日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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教化学研究
どう説いたら人は法華経を理解できるか

石 川 英 輔(武蔵野美術大学講師)

   一
 法華経をSF小説にした人間がいるというと、たぶん皆さんは、私に信仰心があって書いたとお思いになるのではないかと思いますが、少なくとも書き始めたときには全くそういうつもりはありませんでした。
 私たちは、何か新しい、売れそうな小説のタネはないかと、絶えず考えております。普通ちょっと思いつくようなことは、大抵既に人がやってしまっています。何かおもしろい題材はないかと考えているとき、たまたま講談社の編集者と話をしていて、「お経をSF小説にしたら受けるんじゃないか」ということになりました。
 お経をやるなら、法華経が一番いい。般若心経と並んで一番人気のあるお経です。ただ、般若心経は幾ら引き延ばすのがうまい私でも短過ぎる。
 もう一つ、法華経を取り上げようと思った理由は、宮沢賢治の存在です。私は子供のときから宮沢賢治の童話が好きというか、ほかの童話はほとんど読みませんでした。宮沢賢治が法華経の熱烈な信者だということを知ったのは、大学生になったころでした。宮沢賢治に文学的な関心があったわけでもありませんが、何かの機会に、彼が法華経に命をささげた人だということを知りました。法華経を一読して、体が震えるほど感動したそうです。「そんなものすごいお経があるのか」と思いました。
 私の両親はともに早く亡くなりましたから、子供のころから葬式や法事をやっていて、お寺には親しみがありましたが、家は浄土宗で、日蓮宗には全く縁がなかったし、家にはお経本もありませんでした。
 学生時代だったか社会人になってからか、はっきり記憶していませんが、渋谷のプラネタリウムの裏側に新しい書店ができました。そこに岩波文庫の上・中・下三冊の現代語の翻訳がついている『法華経』があった。これならわかるかもしれないというので、買って帰って読みましたが、全くわけがわからない。投げ出してしまいました。
 でも、頭の中に宮沢賢治がひっかかっているわけです。最近は宮沢賢治の再評価が盛んですが、あの方は科学者としても極めて卓越した人です。
 私は科学者ではありませんが、骨の髄まで技術者だと自分では思っています。科学者も技術者も論理で仕事をしている点では同じことです。宮沢賢治が科学者としてすぐれた人であれば、科学者としての論理がある。科学者としての論理なら、我々同業者にはわかりますから、あの人にわかる論理なら私もわかるんじゃないかと、まことに妙な発想で、法華経をSF小説にしたら当たるんじゃないかと思いつき、書き始めました。
 そのときに、改めて岩波の『法華経』を引っ張り出して読みました。買ったときからだいぶ年月がたっておりまして、少しは内容が理解できるようになりました。同時に、数十冊の解説書を買って読んでみましたが、後で申し上げますが、これはほとんど何の役にも立ちませんでした。

   二
 まず、法華経とはどういうストーリーかということを知らなくてはいけない。これには庭野日敬氏の本が大変参考になりました。おしまいには、それと首っ引きで、鳩摩羅什の訳を読み下し文と照らし合わせながら読んでいきました。書こうと思い始めてから本が出来上がるまでに丸三年かかりました。ほかの仕事もしているわけですが、法華経のことが頭から離れないので、何度も繰り返して読みましたが、幾ら読んでもわからない。そのうちに、釈尊自身が「難信難解」とか「難解難入」と言っておられるのだから、そう簡単にわかったような気になるようではいけないのだと気がつきました。そう思うと気楽になってごく素直に読むようになり、法華経の奇妙な構造が見えてきました。
 方便品に「唯佛與佛 乃能究盡 諸法實相」とあって、実相は、ただ仏にしかわからないのだと書いてある。その後に十如是がある。理論的な部分は、それぐらいのものです。よく読んでみると、「是法不可示 言辞相寂滅」(この法は示すべからず。言辞の相が寂滅すればなり)。つまり、言葉で言うとわからなくなってしまうと、はっきり書いてあります。シャーリ=プトラ(舎利弗)が三回お願いすると、それじゃ教えてやろうというので、お釈迦様の話が始まるという筋になっております。
