日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 所報第27号:49頁〜 |
新宗教への関心は常に持っていなければならない |
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第十八回教化学研究集会
新宗教への関心は常に持っていなければならない
赤 堀 正 明(現代宗教研究所主任)
はじめに
私は今、頭に白いターバンのごときものを巻いております。これは決してどこかでヤクザの出入りがあったとか、シーク教やイスラム教に改宗したわけではございませんで、昨日、出かけにドアのノブにぶつかりまして、不名誉の負傷をしたわけであります。
そのとき、感じたことが三つありました。
一つは、頭をぶつけて血が出るだけの、よからぬことをしているなという反省です。頭をぶつというのは、慢心を諌められているんだなということです。
実は、その前日の土曜日にあるお宅から、
「うちのマンションのドアのところに幽霊が数体浮かんでは消える。私以外の家族も皆見えるんですが、どうしたらいいでしょう」
という電話があって
「ともかく参りましょう」
ということで伺い、法要をいたしました。
法要が終わって、依然として幽霊が出たら法華経に傷がつくと思って、自分でもどれだけお題目を上げたかわからんぐらい一生懸命に御供養いたしました。終わって
「さぁ、ドアのところを見てください」
と言いましたら
「見えません。どうして見えないんでしょう」
と言うんです。私は
「よく見ないでください。よく見ると、それを頼りにまた見えますから、どうかその辺で見るのはやめて、あと様子を見てください」
ということで帰ってまいりましたが、「やったぞ」という慢りがありました。それと、日ごろ家内にあまりやさしくしておりませんので、家内の内心の憤りが頭にきて、それで私の額にドアがぶつかったということの二つです。
もう一つは、自宅で書道教室をやっておりまして、子供たちが遊びに来ていますので、ぶつかった瞬間、「自分でよかった。よその子であったら大変なことだったな」という思いでした。
後で考えて、「我ながら、よくそう思えたな」と思ったのですが、これも慢心かもしれませんが、とにかく頭をぶつけたときに、この三つを感じました。
そういう感じ方をするというのは、実は立正佼成会の“生活の中に信仰を見出す”という物の考え方から学ばせていただいたところが多分にあります。私は、その立正佼成会の梅津先生の「立正佼成会から日蓮宗を見る」というお話の前座で、「新宗教への関心は常に持っていなければならない」というお話をさせていただきます。
一、平成に入ってから宗教が社会と接点を持つ出来事
1 「臨死体験」への関心
立花隆さんが「臨死体験 人は死ぬとき何を見るか」というNHKのスペシャル番組をつくられ、一千二百万人の日本人が見たと言われています。これはそれまで単に宗教だけに限られていた死の問題を、社会問題としてクローズアップさせた大きな出来事です。
このNHKの番組は、私は日本の宗教史における一つのエポックとなるような気がしております。それは、一つにはタブーとされていた死の問題にメスを入れて、宗教以外の立場から取り組む姿勢が見られたことです。これが民放ですと、霊現象だとかといって夜中の十二時過ぎによく放映されていますように、興味的な取り扱いをされますが、NHKがそういう形でなくて取り上げたのは大きな評価がされるのではないかと思っております。
日蓮宗の信仰をする者にとって「臨死」は重要な課題であります。それは日蓮聖人が出家以来、宗教を考える上で、殊に宗教信仰の現象を比較し宗教の優劣を論じる上で、臨終正念の形相を重要視されている点であります。
ご存じのとおり日蓮聖人の出家の動機は三点ありますが、その中の一つに、念仏者の臨終の悪相ということを挙げられています。日蓮聖人は、その人が心の中で正しい信仰をしていたならば正しい臨終相になるという色心不二の原理のもとに、臨終相を重要視されました。この点において、我々は臨死体験に大きな関心を持たなければならないと思っております。
また、臨死体験が人生に与える影響が注目されてきております。臨死体験者の多くは、まばゆいばかりの光の存在をイメージして、分別することよりも調和すること、憎しみ合うことよりも愛し合うこと、無知でいることよりも知ることの大切さを痛感する。そして、この世に戻ってきてから、愛、調和、真善美の学習の実践に取り組むようになる。これこそが自分の生きている意味であり、精神的な豊かさの意味ではないだろうかと考えていく傾向が非常に強いことが指摘されております。
