日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第27号:193頁〜 第25回中央教化研究会議:部会報告 ←前次→


  部会報告 (要旨)

   第一教学部会
    座  長 三原正資
    問題提起 都 龍張・渋澤光紀(第五部会)
    記  録 片野博義
    運  営 小倉光雄・西片元證
    参 加 者 十七名
 本年よりお題目総弘通運動も新たな段階をむかえ、家庭信行に力を入れることとなった。そこで、各家庭の仏壇にお曼荼羅を本尊としてお祀りするよう指導するわけであるが、その理由を今一度確認し、徹底し、その実をあげることが当部会の目的である。
 第一日目は問題提起の都龍張師より、問題としたいのは、何故お曼荼羅を祀るかについてであって、本尊の形態論について論ずるわけではない。ただ、今日のハイ・テク技術により、人々がストレスを本尊と向いながら光と音で解消するための施設があることを考えれば、3D映像等のAVを駆使した本尊を模索することも可能と思われる。
 これらの点について、教研会議らしい自由な発想で種々意見を述べてほしい、と前置きしてお曼荼羅を祀る理由を次のように述べられた。
 檀信徒に説明する際には『日女御前御返事』(定遺一三七四〜七頁)を読みあげ、お曼荼羅の教えとは、生きとし生けるものの共存共栄と落ちこぼれのない世界であり、生体系を破壊しないように環境を保全し、本当の幸せに至る道を教えたものである、と説明された。
 それをうけて、次のような意見が出された。
○本尊の意義よりも、形態の方について考えてしまう。
○檀信徒も仏壇の中のアクセサリーとしての感覚しかないのではないだろうか? 本山の土産物屋や仏具屋で売られており、敬虔な気持ちでご本尊を受ける事が欠けているのではないか。やはり、威厳を以て授与せねばならない。
○本尊を祀る仏壇に対する檀信徒の意識が問題である。檀信徒は、先祖の位牌を祀るところと考えており、日々の信行の場とは考えていない。この意識を改めなくてはいけない。
○仏壇の中のお曼荼羅をありがたいものと理解してもらうには、平易な説明が必要である。また、若い人には、学問的な説明が要る。説明書を作る事も考えねばならない。
○単に礼拝していれば良いという訳ではないから、教義の理念と実践の両面から檀信徒に指導しなければならない。
 二日目は、ニュー・サイエンスより日蓮聖人の教学を眺めて考えてみた。そこで、ニュー・サイエンスと仏教に関して渋澤光紀師より概説して頂いた。ニュー・サイエンスは、仏教の影響として鈴木大拙の禅や華厳の哲理を取り入れていること。また、人間の意識の問題として、トランス・パーソナルと成仏が、近似性を持つことも了解できた。そして以下、次のような意見が出された。
○真理を理解する場合、レベルの違いで色々に見える。そのあたりをニュー・サイエンスで説明し、一念三千を把握する窓になれば良いかと思う。
○十界互具・事一念三千の境地を把握するためには、従来修行を手段として信受していたのであるが、若い人にはニュー・サイエンスの方が理解し易いのだろうか? 馴染みきれないのではないかと思う。
○成仏とトランス・パーソナルを近似した概念と理解する時、日蓮聖人の文字によるお曼荼羅と真言宗の絵による曼荼羅と文字を立てない禅の世界と、宗旨により悟りの境地を種々に表現しているが、そのあたりを解き明かすことも今後の課題であろう。
○ニュー・サイエンスの考え方を取り入れて布教に利用している教団に、阿含宗や生長の家の「生命の実相」がある。これらの教団にも注意を払わなければいけない。
○ニュー・サイエンスにより宗学を理論的に再構築し直すのは、説得力を持つかもしれないが、危険なことである。我々はあくまでも日蓮聖人の言葉を尊重し、日蓮教学の立場より、ニュー・サイエンスを見つめ直さねばならない。その上で取り入れられるものは取り入れれば良い。また、単にニュー・サイエンスと日蓮教学を比較するのではなく、宗祖の教えを理解するために、視点のひとつとして利用することも可能であろう。
○今回の話をきっかけに、本尊・修行・成仏について考えてみたい。 (西片元證)

   第二寺檀部会
    座  長 大塚教行
    問題提起 鈴木国守
    記  録 植田観樹
    運  営 小川順道・内山智修
    参 加 者 十六名
 昨年度討議された、過疎過密問題をさらに深く論じ、新しい寺檀関係を探って意見が交わされた。
