日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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所報第27号:180頁〜 特別講演「私と法華経」 ←前次→

特別講演
私と法華経

 塚 本 三 郎(衆議院議員)

 名古屋では、しがない代議士でございますから、人の集まられるところは、どこへでも顔を出す。これがまた私の勤めであり、ひいては票をいただく根源にもなります。そんなことでお招きをいただいておりますので、お見かけいたしますと、あちらこちらでお見受けさせていただきました先生方もいらっしゃるようであります。
 私は七人兄弟の三男坊で、小学校のときから、学校が終わりまして夜になると、毎晩、兄弟と一緒に「帰命無量寿如来」と正信偈を唱えて、各家庭を回って歩くという熱心な本願寺の檀徒の家に生まれました。
 私は昭和二年の生まれでございます。戦争中、国鉄の職員として一生懸命に仕事をしておりましたが、何としてでも戦争で日本に勝利を得させたいということで、当時十八、九歳で、私も血の気の多い男でございましたので、職場で働くかたわら、青年の立場で若い仲間の諸君を糾合して青年隊を組織し、よその職場にまで応援に行くという、まじめっ子でございました。
 ところが、日本の国はどんどんと負けていきます。私の住んでいた名古屋市は空襲で焼け野原になる。一体、日本の国はどうなるのであろうかと、心配をしておりました。やがて私は塚本家に養子にまいり塚本の姓を名乗ることになりますが、養母になる方が、日蓮宗ではないのですが、熱心な法華経の布教をしておられました。
 当時、私は仏教とか法華経ということは全然わかりませんでしたが、何としてでも日本の国を勝たせたいという一心で、十人ばかりの若者たちがしょっちゅう語り合っておりましたとき、こんな話をしてくれました。
 「日本は戦争で勝てないかもしれない。けれども国のために一生懸命頑張りなさい。よしんば目的がかなわなくて負けたとしても、そのときには負けたほうがよかったということだってあるよ」
 私はこの言葉を生涯忘れることができません。勝とうと思って努力をする。しかし、勝てないかもしれない。私は十八、九の子供でしたけれども、もう勝てないと思いました。我が家も焼けてしまいました。みんな焼け野原になりました。でも「負けたほうがよかったということだってあるよ」という言葉です。
 「私たちは凡夫凡人です。こうなりたいと思って、欲や感情、あるいは義理で走っているけれども、高い仏様の立場から見たら、おまえはこちらへ行くべきだとお示しになるかもしれない。それはおまえの意思に沿わないだろうが、それが仏の慈悲です。負けるということだって、あなたのためには、いい結果になることだってありますよ」
 と、そんなことをやがて養子先になる塚本の母は言ってくれました。
 「どうして、そんなことが言えるのですか」
 「世の中は因果応報です。因縁と果報によってできている。国のために働けば、国はその人のために一番いい方向に向かってくれる。いや、その人が一番いい方向におのずから向かわざるを得ない。蒔いたものは必ず生える。白豆がいいと思って蒔いたけれども、実はそれが黒豆であったとするなら、黒豆以外は生えてこない。蒔いた本人には黒豆を蒔いたことはわからない。しかし、言えることは、因縁は果報となって出てくる。それが妙法蓮華経という法華経の教えです」
 私はこんなうれしいことはなかった。一生懸命やればよくなる。この世の中は悪い者が勝って、いい者が滅びていくことだって幾らでもある。私は日本は絶対に負けてはならないと思っていました。日本だって何もアメリカが憎くて戦争をしたわけではない。我々はこの国で一億という人間が住むことができなかった。だから、五族共和の道を図って、わずかの満人は追っ払ったかもしれないけれども、だれも手をつけなかった満蒙の荒野に南満鉄道を敷いた。あの地に立派な国をつくったのは、決して悪いことではない。それを、手を引け、引かなかったならば油を売ってやらない、鉄鉱石を売ってやらないと言われて、日本は「洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ」ということで戦争を始めた。
