当時、師匠の無著日耀上人が四十二歳でございました。
 当時は尼ヶ崎本法寺に学林がございまして、その檀林に入るべく、師匠に連れられて尼山の檀林に登山をいたしましたが、書はできるし、画もできる、国学は修しておりますし、教学もひとかど心得ておられますので、檀林の僧たちが入檀間もない日扇上人を排斥します。それがあまりにも激しかったので、尼山の御貫主がいたし方なく檀林に居ることをとどめられます。泣く泣く師匠とともに津井村の隆泉寺へ戻られます。
 法華宗には京都に大亀谷檀林がございましたが、当時は閉鎖されておりましたので、三カ月後に、房州の細草檀林に入檀すべく、出立に際しまして、ご自分のご生家のある京都に寄られました。当時、京都でご交誼をされておりました平樂寺書店の村上勘兵衛、島田弥三郎さん等に、細草檀林に入って教学を研鑽し本山に進んでいくのがいいのか、祖師の悲願であるお題目を苦しみの民衆に対して一生懸命になって勧めていくのがいいのか、しっかりと考えろというご諌言を受け、お祖師様の最後のお弟子であります日像上人の帝都弘通に思いをいたし、細草に行くことを断念され、生家のある京都にとどまって、お題目の大法を勧めていく腹を決められます。
 そこで、西行庵にお入りになって、そこを京都の弘通の第一処とされておられます。西行庵は西行法師が建てられた草庵だそうですが、だれも入る者もなく荒れるままになっていて、孤狸の声が聞こえるという荒れ果てた草庵だったそうです。だれも見向きもしませんから、かえってそのほうが居座りやすいということで、西行庵に入られて大法弘通のきっかけをつくられました。これが本門佛立講開講の二つ目の原因になっているわけであります。
 教化弘通に挺身されるわけですが、弘通が盛んになればなるほど「猶多怨嫉の難はなはだしかるべし」(如説修行抄)と教えられておりますように、いろいろな迫害が加わってまいります。西行庵を後にせられましてからは、外護していただく方々、理解者の家を転々とされながら、京都の弘通に邁進をされたわけであります。そうしているうちに、法華宗の門下で論争が起こります。久遠、皆成の両派に分かれて三途の成、不成という問題が起こりました。三途の不成という久遠派の旗頭になって、在家の身で論戦を張られたわけであります。久遠派のもう一方の旗頭が、水戸家から讃州高松の松平家のご養子になられた松平左近頼該侯でございます。この松平左近頼該侯は八品教学の研鑽を積んでおられる方で、日扇上人とお組みになって皆成派に対して久遠派ということで、長きにわたって論戦が進められました。そういうことがあって、松平左近頼該侯と日扇上人の間に盟約が結ばれ、片や松平左近頼該侯は高松本門佛立講、日扇上人は京都華洛本門佛立講ということで、高松と京都で開講されました。日扇上人は安政四年正月十二日、ご自分の生家の近く、蛸薬師室町下ルの谷川浅七というお宅をお借りして開講せられたわけであります。
 それより先に、ご自分の師匠であります無著日耀上人、ご親戚の島田弥三郎という方、それと長松清風師とが、本門法華宗本能寺の当時の御貫主日肇上人を願主に本門八品講を組織されます。この八品講は長く続きませんでした。願主の日肇上人が八品講を組織されてから間もなく本能寺を御退山になった関係で、講の組織維持が難しくなりまして、長く続きませんでした。その八品講が解消いたしますと同時に、松平左近侯とのおつながりが出てまいりまして、本門佛立講の開講に向けて動き出されております。きょうは中国四国教区の管内からお越しでございますが、松平左近侯の教線範囲は瀬戸内の全域にわたっているように承っております。お殿様でいて法華信者で、非常な弘通活動をされたお方であります。松平左近侯の高松のご生家は本覚寺というお寺になっていて、御遺品、御著作等が保存されております。
 その後の弘通は、現証利益が中心に進められました。長松清風日扇上人の佛立講での第三の改良と申しまして、最後の改良が、明治十四年でしたか十六年の高祖六百回御遠忌から始まりました。それまでは御本尊を書写されます場合も、十界曼荼羅あるいは略十界の曼荼羅でございましたが、それ以後は三箇之一大秘法という袖書きをされて、一遍首題のお題目の御本尊に変えられておられます。それと同時に要品読誦をやめられまして、現在の佛立式の法式が整えられましたのも、この時期でございまして、お題目の唱題行が中心になっております。そのときに出来上がりましたのが妙講一座と申します。妙講一座という法式でもって日々の勤行のあり方を定められました。それが現在もなお継承されているのが、佛立宗の日常の信行法式でございます。
 最初は男女四名をもってご開講された本門佛立講でございますが、宗祖六百五十回御遠忌のときに京都・北野の宥清寺という本山ができ上がりました。それまでは京都・妙蓮寺の末寺に小さな宥清寺という草庵がありました。そこを妙蓮寺から譲り受けまして、弘通の根本道場として、そこから弘通が始まっていったわけです。それまでは寺院が定まりませんで、それこそ講組織の特徴でありますいろいろな場所を借りて、近くの信徒を集めて、宗祖の御書あるいは八品門流の日隆上人の御書を中心に毎日講説をされておられます。
