研究ノート
小川泰堂の教化学
石 川 教 張(現代宗教研究所所長)
一
幕末、明治維新期の知識人であり、日蓮大士の信奉者であった小川泰堂につきましては、この大会で度々拙論を発表して参りましたが、今回は「小川泰堂の教化学」と題して、泰堂の信仰・教化に関する全体像のアウトラインについて発表させていただきます。
また、このたび、泰堂の多くの著作のうち、信仰・教義面の著述を集めた『小川泰堂全集 論義篇』(平成三年十二月 展転社)が刊行されました。この編纂に携わった一人として、泰堂のおもな信仰実践の足跡を全般的に紹介したいと考え、このテーマを設定致しました。
ここで言う「教化きょうけ学」は、教化に関する時代的・社会的な実践の体系付けと定義しておきたいと思います。教学が教義の信仰体系であるとすれば、教化学は五義判の歴史的活現とも言うべきものです@。言い換えれば、修行論、寺院論、僧侶論、教団論、時勢認識論などについての教化の体系的な研究と規定しておきたいと思います。
二
ところで、泰堂の信仰論議に関する著作の全般的性格は、学術論文や精密な教義の解明ではなく、如何に仏法の現実を改革し、法華経と日蓮聖人の信仰を普及するか、それを通して国家と人々を如何に法華経と日蓮聖人の教えに帰入せしめるか、という教化の実現を主題にしております。
先づ第一に、信行論・修行論についての大きな特徴は、自行折伏の修行を提唱した所にあります。泰堂の言う自行折伏の修行とは、他宗権門に汚されず、これを排除して法華経を純一無雑に信じて成仏を心がけること。摂受をまじえず、慈悲の折伏を本意として法華経を受持すること。題目を一心に口唱し、読誦・仏事作善を怠りなく勤めること。祖書を読み、仏の道を聴聞し、自ら仏道修行に努めること。柔和質素にして人を愍み、人を導き、慢心せず、信心堅固に、家内和合・現当二世の安楽を願い、仏道増進を期す、といった内容を指しています。
これは、末法の法華修行は、折伏立行にあるとの根本姿勢に基づき、日蓮大士在世の時は化他の折伏、現今は仏法守成の時勢に鑑みて自行の折伏修行に勤める事を「宗門第一の指南なり」Aと述べ、教団存立の基本である信行論の指針としての「自行折伏の修行論」を提唱したのであります。
この自行折伏論に関しては、既に詳述した事がありますが、泰堂の修行論についての基本姿勢は、「応時の修行は摂折の中には折伏、自行化他の折伏の中には自行の折伏を以て立行とし、今は大法守護の時節なりといふ事を造次転

にも失念せず、唱題誦経作善仏事におこたりなく、余力あらば書を読よみ、道を聴て世を教へ人をも導き、一向仏道を増進するの工夫専一なるべし」Bという一文に端的に示されています。
第二に注目すべき点は、泰堂が化他の折伏から自行の折伏へと転回してゆく修行論の展開です。
泰堂は、信仰活動を開始した当初の天保十年(一八三九)、二十六歳にて「曲林一斧」を執筆し、浄土宗観阿の著『本朝四筒度宗論記』を破折しました。その趣意は、「法山の曲木を斫るに斧斤に非ざれば其功奏せず、広布の要路を発くは折伏に非ざれば其れ益せず、聊か不敏の毫を抽で念仏の惑染を一掃するのみ」Cと披瀝しています。
この観点から、泰堂は『宗論記』に対して、同書は法門を一切述べていないこと、上かみの権威を借り、或いは悪口を認したためるだけで経文や歴史的事実に基づいていないこと等をあげ、これは「日蓮法華宗誹謗の書」であると断言しました。また、観阿らや同書をよりどころとする浄土宗の者、さらに法然を論難し、「身は権門下劣の行人なるを忘れて、諸経中王たる法華経の行者をそしり衆生をたぶらかす」ものと述べ、浄土宗批判を展開しました。この「曲林一斧」は、不受不施派が禁圧された天保法難の翌年、また渡辺崋山、高野長英ら蘭学者が弾圧された蛮社の獄の直後に執筆されているのです。泰堂は厳しい幕府の思想統制と対峙しながらも、体をなおす「小医」から、大良医である釈尊の示した「是好良薬の妙法蓮華経を人に施す」という決意に立って、「医の作業」として念仏批判をくりひろげたのであります。