 ところが、それに続いて「諸法實相」の説明があるかというと、全然ありません。いきなり出てくるのが、奇妙な譬え話です。火宅の譬えが出てくる。その後、妙な話が延々と続く。この妙な話が延々と続くのは、大乗仏典すべてに共通していることですから、あまり驚きません。
 ところが、幾ら読んでも法華経の実体が見えない。どんどん読み進むと、如来神力品に「皆於此経 宣示顕説」とあって、とにかく全部はっきり教えたぞと言われます。教えたぞと言われても、何も書いてないじゃないかというのが、五、六回通読した後の感想でした。
 その後、富永仲基(一七一五〜一七四六年 正徳五〜延享三年)の『出定後語』を手に入れました。これは大乗非仏説の元祖で、大乗仏典はお釈迦様が直接説かれたものではないということを、世界で最初に証明した大変な力作です。法華経のところを読むと、実におもしろくて、私も本当にそのとおりだと思いましたが、「法華経一部は終始皆讃佛の言で全く経説の実なし」(仏を讃える言葉ばかりでお経の部分は何もないじゃないか)。竺土(インド)へ行くと、たぶん全文がそろっているだろうと。つまり、日本へ来たのは一部抜けたところがあって、肝心なところがないから、これは幾ら読んでもわからないのだと書いてあります。そう思うほうが当たり前で、それぐらい法華経はわけがわからない。
 川口慧海(一八六六〜一九四五年 慶応二〜昭和二十年)は、明治三十年、チベット語大蔵経入手のため単身チベットに渡り、明治三十四年いったん帰国、明治三十六年に再度出発、大正五年に帰国した大探検家でもあるお坊さんですが、チベット語の法華経を全文翻訳しています。この方は『在家仏教』で、法華経は仏となる方法を示した説明書であって、薬の効能書きのようなものである。薬の実体の部分はないのであるということを書いております。
 『出定後語』を読んで大喜びしたのが、平田篤胤(一七七六〜一八四三年 安永五〜天保十四年)という有名な国学者です。「実に法華経一部八巻二十八品、皆、能書きばかりで、肝心の丸薬はありやせぬ。もし腹の立つ人があれば、その丸薬を出してみせろと言うつもりでござる」と書いている。「だれが読んでも、こう感じるのだな」と思いました。
 始まりがあって、肝心のところが何だかわけがわからない。それでハイ終わりましたとなる。書いてあることといえば、法華経を信じないと、いかにひどい目に遭うかとか、法華経を信じると、いかにいいことがあるかという説明ばかり。これは普通の論理で考えてもわからない。普通なら、ここで投げ出してしまって、「やーめた」ということになりますが、やっぱり宮沢賢治がひっかかりました。あの人にわかって私にわからないというのは、どうもおもしろくない。もう一発食いついてみようと思って、延々と考えました。

   三
 そのうちにだんだん気がつきましたのは、最初に「是法不可示 言辞相寂滅」(言葉で説明すればわからない)と書いてあり、「唯佛與佛 乃能究盡」(これは全智者である仏陀以外にはわからない)とはっきり宣言しているのに、その次に、もし、わかりやすい言葉が書いてあって、だれにでもスラスラ理解できたとすれば、お釈迦様がウソをついていたか、最初に意地悪を言ったかということになります。釈尊がウソつきや意地悪なら、そもそも仏教が成り立たないわけですから、それは可能性として除外しなければならない。
 言葉で言えばわからない。にもかかわらず、舎利弗が三回お願いしたら、全智者である釈尊が説明されたということは、言葉で言わずにわからせる手段をとられたのだろうということが、当然、論理的に出てきます。つまり、仏にしかわからない、言葉で説明のしようのない「實相」は、幾ら説明してもわからない。しかし、聞くのなら教えてやろうというので、この後に「法華七喩」という譬え話が出てくるわけです。
 この譬え話が、実にまた妙な話です。話としては実に出来が悪い。不自然だし、見るからに作り話です。あまり不自然なので、これは言葉と論理では表現できないイメージを人間の頭の中に浮かび上がらせるために、わざとこういう妙な話の形にしているのではないかなと気づきました。