 一般的には説法と申しますが、私どもは御法門と言います。門というのは入り口であります。法華経の教えを一つ一つ丹念に理解するために、その入り口である法の門をたたき、くぐっていく。そして説法者の心を受けて、宗祖の御指南の精神にかんがみて、謗法を侵さずという形で信行を充実せしめていく。佛立宗の特徴は、一つはお題目の口唱というのが右にあって、左には御法門を聴聞する、これが両輪のごとく回っていかなければ信行は進んでいかない。法門を聴聞することがいかに大切であるかということを、私どもでは日々繰り返し教えているわけであります。
 御法門で説法されます一番大事なことは、私どもでは御教歌と言いますが、信心の規範あるいは生活の規範すべてを五・七・五・七・七の和歌に託して、それをもとにして教えを説いていくという形をとられたわけです。これは冒頭に申し上げましたように、日扇上人が若くして歌道のお心得がございまして、そのおかげで卓越した歌をたくさんおつくりになっています。私どもの信心の御教歌も三千余首ございます。この間、『御教歌集』を渡辺上人を通じて山口県の教化センターに御贈呈申し上げましたので、機会があればごらんをいただきたいと思います。お題目を口唱して、御教歌を中心とする御法門の聴聞をして信心を立て直していく、生活を立て直していくということが、お講の中で常にとり行われているわけです。
 日扇上人の在家にあっての京都での帝都弘通におけるお講は、非常に発展をいたしました。当時は明治のご維新のほとばしりが出始めたときでございますから、民衆も大変動揺いたしておりますし、生活の目標も失われ、日々安堵する日もないような状況が巷に起こってきております中で、民衆の心をおつかみになりました。いかに平たくわかりやすくして、だれもが理解でき、たやすく信心ができるようにということを目標に、教化に精を出されたのであります。私どもは、それを「易修易行」と申しております。ですから、仮名で教えを説けということをやかましく申しております。御教歌を題にして御法門をする場合におきましても、常に仮名で説くような、だれもが理解できるような説き方をせよということは、今でもやかましく法門学では教えられるわけであります。お助行ということを門下の面々には教えられました。
 日扇上人の膨大な著作を網羅した『日扇上人全集』(三十四巻)の編纂を、ほぼ二十年の歳月をかけて完成を見るに至りましたが、現証談がたくさん収録されております。僧侶(佛立宗では教務ということを申します)が平仮名にして、やさしく信徒に教えることによって、信徒がお題目を一生懸命唱えて御法門を聴聞する、それが教学への誘いになり、教学への接点になります。難しくしち面倒くさいことを言っても、だれも理解はできない。理解ができるように教えろということを、やかましく教えられたのであります。いろいろな教学書を残しても、末法末世になると、それを進んで勉強する者がいなくなる。しかし、「歌にして教へておけばいつまでも 御法門をばわすれざりけり」と歌にして残しておいて、その歌を信心の規範、教学に乗せて説いていくということになれば、初めてそこに御書を応見することもできるであろうし、先師の教学書を学ぶこともできるであろう。ですから、佛立講の一大集成をすべて歌にして残しておくということを強調されたのであります。
 明治二十三年に七十四歳で御遷化になられました。そのときも、「おもひ見ればとしは七そじあまりよつ 御用済にて帰るのであろう」と、自分は七十余になる、御用済みで帰るであろうという最後のお歌を残されて、翌々日が御遷化でございました。


 佛立講は、日扇上人の御遷化以後、第二世から私どもの本山の管長は代々講有という形で一宗を統率してまいりました。講有というのは、本門佛立講を有するというわけです。日扇上人の御指南の中に、本門佛立講は清風の一人のものなりということで、講を持つという意味で、それは講を統括する、講有の指導によって本講がすべて統括をされるんだということから、本門佛立宗講有ということがつけられたのであります。現在、第二十一世で、節目でありました二十世がちょっと問題を起こしまして、毎日のように「中外日報」に書かれております。それで佛立講は管長さんのことを講有と言うのだなということを覚えていただいたと思いますが、まともな佛立宗の信心をしておれば、堂々としてお話をさせていただくこともできるであろうけれども、一番肝心な講有がいろいろ問題を起こして「中外日報」で騒がれている。そういう身でもって、おまえは恥ずかしげもなく日蓮宗の方々にお話をしに行くのかと、だいぶ宗務院に怒られましたが、それはそれ、これはこれということで、きょうの主題であります二十二世紀へ向かって、佛立宗だけではなく日蓮門下がこぞってこれからの将来をどうすべきかということを考えるために、押してこさせていただいたわけであります。
