日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第27号:131頁〜 |
情報と宗教 |
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情報と宗教 T
小 澤 恵 修(現代宗教研究所研究員)
一、問題の所在
戦後の混乱の中、日本は新しい社会の創造に努力を重ねてきた。そして、社会の近代化の結果として優れた工業国家を創りあげて来たのである。そこには新しい日本としての文化、文明の誕生だともてはやされた時代があった。おそらくその頃から、「急速な時代」という意識が日本人の中に浸透し始めたのではないかと想像できる。同時に、近代化という大変心地良い響きのパスポートを手に入れたのかもしれない。その行き先が現代社会といわれるものであろうかと考えられる。
宗教もこの日本の近代化という時代変革と共に、その姿はどうあれ存在し続けてきた。宗教そのものが「急速な時代」と共に変革をなして来たのか、それともそこに生き、生活をしている我々人間がそれを受容していく過程において変革させて来たのかは、現段階ではそれはわからない。いづれにしても、宗教がその時代時代の人々になんらかの意味を持って存在していたであろうことは確かではなかろうかと考えられるのである。
このように宗教は、時代の変革の中においても常に関わりを持ちながら存在している。当然、その時代の特徴を時には受け入れ、時には距離を置きつつ、その存在価値を見出だすことで宗教であり続ける条件を提示して来たのではなかろうか。
さて、小稿においては、その宗教の現代的特徴を考察することを目的とし、その具体的要素を明確化させることにより、宗教に携わる者の現代的方向性を明らかとする手掛かりを模索することを目的としたいと思う。
それに先立ち、何故に「情報」というものに注目する必要があるのかを、明らかにする必要があろうかと考える。そこで、現代においての情報というものがどのような役割をなして我々の実社会に影響を及ぼすものなのか、また、「宗教」とどのように関わりをもつのかについての考察する前提的試みとさせて頂きたいと思う。
二、「情報」の本質的価値
(1) 情報化社会
日本の近代化に伴い、高度産業社会から高度情報社会へと移行しつつある今日、情報は現在の日本社会には欠かせない存在として認めないわけにはいかない状況であろう。この情報による社会の秩序維持の過程、状態をいわゆる「情報化社会」と呼ぶのである。
この情報化社会というものは国際的に見ても、アメリカとともに世界の最先端を走っているとも言われるくらい、その発達はめまぐるしいものがあるのである。そこには、人類の新たな文明の誕生といわれ、それと同時に日本的特徴を豊かに宿す「新日本文明」とまで称されるほどの位置を確立していったのである。つまり、日本の伝統的文化を巧みに文明化した画期的な発明であったのである。
「情報化社会」とは、情報の処理と通信が仕事の中心となるような産業形態のことである。これにより、時間、空間の制約を越えて情報が瞬時に伝えられることにより、豊かに蓄えられたデータベース、知識ベースに依存した生活が営まれるようになったのである。
このように、大変画期的な日常手段を手に入れた我々は、常に情報と同居するという社会環境のもとで日々の営みを送っているのであるが、そこには、単に便利、正確、高速処理能力等のメリット部分のみ表面化している傾向が、今日の情報化社会の優先理論の大きな性格を物語っているような気がするのである。
(2) 情報化社会のデメリット
情報化社会のメリット部分は先にも示したごとく、日常生活の中での通信、映像等の便利さ、確実さ、そしてその量の豊富さは我々の生活環境の幅を拡大させるという大きな役割を果たしている、ということは確かに認められることであろうと思われる。これにより、我々はあらゆる状況において選択の多様化が実現し、個人としての可能性について、複数のアプローチが可能な生活環境が出来上がるのである。そこに誕生するのは「選・民・思・想・」という、人間の意識革命である。これは、選択の多様化により自己の主体的選択の自由化がなされ、「自己を考える」という思考運動から「自己に選びとる」という、自己追求思考型から自己選択思考型へと移行する傾向が生じるのではなかろうかと考えられるのである。
このような情報を受容する側の意識革命により、情報化社会にもある種の変化が生じてきたのである。
人間の「選民思想」の拡大に伴い、その選択余地の拡大は当然要求されるものである。つまり「情報化」がその要求に答え、さらに発達し拡大すればそれに平行して情報機器の高性能化はさらに進歩し、数量化、記号化された情報は増加の一途をたどることになる。しかしながら、それを受容する側の我々にはそれを処理する精神的限界がある以上、当然情報過多の現象が生じてくるのである。
