日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第27号:97頁〜 |
妙宗本尊弁考−御本尊の意義を考える− |
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妙宗本尊弁考
−御本尊の意義を考える−
三 原 正 資(現代宗教研究所嘱託)
はじめに
優陀那和上の教学について茂田井教亨師は、「日輝の業績にのみ僅かに時代との接触とその反映がみられる」(『日蓮教学の根本問題』三〇一頁)と指摘している。明らかなことは、時代思潮としての近代合理思想と仏教思想との対立の中で、和上は教学を形成してきたことである。六道輪廻と霊魂の問題に苦慮し、あるいは自然現象に妙法を見出だす和上の姿を見ることができる。
その中で成立した「三千但仏身。仏身但是自己全体」(『一念三千論』三|九四頁)という、いわゆる己心(己身)本尊論−それは伝統的な宗教性が稀薄になったと批判された−は現在どのような意味を持つのか、を考えたい。それはわたしたちが毎日のように読む『運想』の意味、ひいては勤行の意義を考えることでもある。
さらに現代においては、和上の生きた近代と異なり、従来の近代合理主義に対する反省が澎湃として起こっている。例えばユングから起こった心理学などは、それまでの学問の常識と領域をはるかに越えた試みであろう。その中では、これまで顧みられなかった宗教的経験の領域に対しても実に意欲的・肯定的な探求が始まっている。人々は人間存在の深い意味を求めているのである。わたしたちもまた、自らの宗教的世界−己心本尊論−の再発見を試みるときではないか。このような視点から『妙宗本尊弁』を考察する。
本書の概要と問題の所在
『妙宗本尊弁』(『充合園全集』第三編所収)は「妙宗ニ二種ノ本尊有リ。一ハ謂ク釈迦仏、二ハ謂ク曼荼羅ナリ。二箇ノ本尊、同異弁ジガタキモノ有リ」(三二六頁)と述べて、まず本尊問題の根源を明らかにしている。次に本尊の人法問題について「然ニ曼荼羅ノ相タルヤ、中央ノ首題ヲ宗主トナシ、横ニ十界ヲ開列ス。良ニ法仏ヲ弁ジガタキニ似タリ」と述べて、大曼荼羅には中央の首題(法)と十界の諸尊(人)が並べて記載されていることが本尊混乱の原因であるとしている。そして『観心本尊抄』(以下『本尊抄』と略記)を引用して、「十界ノ本尊ハ即チ是レ寿量ノ教主無作三身ノ釈迦仏ナルモノ也」と述べて、法本尊のように見える大曼荼羅は実は釈迦仏の姿に他ならない、と断案を下すのである。このように本書は、宗祖の『本尊抄』によってまず結論を述べ、ついで論証へと進んでいく。和上は偽撰の疑いのある遺文を多用しているが、このように『本尊抄』はその教学の最大の拠り所であった。
次に法仏両本尊論の可否を十点にわたって論じるが、力を入れているのは第一の経証である。和上は曼荼羅が人本尊であることを論証するために、寿量品・法師品・神力品の文を挙げる。これを見ると、不思議にも近代の法華経成立論の引用と一致している。本尊論は古くて新しい問題である。むしろ法華経は「本尊とは何か」をテーマに成立したと見てよいのではないか。
<寿量品> 衆見我滅度広供養舎利……時我及衆僧倶出霊鷲山
<法師品> 若経巻所住之処皆応起七宝塔……不須復安舎利所以者何此中為有如来全身
<神力品> 若経巻所住之処……是中皆応起塔供養所以者何当知是処即是道場
和上はこれら「三処ノ経文、意異ナリ有リトイヘドモ、而シテ同ジク法身ヲモッテ本尊ト為ス也」(三二七頁)と会通している。しかし法身仏本尊は、どうしても法(真理)本尊論に見られやすい。そこで後に『妙宗本尊略弁』(三|三三七頁)では、本宗の人々が大曼荼羅の中央に題目があるのを見て法本尊とすることは誤りである、これは「直チニ久遠ノ仏体ヲ題目ヲ以テ顕シ」たものと見なければならない、「法ガ即仏也ト云義ニハ非ズ」と念を押している。更に以下九点は、宗祖の教学全般を顧みて仏本尊の正統性を論じたものである。このように論述の根拠を御遺文に確かめると共に、常にそこから法華経の本文を確認していくのが和上の論証方法である。