泰堂は、こうした幕末期の思想統制と禁圧の渦中をくぐり抜け、仏法改革の時節の到来を期して、法華折伏のうち、化他の折伏から自行折伏の修行に比重を置いて信仰修行への専念と法華折伏の時代的展開を試みたものと考えられます。
第三は、寺院論・僧侶論に関連して、僧侶や在家者の実態を批判し、僧弊の一新による仏法改革を示した点であります。これは、大本山の住職になる事を自己目的にしたり、錦の衣を着て参内登場する事を名誉と考えたり、一生の安楽栄耀栄華を第一義とする名聞利養の振舞、唱題読経を渡世の手段とする信心なき僧侶の言動、法要・開帳等における法施なき財施を貪る僧侶の弊風、摂受中心の風潮と徒らに暴言狼籍を折伏と誤解する僧俗の行為等の僧弊を厳しく指摘している点にも見られます。
ここから、泰堂は「大法を骨髄に会得し、謗法三毒の濁穢けがれを受ず、身を修め職に励み、自行折伏の修行弛ゆるまざる者あらば、恩を知り国に報ずるの仏者にして、法華正脈の人たるべし」Dと主張しました。富貴貪欲の弊風を一洗してゆく為には、自己を清浄化させ信心を堅固に仏道増進する自行折伏の修行に策励し、謗法の毒に染まる事なく、信仰を生活の場に活かし信仏報国をめざす「法華正脈の人」を期待したのであります。
他方、泰堂が明治八年に炎上した身延山久遠寺の復興に関して、管長新居日薩に再建案を建言したのはよく知られています。Eこれも、正法衰倒の時に仏法復興、法華経広布を図ろうとした抱負より出たものであります。
第四は、日本及び世界の情勢認識に基づく信仏報国・法華信仰の流布を建言した教化実践の足跡であります。
泰堂の生きた天保安政期は、自然災害、飢饉疫病の流行、物価高騰や外圧が続きました。これを日蓮聖人当時の国難に比すべきものとして把え、その内憂外患の時勢を「天地一変闘諍の時」と受けとめ、賢君による仁政と聖僧の出現による法華経の護持と流布を通して、王法と仏法が共に改革され、仏を信じて国恩に報いるという信仏報国の仏者の道をさし示したのであります。
また、他方では、万延元年(一八六〇)「痛痒雑記」を書きまして、清国がアヘンやヤソ教を通じて、ポルトガル、イギリスによって植民地化されてゆく顛末を記述しています。
「英夷数艘の船を往来して、彼の毒煙を夥しく持渡り、これに依て清国にて度々英夷を制し、其煙を持来きたるまじきよし停止すれども一向に聞入れず」Fといった描写は、毒煙すなわちアヘンの売り込みを通して、イギリスが清国に侵入し、やがて清国を支配してゆく植民地化の状況を伝えたものです。泰堂が幕末期に、こうした情報を入手し分析していた点をも示しています。
更に、文久二年(一八六二)に書いた「竹窓徴言」Gでは、世界に流布しているイスラム教、ギリシア教、ラマ教、ユダヤ教、ヤソ教など十の宗教、九十流派を六大洲・各国別の流布状況一覧として書きあげています。
こうした視点は、泰堂が国内と海外の情勢を把えながら、転変する時勢に対応した仏法の改革を求めていた姿勢を物語っております。
その信仏報国・仏法改革の建言は、明治維新を迎えて精力的に実行に移されました。
明治三年(一八七〇)に著わした「建言用極」Hでは、ヤソ教を排斥し、仏教諸宗を廃絶して法華一宗を旨とすべき点を述べております。明治四年の「正法一轍いってつ弁」Iでは、神儒仏三道の並立を批判し、合せて仏教と僧侶の堕落をいましめ、妙法に帰入すると共に日蓮遺文を世界に流布するよう主張しました。