この情報過多の現象とはいかなるものかというと、情報がその本質的内容に価値観の比重を置くのではなく、その形相、つまり情報の形式、数量等の表面的価値を優先させる傾向が生じて来るのである。つまり情報の意味的価値を捨てざるをえない受容側の「い・た・し・か・た・な・い・理・由・」が、そこに存在するのではなかろうかと考えられるのである。
情報と我々が同居する日常生活の中で、先のような相対関係が存在すると、日常があまりにも味気ないものになってしまうというデメリットな部分が浮き彫りとなってくるのではなかろうかと想像できるのである。
情報とは元来、先の「選民思想」の正常なサイクルにおける生活環境に伴い、我々が自分自身の行動を選択する上での価値実現の手段として、またその実現の幅を知るために情報を求め、処理し、保存するという人間の本能的思考や学習機能を前提とした情報とのかかわりあいに、本来の情報としての本質的価値を見出だすことを目的としているのではなかろうか。
(3) 情報の無機化現象
情報化社会のデメリット部分が、社会現象としていかなる現象を生み出しているのか。
情報と我々との相対的関係が、先のような無機化現象において処理されることが日常化されることにより、日々の日常生活の面で本来の有機的関連付けや、人間の情、知、意なるものの意義付けに当然のことながら限界が生じ、それがさらに不可能な状態になるのである。つまり、「情報」の本来の役目であるところの社会の秩序維持とは反目して、秩序解体のプロセスとして存在しつつあるという問題が指摘され始めて来ているのである。
これらに関連される問題として、人と人とを結ぶネットワーク化について見てみると、当然メリット部分と平行していくつかの問題点も指摘されている。人と人を結ぶネットワーク機能は、多大な情報をあらゆる情報機器の発達により、そのものがより正確にかつリアルに伝達されるということ、また情報が特定の人だけに限定され発信、受信されるものではなく、未知の不特定多数の間において自由に交換されることが可能になったことにより、情報の幅はさらに拡大され、大変有効な情報環境を作り出しているのである。
しかしその反面、自分自身の意志にかかわりなく情報が提供され伝達されるという事態が発生するのである。つまり、見知らぬ人と人の間で、さらに人を介さずに自由にコンタクトをとることが可能な環境を容易に設定しうる時代の進歩は、確実にその便利さを増長し、日常生活をより快適にする要素となっていることは確実に評価できることである。
しかしながら、人と人との間においてその意志の外側でも十分に情報が流通するという、人間同志の間における無機的コミュニケーション状態を作り出したのである。この状態に対して、人間が社会生活を営むにあたり、本質的部分が欠如しているのではなかろうかという重要な疑問点が指摘されているのである。
例えば、日本以外の欧米諸国の情報産業形態に視点を向けて、情報に対しての相対関係を見てみると、常に自立的立場や行動が情報に対する基本的姿勢であり、ネットワーク化の中においても自己の意志や意見がはっきりと表明されることが各々の信頼度を計る基準となり、単に情報に依存したコミュニケーションにおいて情報価値を導きだす傾向は歓迎されないという特徴があるようである。
これに対して、欧米諸国の日本の「情報化社会」に対するイメージとして、
「情報化社会」の主人公はあくまでも人間であるという意識が不足しているのではないだろうか。
という指摘がされていることにも、注目する必要があるのではなかろうかと考えられるのである。
この指摘に対して、日本人の独特な意識構造に何らかの手掛かりが存在するのではなかろうかと考え、その分析を試みることにしたい。
(4) 日本人の意識構造への試問
これより、日本人の意識構造について、手掛かりとなるものを紹介し考察を進めて行きたいと思う。
京都大学の名誉教授である会田雄次博士は、『日本人の意識構造』という著書の中で大変興味のある研究、調査をし、そこで、次のような指摘をされている。それは、日本人の基本的意識構造の特徴として、背後主義的思考を上げ論じている。
そこには、日本人の姿勢について、「うつむき姿勢」であると仮設を立てるのである。会田博士はこの仮設を立てるにあたり、外国人の日本人に対するイメージを紹介している。
日本人というものは、不思議な人種である。私たちが、日本人の戦う姿勢というものを頭の中に思い浮かべた時、必ずそれはうつむきの姿勢をとって目に映る。