 まもなく、二十一世ですが、この間、加歴になりましたのが四世と八世のお二人だけです。四世は、私たちは関東開発教導と尊称申し上げるのですが、東京の佛立講を最初にお弘めになりましたのが、日教上人という方です。そもそも日教上人は、今、問題になっております渋谷の乗泉寺が、本能寺のほうの鷲山寺でしたかの末寺で無住のお寺を引き受けまして、そこを関東の本門佛立講の発祥の地とされておりますが、その後、本所のほうに立派なお寺を建てられまして、そちらのほうにお移りになりました。実は三世日随上人よりも四世が先に遷化されております。そういう関係で、三世の後を継がれるときに、四世が御加歴になっておられます。八世は日歓上人と申しまして、日教上人から後継を譲られまして、乗泉寺をお守りになったお方でありますが、その弟弟子の第九世日聲上人という方が九世講有を継がれますときに、兄弟子を立てて、講有を継承していただかなければ継げないということから、八世が御加歴になっております。
 先ほど控え室で渡辺上人から、加藤さんのところの寺は日扇上人の時代からかとお尋ねを受けましたが、現在の佛立宗の各寺院の古いお寺は若干ありますが、宗祖の六百五十回御遠忌を一つの節目にして、雨後の筍のようにグッと伸びております。その当時に既に安芸門徒の中にお題目が植えつけられてまいっております。ですから、九州方面の佛立宗の弘通の開拓もおおよそ宗祖六百五十回御遠忌以後ずっと伸びてまいりました。一番伸びましたのが戦前でございます。六百五十回御遠忌記念として、根本道場という形で立てられましたのが、現在の本山であります宥清寺でございます。そもそもは本能寺の講組織として出発をしたのでございますが、日扇上人のお師匠無著日耀上人が妙蓮寺の第四十六世の御貫主になられております。また、現在の宥清寺の前身の草庵をいただきましたのが、妙蓮寺の末でございますから、宗祖六百五十回御遠忌の中心として本能寺から離れまして、妙蓮寺末に移っております。ですから、終戦直後のGHQによります宗教改革によって、宗教法人法が定められまして、初めて一宗独立をかなえられました。それは妙蓮寺末から一宗独立をし、法華宗から独立をしたという形になっております。
 戦後は皆様方とともに歩みました立教開宗七百年が、戦後の佛立宗の再び花を咲かせる時期でございます。このときに七百年に合わせて七万戸の教化ということが宗門挙げての運動が起こされました。これは成就いたしましたが、教化ができ上がりまして、新しく布教所あるいは寺院、別院が必要になってきてお寺が急増された時期が、ほぼこの立教開宗七百年でございました。その二、三年後で、安政四年に開講されましてから私どもの佛立宗が開講百年を迎えたわけです。ですから、立教開宗七百年で花を咲かせて、一つの段階として開講百年で戦後の第一番目の実を結ぶという形をつけたわけであります。
 戦後、まだあちこちで戦火の跡が消えず、また充分な復興もしておりません中で、私どもではいち早く信心立て直し運動、生活立て直し運動を行いました。五カ年計画を一期にして、三期十五年間、生活立て直し運動を中心にして運動を行いました。戦前から私どもが盛んに行っておりましたのが、皆さん方も記念事業で行われます唱題行であります。私どもは正月十二日の開講記念日に合わせて下種結縁運動ということで、唱題行の街頭布教をずっとやっておりました。ところが、交通事情等の問題があって、だんだんと尻すぼみになりまして、現在はいたしておりません。ときたま何かの事業でさせていただくことがございますけれども、今までは佛立宗の下種結縁の唱題行、お題目を唱えながら町を法体の折伏行をしていくことは、関西方面では有名な年中行事の一つでございました。大阪では各自坊から出発をいたしました行列が、今はありませんが、戦前の天王寺の音楽堂まで延々として歩き、野外音楽堂で結縁法要を済ませるというのが、お正月の一大行事でございました。
 その当時、始まりましたのが寒修行で、戦後はこの寒修行で立て直しをいたしました。どんな修行をするのかというお尋ねがありますが、全国一斉に一月六日から二月四日ないしは五日まで三十日間あるいは三十一日間、午前五時半から、遅くても六時からの朝参詣を行います。そのときに御法門をさせていただいて、信心あるいは生活の立て直し運動をテーマにして、全国同じ御教歌をもって信徒教養をしていくというのが佛立宗の寒修行のあり方でございます。仕事の行きがてらに五分だけ座っている人もありますし、家族を送り出してから急いでお参りにこられる人もありますし、さまざまでございますが、このときに「一年の計は元旦にあり」ということで、一年の生活の立て直し、信心の立て直しを図る誓願を立てます。私どもの重要な信心の法則でありますが、目標を定めて誓願をし信心を練磨していくということが、寒修行のあり方であります。そういう形から戦後の佛流宗が立て直しを図っていったわけであります。こうして生活立て直し、信心立て直し五カ年計画を三回繰り返して十五年やりました。
 その後、八品門流の開祖であります日隆上人の五百回御遠忌のときにまた一つの宗門の転換を迎える「切りかえ運動」を行いました。このときは財政を立て直せということが主眼になったわけであります。お寺の財政を立て直す、宗門の財政を立て直す。宗門の基本財産を五億円ためましょう、基本財産を確立しなければ十分な活動ができないということを主眼にして五億円プールを行いました。