それから本尊の「尅体」(本質)を述べる段に入る。これが本書の大部分を占める所で、和上は五章に分けて本尊の名字・本体・相貌を説明している。
初めに本尊の「名字」とは、『三大秘法抄』を引用して「無作三身ノ教主釈尊」であると言う。応身仏の名号を本尊の名字に使用する理由について、第一に釈迦仏は「衆機咸見之境体」(三二九頁)、すなわちこの世界の人々が実際に説法を聞き帰依したのは釈迦仏以外にいないから、とまことに合理的明解に述べている。第二に、神力品の「十神力」の第六普見大会・第七空中唱声・第八咸皆帰命の文は大曼荼羅の姿であり、そこで人々が釈迦仏に帰依していることを指摘し、「十界ノ本尊ハ是レ所顕ノ仏体也。釈迦牟尼ハ是レ帰依ノ名字也」(三二九頁)と述べている。
二に本尊の「本体」とは「本覚無作三身」であると述べ、ここでその仏とその所住する浄土の姿を叙述し、さらに「十法界ハ皆ナ本仏一念ノ同体」(三三二頁)であり、これが大曼荼羅本尊の本体であると述べている。この甚だ難解な仏身論仏土論(世界観、あるいは他界観か)こそ、近代合理思想の中に生きるわたしたちからすっぽりと抜け落ちている部分である。わたしたちは科学的世界観を自明のものとして受け取り、それ以外のことを考えようともしない。それに対して前世紀から今世紀にかけて盛んになったユング心理学の流れ、スピリチュアリズム、ニューエイジ・サイエンス、そして現在盛んな臨死体験の研究や新新宗教の世界観は、これをカバーしようとしているかにみえる。日蓮聖人の世界観こそ、考えなければならない今後の課題であろう。
さらに「在世ノ当機ハ寿量ノ説相ニ依テ教主ノ実身ヲ見、及ビ自心ノ実相ヲ証ス。滅後ノ有縁ハ曼荼羅ノ図像ニ依テ本師ノ本形ヲ拝シ、及ビ己心ノ妙法ヲ知也」(三四〇頁)という一節は、短い文章ながら和上の本尊観をよく物語るものである。この「自心ノ実相」「己心ノ妙法」「十法界ハ皆ナ本仏一念ノ同体」という己心本尊論を、わたしたちは今日の視点から改めて照射したらどうだろうか。このような心のとらえかたは現代のユングの心理学、さらにニューサイエンスの世界観と共通しているのではないかと、わたしは興味をいだいている。宗祖のオリジナルな教学との関係を考慮しながら、思想の世界的な潮流の中で教学を再認識する姿勢が必要ではなかろうか。
三、四、五は「本尊ノ相貌」、すなわち各界の諸尊列衆などについて述べている。
和上は大曼荼羅という本尊形式はあらゆる点から見て勝れたものと考え、これを「奇ナルカナ巧方便」(三四三頁)と称えている。しかし当時の木像の勧請様式の実態、すなわち祖像や諸神の勧請については痛烈な批判を加えている。わたしたちの学ぶべきところであろう。この外、二仏並座について「釈尊ハ首題ノ左ニ在リ、即チ是レ塔中ノ右辺北座ニシテ西向也。前面ヨリ之ヲ拝スレバ則チ宝塔東ニ在也……多宝ハ右ニ在リ、即チ是レ塔中ノ左辺南座也」(三五一頁)と『報恩抄』(定遺一二一九頁)・『千日尼御返事』(定遺一七六一頁)の説示に従いつつも、釈迦・多宝を智・惠、境・定に配当して、「当ニ釈迦ハ南ニ在リ多宝ハ北ニ在ルベキ也」とコメントしている点に当時の学問の傾向がうかがえる。また四菩薩については、近年茂田井先生より「一塔両尊に対して四士以下が対面恭敬しておられるのではなく、すべて拝者の方を向いておられるのである」(『御本尊奉安の様式』 日蓮宗新聞昭和六二・三・一号)との説が出たが、和上は「二尊ニ対向スル」(三五一頁)ものとしている。