 まず、当初予定の小川英爾師が欠席のため、同師により用意された資料をもとにして、鈴木国守師から問題提起がなされた。ここではまた、昨年も話題になった過疎地寺院の統廃合について、寺院と檀家との結びつき等の点で、現時点においては、実現は困難であるとされ、他の方策が考えられない今、過疎地対策は壁に突き当たったという現状が認識された。
 続いて過疎過密問題と墓地をめぐる問題について、参加者それぞれの地方における現状の報告がなされた。一例としては、檀家の引っ越しによる住職の負担が報告された。これは、引っ越しによる檀家の目減りを防ぐため、住職は相当遠隔の地であっても、他寺を紹介することができず、時間と労力をかけても自分自身が出張していくという事例で、差し迫った状況を浮き上がらせるものである。
 また檀家の少ない地方寺院では、息子が信行道場を出て帰ってきたとき、現住職である自分との仕事の分担を考えると、今まだ息子に任せることは何もないため、結果的には息子は外へ勤めに出ることとなり、二足の草鞋を履くことになってしまう。これはやむを得ないことではないかと、兼業を必ずしも否定することができない立場が述べられた。
 次に、現状報告に基づいて、問題点をどう打開すればよいかが話し合われ、寺院・檀信徒ともに、それぞれの良い姿・悪い姿を見てみる必要があるとの意見、あるいは、寺檀関係を宗教活動の面からだけではなく、経済活動の面からも見直さなくては、現状の問題を解決できないとの意見が出された。
 過疎化問題においては特に、「食べていけない」寺院の現状を見るとき、経済的側面からとらえる必要性は、参加者全員に痛感されるものであった。

 そこで今回の「新しい寺檀関係を考える」というテーマをまず、「寺檀関係を新たに見つめ直す」という点から打開の道を探ろうと討議がすすめられた。以下、要旨を項目ごとに分けて記す。
 <現状把握> 経済的側面から寺檀関係をとらえると、「需要と供給」の関係として把握できる。この場合、過密地寺院は供給出来ない。つまり、檀信徒の希望に対し人手不足で十分応えることが出来ない状態。過疎地寺院は需要がない。つまり、檀信徒自体がいない状態と考えられる。
 <問題点> @人手の不足。つまり僧侶の数が足りないということは、年々信行道場修了者が相当数いるという事実と矛盾する。これは宗門子弟の人材バンクを作ることで解決できないだろうか。 A住職になることのみを志向し、他寺院に勤めることを嫌がる若い僧が多い。住職中心の宗門体制の弊害と考えられる。 B有能な住職による無住寺院の活性化の計画は、法縁や代務住職等の壁に当たって実現が困難な現状。
 <問題の原因> 寺院を単位とした宗門の現状はややもすると宗門全体への意識を薄れさせ、結果的にお寺の住職・お寺の檀信徒という狭いセクト主義的な意識を増長させるもので、これは単立寺院と異なることのないものといえる。現状の意識を改革し、宗門の寺院・宗門の教師・宗門の檀信徒−即ち宗徒の意識を僧侶ともにもつ必要がある。
 <打開策> 寺院単位の個人プレーでは、社会の変動に対応できない。日蓮宗として強固な組織作りをしなくてはならない。人材の適材適所への配置や、土地財産の有効利用を、組織として行えば、過疎過密問題もまた墓地問題も解決することが出来ると思われる。
 <提言> 寺檀=即ち宗門教師も檀信徒も、ともに日蓮宗宗徒としての意識をもつことを基本において、日蓮宗組織を再編成する時期にきているのではないだろうか。
 以上の討論の結果をふまえて、来年の課題、テーマについて談義された。
 寺院の管理は、詰まるところは経済・経営と言い換えてもよいとする考えに基づけば、経営の成り立たない寺院−例えば無住寺院は日蓮宗という経営組織体からみると、損失が大きいばかりで利潤の少ない欠陥部分ということになる。これは利潤を第一とする一般の企業においては、活性化できないならば切り捨てるべきだとの結論になるだろう。となれば、切り捨てた部分をどうするのかが次の問題となる。ただ切り捨てるのではなく、どう活用するか。これが財産の有効利用・人材の適材適所となっていくものであろう。このような観点をもって、来年は「寺院経営・経済の諸問題」(仮題)というテーマのもとに、各自具体的な事例を持ち寄って、討議されることとなった。 (植田観樹)

   第三法器養成部会
    座  長 岩永泰賢・田島辨正
    問題提起 田島辨正・影山教俊
    記  録 岩本泰寛・早坂鳳城
    運  営 豊田正通・原 顕彰
    参 加 者 十八名