 東京裁判の法廷において、戦犯となった木戸内務大臣の弁護士だったローガンは、アメリカがそんなことを言うんだったら、フィリピンを侵略したのはだれだ。阿片戦争で、阿片を押しつけて香港を占領したのはイギリスではないか。蘭領印度支那(インドシナ半島)を占領したのはオランダじゃないか。仏領印度支那を占領したのはフランスじゃないか。アメリカなどが日本は侵略戦争をしたと言って、満州事変までさかのぼって裁くならば、百年昔にさかのぼって、阿片戦争をしかけたイギリスが裁かれるべきだ。フィリピンを占領したアメリカが裁かれるべきだ。これらの各国に裁く権利はないと、若きローガン弁護人は市ケ谷の法廷で弁護の論陣を張りました。
 私は、戦後、中央大学で法律を学びましたが、市ケ谷法廷へ傍聴に行っており、これを聞いて思わず拍手をして、外へ出されたことを思い出します。
 そういう意味で、戦争当時は、私たちは日本は悪いことをしていると思っていなかった。しかし、仏様の目から見たら、日本は負けたほうがよかった。それは何か。この世の中は善因善果、悪因悪果である。だから、真心を込めてやれば結果は、正しいと思っていたのと逆のほうに連れていかれた。こんなバカなことはないと思わないで、それは仏様のお慈悲であったと受けとめるべきではないでしょうか。
 私のおやじは、製材の職工でありました。私は小学校の四年生のときから、朝四時に起きて新聞配達をしてまいりました。職工はつまらんから、おまえだけは官員さんになれ、役人になれと言われたが、小学校卒業では郵便配達か国鉄の職員以外にはなかった。昼は国鉄に勤め、五時になると夜間中学に通いました。私がどんなに頑張ってみたって、将来は名古屋の駅長どまりであろうと思っていました。
 ところが、戦争に負けたおかげで労働組合ができました。私は全国の国鉄労働組合の代表として、東京に出ていくことになりました。
 やがて代議士になりました。気がついてみたら民社党の書記長にさせていただきました。私が国鉄に勤めていたとき既に局長の地位にいた先輩が、私の部下になりました。局長といえば、兵隊の位で中将閣下です。駅手の私は二等兵です。戦争で負けた結果、私は代議士になり、輝ける一党の書記長で、国政の先頭に立って頑張りました。国鉄改革は塚本がやったと言われますが、そのとおりです。そのとき私の下の副書記長は、私が駅手として働いていたとき、既に東大を出た輝ける局長でございました。ところが、私は三十一歳で代議士になり、彼は局長や常務理事を経てから代議士になったものだから、私の代議士経験が先になりました。私が書記長で、彼は副書記長。こんなことは戦争に負けなければ、できるはずがない。
 私は、法華経を説いてくれた塚本家に養子に行きました。塚本家のばあさんは、私が一生懸命に法華経を広めてくれて、立正佼成会や創価学会に負けないような教団にしてくれると期待してくれたと思います。
 中央大学には幸いにも文学部長として小林一郎という法華経の大家がおられました。私も一生懸命法華経一部八巻をどれだけか勉強させていただきました。神田の本屋で『日蓮聖人御遺文集』十三巻、また、『法華経解説』十三巻がそろっていると必ず買って、名古屋へ帰ってみんなに読みなさいと配ってあげた。
 だから、池田大作さんや庭野日敬さんと比べてみても、私が遜色のない塚本教団をつくってくれると期待したのでございましょう。ところが、政治家になっちゃったから、どんなにか悲しんだことでしょう。
 でも、私は国のために法華経を実験してみようとみずから思って、仏法が正法であるならば、法華経が国の政治にも、世界の中でも必ず適合されるものと確信を持っております。
 ただ、確信の持てないのは、「止みなん、舎利弗、また説くべからず。仏の得たるところの法は第一希有難解の法なり。ただ、仏と仏とぞのみ、いましよく諸法の実相を究尽し給う」
 仏の心は自分が仏になって初めてわかる。国のことは総理大臣にならなければ本当のことはわからないかもしれない。富士山の頂上をきわめるには、頂上まで行かなければ下からではわからない。母親のありがたさは、どんなに勉強してみたってわからない。しかし、自分が子供を育てれば、一遍にわかってしまう。