その意味で、臨死体験が生きて死にゆく人間に大きな意味を投げかけていることを、私たちは考えていかなければいけないと思います。
2 「幸福の科学」事件
大川隆法さんが五万人集会を東京ドームで開きました。それがテレビで放映され、幸福の科学を知らない方も、「今までの宗教とは一風変わった教団だ」と思われたと思います。
新聞の折り込みで私の家に入っていたビラに、「七月十五日のドーム体験談」として、次のような信徒の方の声が載っておりました。
写真に光の柱が
その日、何げなくドームの天井のあたりの写真を撮ると、何と光の柱が大きく写っているんです。これは本当の話です。
もう一つは、こうです。
私は天使を見た
私は今まで正直言って霊とか神とか、あまり信じていなかったのですが、あの日の光景は忘れることができません。
本当にドームの天井が開いて、数多くの天使たちが舞いおりてくるのを見たのです。
こういうコメントが刷り込まれて、次回の集会の案内のビラが入っていました。
幸福の科学の特色はいろいろあります。幾つか拾ってみますと、第一に、科学と宗教の一体化を標榜している。「幸福」と「科学」というのは異なった概念で、「科学」と「幸福」とは決してイコールにはならないんです。しかしながら、一致するかに見せている。あるいは一致するという指標を打ち出しているのが、新しい宗教の一つの方向です。
これは、ニューサイエンスの心と物質、科学と宗教が矛盾しない、相補っていくという考え方の影響も受けています。
「幸福」というのは創価学会でも使いました。大曼荼羅を「幸福製造機」と呼んでおりました。この「幸福」という言葉に日本人は弱いのです。「幸福」というのはだれも反対できない言葉です。それを、しかも科学的に得ることができると打ち出していったのが一つの特質です。
第二に、読んで理解できる宗教を志向している。読んで理解できる宗教というのは、『生命の実相』の谷口雅春さん、あるいは創価学会の御遺文学習から、とり入れたのでしょうが、直接教会・道場・お寺に行かなくても、本を読むことによって教義を理解して信徒になっていくことができる。さらにこれをもう一歩進めて、本を読むだけの会員を考え出したというのも、一つの新しい特色ではないかと思います。
これは逆に見れば、実際の活動をする会員と購読者の会員との二重構造をつくり、そこに一つの問題が生れてきますが、ともかく全く束縛をされない、ただ本を読むだけで会員になれるというのが新しい特色であります。
同時に会費を取らないで、本を売ることによって収益を上げていき、教団運営をしていく、これが創価学会等に習った点でありますが、おもしろい点であります。
第三に、諸宗教の合一化をうたっている点であります。これは大川氏とその父親が、創価学会、生長の家、あるいは高橋信次氏のGLA、このほかにもかなり多くの宗教を渡ってきておりまして、それぞれの特色をつかんでおります。各教団のいいところをみんなとらえてつくり上げた宗教です。
これは日蓮宗のように、日蓮聖人一人の教えを遵守していくのとは全く違うあり方です。よいものだけを集めて並べているという特色があります。
この傾向はこれからも続出すると思われる宗教の形態でありますので、我々は対抗策を考えなければいけないのではないかと思います。
第四に、霊界の顕在化が挙げられるかと思います。これは、先ほど信者のコメントとして紹介しましたが、天使がおりてくる、あるいは光の柱が見えるということは、今まではまれに起こる現象ととらえておりましたが、幸福の科学では、そうした超常現象を前面に出していって、我々の生きている世界と霊界が全く同じ土俵の上で論じられているわけであります。
3 大石寺と創価学会の抗争
大石寺と創価学会の抗争は、長年の宿痾が噴出したと見られるもので、その底流には出家と在家の二重構造の矛盾があったと見られます。
これは非常に関心がある出来事で、今、日蓮宗が総弘通運動を展開していますが、この好機をどのように総弘通に生かせるかと、私は考えるのですが、ほとんど論じられていません。宗門ではもうちょっとこれを取り上げて、今こそ学会とどのようにかかわっていくのか。批判するのか、あるいはどこかで協調するのか、そうしたことも含めて考えなければいけない問題です。
かいつまんで話をしますと、昭和四十年から五十年ころに学会から僧侶無要論が出ております。その底流があって、平成二年に入って正宗側から学会に対して、法主と僧侶を蔑視及び非難したということで「お尋ね文書」が出ました。これに対して、今度は逆に学会から「お伺い文書」が出され、その後、十二月二十七日に正宗から池田大作総講頭解任がなされます。これを受けまして平成三年十一月七日、正宗から学会解散勧告が正式に出されております。