 今回当部会は、第一日目は、第五部会と合同の形で、問題提起者田島辨正師より「ネットワーク通信の活用と実際」について問題提起がなされた。
 第二日目は、影山教俊師より「現代法器養成考」と題して問題提起がなされた。
 日蓮大聖人の鎌倉開教より布教伝道の教化を生命とするわが教団では、多様化した現代社会の中でその活動の中核となる後継者づくり、法器養成の重要性が問われ、「総合一貫したカリキュラム教育」が主張されて久しい。
 ところが、「宗教的教育(法器養成)」が、一般的な「学校教育(クラブ活動などを含む)」とは、その目的・方法が大きく異なっているにもかかわらず、混同され、そのために布教伝道教団を担うべき「法器の資質低下」を招き、「お題目総弘通運動」すら進まず、「法華経の広宣流布」という願業も題目系新宗教の台頭を許しているのが実情である。
 また、宗教教育による「人格の向上、資質の変化」には、必ず修行が前提とされている以上、修行本来の組織的な考察方法を考えなければならない。
 なぜならば、現在、宗門以外を含めた多くの宗教者から提示されている修行に対する理解は、一つは文献学的な語義理解に専心するあまり、その結果として観念的な思弁に起り、修行が本来進んで行くべき方向を見失っているか、また一つは、修行者として修行そのものに専心するあまり、自分の主観のみを過信し、そのため自分の経験に対して、あまりにも迷信的な意味づけに始終しているのが実状だからである。
 つまり法器を養成する過程で、修行による人格の向上と資質の変化を心理と生理(心と身体の変化)で捉え、科学的(生理機能の測定等)に考察し、時間変化も合わせて考証する試みが必要なのである。実証的なこの種の研究は、一九三五年フランスの心臓学者テレサ・ブロスが行なったヨーガの行者の生理機能の測定(心拍数、血圧、呼吸数、皮膚電気抵抗、脳波)に始まるといわれている。
 この様な研究は、現在宗門内を始め立正大学でもほとんど行なわれていないのが実状であり、宗教教育としての「法器養成」を現代社会のニーズに高めるためには、@として「修行の実証的な研究機関」の設立。Aとして、@の「修行の実証的な研究機関」に支えられた「宗教教育のための修行専門機関(禅系などでいう師家制度)」を設立し、法器養成の専門教師の養成などが早急に求められる。
 そして、これらの機関によって、まず初めに現行の日蓮宗信行道場の入行者を対象に三十五日間のうち、まず入行時に二種類のテストを行なう。
  @CMI検査法による心身相関度テスト
  ATEG(東大式エゴグラム)による心理バランステスト
 次に第三週目に、Aの東大式エゴグラムを行ない、最期は第五週目の道場修了前に、やはり東大式エゴグラムを実施する。その後、検査結果を統計学的に処理する。
○再度マッチングに関する考慮が必要である(履歴書などの考慮)。
○CMI検査法による心身相関度テスト、TEG(東大式エゴグラム)による心理バランステスト、二種の検査は、問診表による「○×式テスト」で二〇分ずつで、所要時間は四〇分から四五分間を取ればよい。
○三十五日間の修行内容の考証(唱題行、読誦行、水行、食法の回数と修行時間など)。
 以上、@、Aを行ない、信行道場における宗教教育の実状を人格、資質の変化という観点から評価することから行ない、将来的には同様のテストに加えて、従来行なわれてきた生理機能測定、特に心理緊張によって身体生理の上に継続的に維持される筋緊張を節電として捕らえる方法を含め、修行の心理的・生理的に指標を明らかにし、客観性、再現性のある修行としての「法器養成プログラム」の確立が急務である。
 以上、二日間にわたり、法器養成に通信ネットワークの利用を考えること、修行による人格の向上と、資質の変化を生理機能の測定等によって科学的に考察すべきであることが、大多数の意見として出された。 (早坂鳳城)

   第四世代別教化部会
    座  長 中山観能
    問題提起 蟹江一恒
    記  録 太田鳳苑
    運  営吉本光良・進藤義遠・小澤恵修・平井良昌
 先づ座長より、前年度における世代別教化部会のまとめ報告がなされ、今年度は家庭信行の必要性とそのあり方を考えてみることとした。
 それをうけて問題提起者の法華道心教会の蟹江一恒師は、法華道心教会で行われている信行会活動の報告をされ、参加者等しくその活動ぶりに感嘆した。またその中から教師のあるべき姿を考え、提示された資料の分析を通して、これからの家庭信行のあり方を討議頂きたいと指示があった。