というのである。さらに、その紹介は次のように進む。
日本人が子供を守る時の姿勢はおもしろい。向こうから熊なり自動車なりが襲いかかって来たとする。
その時の日本人は、私たちの間では女性しかやらない。しかも、全部の女性がやるとは限らない姿勢を男も女も、年寄りも若い者も、全員がとる。
それは、子供を対面するように前に抱き寄せ、抱き締め、熊とか自動車の方にお尻を向け、うずくまる防御姿勢だ。これが、日本人の姿勢だ。
と指摘するのである。これにより、会田博士は日本人の意識の方向性について、内側への傾向が大変強い民族であることを指摘するのである。例えばこれを、現代人の情報との相対関係について当てはめて考えてみることにしよう。
日本人はある情報に対し、社会的かつ客観的思考性の中で取り扱うのは苦手な民族ではなかろうか。つまり、情報は固有化された主観的立場において処理され、情報化社会という既に完成された対象からの産物としての受容価値として評価されている。そこには非建設的な社会意識が浮き彫りとされるのではなかろうかと考えられるのである。こうなると情報は与えられるものであり、その情報の価値基準はあくまで「個人」であり、その背景にある社会との関係は継続されない状態が発生するのである。
このような仮設が成立すると、会田博士の「うつむき姿勢」の大変内向的な日本人の意識構造と、情報に対する非建設的な相対関係の傾向とを合致させると、大変特徴的な日本の情報化社会の姿、そしてその問題点、課題が浮き彫りとされて来るのではなかろうかと考えられるのである。
このような情報化社会の特徴の裏側には、「個」の意識の存在が大きく影響しているのではなかろうか。そこには、「個」を対象としたコミュニケーションが、優先された情報との相対関係が比重を占めてくることになる。そこには、本来情報が指向する社会的価値の在り方が、不透明な状態に陥るのではなかろうかと思えてならない。
情報が日本の経済発展と伴に、社会発展に大変貢献して来たことは疑いのない事実であろう。そして、社会を形成する我々人間の実際社会に対する体験的アプローチの機会と方法は、限りなく増大した。これら双方がバランスを保ち、お互いの価値基準が共存した形において発展することが、理想的な情報化社会の在り方なのではなかろうか。
また、人間的なコミュニケーションについても、情報による「体験」的コミュニケーションによるところが社会の秩序を維持し、かつ発展的、建設的な社会構造を目指すことが、理想的なる人間的な情報化社会の有り様である。そこに、「情報」の本来的価値が認められなくてはならないのである。
参考までに、会田博士の「平和運動」に対する考え方を紹介しておこうと思う。
平和を守るという場合、平和というものは日本人にとって現状であり、外部の変化と無関係に現状が維持できると考え、現状維持を平和を守ることと考える。ヨーロッパ人のように外部に向かい、内部を守るという形になると、外部の変化に応じ、主体的に外に働きかけることではじめて守れると考える。平和は在るものではなくして、たえざる建設を要するものであるという感覚にどうしてもなるのである。
またこのことを前提として、家庭問題についても、日本人は家庭を不可変的自然的な存在として考え、放っておけば平和になるはずであると考えるが、ヨーロッパ人は、逆に家庭とは毎日毎日の建設作業であるから主人は妻に対し、毎朝、「永久にお前を愛する」と言わねばならないというのである。
少々、過大表現のような気もするが、少なくとも、欧米諸国の民族性と我が国の民族性を対比させてみると、その相違性を認めざるをえない気がする。日本人は一種独特の「ことなかれ主義」、つまり、非常に保守的であり、そこに「個人」という大変大きな社会的価値を有するものへの依存性が強い民族ではなかろうかという、一つの重要な仮設が立てられるのではなかろうかと思えるのである。
このような、社会認識により、その情報により日常生活を向上させ、社会全体を志向する意識は消極的な状態を生み、社会への取り組みとしては、全体主義より個人主義が優先される社会構造が浮き彫りとされて来るのである。
現代の日本人の意識構造の底には、民主主義のイデオロギーの枠をもはや越えて、個人主体の情報摂取の現状を肯定し、唯物論的価値の中でその量的価値観を優先し、それらの本質的価値の追求に意味を持たせることがあまり重要ではなくなってしまったのではなかろうか。つまり、「個」に対する単一的意味が重要であり、「情報」と「情報」の双方における相対的意味の追求は、必要な状態が存在するようになると思えてならない。
三、知覚的情報体験と行動的情報体験