 そして宗祖の七百回御遠忌のときに、私どもは@「本山中心体制の確立に関する切りかえ」、A「弘通教線拡大に関する施策の切りかえ」、B「教務(僧侶)講務(信者)の教育に関する切りかえ」、C「宗門の諸機関制度改善に関する切りかえ」、D「寺院教会の運営面に関する切りかえ」、E「記念事業促進に関する切りかえ」、F「外護に関するき切りかえ」、という七項目の「切りかえ運動」をやりました。切りかえというのは、今まで一つの流れがあった。その流れを見た場合に、いろいろな問題が起こってきた。ここに一つの問題がある、ここにも問題が起こってきた、最近になってまた新しい問題が出てきた、そういう問題を全部集めてきて、この流れを今度どういう形に切りかえるべきか。一つの施策の中にいろんな問題が出てきている、宗門を護持するために、護法伝道するためにどういうふうにしていけばいいかということを、すべての面にわたって切りかえていく施策を考えてみようというわけでございます。
 まず@の「本山中心体制の確立に関する切りかえ」でありますが、皆様方は各法縁によっての御本山がありますので、こういうことはなかなかなさりにくいと思いますが、私どもでは宗門の宗憲と言われます宗制の中に、本山はたった一つしかない、それが宥清寺であると規定しています。本山をあちこちに建てると、どうしても枝葉末節につながりやすい。だから、あくまでも講有のもとに本山はたった一つだという考え方で進んでおりますので、その本山を中心に考えていく信心のあり方に切りかえていけというわけです。いろいろありました。この中心体制を確立させるためにも、戦後の混乱期の中から立ち上がってくる過程で、本山という考え方にいろいろ問題がありました。それも今回の問題の一つに出てきているわけです。本山中心体制に切りかえるということが、これからの宗門を一つにまとめていく方法だというわけであります。
 次のA「弘通教線拡大に関する施策の切りかえ」ですが、これもいろいろな問題があります。特に時代背景が非常に問題になりました。これをいたします一つの原因は、創価学会の抬頭ということも出てまいりました。それと同時に新宗教と言われるいろいろな宗教がだんだんと抬頭し始めてきたときでございます。その中でいかに教線を拡大していくか。そこで出てきましたのが、教化の誓願者をふやしていこうということであります。私どもの御宗旨では、教化が中心にならなければならない。教化は教務(僧侶)の役目だけではない。講務(信者)も教化誓願者にならなければならない。その教化誓願者になるためには、まず教務(僧侶)の切りかえが行われて当然である。指導者が悪ければ、おのずから習う者までも悪くなるというたとえのとおりに、教務の指導者たるべき者としての育成は真剣に考えなければならない。
 そこで、出てまいりますのがBの「教務講務の教育に関する切りかえ」であります。ここで出てきました方策が修学塾、いわゆる学問所が、各支庁に置かれたわけであります。それまでに、門祖の五百御遠忌のときに行学研究会というのができています。それが発展解消して修学塾の制度に切りかわっております。修学塾は、僧階取得の勉強と信者に対する教育のもとを勉強するわけです。お互いが師匠になり、お互いが弟子になるという互師互弟の精神で、教講、特に教務の教育の切りかえをやれということで、修学塾が持たれてきているわけです。
 佛立宗の特色ですが、立教開宗七百年、開講一百年までは、権大僧都とか僧都という名称でありましたが、これを大僧都を上座講師、それから一等講師、二等講師、三等講師、四等講師、五等講師の等級制に僧階を改めました。
 修学塾には沙弥教育がありますが、これは五等学級です。五年間勉強します。それが終わりましたら、四等学級として京都の佛立教育専門学校に入り、初めて宗門による本格的な教育をしていきます。三年生を修了しましたら、各自坊に戻って、残りの四年生、五年生の二年間は、それぞれの自坊の各支庁の修学塾に入って勉強します。
 私どもでは第一支庁から第十一支庁まであります。この支庁から派遣された教学講師が京都の宗務本庁での三泊四日の中央研修で缶詰めになりまして、宗学、弘通学、法門学、研修学の四部門に分かれて受講します。受講後、各支庁に戻って、各寺院の住職、修徒に教えていくわけであります。毎年レポートを提出し、合格すれば一学年ずつ上へ上がっていきます。ですから、五年かけなければ次の僧階に上がれない。私みたいにあちこちウロウロしておりますと、なかなかまともに受けられない。そうすると出席日数不足ということで留年させられます。私は現在上座講師の三年で、本当は卒業しなければいけないのですが、二年留年しております。
 上座講師の上が権僧正ですが、試験を受けて合格すれば、初めて論文を出す資格が得られます。論文が通れば、権僧正になれます。それまでは五年ずつ勉強させられていくわけです。
 人に教えるならば、自分も勉強しなければならない。ピラミッド式で、中央の講師が支庁の講師を教える。支庁の講師から修学塾で教えを受けた者が各寺院に戻って信徒の教育に資するという形です。