それは創価学会員は、日蓮正宗に従うべきであることを示したもので、@ご本尊血脈相承がある、A信徒は法主、住職、主幹を師匠とする、B葬儀、法要などは宗門独自の規則がある、という三点を正宗が学会にたたきつけたわけです。
それに対して学会はどう応ずるかというと、@僧侶に葬祭儀礼を頼まない、A本山、寺院にお参りしない、という対抗策をとったわけであります。
大石寺と学会との抗争は二つの理由があります。
第一の理由は教団の構造です。佼成会等ですと、すべて在家です。指導者も在家で、これは一重構造です。日蓮宗は檀信徒の上に僧侶が指導し教える立場にあって、二重構造です。それに対して日蓮正宗の場合は檀信徒がいて、その上に創価学会の指導部があり、その上に大石寺の日蓮正宗の僧侶がいるという三重構造という形になっております。その在家の一信徒である池田大作氏が名実共にトップに立ちたいというところに、大きな問題があるわけであります。
教団の形態の中では池田大作氏は一信徒であります。しかしながら、実際の活動面においては教主という立場になっております。それが大石寺の法主である阿部日顕師との確執となって今回の問題に発展するわけです。
要するに、教義解釈決定権者(教主)の争いで、名誉的な問題でもあります。
第二は、金銭的な問題で大石寺と創価学会は争うわけです。ここで問題になるのは葬儀の問題です。『聖教新聞』を持ってきましたが、「葬儀をめぐる宗門文書のおかしな論理」という形で、毎日のように特集が組まれています。
「聖典の信心こそ後生の成仏の根本。僧侶の引導により成仏は誤り」と。要するに、葬儀は必ずしもしなくともよい。同志が集まって行えばよい。戒名あるいは塔婆は成仏していく上で必ずしも必要なものではないと打ち出しているわけです。
「世間体を考えて伝統的形式にとらわれたり、僧侶なしでは成仏できないと不安がる必要はないのです。これまで述べてきたように、葬儀は決してその形式に意味があるのではありません。苦楽を分かち合った遺族と信心の同志による真心からの追善こそ故人が最も喜ぶことを知ってもらいたいものであります。」ということを結論として、釈尊の教典あるいは日蓮聖人の御遺文等を引用して論証して、僧侶に引導を渡してもらわなければ成仏できない、あるいは塔婆を立てなければ成仏できないという大石寺側の主張に対して答えております。
なかには塔婆料についてマンガで、わかりやすく説明しております。
「塔婆の荒稼ぎ」という題で、おばあさんが僧侶に
「ハイ、塔婆料です」
と渡すと
「何じゃい、たったの一本分かい」
「だって一家に一本でしょう」
「違う、家族の人数分を立てるんじゃ」
「うちは五本ですから、これで……」
「違う、六本分じゃ。おたくには犬が一匹いたじゃろう」
こういうオチがついているんです。
もう一つは、「塔婆削り」という題で、「古い塔婆は削れば、あと四、五回使えるわい」と、ペラペラになっているような塔婆が描いてあって、「ちょっと削り過ぎたかな。まぁいいや」と。
こういうような諷刺的なマンガで塔婆に関する疑問を提示しております。
そのほか、盂蘭盆御書の「自身仏にならずしては父母をも救いがたし、いわんや他人をや。日蓮が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。」という御遺文を引きまして、
「大切なことは、まず追善供養をする人の信心です。みずからが仏道修行に励み、幸福な境涯を築くことです。その功徳によって自身のみならず、亡くなった先祖も成仏させることができるのです。同じように回向もみずからが仏道修行で積んだ功徳、善行を他に回し向かわしめることを意味しています。結局、朝晩の勤行の中で行っている常盆常彼岸こそが追善供養の基本と言えるのです。」
そして、僧侶と信者の間に上下関係はないとして、「日蓮大聖人の仏法は、男女はもとより人間の平等をうたった教えです。そこには僧侶と信者の間に役割の違いはあっても身分の上下などは一切ありません。御遺文には『僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使いとみえたり』とあります。」
こうした論法で創価学会は大石寺僧侶批判をしております。