 実に変な話です。「火宅の譬え」にしても、読んでみて、「こんなバカなことがあるものか」という感じがする。バカでかい家があって、その中に動物がいっぱいいて、火が燃えていて、出口が一つしかないという設定は、あまりにも妙な話ですし、「窮子の譬え」にしてみても、宮殿のように立派な家の前にさしかかると、その奥で父親に当たる富豪長者が商売をしているのが見える。インドの家というのはよく知らないけれども、そんな妙な構造の家は昔からなかったと思います。わざと変なことを言っているのがわかる。「衣裏繋珠の譬え」にしても、酒を飲んで寝ていたって、何億円もするようなダイヤモンドを贈るのなら、ちょっと起こして「そこへ入れておいたから」と言うのが普通だと思う。全部実に不自然な話です。これぐらい徹底的に不自然な話になると、これはもう作為による不自然さだとわかります。出来が悪いとはとても思えない。
 私はもとが写真屋で、今、作家をやっているせいか、何でも映像的に説明するのが好きです。「諸法實相」も実験するとよくわかります。コップの中に複雑な形をした透明なガラスの彫刻を入れて水を注ぎますと、その彫刻は透明なので見えなくなります。水のかわりに、薄い色素液を入れると、中の透明な彫刻が浮かび上がってきます。それと同じで、直接説明できないものを間接的に説明するというのは、物理や化学でごく普通に行う常套手段です。そう思うと、なるほど大乗仏典というのはものすごい構造になっているんだなということが、私も自分なりの技術者の論理で見えてきました。
 「實相」と言っても「空」と呼んでも結構ですが、言葉で言ったのではわからないんだとお釈迦様がおっしゃっているのだから、その中身を理解することはあきらめます。知りたければ、仏様になればわかります。要するに、わかりっこないから、その周りに「火宅の譬え」だとか、「窮子の譬え」「衣裏繋珠の譬え」「三草二木の譬え」だとか、「法華七喩」でもって「諸法實相」が浮かび上がるように説明しておられるんじゃないかということに、私は気がつきました。
 つまり、説明すると、全部ウソというか、不完全なものになってしまう。だから、譬え話を通じて、おまえたちも素直に読めば、大体どういうものかということがわかるようになるだろうと仰せなのです。何度も申し上げるように、「唯佛與佛 乃能究盡 諸法實相」ですから、凡人にわかるわけがない。
 釈尊の悟りの内容を書いたお経に華厳経というのがあります。これは大部の経典で、くどいことにかけては恐らく大乗経典の中でも最もくどいお経の一つではないかと思います。私も毎日寝る前に読んで、ここのところ三回ぐらい通読しましたが、部分の中に全体が含まれているというんでしょうか、釈尊の悟りの内容が非常におもしろく、映像的に出てきます。これが何と今の数学のフラクタル理論と同じです。フラクタルの画像は、コンピューターで実際に打ち出すことができますが、ある画像の一部の形が全体の形になっている。変数を変えていきますと、地図みたいな形も、花みたいな形もできます。
 それから、ホログラムという特別な立体写真ですが、めがねを使わなくても、ガラス一枚を通して見ると、本当にそこに物があるように、立体的に見えます。そのガラスの一部分を取り出しても、同じように見えます。ちょうど窓ガラスを通して外を見ているのと同じです。これも部分の中に全体が含まれています。
 こういう物理学や数学の最先端でやっていることが、まさに華厳経の中に奇妙な形で書かれています。例えば、お釈迦様の一つの毛穴の中に、全世界が入っていて、その中にまたお釈迦様がいて、そのお釈迦様の毛穴にまた全世界が入っているという、まことに奇妙な構造の世界を、手を変え品を変え延々と書いてあります。映像的に見ると、どうも悟りの内容はそういうものらしいのですが、やっぱりそうやって書いてしまうと、書いたことだけになってしまいます。私も「なるほど」とは思うけれども、何かキラキラしたようなものが頭の中に浮かぶだけです。
 どんなことでもはっきり説明してしまうと、応用はできるけれども、限界があるわけです。例えば、物を投げると、飛んでいったり落ちたりします。ニュートンの運動方程式で、実に簡単にきれいに表現できますが、これはあくまで真空で、摩擦も抵抗もないところだけで成り立ちます。実際は空気の状態とか摩擦とか抵抗を加えて説明しますが、幾ら加えても本当の完全さにはならない。例えば、ここに紙が一枚あります。手を離したら、どこへ落ちるかは、変数が無数にあって計算できない。ですから、華厳経は実にきれいに書いてありますが、書いてあるゆえに、その書いてあることで限定されてしまう。