 私どもでは宗祖の御妙判は「観心本尊抄」「四信五品抄」「如説修行抄」を「三部の如説抄」と言いますが、これを中心に毎年勉強を繰り返されていくわけです。あとは、隆師の御指南、開導日扇上人長松清風師の御指南の順番に、五年に分けて教えていきます。
 弘通学は、いろいろな角度から勉強します。お寺の役員や信徒の士気をどういうふうにして盛り上げていくかということは、弘通学の中で勉強します。
 法門学というのは、御教歌の精神を酌み取りまして、その酌み取り方もいかにして教学に当てはめて酌み取っていくか、それをいかにわかりやすく解きほぐしていくかということを勉強します。毎年、課題が与えられて、それに基づいて全国の寺院の僧侶が同じ勉強をしていき、レポートを出して五年間の成果をまとめて、順番に上に上がっていくようなシステムが、現在の私どもの教務教育(僧侶教育)になっているわけであります。
 それに対して、今度は信徒のほうはどうかといいますと、現在は「研修お講」という名称に変わっております。お講については、『仏立信心のしおり』の中に書いてありますから、お読みをいただきたいと思いますが、そういうふうにして研修をします。それで信徒の教育の切りかえをしていきます。
 それまでは、信徒に佛立の信心の根幹教学を徹底的に教える宗徒教育がありました。その目的は、例えば山口県は私どものお寺は下関に一カ寺しかありません。ところが、ご信者は津和野、岩国、防府におります。亡くなった前の住職はご高齢でしたが、毎月西回り、東回りで、今月は松浦のほうから萩へ回って山口へ出てきて帰ってくる。翌月は岩国のほうから回ってくるとか、一人で回っておられたので、自坊がお留守になる。そういったときに、日々のお看経(勤行)が代わってできるような人、あるいは住職が書いた御法門を読み上げて信者に教えていく、読み上げ法門ができるような人をつくるということで、宗徒研修が行われたわけです。
 ところが、この宗徒研修がなかなか思うようにいかなかった。たくさんの代務の方ができるぐらいに立派にやっておられるお寺と、まるきりできなかったお寺とがあり、極端から極端にできてしまった。この宗徒研修のテキストも教化センターへお渡しいたしましたから、どういうことを学んでいるか、ごらんいただきたいと思います。
 今は研修お講です。どういうことをやっているかというと、毎月のお講とは別に、『研修お講テキスト』で教えていきます。これはお給仕の仕方からお題目の唱え方、あるいは御回向の考え方、朝参詣の意義が全部詳しく載せてあります。これをもとにして一般のご信者方あるいは役員の方々に教え、一般のご信徒までに推し進めていくというのが研修お講です。そして信者を教養していこうという形をとっているのが教育の切りかえであります。
 次に、Cの「宗門の諸機関制度改善に関する切りかえ」で、現在の体制に整えられたわけでありますが、時代にマッチしたような考え方をしていく本宗の宗務院のあり方を考えていかなければならないという形に変えさせていただきました。現在では非常に簡素な形になりましたが、これでもなお問題があるので、さらに宗門の切りかえを考えていかなければならないと考えております。
 Dの「寺院教会の運営面に関する切りかえ」について、ちょっと時間をいただいてご説明いたしますが、私どもではお寺の中に事務局というのがあります。信徒台帳の管理をしたり、私どもは御奉公といっていますが、お会式にご信者がご参詣に来て御供養を出す。あるいは前日から泊りがけで食事をつくったり、諸準備をしますが、そういうことを統括する。また、ご信者のすべての面について相談をしたり援助していく。
 住職はこれら全体を統括する責任がありますが、私どもは山務と寺務という考え方をするわけです。山務というのは宗教法人としての責任、寺務はそのお寺自体の運営、法人にかかわる以外の細目について行う。その責任者が事務局長と言って、これは信徒の中から選ばれるわけであります。
 事務局の中には庶務(あるいは総務)、参詣(だれが参詣したか統計をとる)、教化(弘通に関するもの)の責任者がいて、事務分掌の責任を持たされる。そういう人たちが毎月集まって会議を開いて弘通面において、あるいは財の面においてお寺の運営をどういうふうにしていくか相談します。
 檀家さんの数はどれぐらいありますかと言われたら、課金に関係するからあまりみんな正直に言わない。私どものほうでは義納金というのがあります。お寺を護持し運営していくのは住職だけではない、信徒みんなで運営していかなければならないということで、義納金をお寺に納めるわけです。あとは日々参詣してこられるお賽銭、あるいは私は御宝前のお花をさせてもらいますという御有志、こういうものが全部お寺に入ってくるわけです。それがお寺の一年を支える運営資金になります。どんな小さなお寺でも予算と決算をしています。それは事務局長が責任をとって、一年間仮に五百万円の年間予算があれば、どれだけの信徒がどれだけの負担をしていかなければならないかを計算して、義納金の口数が決まっていくわけです。それによってお寺が支えられていく。