ところが、これは大石寺僧侶批判だけに止まらず、現在では伝統仏教教団批判という形態をとってきております。最近、書店をのぞいておわかりになると思いますが、戒名に関するもの、あるいは追善供養、葬儀に関する著作が目立って多くなっております。その中には戒名あるいは戒名料に対する疑問・批判がかなり問題化されてきております。
「供養とは、戒名とは何なのか」あるいは「出家と在家はどこが違うのか?」、こうした点は、私たちがこれから考えて取り組んでいかなければいけない大きな問題ではないかと思います。
二、人々は何を求めているか
1 オカルトへの関心の強さ
若い人たちは宗教そのものには関心が薄いけれども、霊的なもの、あるいは不可思議なもの、非合理的なものへの関心、志向が非常に強くなっています。
アメリカでは一九六○年代のカウンターカルチャー(現在の文化・体制に対立する生き方をする若者たちの文化)以降、日本ではオイル・ショック以来、この傾向は強くなっています。
日本は敗戦後、天皇中心の国家体制から精神的バックボーンのない国家体制となり、人の心の置きどころが経済成長に移っていった。経済的に成長することが人間の幸福だと思い込んでいた。ところが、オイル・ショックを契機としてこの一様の信仰は崩れていきます。
それでは、人々は何をよりどころとして生きていくか。そのときに伝統宗教は何も与えられなかった。それに対して応えられなかった。それが今の若い人たちが霊的、オカルト的なものに走っていく原因になります。何も若い人が悪いのではなくて、我々が導いていけなかった、それに応えることができなかったというふうにとらえるべきではないかと思います。
現在、宗教回帰と言われるような若者の宗教志向、ニューサイエンスという新しい科学に対する考え方が一般の人々の考え方にも浸透してきています。
端的に申しますと、物と心のボーダレスです。物と心の境界線が取り払われてきている。女と男、あるいは人種、思想、国家の壁が次から次へ取り払われてくる時代に入ってきております。
そうした中で、果たして若者たちは何を求めてきているのか。管理社会でがんじ絡めにされた中から、若者たちが求めるものは、非合理的なものへの志向であり、管理されたものへの反発、一足す一は二ということへの反発です。
反面、若者たちは量から質へという変化も見せています。その中で、真の豊かさとは何かということも考え、それを求めていることも確かであります。
世界的な不況の中で、これまでの豊かさはどこまで続くのか、世界は大きな分かれ目にきております。
そういう意味で、豊かでなくても幸せは得ることができるというところに、これからの宗教の落ちつきどころが出てくるのではないかと考えるわけであります。
三、立正佼成会から何を学び、日蓮宗にどう活かすか
1 先祖供養観
梅津先生のお話の中に出てくると思いますが、先祖供養観もさまざまに相違があります。日蓮聖人が仰せられたことを、私たちは現代的に把握し指導できていると言えるだろうか。そんなところを注意してお話を聞いていただきたいと思います。
2 法 座
法座の導入に関して、曹洞宗、浄土真宗等、各既成の教団はずいぶん努力しておりますが、ほとんどが成功しておりません。
梅津先生は、法座は家族全員、教団全体によるシステム的な教化である。一人の人がやろうと思っても簡単にできるものではないとおっしゃっています。その辺に留意してお話を聞いていただきたいと思います。
3 教育システム
これは日蓮宗でも今後十年間に取り組むべき最も大きな課題ではないかと思っております。
梅津先生はおもしろいことをおっしゃっていました。「料理は単品だけではなくて、フルコースを食べて初めて料理の醍醐味がわかる」と。そういえば、本宗の教師は声明だとか修法だとか、さまざまな部分だけをバラバラに教育を受けています。やはり一貫した全人的な教育制度を日蓮宗がつくり上げていかなければいけない。一部分は大学に、一部分は信行道場に、一部分は行堂に任せるというのでは細切れで、宗教の一番大切な愛情、人間の温かみ、ぬくもりが伝わってこないと思います。
梅津先生のお話を承った後で、みんなでよく討議して、少しでも我々の中に生かしていくことに努力していかなければいけないと思っております。
時間が限られておりますので、創価学会の問題等に関してはいろいろお話ししたいことがございますが、これで私の話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
※本稿は、平成四年二月二十五日、福山市良縁閣にて行われた第十八回教化学研究集会にて講演されたものを筆録抄略したものです。
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