現代に生きる我々は、毎日の実生活のそれぞれの場面において、常に「情報」とのかかわりの中で影響を受ける部分のウエイトはかなりを占めるといっても言い過ぎではない状況のような気がする。
このような日常生活の中で、情報と我々との相対関係が先に示したような仮設のもとで構成され、営まれて行くようになるとしたら、非常に無視できない課題、問題点であろうと考えられる。
人間にとって、「生活」とは種々の「体験」の場面であろう。その体験は当然のことながら、情報化社会という枠内においてなされて行くことであろうと思われる。
さて、この体験システムがどのような状況でなされて行くことが、理想的な体験的社会構造となるのであろうか。
情報による体験には大まかに二通りの要素があろうかと思われる。一つには、「知る」という意識下における欲求的体験である。この知覚的体験により、豊かな思考性と感性とを養い、人間性の向上の重要な要素となるものである。
もう一つは、「行なう」という行動的体験である。この行動的要素は、実生活の中で大変表現的、実証的な価値を有するものであろうと思われる。
この「知る」「行なう」という体験の要素に、「情報」というものがどのように影響しているのかというと、情報によって知った内容を実際の行動によって表現し、実証して行くという相互依存型の生活環境であろう。このシステムが円滑に作動することで、真の人間的生活が営まれるわけである。また、社会を指向し自らを表現していくことも、この「知る」「行なう」の客観的体験により可能となるのではなかろうかと考えられる。
しかしながら、この「体験」が、情報を個人的価値を優先させた状況の中でなされるとしたら、当然、主観的体験に止まり、社会に対する積極的な体験が不可能な状態に陥ることになるであろう。
現代の「情報体験」の姿は、このように個人の価値基準を大きな背景として、情報に対し、「体験なき体験」の状態の中で「体験をしたつもり」の情報処理が日常化される中、情報が社会に対して期待するところの、
@「個人」→A「社会」→B「個人」
の循環機能が、@からAの移行が消極化し、AからBへの移行が一方通行の状態だけで完成してしまう社会構造の姿がそこに存在するのである。
これらが、現代の情報化社会の重要な問題点であろうと思われるのである。先に示したところの「情報」と「情報」との間におけるコミュニケーションの不必要性の理論は、人間の思考性における、情報体験環境の不循環状態に影響されるものであろうと考えられるのである。
四、おわりに 〜今後の課題〜
これまで、日本の情報化社会の一側面としての特徴を考察してきたわけであるが、問題の所在上、反情報化社会のような論説に感じられるかもしれない。
情報化社会というものに対して、全面的に批判しているわけではない。近代社会をここまで繁栄させてきたのは、確かに情報化社会にかなりの部分で依存してきたことは疑いのない事実であろうかと思うからである。
今回の試みは、単に情報をメリット的に取り扱うことを意識的に否定した考察の試論である。この問題の前提理論として、現代の情報化社会の現状は、幾多の利益を獲得したことと比例して幾つかの犠牲をはらってきたのではなかろうかという指摘のごとく、その問題部分を明確にするためのものである。それ故に、これまでの考察における論理は、あくまでも仮設の域を出ないものであることをここで明確にしておきたいと思うと共に、御理解を頂きたいと思う。
現実に、現代の宗教社会はこの情報化社会への対応を重要な課題として取り上げていることを見ると、情報と宗教とは密接なる関係において存在しているであろうことに注目すべきであり、その相互関係において幾つかの側面より考察、研究を試みる必要があろうかと考える。現在の社会構造の中では、「情報化社会」について肯定的観念が優先され、本来の情報の役割や人間の本能的意識に対する見直しが失われかけているような気がしてならないのである。
情報をあくまでも人間的に受けとめ、そこにおける結果として共同体としての社会認識の在り方を模索することが大切であろうと考えられるのである。
現代の宗教は、情報化社会の一側面として存在している。情報化宗教社会と呼んでもおかしくない現状であろう。最初に述べたごとく、これまでの考察は現代の宗教の在り方を探る前提問題として行なって来たわけである。今後は、宗教そのものに視点を移し、情報とのかかわりやその方向性に注目し、この問題の重要性と研究の必要性を明らかにしていきたいと思う。なかでも、現代の若者に浸透しつつある新宗教、新々宗教の現状を踏まえ、その根底に隠された若者の真の欲求を浮き彫りにしたいと思う。
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