 宗門は三大奉納金と言いまして、まず本山の初灯明料があります。お正月に本山にお供えをしましょうというわけです。ことしはあの事件が起こりましたので、ガタッと減りましたが、去年が七億円をちょっと越えました。あとは、夏のお盆に行われます宗門総回向料があります。それからお祖師様のお会式のときに出します全国高祖会奉納金、これが宗門の財政を支える三大要素であります。このうち、高祖会奉納金は佛立教育専門学校の予算になります。残りはそっくり基本財産積立金として積み立てられ、宗門の日々の運営に充てられていきますから、寺院の掛け金が安くて済みます。寺院課金を下げました。これが切りかえの大きな目的です。
 私どものほうでもご信者の数は絶対に把握できませんでした。正確な数は出なかった。出ればすぐにボンとはね返ってきます。一年で二十万円、三十万円一遍にはね返ってきますと、とてもじゃないがやっていけない。ですから、寺院等級を出しますのに、毎年もめるんです。おまえのところは隠しているんじゃないか、隠していないという争いで時間をとってしまう。そんなことをしていたら何にもならないというわけで、それならば寺院に奉納される中から宗門に納めるのならば、もっと中心体制を確立して、自分たちの本山だという意識でもって、一年の初めのお初穂、お初灯明料を本山の御宝前にお供えをしなさいというふうに切りかえていったわけであります。
 そのうちの七・五%か一〇%かちょっと失念しましたが、一〇%とすれば、仮に七億円集まれば七千万円ですが、それを優先交付というわけで本山に納めます。宗門総回向料についても同じです。ですから、一〇〇%から七・五%、一〇%の優先交付を引いた九二・五%(本山初灯明料)、九〇%(宗門総回向料)を、本山からの交付金という形で宗務本庁が一括していただきます。その中から二三%を支庁に配分する(平衡交付金<平等に分ける基本金額>四〇%と比例交付金六〇%を奉納金額のパーセンテージによる額)が支庁交付金として支庁に対しておりてきて、さらにそれがそれぞれの宗務所の予算となっておりてきます。
 仮に中四国の教区で宗務院に一億円奉納したとします。全国で三十五億円の奉納金が納まったとしますと、一億円は何%か計算して、それに見合う額が宗務所におりてきます。私どもには宗務所の下に布教区があります。宗務所で予算が組まれましたら、今度は布教区に対して奉納金の割合で戻ってきます。
 私ども大阪の場合には布教区が四つあり、そのうち北大阪布教区内に十一カ寺あります。十一カ寺が共通して行う弘通の諸費用あるいは研修、住職と局長が集まる会議、もう一つ佛立宗の特色の教養会と申しまして、信徒の男女年齢によって婦人会、壮年会、若葉会、青年会、薫化会(子供会)、スカウト会等があり、各々の布教区の連合体に補助金がおりていきます。こういう財政の切りかえをしたわけです。ですから、きっちりした檀家数を出しても寺院課金に影響を及ぼさなくなりましたから、ある程度の数が把握できるようになってきました。
 住職は檀信徒に任せて本山へ奉納金を出させて、自分は腕を組んでいたらいいのかといったら、そうではないわけです。我々も出さなければいけない。どこのお寺が幾らと、全部公表されます。そうして本山中心を確立して、あわせて財政の立て直しをした。このときに行われましたのが十億円プールであります。十億円が宗門の基本財産として常時プールされておかなければならないという形で現在進んできているのが、この切りかえでもって行われてきた状況であります。
 しかし、これから生き残れるかということになりますと、せっかく切りかえたのが、お恥ずかしい話ながら、今回の問題をなぜ引き起こしたのだろうかということになってくるわけでございます。今回の問題にしましても、七百回御遠忌を中心にして、これからの宗門の長期にわたる構想の中で、まず私たちの宗団がこれから生き残っていくためには、決まりを定めなければならない。その決まりが今までの決まりでよかったかどうかを見直せということで行われましたのが、宗制改正でございます。十年にわたっていろいろな立場から研究を重ねて、百回御遠忌に新宗制をもとにした動きが始まったのでございますけれども、その途端にいろいろ破綻が起こった。問題を積み残したとか言うのですが、それを先へ送って、もう少し様子を見てやってみようかというはざまに、今回の問題が起こってきたわけであります。開導日扇上人・長松清風師の御遷化後百年を迎えました私ども宗門が、今後、二十一世紀、二十二世紀に向かってどうあるべきかということを考えた場合に、再度の切りかえを図っていかなければ、立ち向かうことはできないであろうと言われております。
 その中で私たちが一番大きく問題にいたしましたのは、教化であります。これは佛立宗の弘通の生命であります。先ほど教化誓願者と言いました。信徒になったならば教化をさせていただこうというわけです。「教化せし功徳はわれに帰るとよ かれもよろこびわれもよろこぶ」という歌があります。教化というのは功徳己に帰す。教化することが弘通の中での功徳の最高のものなんだ、一切の経力がこの中に含まれている。ですから教化をしなさい。教化することによって自分の信心も当然上がっていかなければならないということを言われるわけです。ですから、教化をするということが、まず大事であります。しかしながら、この教化を誓願する人がガタッと減ってきています。