総じて、和上は「虚空会上本門八品ノ儀式」(三五二頁)である本尊の相貌を「二十相」で説明している。そしてこれを要約して、わたしたちは大曼荼羅本尊によって「題目ノ玄旨」「諸法実相一部ノ所詮」「因人ノ心体」「果仏ノ身相」「即身是仏ノ理」を知ることができる(三六七頁)と言い、あるいは「題目ヲ以テ念仏ヲ会シ、本尊ヲ以テ見性ヲ会シ、戒壇ヲ以テ小律ヲ会シ、三秘ヲ以テ三密ヲ会ス、四宗冥ニ会ス」(三七二頁)と述べている。
このようにわたしたちは『本尊弁』の叙述によって、大曼荼羅は「巧方便」−すばらしい表現手段・宗教装置−であると認識できる。しかし大曼荼羅が多くの意義を保持しているために(まさにそれが曼荼羅である所以であるが)、本宗では「教門一ナラズ……教ニ因テ、シバシバ惑フ」(『綱要正議』三|二四六頁)、と慨嘆される事態が生じてくることも事実である。すなわち一部を見て全体を見ないとき、種々の議論が続出して、わたしたちは本尊についての共通認識を持てない状態にいたるのである。和上が『本尊弁』冒頭において敢えて単刀直入に、「十界ノ本尊ハ……釈迦仏」と断定した理由はここにあるとも言えよう。しかし、まさに大曼荼羅がカオスを統一秩序づけたコスモスであるからこそ、わたしたちはそこから勝れた思想を取り出すことが出来るのである。
虚空会と大曼荼羅本尊
このように、大曼荼羅は種々の重要な教えを包含した見事な表現手段である。
さて宗祖は、「此の御本尊は……宝塔品より事おこりて、寿量品に説き顕し、神力品属累に事極て候」(定遺八六七頁)「宝塔品より属累品にいたるまでの十二品は殊に重が中の重きなり」(定遺一四〇四頁)と述べている。すなわち大曼荼羅は法華経虚空会の図像化であり、宗祖が把握し仰がれた「法華経」である。その「法華経」は理論や教説としてではなく、虚空会のドラマとして展開されたものである。もとより「題目」は教説を表わしているが、そのために宗祖は法華経の教えを「題目」として象徴的に把握し、あるいは大曼荼羅という図像で表現されたのであろう。法華経を「題目」として把らえたのは、よく言われるように単に法華経を易行化することが目的ではなく、そうする以外に表現できなかったことが第一の理由ではあるまいか(しかし結果的には、大曼荼羅を安置し題目を唱えれば、本質的には仏像はもとより法華経八巻を、礼拝対象として置き、あるいは読誦する必要がなくなり、易行化を促進させた)。
これについては『SF妙法蓮華経』(講談社刊文庫版『未来妙法蓮華経』)の著者石川英輔氏が法華経を書くという自分の経験から、「法華経にはほめ言葉はあるが中味がないという昔からの批判は的はずれである。妙法とか実相という言葉で説明できないものを、比喩やドラマ全体でわたしたちに語っているのです」(平成四年度現宗研主催教化学研究集会)と述べたことが、わたしには大きなヒントになった。
ゆえに、そこに繰り広げられるドラマ全体が教えそのものである。宗祖はそれを「題目」として把え大曼荼羅として表現し、題目が「法華経」であることを証明されたのである、とわたしは推測する。文にあらず、義にあらず、一部の意なりとは、まさにこの意味であろう。
大曼荼羅と法華経を比較してみよう。それはどのような関係にあるのだろうか。
<法師品>はドラマの序幕である。「若経巻所住之処……」という本書前掲の和上引用の部分は、宝塔品の釈尊の唱募を予想すると共に、神力品と相応している。冒頭の「一偈一句」「一念随喜」という衝撃的な考え方は「題目」を予想するものであり、これから展開される教え−わずかでも題目を信解することによって即身成仏する−が常識を越えたものであることを示している。