 発言された貴重な意見は、重層的に多義にわたるので、整理分類せずに発言された意見を順次要約して紹介することとした。
○寺庭婦人は住職と檀信徒の間に立って、良き相談相手の中核でなければならないと位置づける時、お寺では、誰でも寄りつけることの出来るような雰囲気をつくる事が大切であると思う。
○寺庭婦人が相談して、いろいろな行事の計画をするのであるが、途中で都合が悪くなって参加出来ない人が出てくる。それでも最後は、しっかりと成就するところに日蓮聖人の御加護が有るのだなと、同志共ども感激をしている。やはり信仰が基本である。
○家庭信行は大変重要だと思う。それには家庭で奥さんがしっかりとしてみえる家庭は、主人も子供さんもしっかりしていて、親戚づき合いも良くいっているが、奥さんが不安定な家は、全てがダメである。
○主人が協力的であれば、奥さんも協力的である。奥さんが信仰についてわかっていらっしゃらないと、主人も熱心さがない。また信者さんは比較的熱心ではあるが、檀家さんは熱心さが足りないと思う。檀家さんの教化、研修を盛んにすることが急務であると思う。先づは、ご夫婦でお寺参りの出来るような雰囲気をつくることであると思う。
○自分もお寺の行事に何らかの形でかかわっているという自覚を与えることが出来れば、そこからコミュニケーションが生まれ、寺と人との関係がスムーズに運ぶようになる。
○お寺どうしの交流もなく、寺の枠も越えられないで、お題目総弘通は出来ないと思う。お寺の住職も寺庭婦人を外に出さないで、寺庭婦人の交流もなく、寺庭婦人会の発展も、家庭信行の推進もないと思う。
○個を重視する時代ではあるけれども、家庭をおろそかにしても良いということではなく、上っ面だけではなく、本物について語り合うことが大切であるという認識が必要である。
○新宗教、新々宗教のような、ボーダーレス的でオカルト的、また神秘的なものでの導き方ではなく、本物の教えというか、本当の真理というものを説いていく時だと思う。
○むつかしい言葉、表現ではなく、誰でも理解出来る言葉を使うことに努力すると同時に、地道な教化のあり方もあるのではないか。家庭の中への飛び込み方と同時に、信仰に対する助っ人として、コミュニケーションを取れるような力量のある人となることが大切である。
○第三次宗教は、もうすでに終りを告げようとしている。これからは、また新しい宗教が出てくるような気運になっている。我々宗門人も、これからはそういう新しい潮流にどう乗っていくかが、研究課題になってくると思う。
○お題目を唱える信仰とは、自分自身をみつけることであり、自分の価値感をみつけることであると説明してあげると、人々はよく理解してくれると思う。神秘的なものだけでは、今の若い人々は、納得出来ないのではないか。やはり本物思考であると思う。
○病んでみなければ、病人の気持は分らない。人の痛みが分らなければ、人を納得させることは出来ないと思う。本来の教師、住職としては、語りかける言葉に虚飾があってはならない。真実の気持が相手に伝わってこそ、そんな雰囲気を創る努力をすることが必要であると思う。
○狭い宗門というカラの中にのみつかっていては、外部の事は分らないと思う。変動する社会情勢の中から話題を取り上げて、相手に説得力のある会話をすることが、教師に対する魅力となって出て来るのではないかと思う。各家庭で何かやりましょう、と呼びかける努力が大切ではないか。
○坊さん以外の人々と交流をもって、情報を集めることも大切ではなかろうかと思う。そうした人と集めて来た情報をもとに会話をすると、人々の気持が良く分って、大変に良いと思う。
○家庭信行を考える時、先づ家族の集まる時間を最大限に利用して参上し、回向の後で必ず法話をするようにしている。
 まとめ
○問題提起者の具体的な提起によって、中味の濃い討議がなされ、それぞれの教師が現在の宗門全体に大きな危機感をもって、家庭信行の必要性と信仰の相続に対し、真剣かつ急速な取り組みを望んでいると思う。
○特に寺院生活の中で、教師も姿勢を正し、信仰生活にもとづく寺族のあり方を考え、寺族としての使命感をもった自覚で人々に接する努力をすることだと思う。
○宗門のあり方を真剣に討議し、布教師として教導師としての自覚をもって、対地域社会で巾広く積極的に活動をしていくことだと思う。 (太田鳳苑)

   第五教化伝道ネットワーク部会
    座  長 岩永泰賢
    問題提起 田島辨正(第三部会)・龍澤泰孝
         伊藤立教・岩本泰寛(第三部会)
    記  録 渋澤光紀・早坂鳳城(第三部会)