 そこへいくと法華経は、肝心のところは初めから説明を放棄してあります。ですから、法華経の最大の特徴は、富永仲基たちが考えているのと全然違って、「諸法實相」についての理論的な説明を何もしていないところにあるのです。これを無理にこじつけようとすると、弱点ばかり出てきます。
 わざと書いていない。「是法不可示 言辞相寂滅」とお釈迦様がおっしゃっているんだから、我々がお釈迦様に反論したってしようがないんで、反論するぐらいなら、仏教なんてやめてしまえばいいのです。仏教徒であろうとする以上は、釈尊の言われるようにするほかない。説明していないことが特徴で、そこに価値があることを素直に認めればよいのです。
 「諸法實相」とか「空」に対する説明をわざと避けてあるんだと思わないで、どこかにあるんじゃないかという見方をすると、結局、富永仲基になってしまう。つまり、欠落しているのではないかという考え方になると思います。
 とにかく言葉では説明できないと書いてある以上は、説明してないんだということに気がついてから−それが正しいのかどうか知りませんが−そう思うようになってから、急にいろいろなことが説明できるようになりました。

   四
 ただ、小説を書くとなると、もう一つ問題があります。法華経が原始的な形で成立してから大体二千年たった。しかし、我々が二千年前の人間より利口になったという証拠は全くありません。むしろバカになっているのではないかと思います。直感力は全く衰えています。我々の父や祖父ぐらいの年代の人に比べても、我々の直感力は低下しています。ですから、こういう形で説明して、直感力がどんどん低下している我々に理解しろというのは、かなり無理だと思います。さらに、我々の生活内容は全く変化しています。逆に言いますと、釈尊の時代あるいは法華経が成立した時代のインドには、字が読めない人が九九%ぐらいいたのではないかと思います。ですから、古代インドの論理を使って現代人に理解させようというのは無理です。私は「法華七喩」によって法華経を理解するのは、もうあきらめました。今の私のロジックでは、あの奇妙な譬え話を通じて法華経の内容を想像するということは、たぶんできないだろうと思います。
 私が「法華七喩」のかわりに使ったのは、大まかに言いますと物理学、脳科学、心理学の三つです。これらの学問の最先端の学説を読んでいるうちに、完全とは言えませんが、我々が直接は認識できないけれども「諸法の實相」があるんだということに気がつきました。
 しかも非常に心強いことには、最近の量子力学の最先端の人たちがニュー・サイエンスという形でやっていることが、大乗仏教とほとんど変わりない考え方に近づいています。彼らはまだ華厳経の段階ですが、とにかく西洋式の発想とまるで違う考え方が、仏教とかヒンズー教とか中国の道教には存在していて、もしかしてそっちのほうが本当ではないだろうかと思っているかなり大きなグループがあります。オカルトとか、そういうのではありません。全くオーソドックスな人たちばかりです。ノーベル賞をもらった先生とか、一流大学の物理学、心理学の教授たちです。ニュー・サイエンスの人たちの中でも霊能とかオカルトに関心を持っている人はいますが、それとは全く違う普通の自然科学からのアプローチでも、まさに「實相」が浮かび上がろうとしています。
 それを説明するのが、きょうの主なテーマです。といっても雲をつかむような話ではなくて、「なるほど、本当に何かあるな」ということを、ある程度わかっていただけるのではないかと思います。
 皆さんは電子というと、あまりなじみがないと思われるかもしれませんが、テレビの画像が光っているのは、ブラウン管の奥から電子が出てきて、ぶつかって光っているのです。あれは一遍にたくさん出てきますが、あんなにたくさん出さないで、電子を一粒ずつ出して、金属の板にあけた小さな二つの穴にぶつけます。電子というのは最小の単位で、これ以上二つに割ることができない。電子はそういう粒というかフワフワとした存在の可能性の塊で、ある確率で存在するという雲のようなものです。その電子の塊がフワーと出てきます。それで、この二つの隙間を同時にフワーと飛びます。一つの塊が、どうして二つの穴を通るのかと言われると困りますが、電子とはそういうものなのです。