 そういう意味で、私は法華経が正法としていくならば、みずから法華経を政治の世界、あるいは世界の中にも当てはめていく。それが当てはまらない理由はない。日蓮大聖人が言っておいでになるように、「仏法は体、世間は影」です。だから、七百年昔、法華経を広めなかったら国は助からない、仏法がゆがんでいるから政治もゆがんできていると指摘されたのだと思います。
 佐渡島に流されたとき、順徳上皇を守っていた遠藤為盛が日蓮聖人を殺そうとした。浄土の信仰者であった順徳上皇が夜も寝られないのは、その敵日蓮が佐渡にいるからだ。一カ月捨てておけば餓死なさるでしょうけれども、その一カ月間、順徳上皇の魂が眠られない。だから、殺そうとして遠藤為盛は塚原三昧堂に押し入られた。そのときに、「天皇陛下や上皇様がどうして北条幕府によって島流しに遭わなければならないのか。部下が主人公を島流しにするということは、世の中がひっくり返っている。それは信仰がひっくり返っているためではないか。仏法が体で、世間が影なのだ。仏法が間違っているからこそ、世間も間違ってきている。今は法華経が主人公という末法の時代に入った。だから、これを改めなければ上皇様の魂が安らかにならない」との大聖人のご説法によって、命を取りに来た遠藤為盛は阿仏房日得と名を改め、日蓮聖人の守り本尊になってしまわれた。
 中心は仏法にある、この教えが正しかったならば、日本の国の政治も正しくあるのは当然のことである。私は静かに日本の歴史を振り返ってみて、つくづく思います。アメリカは日本に勝った。日本もいいことばかりやっているわけではない。しかし、アメリカと比べて日本がそんなに悪いことをしたわけではない。だからこそ結果として、戦争に勝ったアメリカが本当は勝ったんじゃない。負けた日本が勝ったようなものでしょう。負けた日本の国が、勝ったアメリカに食糧をどんどん分けてもらった。
 戦争に負けたときに、大都会ではほとんどそうでしたでしょう、毎日カボチャを食べ、イモを食べ、ときにはイモのつるまで茹でて食べました。親子であっても、余計食べ過ぎたと言って、家庭の中で食べ物のけんかが絶えなかった。これが敗戦の日本です。そのときにアメリカがどんどんと食糧をくださった。真っ白のパンを配給でくださったときのうれしさ、砂糖をどっさりとくれて、毎日ぜんざいを食べました。勝った国がこんなことをしてくれたというのは、夢のようです。
 それは日本人がかわいそうだということもあったでしょう。でも、本当は、占領軍最高司令官マッカーサー元帥が、一億人の日本国民を無事に統括するためには、これが一番アメリカのためになるということで、日本国民のためじゃない、アメリカのために我々に食糧を与えざるを得なかった。日本を助けることが、アメリカの利益にかなってきた。私は日本とアメリカとの因縁と果報を感じます。
 昭和十八年、ドイツ軍がモスクワまであと四里まで迫った。ヒトラーは東条総理大臣に対して、ソ連はモスクワに軍隊を集結している。満州には五十万の無傷の関東軍がいる。シベリアはからだから、今、日本がシベリアへ攻め込めば、シベリアの半分は日本のものになる。攻めてくれと頼んできた。しかし、昭和十六年から昭和二十一年までの日ソ不可侵条約が結ばれており、日独伊三国軍事同盟があるけれども、日本は攻めるわけにはいかないというので、応じなかったわけです。
 昭和二十年八月六日、広島に原爆が落とされ、もはや戦うことができないというので、無条件降伏をしようとしたけれども、陸軍は、ソ連に恩を着せてある、天皇陛下の御名代で近衛公がモスクワに行って話をすれば、どんな悪い条件でも無条件降伏よりはましな結果になるだろうというので、ソ連に仲裁を頼んだ。
 三日後の八月九日、長崎に原爆が落とされた。万事休すと思っていたら、箱根に避難していたマリク駐日ソ連大使が会いたいというので、仲裁してくれると思って飛んで行ったら、何と恐るべし宣戦布告であった。こちらが恩にかけてあるから、仲裁してくれと頼んだら、日本はもう戦争できないのか、それではというので宣戦布告をしてきた。火事場泥棒じゃありませんか。八月十五日までの間、全満州の財産を強奪したのがソ連です。講和条約のときに、ダレス国務長官は「ソ連こそ国際的大強盗団だ」と断定的に非難しました。