    運  営 田口学正
 当部会は、一昨年度よりパソコン通信を中心に教化伝道のための情報ネットワークを検討してきたが、今回は、実際に現宗研内通信ネットワーク・プロジェクトが中心となって実験開局した「日蓮宗情報ネットワーク・システム(ロータス通信)」が紹介され、ファクシミリ利用の可能性も含め、情報ネットの実働化へ向けて具体的な諸課題を検討することとなった。会議形態について、今回初めての試みであったが、第一日目のみ第三法器養成部会と合同で会議を行った。進行の概略としては、第一日目は、パソコン通信の説明の後、実際にロータス通信ネットに自分でアクセス(出入り)して情報を取り出してみる実技講習を行い、質疑応答。第二日目は、この通信ネットを、特に各教化センターを中心に、いかに実働化して行けるか、どう協力態勢をつくるか等、直面する諸々の課題が討議された。
 第一日目、はじめに座長から合同部会の進行説明があり、つぎに問題提起者の田島辨正師より「ネットワーク通信の活用と実際」という題で、発題がなされた。
 まず合同部会の目的として、第五部会は「ロータス通信」の実働化を検討課題とし、第三部会はネットの使い方の面で法器養成のための通信教育の可能性を検討することを確認し、通信ネットの活用について説明を行った。
 ネットワーク通信のメリットについては、
○ネット内で会議等を行う事で、その情報が自然に蓄積できる。
○地域・時間差にかかわらず情報の共有ができる。
○入手した情報の修正・改正が容易である。
○直接に全国(世界)レベルでの情報交換ができて地域格差がない。
○情報の中央集中・発信という事がない(情報の流れが変わる)。
 などが挙げられる。その活用法としては、宗内ネットとして宗制などの宗務情報・伝道資料・教化情報・人材バンク等のデータベース機能、中央教化センターとしての機能、教師間の意見・情報交換、通信教育等など、様々な使い方が考えられる。
 導入にあたり最大の問題点は、機器を扱えなければ通信できないという事だが、これは機器の進歩が操作の簡便化に向かっている事や、若年層のOA機器への慣れを考えると時間の問題かと思う。技術的壁・資金的壁など色々困難もあると思うが、メリットを活かす方向で宗門における通信ネットワークの活用を討議できればと思う。
 続いて、問題提起者の龍澤泰孝師より「ファクシミリ通信の活用」について説明がなされた。
 現在、通信ネットでは画像を送る事が出来ない事や普及度・操作性を考えると、ファクシミリ通信の併用が望ましい。伝道という目的(自他共に成仏)のためには、文字即仏という教えからも、通信ネットやファクシミリは重要な手段となり得る。現在便利なファクス・サービスも行われているので参考にして行きたい。
 問題提起の後、参加者はロータス通信の説明と実技講習の二組に分かれ、交互に参加体験をした(講習説明にはロータス通信を起ち上げた(株)リップスの福田氏があたり、後の質疑にも答えて頂いた)。質疑応答では、技術的内容の質問と共に、実働化に当たって機器の普及状況が心配され、普及率の調査依頼が提案された。
 第二日目は、始めにロータス通信の運営に関わっている岩本泰寛師から運営の現況報告と協力要請が述べられた後、問題提起者の伊藤立教師から「第五部会の要望を受けて開局されたロータス通信だが、上から与えられたものとして受け取るのではなく、我々が育てていくものとして受けとめたい。システムは出来たが内容を充実させるのは我々であるので、具体的な協力を考えて頂きたい」と、部会参加者と各教化センターを中心とした協力態勢作りについての発題が行われた。
 会議はロータス通信の実際運営をめぐって、妙光寺ネットを運営している宮淵師から、ネット内のデータ保存のやり方・電子会議の仕方等の提案や、また静岡管区の大場師からは、通信プロジェクトが考えているデータ入力体制・サポート体制・普及範囲の目算についての質問等が出された。途中、座長より「部会として、このロータス通信を将来、宗門ネットになるよう支援して行く」という議題が提起され、総意によって賛成された。
 これを受けて技術的・内容的な協力要請が行われ、協力出来る方々の了承が得られた。また、来年度予算化されなければこのロータス通信も実験で終わるという切実な現状もあり、宗務総長への予算化を求める要望書を総意をもって採択し、今後も年間を通じてネット内において会議を持つ事を確認して閉会した。 (渋澤光紀)
  要  望  書