 それと、相続の問題があります。私たちが嫌な言葉に「一代法華」というのがあります。一代法華にならぬように、何とか子孫にこの信心を相続させていこうというので、私どもはそれを「信行法灯相続」と言っております。しかし、今はそれが一番難しい。その原因は核家族化です。核家族化になって、おじいちゃん、おばあちゃんが手を合わしているのを孫が全然見ていない。お葬式に行きます。従来ですと、おじいちゃんあるいはおばあちゃんと最後のお別れのときには、それこそ孫が泣きじゃくって、見ていてもこちらがもらい泣きするような状態です。今はそうではない。お弔いがあったら子供ははしゃぎ回ります。なぜかというと、あまり人がこない生活をしていますから、ワーッと親戚がそこへ押しかけてくる。法衣をまとったお坊さんが出てくる。物珍しくその後をついて行きよる。悲しみなんてありゃしません。そういう中で、いかに信仰をはめ込んでいくか。心に浸透せしめていくかということが、私どもの宗団の中でも一番難しいことです。
 ですから、他人に対する教化と同時に、身内、娘や息子、孫に自分の信心をしっかりと植えつけていかなければならないということを強調しております。そうしないと、先ほど現宗研の方が法則をおっしゃっていましたが、確かにジリ貧になっていきます。ましてやだんだんと子供が少なくなる社会ですから、よっぽどしっかりした種を植えつけておきませんと、一つの種が枯れてしまったら絶えていきます。一つの種を大事に育てていかなければならない時期にもかかわらず、その種を育てるということを怠りますと、今度は実がならなくなります。そういうことを私たちは真剣に考えていかなければなりません。


 次に佛立宗のお講制度について説明します。仮に広島という所を一つの例としてお話しますと、広島駅のガードを中心にして山側と海側と分けて或いは行政区に分けて信徒を一つにまとめる。そういうふうにして近くにいるご信徒を集めて、そのグループでお講を勤めさせる。そのお講を勤めることによって何ができるか。いわゆる宗徒教育を施すわけです。ご信心はありがたい、御利益をいただかなければならない、こんな結構な信心をなぜ子供に勧めないかと、ここで信を勧める、勧信を施していくわけです。それが佛立宗のお講制度です。お講によって信心を揺がさない、怠りをしないように、謗法を起こさないようにということを目的にして、お講ではお題目を口唱します。そのお家の御回向をします。そして今度はお寺の弘通が発展をし、宗門の弘通が発展をするように祈願をします。それが済んだら、今度は御法門を説いて信心の筋道から離れないように教える。お講という内容の中にこれだけが含まれるわけです。毎月お席を順番に回りながら、近くに集めたご信者を勧めていく。これが当宗のお講であります。そのお講がうまく勤まっているかいないかによって、その寺の弘通ができているかできていないかという一つのバロメーターにもなるわけです。
 ところが、最近はだんだんと核家族化してまいりますし、ひとり暮らしの老人がふえますし、諸問題があって、現在私たちはこれからの宗門がどうしていくべきかという一つの大きなテーマとして、お講の活性化ということに真剣に取り組んでいます。そういう状態で佛立の信心をすすめていくわけです。
 もう一つは参詣です。ことごとくにお寺に足を運びなさいと。そして行をさせる。行をすることによって、自分の信心をすすめていくようにする。そういうお講制度のあり方を考えていくわけであります。
 新宗教の教団に見られます特徴は、社会をうまく見ています。社会の動きをいち早く取り入れています。なるほど
ここは急激に伸びているなという宗団は、かなり社会学的に研鑽を積まれている人が必ずバックにいます。聞き及んだ話ですが、創価学会の勢いがずっと伸びた時代があります。二代目の戸田城聖の時代です。あのときに戸田城聖がポケットマネーで全学連の優秀な者を二人引き抜いて、アメリカのハーバード大学へ留学させて、当時の世界一流の社会学者のそばにつけて二年間研究させた。その研究の成果を持って日本へ戻ってきて、その結果が、爆発的に創価学会が大きくなった。そのもとは、社会を見直したということが言われているそうであります。
 霊友会にせよ、立正佼成会にしろ、阿含宗にしろ、特に阿含宗は広告関係のジャーナリストがバックにいるそうです。ですから非常に宣伝がうまい。宣伝によってある程度人を引き込むことができる。そういうふうに教義以外の信仰対象者、対告衆であるという、社会の断面を直視できるようなノウハウを持っている人が必ずバックにいる。ところが、我々の既成教団はそこまでいかない。ですから、いかに今後の社会を生き伸びていくかといったら、我々自体がもう一度、現在の社会を勉強し直さなければならないのではないか。