 その国際的大強盗団のソ連が崩壊したではありませんか。盗んだものは黙って返せ。「ミッちゃん、のこのこロシアへ行くんじゃない」と、私は渡辺美智雄外務大臣にご注意申し上げた。私は彼より十年先輩ですから、「ミッちゃん、物欲しそうだぞ」と、私は注意できる立場です。ご承知のような状態になりました。
 まさにこれが因果応報じゃございませんか。「唯佛與佛乃能究盡諸法實相」。世の中の姿は、政治の舞台から見たら、まさにこれが妙法蓮華経じゃないでしょうか。実験してみて初めてわかるから妙法と言うんじゃないでしょうか。理屈ではわからない。
 勝ったアメリカが、負けた日本に食糧までただでよこした。金まで貸してくれた。技術まで教えてくれた。日本人を大量にフルブライトで連れて行って大学の教育をしてくださった。仕事までくださった。勝ったものでなければできない報いではないでしょうか。妙法の姿がきちっとここに顕在化している。
 そのとき、火事場泥棒で盗んでいったソビエトはどうなりましたか。日本に来たゴルバチョフは何と言ったか。国会で聞いておったけれども、あわれをとどめました。お金をください、食べ物をください。物乞いにおいでになったんでしょう。傲慢なソ連大統領が、こんな状態では、勝ったのが勝ったにならなかったんじゃないでしょうか。
 家庭でも、国家でも、世界でも、全部、妙法によってできている。体験した者だけが知る世界を妙法と名づけられていると信じております。しかも、だれの目から見てもそう見えるから「法」なんでしょう。これが世の中の「實相」だと思います。妙法とだれが名づけるかは別に、その心がけがあらわれてきて、国の運命も決まると私は思っております。
 そういう意味で、私が連れてまいりました後輩を、今、小さな教団の会長になっていただいて、私がこういう形で頭ばかり下げるから、塚本のおふくろも気の毒に、仲間から変な顔で見られても、一生懸命に選挙運動を生涯やってくださった。でも、私はそれだけお国のためには役に立っていると信じております。法華経の信仰者の中で、こういうことの言えるのは恐らく私だけではないか。
 私は特に立正佼成会の庭野先生とは親しい間柄です。庭野会長は「立正佼成会会員として信仰しておいでになる代議士は百二十数名おりますけれども、本当の法華経の信仰者は塚本さんだけです」と言ってくださるわけでございます。あるいは新宗連の中にはたくさんの教団があります。あらゆる教団に私は顔を出しております。そのときには、あまり日蓮、日蓮と言うつもりはありません。地元では門徒の集会にも参ります。お盆になりますとお施餓鬼があります。大般若があります。そこへ行けば、その時期でもって、仏説盂蘭盆経なり、日蓮聖人の盂蘭盆御書をご説明申し上げてまいります。お彼岸がやってまいりますれば涅槃経を説いて、彼岸の尊さを説かせていただいております。
 要は、日蓮と言ったって、あるいは法華経と言ったって、その中身と教えが大事でございます。特に宗門の先生方に申し上げたいのは、大衆は、かつては来世に対する成仏でしたが、新興教団は全部そうじゃない。現世利益です。病、貧乏、争い−病貧争と言いますが、家庭の中にはこれが多い。そのとき、因縁と果報を一つ一つお説きになることによって、解決できるのです。
 私はあらゆる新興宗教教団にお参りし、黙って座っております。しばらくすると、私に「お説法を……」と言ってくださるようになりましたが、「私に話をさせてください」とは、よう言いません。霊友会さんでもそうです。塚本にしゃべらせようという気はなかったけれども、挨拶してくれとおっしゃるならば、その舞台で不軽菩薩のお話を一言させていただければ、それで法華経をわかっていただける。
 新しい教団の皆様方は現世利益です。嫁と姑の問題だって、不軽菩薩の話一つを持ち出してみる。その方が絶対に頭を下げようと言わなくっても、「我なんだちを軽しめず。所以は如何。なんだち菩薩の道を行じてまさに作仏することを得べし」。人の心の中には仏が棲んでいる。欲や怒りやねたみの心で曇っているから光らないだけです。ご修行なさればだれでも仏になることができます。杖でたたかれ、棒でなぐられても、さらに遠くへ逃げていって、「我れなんだちを軽しめず」と叫び続けてきた常不軽菩薩。人は彼を称して不軽菩薩から常不軽菩薩の字名をささげるようになった。彼は決して読経するのでもなければ念仏も唱えない。生涯「我なんだちを軽しめず」と、人を尊敬し頭を下げるだけでした。