 私たち教化伝道ネットワーク部会では、ここ数年来パソコン・ファクシミリ等を利用して、寺院間の協力体制を敷きたいと話し合い腐心して参りましたが、今般現宗研内にロータス通信が実験開局致しました。
 これは有志の懸命な努力が実を結んだものであり大変なご苦労があった事と深く感謝しております。
 これによって、我々の部会で数年の論議を費やした事柄が一挙に現実化し、大きな骨組みが出来た状態となりました。
 今後このロータス通信が、宗内で予算化され、日蓮宗寺院全体が共に活用できる状態となりますよう、格段のご配慮を賜りたく第五分科会一同の総意として要望いたします。
日蓮宗宗務総長殿
平成四年九月十一日 
第五分科会一同

   第六社会問題部会
    座  長 山口裕光・渡部公容
    問題提起 柴田寛彦・奥田正叡
    運  営 勝呂昌信
    記  録 貫名英舜
 当部会は、従来よりの議論の成果を踏まえ、仏教者の医療への関わり方を、以下三つの観点で討議をした。
 (一)医療の現場から仏教者に期待されている事項に対し、どのように対応するか。
 (二)終末医療ビハーラ活動を研究する。
 (三)尊厳死を仏教者として考える。
 従来の議論が、仏教の教義や宗祖の御遺文を通して生命の倫理を模索するという理念的な探求を中心にしていたのに対し、本年の目標は、より現実的で具体的な対処を見出す点に置かれた。第一項は、宗教者が医療施設従事者からどんな活動をするべきかが示唆され、第二項で将来宗門が取り組むべきターミナルケアとは如何なるものかが考察された。そして、第三項においては、その実現が急がれる尊厳死を可能にする機構の整備と問題点に論点が置かれた。以下、討議の内容を抄録する。
 (一)医療の現場から仏教者に期待されている事項に対し、どう対応するか。
 会議資料二六頁に掲載されている「医療の現場から仏教者への期待」は、蟹江一肇師が関与している名古屋市内の中堅病院理事長の意見書である。
○家族関係の正常なあり方が問われている。宗教者は、本格的な高齢化社会を迎えるに当たり、家族とは何かについて教化すべきだ。
○老人問題を考える場合、物理的側面と精神的側面の二つで考える必要がある。施設の拡充やボランティア活動は前者であり、老いるということと精神的充実を与えることは、後者である。少なくとも、宗教者が後者を受け持つことは責務であろう。
○メディカルソシワルワーカーの役目を宗教者が荷負うこともあると思うが、相当量の勉強が必要となろう。又、僧侶である以前に、患者に細かくその悩みを聞くという行為が必要。
○医療施設に入所できない高齢者に対し、日常的に世話をする、その支えとなるような行動をすることも大切なのでは。
○お題目の信仰が、医学の常識を越えた不思議な力を病人に与えることがある。生きるという意欲をおこさせることが重要である。
○生老病死は人間の必然。若い時、健康な時に、それへの準備を教化しておくことが我々の仕事である。
○本宗だけでできないことは、地域の仏教会の拡がりの中で考えるべきだ。例えば、地域のボランティア活動を物心両面で支援するとか。
 議論の結びに、今すぐにでもできる活動として、入院患者に対するお見舞をより積極的に行うべきであることが提案され、柴田寛彦師が「健康への祈り」と題するお見舞いの時に患者に贈るパンフレット案を示して、参加者の意見を求めた。
 (二)終末医療ビハーラ活動を研究する。
 仏教者が直接医療に関与するものとして先進的存在であるターミナルケアビハーラ活動について、本年は新潟県仏教者ビハーラの会「長岡西病院」の現状について報告がなされた。
 この活動は、TVでも紹介され全国的に注視されている。又、昨年度報告されたビハーラ病院が浄土真宗本願寺派単独のものであったのに対し、新潟県の超宗派で協力して進められている点が注目された(本宗教師も含む)。
 討議では、将来各地にこのようなビハーラ活動が実現した場合、どのように参加して行くのか。或いは、日蓮宗が独自にビハーラ病院を開設し運営して行く場合の様々な問題点が模索された。
 (三)尊厳死を仏教者として考える。
 近年の医療技術の進展は、かつて家庭で静かに死を迎えたはずの人が、病院で医療器具に囲まれつつ臨終を迎えることが多くなった。ある意味で、本人の希望しない死のかたちが、そこにはあり、仏の子としての理想的な死のかたちとは何か、正しい生命倫理に立脚した死に行く姿というものは何かを、追い求めることが今日的重要課題となっている。柴田師が提唱する「『日蓮宗臨終尊厳協会』或いは『日蓮宗尊厳死協会』」の設立目的は、「仏祖の教えである生命の三世観に立脚して、今世の最終段階を臨終正念・霊山往詣を願うにふさわしい姿で送るべく、その希望を表明することを目的とする」とされている。以下、柴田師の主旨提言に基づき、その実現に向けての解決すべき問題点の指摘がなされた。