<宝塔品>では、多宝如来の七宝妙塔が涌出して四天王宮の高さに上昇し、空中に浮かぶ。次いで釈迦仏がその塔の中に入り大音声で妙法蓮華経の付属を唱募するという光景がドラマチックに展開する。大曼荼羅中央の七字の題目と四隅の四天王は、明らかにこの光景を反映している。
<涌出品>では、地涌の菩薩が「各、虚空ノ七宝妙塔ノ多宝如来・釈迦牟尼仏ノ所ニ詣ズ」るが、この二尊の順序は興味深い。ちなみに開迹顕本した後の神力品では、「及見釈迦牟尼仏 共多宝如来 在宝塔中」となっている。厳密な法華経の構成である。
<寿量品> 和上は久遠本仏を題目によって表す理由を、「久遠ノ仏ハ或説己身或説佗身ト説給テ、其形相モ定マラズ。名字不同年紀大小ト説給ヒテ其名號モ定マラズ」(『略弁』三七八頁)と述べている。いわゆる光明点の題目は、七宝妙塔の中の釈迦仏が寿量品を説いて、自身が十界にわたって活動してやむことのない本仏であることを示し、それが四天王の中央に位置することによって、梵天王に代わる娑婆世界の主であることを象徴している。また和上は宝塔品の分身来集、地涌菩薩の出現、この寿量品の六或示現は、法界が釈迦一仏の色心であることを表現したものと述べている(『一念三千論』三|一三三頁)。そうすると中央の題目は、その光明点によって、法界全体が久遠の釈迦仏であり、それに覆われたわたしたちもまた本来は一体のものであることを示していると見られる。ここから己心本尊論が生まれる。
<神力品> 和上は「普見大会」は大曼荼羅の姿である(三四一頁)と述べているが、同時にわたしは、釈迦仏が付属し、上行等の菩薩が受持し流布していくことを誓った四句の要法のイメージが中央の題目に色濃く反映していると思う。
このように見てくると、大曼荼羅、殊に中央の題目には虚空会というドラマの中の重要な出来事のイメージが全て投影されていると言えないであろうか。「一偈一句」「七宝妙塔」「釈迦仏の唱募の姿」「開迹顕本した釈迦仏の姿」「受持し弘めるべき四句要法」などである。それは仏であり、法であり、いろいろなイメージである。あるいは逆にそこからは、三秘の題目、本尊、戒壇のイメージが現れてくる。
大曼荼羅はまさに「巧方便」(三四二頁)である。そこには虚空会で展開する複雑なドラマと思想が凝縮している。大曼荼羅は宗祖の仰がれた「法華経」そのものである。結局大曼荼羅は種々の教えを内包していることから、どこまでも全体的に大曼荼羅の意義を信解することを、わたしたちは要求されているのではなかろうか。さらに大事なことは、わたしたちが虚空会という豊かな世界の中へ分け入って、危機にみちた現代社会に何を持ち帰ることができるかということである。今問われているのはその事である。
現代社会の理想としての大曼荼羅
解剖学者養老孟司の「現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している……われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく『自然の中に』住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。伝統や文化、社会制度、言語もまた、脳の産物である。したがって、われわれはハード面でもソフト面でも、もはや脳の中にほとんど閉じこめられたと言っていい」(『唯脳論』青土社刊)という言葉は、わたしにとっては行き詰まった現代の状況を象徴しているとしか思えない。このことは、「脳死が人の死となる」という状況となって、わたしたちを取り巻いている。