 嫁と姑の関係でも、不軽菩薩を例にとらなくても、霊友会でも立正佼成会でも妙智会でも、みんな車座になって「お母さん、行っていらっしゃい」と、手を合わせ、頭を下げて送り出すことがありますかと、説法なさっておいでになる。その中で解決なされば、どんな宗旨の人だって入っていきます。商売がうまくいかない。どうしたらいいだろうか。「売りつけることを考えずに、布施ということをやったことがありますか。損をして得を取れということがあるじゃないですか」と、手を取り足を取って信仰の心を教えることによって、自分の心が変われば相手を変えることができる。
 今、寺というところは、歴史を語るところです。静かなところなんです。お葬式や亡き人を語るところです。大聖人の生きておいでになったときはそうじゃなかったでしょう。寺こそ学問の中心だったんでしょう。明治の初年までは寺子屋でしか読み・書き・そろばんの学問はできなかった。その寺子屋があったからこそ、明治に一遍に花が開いたわけです。寺子屋がなかったら明治の文化はないんです。まさに日本は江戸時代からの寺子屋の学問が光り輝いたのが明治の御維新です。
 大聖人がおいでになるまでは、寺こそが政治の舞台だったんです。日蓮聖人は比叡山延暦寺の法主になられる人であったはずです。寺はご承知のとおり政党だったんです。それでなければ、承久の乱のように、後鳥羽上皇だって、土御門上皇だって、順徳上皇だって、流されることはないんです。寺が政党だったんです。そして、天皇陛下は政治的には何もなさらなかった。今と同じなんです。天皇陛下が出家なさって上皇となって初めて院宣をされた。政党なんです。
 大聖人は千葉の清澄寺で初めて立教開宗を叫ばれた。しかし、最高の栄誉である比叡山延暦寺の法主になられる立場であったけれども、鎌倉の小町の辻でやったのは、まさに立党宣言であったと私は思っております。だからこそ、坊さんになって政治を行っている。寺というのは政党なんです。もちろん宗教という精神の殿堂であります。だから、宗教と政治と学問の三位一体が当時におけるお寺ではなかったか。
 そういう意味で、寺こそは一番にぎやかなところ、一番勉強するところ、世直しをする中心の舞台であったはずです。だから、首の座に据えられても大聖人はいたし方がないと腹を決められた。政敵によって滅ぼされるんだから、いたし方ないじゃありませんか。御書を読んでみても北条時頼、北条時宗なんて一つも書いてない。最明寺入道時頼です。頼山陽は相模太郎と言ったけれども、大聖人の御書では法光寺入道時宗です。みんな寺です。政治家なんだから、お互いに。寺は政治の中心であり、学問の中心であった。
 そういう意味で、どうしたならば寺に人を集めることができるか。「飯を食いにいらっしゃい」だけでもいいじゃありませんか。会費幾らと言わなくても、ご馳走を出せば相手方だって、お寺は何でやっているかということを知っているんだから、必ず持ってきてくださるに違いない。貧しい人は、ただで帰ってください。「気兼ねせずに食べに来てください」でいいじゃありませんか。そうして人を集めることを考えていただきたい。幾らくれたから幾ら出すなんてことを考えない。
 私はお釈迦様の布教の中でこういうことを思い出します。お釈迦様がわざわざ何もない貧乏なところへ托鉢に行かれる。
 「何も差し上げるものはございません」
 「きのうのご飯の残りはないか」
 「それならありますが、酸っぱくなって食べていただけるものではありません」
 「それでいいんです、私はあなたのものが欲しいんです」
 こう言って、酸っぱくなったきのうの残りのご飯を目の前で食べ、「おいしかったよ」と言って帰られた。
 すごい行だと思います。
 もっと貧乏な何もないところへ行かれた。
 「何もございません」
 「それでは、あす炊くお米のとぎ汁でいいから」
 「それならあります」
 ライ病患者が多いところです。その膿が浮いているのでも、「おいしかったよ」と飲んで歩かれる。
 お釈迦様はスッドーダナ王(浄飯王)の息子、シッダールダ太子です。欲しければ人の命だって取ることができる。残りものや酸っぱくなったもの、あるいは米のとぎ汁など飲めたものではない。でも、それができたのは、お釈迦様の心の中には布施をすれば、与えた人が幸せになるという絶対的な信念があったからじゃないでしょうか。