○安楽死と尊厳死の概念の差異について、厳密な議論をしておく必要がある。
○脳死を人の死として認めるか否かについて、国民的合意が充分とは言えない。
○リビングウィルを第一に優先すべきであると思うが、家族の心情とか本人の意志変更という側面も考え合わせる必要がある。
○脳死が、現時点では臓器移植と組み合わせの上で議論されていることに疑問を感じる。
○脳死臨調の結論が、極めて政治的で医師の希望に沿ったものであるという印象がある。宗教者として、この問題にどう答えるか、より研究をすべきである。
○現在、脳死・臓器移植をめぐる議論が盛んである。この尊厳死も、それらとの連環の上で成り立つものである。したがって、脳死という問題についてより徹底した話し合いがなされないと時期尚早との指摘を受ける。
○逆に、尊厳死は脳死・臓器移植とは分離して議論すべきではないのか。死ぬ権利とは、当然認められるべきものであると思うが。
○尊厳死は、脳死が人の死である云々の議論を越えて、宗教的な死を人間に取り戻すためのものである。人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えるための一方途である。
○脳死を人の死と認めた場合に起こるであろうドナー不足。その中で、人が他人の不幸を望むというエゴイスティックな風潮が社会に拡がるのではないか。その他、様々な危惧を想定して議論すべきである。
○我々が依拠するところは、法華経と宗祖の教えであり、これに基づく生命倫理の確立をはかるべきである。仏の子として、与えられた命をどこまでも守ることが必要であるが、死につつある命を無理に延命することも、また生命の尊厳を傷付けるものである。
○仏教において、或いは宗祖がお考えになった人の命とは何か、よく思念してみる必要がある。
○脳死を人の死とすることは、仏教の論理からは判断する基準が無いのではないか。であるから、脳死云々は、社会の一般的合意に合わせておくべきである。我々仏教者は、生死一如という考えを基礎におくべきで、生と死を越えたところに人間と命の尊厳を考える態度が必要なのではないか。
 他に、様々な貴重な意見が出された。現代における人間の死のあり方が問われていることに対し、更に深く掘り下げる必要が感じられた。 (貫名英舜)

   第七立正平和部会
    座  長 古河良晧
    問題提起 梅森寛誠・吉田永正
    記  録 間宮啓允
    運  営 松脇行眞
 「暴力」という言葉を私達が使用する時、一般的に私達の中にある概念は、武力ないし物理的な力を行使して、自己目的の達成を試みる行為である。確かに狭義においてはこの事は正しいし、人類の歴史を振り返ってみても、洋の東西を問わず、「暴力」を直接、間接に使用し、問題の解決を試みた例は、列挙にいとまがないところである。そしてこの「暴力」が主に国家あるいは民族を単位として行使され、それが他の民族の征服ないし、他国の領土、財産の支配を目的とする時、私達はこの行為を「侵略」と呼ぶ。この視点に立って我国の歴史を振り返る時、我国、我民族が「侵略行為」の加害者であった事実が歴然と存在する。和人によるアイヌ民族迫害もその一例であろうし、豊臣秀吉、加藤清正らによる朝鮮国への侵略、ことに先の世界大戦の際の日本軍による、朝鮮、中国を始めとするアジア各国への侵略行為などは、いまだ各国の人々の記憶に生々しく焼き付けられているところである。そして残念ながらこれらの行為が、加害者たる日本国、日本民族自身によって総括され、深く懺悔され、謝罪され、又つぐなわれているとは決っして言い難い。
 アイヌ民族に対する差別は、国内にいまだ厳然として存在するし、最近日本が、先の大戦においてアジアの人々に対して行った犯罪的、非人道的行為が次々と告発され続けていることをみても、アジア各国の人々の我国に対する深い怨嗟の念が、五十年の月日を経てもなお存在していることを否応なく認識させられるのである。これらの事実を踏まえて、今回第七部会の発題者の梅森寛誠師は、以下の如き問題提起をされた。
○海外布教の先覚者たる日持上人の七百遠忌に鑑み、当時アイヌ民族の地であった、千島、北海道地方に全く何の「暴力」も背景とされることなく、一天四海皆帰妙法の祖訓をたいして、単身布教におもむかれた上人の志を、今日アイヌ民族差別が厳然として存在する我国にあって、宗門がいかに評価し、それを継承するのか。