わたしたちの生きる二十世紀は、その初頭で「神」が死に、最後には「科学的進歩」という信念も動揺している。「唯心論」「唯物論」に代わる「唯脳論」という言葉の出現に、わたしたちはどのような希望を見出だせようか。このような状況の中では、わたしたちは安易に「心の時代」「宗教の時代」とはしゃぐ現象を反省しなければなるまい。そして例えば、宗教学者島田裕巳の『仏教は何をしてくれるのか』『信じやすい心』など相次ぐ一連の著作の中であばかれていく新旧教団の実態を厳粛に受け止めていく必要に迫られている。
このような事態は現代の危機的状況がより深刻なものであることを物語っている。全地球的規模での精神的・物質的危機が進行していくなかで、わたしたちはそれを変革していく理想を果たして持ち得るであろうか。そもそも理想などと言うものがあるのか。宝塔品における釈尊の唱募は、まさにそのようなわたしたちに向けられているかのようである。
大曼荼羅は、「題目ノ玄旨」「諸法実相一部ノ所詮」「因人ノ心体」「果仏ノ身相」「即身是仏ノ理」であると和上は指摘した。そこでは因果ということが言われている。「果」、すなわちわたしたちには到達すべき究極の理想があるということ、そして仏の教えによってわたしたちは即座にその理想に到達できるということを重要なメッセージとして受け止めたい。
そのメッセージは、人間はその根底に尊厳性を有し、その尊厳性へと到達する過程にある存在であり、たとえ現実に悪が満ちていようともこの世界は浄土である、ということをわたしたちに示している。そしてわたしたちは三業にお題目を受持して仏智を頂き、自身のものの見方を根底から変えなければならない、と告げている。だが、いかに本尊の教えることがすばらしいものであろうと、それだけでは「昔日マデ凡夫ト謂ヒシヲ今日ヨリ仏陀ト謂フノミニシテ増進ノ益ナシ」(四|三六四頁)と批判されるだけであろう。実際にわたしたち自身が変わることは簡単なことではなく、その上わたしたちは自分が変わるべく修行に勤めているとは言い難いのではなかろうか。意業正意の唱題を主張し、聞法・思惟・実践を重んじた和上の意図もここに在ったと思われる。
今日、多くの人々はその心の奥底で、わたしたち自身の心がその根底から変わらなければ、この世界の危機は根本的に何一つ変わらないと感じているのではなかろうか。このような動きは決して日本だけではなく、一九六〇年代にアメリカ・ヨーロッパで起こった禅ブームを発端とするニューエイジの精神運動と、その根底ではつながっていることを見落としてはならない。
このような時代にあって、わたしたちは大曼荼羅として表された法華経の教え、その具体的活動としての「立正安国論」の精神−「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ。然レバ則チ三界ハ皆仏国ナリ」−を社会に提唱していかなければならない。だがその場合、わたしたちはつぎのような歴史的反省を忘れてはならない。それは宗祖が幕府諌暁という方法を取られたため、それ以後の宗門においては政治的社会的行動が重視され、政治的運動に終始して精神運動にならなかった嫌いがありはしないか。和上の「立正安国論ハ当時既ニ其ノ用ヲ不為。况ヤ今世ニ至テ全ク其ノ立論ノ無実ヲ見ル」(『庚戌雑答』四|三七二頁)という発言は、はからずもそのことを物語ったのではなかろうか。このように「立正安国論」の宗教的論理構造は、これまで正当に注意が払われたとは思えない。わたしたちは広い学問的基盤と宗教的実践に立って、自らの「心」の在り方と「世界」との関わり方の探求に努力すべきだと思う。大曼荼羅本尊はまさにそのような世界を示したものである、と『妙宗本尊弁』は語っている。
※本稿は平成四年十一月十六日、立正大学において開催された第四十五回日蓮宗教学研究発表大会において発表したものである。
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