 出家なさってから四十年間、他国で放浪の旅を続けながら行をされた。布施をすれば必ず豊かになる、この世の中における因縁と果報を四十年間身につけておいでになった。お弟子が街角に待ち構えて、「お師匠様、さぞかしまずかったでしょう。お口直しのために、これを食べてください」と、差し出されたときに、「ああ、ありがとう。待っていたよ」とはおっしゃらなかった。
 「金持ちは貧乏人の邪魔をしてくれるな。君たちは十分に布施ができている。私があなたのご馳走をいただけば、それが明くる日には村人にわかる。そうすると、あの貧しい人たちは恥ずかしくて二度と布施をすることができない。酸っぱくなったものでも、おなかを壊すような米のとぎ汁でも、私がいただくことによって、仏様は飲んでくださった、あすは三膳のご飯を一膳だけ食べ残しておいてお釈迦様に食べていただこうと、自分の食べるものを削ってでも出すでしょう。これが本当の布施の心です。この心が起こるまで私はいただきに行くんです」
 この行を、今の皆様方にやっていただくならば、まちの人たちはみんな集まってきてくださると思います。そして、一緒になってその行をなさるとき、本当の日蓮聖人の魂がよみがえるのではないでしょうか。
 まさに「止みなん、舎利弗、また説くべからず。仏の得たるところの法は第一希有難解の法なり」でも、やってみたならば「相、性、体、力、作、因、縁、果、報、等」みんな続いている。豊かになるという報いが必ずやってくる。私たちは方便品を、それは単なる騙すための方便じゃない。仏の慈悲として方便を使っていただいたらどうでしょうか。そうすることによって、寿量品の中の「大火所焼時 我此土安穏 天人常充満」(我が浄土は破れざれり。ことごとく焼け尽きて、この世の中はもうダメだと思うときでも、天・人常に充満せり)という世の中を私たちの周辺につくることができる。それが大聖人の六十一年のご生涯ではなかったでしょうか。
 そういう意味で、国の動きも、世界の動きも、社会もみんなそうだと思う。大なり小なり新興宗教教団は、そういうことをみんなやって、立派に信者を広げております。ただ、残念なことは、戦後も四十五年近くなりますと、教祖様を周囲が祭り上げてしまって、自分の子供に二世を継がそうとしておられる。これはもはや仏でなくなったなと疑いたくなる。特に日蓮宗の場合は、浄土宗や本願寺と違うはずでございます。心の弟子でなければならんと私は思っております。その日蓮教団あるいは法華教団が、自分の息子に教祖や会長を譲るために、教祖先生方は苦労しておいでになるなと、私の目には映ってくるわけでございます。これは一つの大きな節目じゃないかな。それが本当に二代目会長がその心になってくださること、いや、それより取り巻きがそうさせることだと思います。
 どうぞご上人様方、お寺は静かに歴史を語るところじゃない。何でもいいから来てください。そして、まずはお酒をふるまってください。ご馳走をふるまってください。世間話もいいじゃありませんか。その中で、まちの中の信望高い人に世間のことでも語っていただこうじゃありませんか。「経文の中にもこう書いてあるよ」と言っていただくと、「ご上人、次はいつやりますか」と、こういう形になってくる。七百年昔の大聖人がやっていただいた街角でなくて、立派なお寺をお持ちなんですから、そういうことを築いていただきませんでしょうか。
 そういう意味では、私も民社党の一責任者でありますけれども、少しでも国のためにと思って、他の政党である自民党の領袖の諸君にも言いたいことを言いながらやってきました。人のことを言える立場ではございませんけれども、せっかくの機会でございましたので、皆様方にそういうことを考えていただいて、おやりくださったらいかがでしょうかと思い、申し上げた次第でございます。ご無礼いたしました。(拍手)

 ※本稿は、ホテルパシフィックにて開催された第二十五回中央教化研究会議記念祝賀懇親会の特別講演として講演されたものを筆録したものです。


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