 昔の物理学では、こんなバカなことを絶対認めませんでした。一粒の電子がフワーとした塊になって、二つの穴を同時に通って向こうへ行くなんて、あり得ないことのようですが、このことは今の物理学では基礎常識になっています。
 どっちの穴を通ったかと聞かれても、それは全く無意味な質問です。両方同時に通っている。それじゃというので、だれかが横で見ていると、絶対にこんなことは起きない。人が観察すると、この電子は、必ずどちらか一方の穴しか通りません。昔の物理学というか、人間の目で見えるようなサイズのものを扱う物理学では、客観的な実在があります。私がボールペンをここに置いて家へ帰っても、消えてなくなるということはない。客観的実在として存在するわけです。
 ところが、物事を細かく分けていって光子こうしのように一番小さな粒になりますと、客観的に存在しません。つまり、人間が光子がそこにあるかどうか調べたその瞬間だけ、そこにあって、次はどこにあるかわからない。
 皆さんは、科学というものは人間と関係のないところで何か物事が進んでいると思われるでしょうが、素粒子物理学、一番小さな粒、一番基礎的な構造のものになってくると、そこにあるかどうかは、人間がそれを観測しないと、ないのです。観測する人間の側を含めない客観的な実在はないのです。人間がいてこそ存在するのです。皆さんは宗教者でいらっしゃるから、当たり前じゃないかと思われるかもしれません。ところが、量子物理以前は、科学というのはそんなものじゃないと思われていて、とにかく人間と関係なしに太陽は回り、月も回っているということでした。それは事実ですが、ところが、一番細かい基礎のところまでいくと、観測する人間も含めた主観的な実体しかなくなってしまう。これが、今の物理学の教えるところです。
 もう一つ、量子世界は非局所的で、影響は超光速度で無限遠に及ぶという不思議な現象があります。ある方法で一対の光子を反対方向へ打ち出して、一方を観測すると、その影響がゼロ時間のうちに無限の遠方に及ぶというのです。
 アインシュタインは、自分が量子力学に火をつけていながら、量子力学が大嫌いで、最後まで量子力学に反対していた人です。その一つの根拠として、もし量子力学が成り立つなら、ここで観測した影響が無限のかなたに瞬間に伝わるはずだから、相対論にも反するし、そんなバカなことはあり得ないと言って反対しました。
 それじゃ、どうなるか試してみようというので、パリ大学の光学研究所でアラン・アスペが、一九八二年に大規模な実験をやりました。この実験の結果、「量子世界は非局所的で、影響は超光速で無限遠に及ぶ」ということがほぼ認められるようになりました。超光速で無限遠に影響が及ぶということは、実を言うと、時間はないのと同じです。なぜ超高速だと時間がなくなるかということは、説明するとややこしいし、法華経の話に関係がないので、詳しい説明はしません。
 要するに、人間の行為が時間を無視した世界に及んでいるのです。これはオカルトではありません。ちゃんとした科学雑誌に一般的な見解として物理学の先生が述べておられるような、今や当たり前のことなんです。
 そこで皆さんは、何か人間と深い関係のある漠然としたものがあって、それは時間も空間も関係のない何かでありそうだなという気持が、幾らかしてこられたのではないかと思います。
 なぜ人間が観測すると、物質に影響が及ぶかという原因については、いろんな説があって、ほぼ六十年ぐらい議論していますが、その中の一つに意識説というのがあります。これもいいかげんな人が言っているわけではありません。今のコンピューターはノイマン型コンピューターと言います。フォン・ノイマンというハンガリー生まれのアメリカの数学者が基礎的な原理を考えたので、ノイマン型と言いますが、観測する人間の意識が素粒子に影響しているんだということを最初に言い出したのが、このノイマンです。そのクラスの人が言っていることです。もちろん、反論もありますが、そういう最高級の人たちが、素粒子が意識の影響を受けると言っています。しかも、その影響がゼロ時間で無限遠に伝わる可能性もあります。こうなると、ほとんど大乗仏教の世界です。