また、明治五年に政府が神仏合同による国民教化を意図して「三条教則」を布告したのに対し、泰堂は同年ただちに「治狂篇」を著わして法華本門の戒壇の建立を提言しました。
「彼彼諸宗廃絶せしめ、唯有一乗法の一宗門に帰し、本門の戒壇を建立して、これを大教院となし、本門の釈尊を本尊と立て」11、この大道場にて等しく本門の大戒を受けて題目を唱讃すべきであると、泰堂は再三にわたって建言しています。このように泰堂は、仏教各宗の邪正をただし、法華一宗に帰依して本門の戒壇を建立して、これを大教院とすること、本門の釈尊を本尊に立て本門の大戒を受けて題目を唱え、法華経の正義をわきまえることが敬神愛国であると述べ、これらの趣旨を神奈川県権令大江卓に建言したのであります。
第五に、こうした泰堂の信仰実践や法華一宗に帰依せしめる教化の実行にとって、たえず、その根底にあったものは、自らが献身的に校訂編纂した『高祖遺文録』であり、そこに明らかにされている日蓮聖人の信仰と教説でありました。『高祖遺文録』については前に触れましたので、今は省略します12。泰堂は明治七年「教法万洲報布ばんしゅうほうふ」13を書き、南無妙法蓮華経は日蓮大菩薩が日本国に流布した釈尊の悟りの心であること、世界の諸宗教は法華経の題目の枝葉末節であること、世界の人々が題目を信じて現世の招福と来世の成仏を証明すべきこと等を述べています。
「此書ハ万法ノ大本、国家ノ柱石ナレバ、教法遂ニ万国ニ広布スルノ時節アリ。依テ我レ、此三十巻ノ樞要ヲ取テ一冊子トナシ、此ヲ洋文字ニ訳シテ、早ク海外ニ流布セシメント欲スルノ志アレドモ、老テ且疾アリ、年命今ハタノミ難シト覚ユ」14
これが泰堂の遺誡でした。畢生の『高祖遺文録』。同書を一冊に集約し、「洋文字」に翻訳して海外に流布せしめたいという志が鮮やかに示されています。
『高祖遺文録』は「万法ノ大本、国家ノ柱石」であり、ここに説示された日蓮大士の信仰教説に基づいて、幕末維新期に、法華折伏修行論、自行折伏実践論、僧弊一新論、信仏報国・仏法改革論及び法華経と日蓮大士の宗旨の建立と世界広布を打ち出した抱負と教化論のうちに、泰堂の深い志があったのであります。
泰堂の著作、建言書類は、いずれも信仰と時代に密着した歴史的、社会的な教化論の体系的な大要、樞要を提示したもの、と言う事ができるのであります。
この意味で、小川泰堂は日蓮大士の信奉者であると共に、世界をも視野に入れ、信仰教説を時代化、社会化、実践化した教化の大要を提言した先駆者として評価すべき存在ではないかと思うのであります。
註
@教化学の意味づけについては、「現代宗教研究」(日蓮宗現代宗教研究所)第17号の拙論「教化学研究の意義について」を参照されたい。
A『小川泰堂全集 論義篇』(以下『全集』とす)六〇頁「摂折弁惑論」
B『全集』七一頁「摂折弁惑論」 拙稿「小川泰堂の摂受・折伏論」(「大崎学報」第一四八号)同「小川泰堂の自行折伏の建言」(「大崎学報」第一四五号)
C『全集』九頁「曲林一斧」
D同右一三九頁「信仏報国論」
E同右四七七|九頁「身延山久遠寺災後堂宇興復策建言」
F同右九九|一〇〇頁「痛痒雑記」
G同右一一三|二七頁
H同右三八三|七頁
I同右三九一|四〇一頁
11同右四〇六|七頁
12拙稿「小川泰堂と智英日明について」(「大崎学報」第一三九号)
13同右四三七頁
14同右四四九頁「泰堂遺誡」
※本稿は、平成四年十一月十六日、第四十五回日蓮宗教学研究発表大会にて発表した原稿に加筆補註を付したものである。