○豊臣秀吉の朝鮮侵略の事実に対して、現在我宗門で礼拝の対象とされている清正公(加藤清正)信仰を、日韓、日朝関係の中でどのように認識すべきなのか。
○先の世界大戦において日蓮宗門が戦争遂行に積極的(例えば立正安国を立正報国と書き換えた事実等)あるいは消極的に協力関与した責任に対して、現在の宗門総体としての姿勢の検討。
 以上の点が明確に総括されるという前提があって、初めて立正平和運動の方向性が確立されうるし、又海外布教を誇る資格も持てるのではないかという発題であった。
 この発題を受けて、続く吉田永正師の発題がなされた。前述した如く、武力に代表される物理的な力を行使して目的の達成を試みることは、狭義の「暴力」である。しかし、「暴力」は決っして物理的なもののみに存在するのではない。文化、経済的力を背景とした「暴力」も確かに存在するのであり、現在我国が東南アジア各国に対して「経済進出」の名のもとに行っている行為の実情。例えば、
○日本の紙の国内需要に供する為に、フィリピン、インドネシア、マレーシア等の熱帯雨林を根こそぎ刈りつくした結果、生じている自然環境、あるいは現地人の生活、文化の荒廃の現状。
○マレーシアで最近起った「エイシアン、レアメタル」(三菱化成と現地企業との合併会社)の放射性廃棄物のタレ流しの実態。
○東南アジアでの日本企業の代表者と現地労働者の給与の格差が百倍以上にもなるという差別的な雇用関係の実態等々。
 そしてこれらの結果として現在の我国の大量消費、文化が支えられているのが実情であり、これらの行為こそ、経済的、文化的「侵略」行為そのものである。そして私達もまた、日本という国にあって消費文化の恩恵を十二分にこうむっているが故に、意識的に、あるいは無意識のうちに再び「侵略」の加害者側に立っているのではないか。加えて、これらの「侵略」行為の底説には相も変わらぬアジアの人々に対する差別的感情があるのではないか。これらの問題に対して、私達はその実情を見すえ、しっかりとした対応をとる必要があるのではないかとの問題提起であった。
 これらの発題に対して、参加者から貴重な体験談、あるいは意見が出された。これらの意見を紙面の関係上簡単に要約すると、
 我国、我民族、我宗門、そして日蓮宗教師一人ひとりが、過去の「侵略」においても、又現在も形を変えながら続いている東南アジアの国々、人々に対する「侵略」行為の加害者側に立っていた、あるいは立っている事実を明確に確認し、そのことを総括し、深く懺悔し、謝罪をし、その意のある所を折あるごとに形として顕してゆくことの必要性が強調され、確認された。
 その運動のあり方としては、宗門の戦争協力責任明確化のための資料整備。あるいは、再生紙の利用運動、リサイクル運動等に見られる我国の大量消費文化の構造的欠陥に対する反省の上に立った消費抑制運動、あるいは、消費抑制のための啓蒙活動の推進、PKO問題に代表されるような、我国の武力による「侵略」などの過去に対する反省を、自ら忘却するが如き、現状に対する反対意志の明確な表明また啓蒙活動等が挙げられた。
 以上が概略、参加者の意見の収束を見たところであるが、発題者以下、参加者の共通した認識として、
  私達日蓮宗教師が、現在の如き社会状況の中で、発言し、運動してゆく根本には、常に自らが仏弟子であり、宗祖の弟子であり、法華経お題目の信仰者であるとの自覚がなければならない。政治的、法律的、あるいは人道的立場からの提言運動は、すでに各種団体において種々なされてきている。にもかかわらず、なお私達日蓮宗教師が発言、運動してゆくことに特別の意義を見い出そうとするならば、その行動の根本軌範には、釈尊の示された不殺生戒がなければならぬはずであり、法華経に説かれる命の平等性、永遠性に裏付けられた命に対する限りない尊重の姿勢がなければならぬはずである。「すべての存在の中に仏を見、それを尊んでゆく生き方」。そこには人種、民族、国家の違いによる、生命の価値差別は存在しえぬはずであり、その生き方は当然、命の異なる有り様、すなわち私達をとりまく自然環境に対する慈しみ表出へとつながってゆくはずである。これこそが、私達日蓮宗教師の実践活動の根本理念であるはずである。

 以上のことが、概略、確認されたように思われる。 (間宮啓允)


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