日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第28号:1頁〜 |
「時を知る」研究を |
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巻頭言
「時を知る」研究を
石 川 教 張 (現代宗教研究所所長)
世界も日本も今、激しく揺れ動いている。しかも、これから先にどんな時代が到来するのか、不透明感も色濃い。
日常生活から社会制度、価値観、人間存在に至るまでが、多様化の中で根本的に問い直されねばならないのが、現代というものではないだろうか。
これは、歴史の現実と形成のプロセスに相違ないが、一体どこに行き着くのか、何をめざしていけばよいのかを、真摯に、地みちに探求していくべきではなかろうか。
宗教もまた、その例外ではない。宗教はこれまで多くのものを提示してきた。
宗教は、救済のシンボルであった。社会的現実に苦悩する人間の、「助けてくれ、救ってほしい、守護してもらいたい、願いを叶えてほしい」、という内なる切実な声に呼応して、何らの救済のメッセージを送り、その実現を果して来た。
宗教はまた、宇宙世界の全体構造を示し、人間のよるべとなり得る新しい世界観、人生観を与えても来た。これは、宇宙自然と共生し調和しながら、仏や神に信順したり合一したりする宗教体験を通して、現実に葛藤する人間社会の解決をめざし、そもそも人間はいかに生きるべきなのか、という宗教と人間にかかわる課題に一定の指標をもたらすものでもあった。
しかし今、モノから心へ、と叫ばれながら、宗教はいまだに適切なメッセージを送っているとは言いがたい。モノという物量と欲望の世界から、心という質的で内面的な精神の深化への努力は殆ど進んでいない。かえって、地球環境の破壊や飢餓、戦争などの末法的現実は進行し、宗教自体はこの解決への指針も提示出来ずに無力化しているのが実情であろう。
この世の切実で深刻な苦悩を直視し、その苦悩からの出離・解放をめざした釈尊のメッセージ、日蓮聖人の教えは、すでに意味を持ち得ないのか。意味を持っているならば、それは何か。釈尊や日蓮聖人は現代におられたならば、何を語り、どう生き、いかに行動されるのであろうか。私たちにとっては、こうした問いかけを通して、釈尊・法華経と日蓮聖人の教説における普遍性と歴史性、時代的活現の道を再発見しつつ、新しい価値観・人生観をいかに示せるのかを研究し探求することが必要なのではあるまいか。
これが、「時を知る」ことであり、歴史を観る姿勢であり、「撰ばれた時」に生きる者の課題ではないかと思う。
歴史とは、三世を知ることである。「故きを温めて新しきを知る」という言葉を空洞化すべきではない。過去を省みて現代をとらえ、未来の進むべき道を習いきわめていくという、三世を知る歴史への洞察は、まさに仏教の明鏡に三世を映し出す基本姿勢であろう。
日本の仏教が、近現代に何もして来なかったと断定するのは容易だが、こうした衰退・堕落論はきわめて一面的である。仏教が日本の近代化や人間精神の形成に果してきた点も併せて把握すべきであり、伝統仏教が全く無力であった訳でもない。
近現代の日本仏教もまた、全般的には国家体制や社会の枠組みに縛られ、それに追随・順応・迎合しながらも、他方では信仰教説を保持し、戦争などの人間疎外の流れのなかで人間精神の探求をめざして来た。また、教団内外の信仰運動、布教活動や仏教的文芸活動への取り組みを通して、教団自体の脱皮と再生、社会的貢献を図る努力もなされて来たし、なされつつある。
今必要なのは、表面的な現象をただ追い求め、迎合することではなく、こうした宗教全体、仏教全般の歴史的限界と評価を見きわめながら、末法的現実の危機のなかで、どのように新しい価値観をつくりあげ、それをいかに提示し得るかを考究することではないかと思う。
現代宗教研究所も、本年は創設以来三十年(昭和三十九年三月、現宗研規程制定)の節目を迎える。この時に当って、再び新たな現代宗教の研究に取り組むべきであるとの思いを込めて、巻頭の拙言としておきたいと思う。
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