 日蓮宗さんと私どもの違いは何かといったら、日蓮宗さんでは布教師会、修法師会、霊断師会、声明師会と、それぞれのセクトによっての会がございますが、私どもは、それらすべてを住職がしなければならない。布教師であり、声明師である。宗門がそういう人たちを差し向けて応援してくれるかといったら、そんなのはないんです。ですから、住職自身がすべてをやりこなしていかなければならない。しかし、やりこなすからといって、ノウハウを全部持っているかといったら、そこが佛立宗の一番弱いところです。佛立宗の一番弱いのは何かといったら、社会性がないことです。ただ教えておけばご信者が全部守ってくれるという考え方ですから、甘んじている面が多くなってきている。それと、どうしても上から物を見ようとする考え方がある。
 佛立宗の信心の特色は、「経弥実位弥下」を体得しなければいけない。どういうことかといったら、経がいよいよ実なれば、位いよいよ下がるという意味です。だから、仮名で説いてわかるような法門をしろ、そういう教えをしろ、だれもができるたやすい信心の修行をさせろ、それによって喜びを持たせるということを教えている。ところが、教務(僧侶)たるや「経弥実位弥下」になっているかといったら、ご信者に対して位弥下ができていない。それが現在の大きな問題点ではなかろうか。赤裸々に言えばそこなんです。僧侶然としてしまっているんです。独裁にして独裁にあらずという考え方をしてもらわなければならない。ところが、独裁にして独裁だから困ってしまう。そういう点で、今、私たちが再度この問題を切りかえていかなければ、宗門は生き残れないのではないか。


 そこで、日蓮教団、日蓮主義として、これから先のことを考えるならば、私たちはお祖師様が四箇の格言で教えられた法華経の真実性、それによるお題目の尊さ、このお題目でなければ人民を安心させ救済することはできない、御利益はいただかせられない。そういうことをこれから真剣に考えていかざるを得ない。それを忘れてしまったならば、完全に滅亡に陥ってしまう道しか出てこないのではないか。祖師の四箇の大難、そのほかの小難、数知れずのご艱難ご苦労、ご弘通の御跡を私たちは考えて、七百遠忌を迎えた今日でもお祖師様がお説きあそばされました諸々の御書の精神は、現在の時代でも生かされるんです。決して通用しないということはない。仏がお説きあそばされました経々、特に法華経の御文の中に出てくる文々の教えでも現在の世の中には完全に通用する。それを私たちは忘れてしまって、現在に逆行するような考え方をしておっては、決して教団として生き残れるわけでもないし、また、祖師の御教えから外れてしまって何で祖願達成ができ得るのであろうか。逆の理論で、これからつぶれていくのではないか、どうしようかという提題を掲げたときに、何くそ、つぶすものか、つぶせるものじゃないという問題意識を惹起させることを、私たちはこれからの大きな命題として、毎日、持ち続けていかなければならないのではないでしょうか。
 日蓮門下の旗頭の日蓮宗の皆さん方は、現在、お題目総弘通運動を展開されています。だれでもがしやすい信心のあり方を究明していき、私たちは檀信徒を教えていく上において確固たる教義の信念を持って、教えというものから踏み外さないように、自分たちが日々を見きわめていくことを真剣に守っていきさえすれば、必ず信は通じる。その信が通じるというのは、私たちも信行をもっと真剣に考えていく。衆生救済をいかに考えていくか。「日蓮はなかねどもなみだひまなし」(諸法実相鈔)という御聖判を心に秘めて、それと、今、死に対する諸問題があります。なぜ「先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(妙法尼御前御返事)と教えられているのか。そういうことも一つ一つの命題を持っていきますならば、私たちはまだまだ教化弘通に対する課題は山ほど出てくると思います。その一つ一つに真剣に取り組んでいく姿勢が、檀信徒に対しても帰依の心を呼び起こさせるのではないでしょうか。
 先日、荒行堂の満願がありました。百日間修行されたその思いが、それぞれのご自坊の檀信徒を動かして、遠方はるばる中山までお迎えに来ていただけるのです。そういうように、檀信徒に植えつけていくものがあるか。また、それを喜んで受け取ってもらえるものがあるかということを考え、法門の中で教えられている私たち日蓮門下の止暇断眠の日々の研鑽を積んでいくことが、一つの切りかえを図る大前提を求めるための問題意識を醸し出すのではないだろうかと考える次第であります。

 雑駁な話で意に沿わぬようなことであったかと思いますが、ご清聴いただきましたことを高座でありますが厚くお礼を申し上げます。南無妙法蓮華経。ありがとうございました。(拍手)
 ※本稿は、平成五年二月二十三日、山口県小郡町ホテルみやけにて行われた第二十回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。


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