日蓮宗 現代宗教研究所
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わたしたちに必要なものは何か

西 嶋 宏 明(日蓮宗広島県布教師会長)

 「日蓮宗は変われるか」というのが今日のテーマでございます。まず初めに、私は基本的に変わる必要はない。今日までの先師先哲の教化・伝道をこれからいかに生かすかということが大切であって、変わるというよりはもとに戻す役目が我々にあるのではなかろうか。そういうところから話をさせていただきたいと思います。

     一、宗祖の教導
 十年ぐらい前に、広島県のあるお寺さんにお葬式のお手伝いに参りました。葬儀が済みましてお布施をいただきました。布施をカバンに入れようといたしましたら、招いてくださったご導師が−実はその上人がここに来ておいでになりますが、布施を奉って「願わくばこの功徳をもって……」とおっしゃった。私は生まれて初めて布施の受け取り方を体験しました。
 今日、我々教師というのは意外と師から弟子への伝達が少なくなってきた。私も子供にはなかなか伝達することが難しい。そういった中で、私が思いますことは、暗中模索の教師が多いのではないか。本日は、私自身の体験談を含めた懺悔と反省の話として聞いていただければありがたいと思っています。
 税務署との関係が生じてまいりまして、一月と七月の初めに源泉徴収簿と給料を書いて税務署に持っていきまして、納付書・領収証をもらいます。ちなみに私は給料が三十五万円、息子が十五万円、私の家内が七万円、合計五十七万円を法人からいただいています。これを労働の報酬と解釈するのか。労働の報酬であれば、五十七万円というのは世の中では課長級の報酬です。うわさによれば、課長さんは大変ハードで、朝から晩まで働いています。果たして我々教師がそれだけの報酬を賜るほどの教化をしているかということを、私は反省をしておる次第でございます。
 先般『日蓮宗新聞』に、立正大学次期学長渡辺宝陽先生が、「大学教育の役割」としてお書きになっておられます。
 「世界の秩序、特に経済においてはその価値は相対的なもの、すなわち他との関係において存在するものであり、絶対的なものではない。今日の世界は自然環境をも含めた新しい秩序、つまりエコロジー、環境保全に基づくべきである。」
 エコロジーということを通じて、心の大切さということを教育の中心に置かれたご高説だと拝するわけであります。
 「さらに心の時代には効率のよさを求めるのではなく、宗教性に基づいた教育が必要である。」
 と述べられております。
 今日の世の中の人々の考え方を宗教的に見た場合に、いささか人間が思い上がった状態があるのではないか。もちろん我々教師も知らない間に経済優先というものに毒されているのではないか。まことに極端なことを申しますが、「布施なき経は読まない」という感じになってきているのではないか。私の反省でございます。
 皆様既にご存じのことでございますが、宗祖は、四十歳で伊豆伊東のご法難、四十三歳で小松原のご法難、そしてやっと四十四歳(文永二年)から再び鎌倉にお帰りになられ、天台大師講をお始めになった。このときから文永八年九月十二日の御召し取りまでの七年間が大聖人の大変充実した教導ではなかったろうか。大師講をもとにしまして、もちろん信仰増進の信行の場、教理学習の場、組織強化のための門弟の結束を図られた。『光日房御書』の中に、「しらぬ人々あまたありしかば……」とありますが、未信徒も大変多くお集まりになられた。
 また、文永十年九月十九日に『辨殿尼御前御書』で、日昭上人へ、「辨殿に申。大師講ををこなうべし」と。実に壊滅状態の中にある教団に門弟を挙げての必死のご教導、講の再開ということをご指示されておる。
 特に檀越の教化におきましては、危機に当たって最大の力を出しておられます。四条金吾の主従間の問題、あなたが地獄に落ちるなら、自分も地獄に落ちようと、そこまで申された。
 また、池上家の親子の葛藤におきましては、家庭内のトラブルにも深く入って、全力を挙げてご教導なさっておられる。まさに僧俗一体と申しますか、ともに手を取り合って苦しみ、ともに泣いてこられた。
 今日、我々は果たしてそこまで檀信徒に接近した教化をしているでしようか。