 デービット・ボームという量子力学の大先生は「宇宙には暗在系と明在系がある」と、実におもしろいことを言って、人に「それは大乗仏教と同じだよ」と言われて、びっくりしています。量子力学をやっていると、だんだん華厳経だの法華経があぶり出されてくるという、まことにおもしろい世の中に私たちはいるのです。
 暗在系というのは日本語に訳したもので、原語はインプリケート・オーダー、明在系というのはエクスプリケート・オーダーと言います。我々が関知し得ない巨大な存在があって、その投影として、私たちの知っている明在系がある。私たちの意識とか物質は、暗在系の投影にすぎないのではないかと、まともな物理学者が言っているのです。
 私たちの見たり感じたり、匂ったりしているこの世界の下に、とにかくとてつもない何かがあるんじゃないか。そのほんの一部を我々はたまたま感知しているんじゃないかと言う物理学者がいるのはおもしろい。
 もちろん、こういう考え方に反対する人もおります。しかし、すべての人が賛成している学説なんてものは、ほとんど
世の中にありませんから、反対する人がいて、当たり前です。

   五
 次に、意識と脳のことをお話しします。これは去年でしたか、一昨年でしたか、NHKで「臨死体験」の特集をしたとき、一番最後に、東京大学の脳神経生理学の伊藤正男先生が話をされましたが、その受け売りです。
 人間の脳の作用には、大きく分けると@情動、A運動、B感覚(認識)、C記憶、D意識の五つがあるそうです。Dの意識は、今、いろんな問題の接点になります。
 脳の動きを調べると、情動、つまり悲しいとか、おもしろいとかうれしいというのは、脳のどの部分の作用なのか、はっきりわかります。運動も、例えば小指の動きは、脳のどの部分がつかさどっているか、はっきりわかります。感覚もわかります。視覚、嗅覚、味覚もどこでつかさどっているかわかります。記憶もわかります。
 ところが、私が私であるという意識、量子力学の中で出てくる意識をつかさどっている部分は、一体脳のどの部分なのかわからないんだそうです。百何十億とかある脳細胞全体に分布しているのではないかという考えもあるそうです。私は伊藤先生の話を聞くまで知らなかったので、これでまた法華経の裏づけができたと思いました。
 もっと具体的な話になりますが、PET(Positron Emissjon Tomography 陽電子放射断層X線写真法)によって脳の中を調べることができる。それは脳の細かい構造を調べる画像と、脳のどの部分がどれぐらい働いているかを調べる画像とを機械で合成しますと、脳の輪切りができて、今どの部分が働いているかがリアルタイムではっきり見えます。東京大学医学部放射線科での研究の様子を科学雑誌で読みましたが、主任教授の飯尾先生は、「(調べれば調べるほど)心は脳の中だけの現象ではなく、人間の肉体のもっと全体的な反映であるという気がしますよ」と言っておられます。将来構想として全身PETというのがある。例えば、手をつついて痛ければ、体のどこがどういうふうに影響されているかが立体画像として見えるようになる。結論として飯尾教授がおっしゃっているのは、「しかし、そこまでやっても人間の心とか精神といったものは、最後までとらえ切れないで残るという気がします」というわけで、これが本当の科学者の態度だろうと思います。
 恐らく飯尾先生のおっしゃりたいことは、機械で測定できるのは体の表面までだということです。ついこの間までの唯物論者は、全く気楽なもので、人間の心は脳の中を走る電流の作用にすぎない。人間の心は物質の運動の最も複雑な作用であると、実験背景もなしに、そういうことを簡単に言っていたわけですが、実際に脳を調べてもわからない。体全体を調べてもわからない。体の外は調べる方法がないからわからないということだと思います。
 そうなると、私がここで、「人間の心は全く非局所的なもので、人間の意識は、宇宙全体に、全く時間も空間も超越して広がっている」という説明をしても、皆さんはそうむちゃくちゃのことを言っているのではないという気が、そろそろなさっているんじゃないかと思います。