     二、現在の寺檀関係
    1 先祖供養(墓地契約)
    2 信仰の自覚と受容
    3 現世利益中心
    4 仏教の人生観的見方
 さて、そういう歴史のある教団において、現在、寺檀の関係、殊に檀家から見た寺とのかかわりがどうであろうか。
 まず「先祖の供養」。墓地を契約いたしまして、それを中心として、信仰にかかわりなく檀家という意識を持った方。
 次が「信仰の自覚と受容」。お題目を何とか認めて、身延山の団参をやってみて、一応、先祖のために信仰してみようか、いわゆる檀家意識が少し出てきた状態。こういう方々は年中行事に参加をしてくださいます。
 次に、「現世利益中心」。自己の安全を中心にするだけの目的を持って、信者意識というものから入ってこられる。この欠点は火のごとく入信をしますが、また簡単に冷める方が多い。
 もう一つは「仏教の人生観的見方」です。人生観的に見ていただくことはありがたいんですが、檀家意識がいま一つない。ということは、年中行事には参加しません。精神的な宗教の本は、下手をすると私以上に読んでおられる。ところが儀式的な行事には全く関心がない。戒名は要らない、葬式もする必要もない、死んだら燃やしてくれということを家族に言ったりする。この人たちは、僧侶より自分が偉いんだという意識が根底にある。そこには帰依の念が全くない。
 私のほうの檀家は現在百六十軒ございますが、寺から働きかけをいたしませんと、次第に希薄なつながりとなって檀家意識も失われ、檀家意識を持った檀徒でもあえて一般大衆的な様相を呈して、ただ世間あるいは親族に対する儀礼的な交流のみとなってしまう。現在、寺檀関係は大なり小なりそういう状態で、現実は、家庭内の信仰まで取り組むのにはほど遠いものがあるように感じる次第です。
 先般、父親の七回忌の法事をお寺でするというので、檀家の息子さんが三歳の子供を連れて、奥さんとともに久しぶりに東京から帰ってこられた。亡くなったお父さんもお母さんも「この子は立派な息子で、大学も出て東京で一生懸命にやっております」と言っておられました。
 私の寺は、本堂に大聖人のご法難の註画讃が上がっておりますが、その息子さんがお子さんを抱いて、「ほら、見てごらん親鸞聖人だよ」と(笑)。愕然といたしました。自分のお父さんの法事に帰って、その息子が我が子に「親鸞聖人だよ」と教える、これが現実であり、私の反省でもあるわけです。
 檀家意識がここでとまればいいんですが、私の思い過ごしかもしれませんが、昨今、臓器移植、脳死という問題が上がっておりますが、臓器がどんどんと変わってしまって、他人さまのものが入っていったら、先祖というものの意識があるのだろうか。脳死によって葬式という理念が変わってきてしまうのではなかろうか。我々の寺院では供養で運営が成立しております。その供養がなくなってしまうような世の中になった場合、たちどころに我々の宗門は崩壊につながっていくのではないか。もっとひどくなると、僧侶無用論が出てきてしまうのではないか。

     三、寺からの働きかけ
    1 教師自身による接触
    2 信者による未信者への接触
 さて、それでは、寺からの働きかけ、教化活動はどうであろうか。
 僧侶自身による教化、これは個人的接触となりましょう。月例の行事、信行会もそうでしょう。月行、法事、葬式、通夜、年中行事、団参、文書活動、ことごとく教師が一方的に出す教化です。
 いま一つは、信者が信者を勧誘する大衆的な接触です。これは現世利益的な内容が多うございます。
 この二つのうち、今、私がいたしておることは、教師自身の個人プレーが大半でございます。
 信者が信者を勧誘するという現実を見た場合、内輪ですから、まことにドロドロした話になりますが、信者を獲得することによって、その地域の組寺院関係が薄れてくる。そういう問題が起こると、自然と教化活動が自分のお寺だけの枠に返ってしまう。よそのお寺に迷惑がかかる。よそのお寺の檀家が来てしまう。お互いがそういうことを考えると、内の中だけでやっていこうと、消極的になってくる。逆にそうでない寺院もあります。

     四、教化の弊害
    1 教師は社会性がない
    2 教師は妥協性がない
    3 教師は、今、孤立しかけている
 教師は意外と世間が狭い。私なんかも意外と世間がわかってない。社会性がない。もっと深く言うと、檀家の本音を全然知らない。檀家を持っておりながら、我々は本音を全然知っていない。
 次に、教師は意外と自分勝手である。私もそうですが、妥協性がない。これは信念という点においてそれでいいかもしれませんが、特に教師間における妥協性が案外ない。私はこれを教師の独立閉鎖性症候群と呼んでおります。その上に拍車をかけるのが、教師がいつの間にか社会から隔絶されて孤立状態になってしまう。
 本日のテーマは「わたしたちに必要なものは何か」です。伝道宗門の第一線の教師として、今、その役割は何か、何をなすべきかという以前に、我々に問題があるのではなかろうか。
     五、弘経の三軌と持経者に対する供養の自覚
 教化活動の根本理念といたしましては、法師であり持経者である我々は、仏にかわって弘経の三軌を常としてその役を果たし、繰り返し説かれておりますところの持経者への供養を我々は自覚をして、決して軽々しく考えてはいけないのではなかろうか。いつの間にか経済優先的な布教になっておるのではなかろうか。
 あえて皆様に申し上げることはご無礼ではございますが、一般の人よりは一歩やはり秀でておるものを社会の人は坊さんに求めております。それを認めるから上座に座らせてくれるのです。心を開いてくれる最後の頼りは坊さんです。そう檀信徒、世の中の人は思ってくれているんです。だから、電車に乗れば席を譲ってくれるのです。法衣を着ておれば知らない人でも頭を下げてくれるのです。
 そして、常にだれとでも和していかなければならない我々が、閉鎖性を持った見方で生きていれば、その中で本当の教化ができるかどうか。妙法蓮華経法師品第十に「この経巻において敬い視ること仏のごとくして」「是の諸人等は巳に曾て十萬億の仏を供養し、諸仏の所において大願を成就して衆生を愍むがゆえに此の人間に生ぜる也」と。
 今、私たちはこの世に選ばれて教師となって法を説いているという自覚、そこに初めて望まれた姿に対して答える力が出てきます。
 「応に如来の供養をもって之に供養すべし」
 これは大変な言葉だと思います。宗祖大聖人もこのところで思いをとどまられたことが再三おありになったと伺っております。私どもはここにおのれを欺むいてはいけない。如来の所遣として持経者として堅固な信仰を持って教化に当たる覚悟が必要ではなかろうか。
 「当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり、何に況んや、大衆の中において広く人のために説かんをや」
 如来の一切衆生を救い守る仏の役目、法華経を広めるいわゆる持経者である私どもの仕事は、すべての人から期待をかけられている。
 「大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座と為し、此に處して為に法を説け」
 この心が我々にますます必要になってくるのではなかろうかと拝察するわけでございます。
 信行会の活性化、寺檀関係の見直し、寺からの働きかけ、教師自身の限界を補っていくのが信行会です。私は四年間、宗務所長をやりまして、いろいろと行事を管内でいたしました。行事をするたびに、教化とともに我々教師も勉強をし、研鑽を積んでそれに当たるところに、檀信徒は感銘を覚えて入信をしてくれるわけであります。
 本日は井本全国布教師会連合会長もおいでになっておられますが、昨年十二月九日にお題目講習会でご講演を賜りました。布教師会としてその内容につきまして、ちょっと入らせていただきます。
 「家族ぐるみの信行活動」ということで、「教師の持つべき信仰の根本姿勢について、教師の懺悔滅罪と自覚に基づいた努力、総弘通運動に社会性を持たして福祉活動を展開し、地域社会と密着し、不断の努力をもって教化活動に専念すること」とのご教示がございました。「社会教化と同時に家族ぐるみの教化をしなければ、寺での本当の教化は生きてこない」。そこで、連合会長は、「小便の色が変わるほどの教化をしておるか」と叱咤激励を賜ったわけです。恥ずかしながら、私は小便の色が変わるのは、盂蘭盆の棚経ぐらいなもので、まことに恥ずかしい限りで、連合会長のお言葉が胸につかえるほどであります。大慈悲心とはやはり苦楽をともに生き得る教師で、そういうものが私どもには必要ではなかろうかと思います。
 「受けがたき人身を得て、適ま出家せる者、佛法を学し謗法の者を責めずして、徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を著たる畜生也。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一もなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人也。恥ずべし、恐るべし。」(松野殿御返事 定遺一二七二頁)
 これは私が宗祖からいただいた言葉として肝に銘じるお言葉でございます。
 恥ずかしながら、私は一時に多くの人を導くという力はございません。しかしながら、せめて苦しんでいる人、一人ひとりを確実にお題目に導き、教化してまいりたい、これが私の念願でございます。

 たくさんの先輩がおいでになる前で、ご無礼なことを数々申し上げましたが、私たちに必要なものは何か。短いメッセージでございましたが、その中からお汲み取りをいただければありがたいことでございます。
 教化というものはその人その人の人格によって全部違います。各人の人生における体験によって教化の方法は変わってまいります。どうかお題目総弘通運動推進に向かって、益々ご精進を賜り、つたない私を導いていただきますようお願い申し上げ、私の体験と懺悔をもって発表にかえさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
 ※本稿は、平成四年二月二十五日、福山市良縁閣にて行われた第十八回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。

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