 次に、潜在意識のことを申し上げておきたいと思います。
 先年亡くなられた現代心理学の大御所ユングの思想で、集合的無意識というのがあります。集合的無意識というのは、人類としての共通の潜在意識です。その上に人間一人ひとりの無意識があり、さらにその上に顕在意識があるという言い方をしております。実際、ユングはこの理論で精神科の医者としてたくさんの治療を行っております。

   六
 これまで、いろいろな角度からお話ししたことを要約しますと、どうやら、我々には直接感知はできないが、とんでもなく巨大なシステム、つまり「諸法の實相」が存在するのではないか。そして、人間も、そのシステムのほんの一部ではないのか。法華経で言葉による直接の説明を避けている部分は、それではないかというのが私の考えです。私はそういう考えに立って『SF妙法蓮華経註』を書いたのです。
 「諸法實相」は「空」と言ってもいい。私の『SF妙法蓮華経』の中では「宇宙の大いなる実体」と呼んでいます。とにかく巨大なシステム、時間、空間を全く超えた宇宙の大いなる実体がある。これは完全に一体化したもので、端から端まで相当な距離があるというものではなくて、全部ゼロ時間、ゼロ距離でひとつながりになっている。宇宙の基本構造は、そういうものではないか。これはアスペの実験を見ると、決してむちゃくちゃな話ではないのです。現実に人間の観測の結果が無限距離をゼロ時間で連結するということについて、物理学者も反対しにくくなっている。
 我々の意識も、感知できるものすべては、宇宙の大いなる実体の一部分ではないか。人間の意識も、実際は人間の脳の中に固定されているものではない。わずか一・五キログラムの蛋白質の塊の中に、人間の意識が全部閉じ込められているとか、小さな二つの穴から外を見ることしかできないと考えると、何か嫌です。
 宇宙の大いなる実体がありますと、その表面で、仏教で言えば無明の世界と光の満ちている明の世界に分かれている。人間の意識は、この表面から無明の世界に顔を出している。ボームの考え方もそうですし、仏教の意識の考え方も似たようなものです。
 私たちは、本当は「実相」、つまり「宇宙の大いなる実体」の一部分にすぎないのに、さまざまな目先の欲望や潜在意識が、意識と実相の間に頑丈な垣根か壁のようにはさまっていて、わからない。ところが、釈尊は、そのことを見破られたのです。
 お釈迦様の場合、肉体を持ってこの世に生まれてこられた方ですから、俗人のころはお后が三人もおられたそうですし、我々と似たような生活をしておられたと思います。ところが、菩提樹の下で悟られた瞬間に、垣根が取れて、自分の意識が「宇宙の大いなる実体」と完全に一体化するわけですから、その中に含まれている全時空の知識、経験が全部入ってきます。ですから、釈尊が悟りを開かれたとき、そのまま入滅しようと思われたというのを読んで、これは当たり前だと思いました。こうなったら生きていてもしようがないと思います。窮子が金持ちの父の金貨の詰まった蔵を何百ももらったとか、親友が服の裏のポケットにダイヤモンドを入れておいてくれたとかというレベルの話ではないわけです。瞬間に全宇宙が自分と一体化し、全宇宙が自分のものになるわけですから。体があったら、幾らお釈迦様でも空腹を感じたり腹痛を覚えたり、蚊が刺せばかゆいでしょうから、「面倒くさい。これは入滅したほうが楽だ」と思われるのは当然だと思います。ところが、人間はみんな一人ひとり別のものだと思っている。かわいそうだから何とか救ってやろうと思われても、これまた当然だと思います。
 釈尊の場合は、まさに全意識を直結して「實相」そのものであられたと私は解釈します。こうなれば、まさに寿量品そのものです。全部釈尊とつながっている。人間は欲の皮が突っ張って壁があるから見えない。「一心欲見佛」になれば見えるのかもしれないけれども、とても私なんかは、そんな気持ちには死ぬまでになれそうもない。
 悟りは、意識と無意識の境を取っ払って「宇宙の大いなる実体」、あるいは「實相」と一体化することだと考えれば、法華経はよくわかります。法華経は直感によって「實相」と直結させようとする教えだと考えれば、私の今までの話に論理的な矛盾はないと思います。無理なしに一つの論理でつないでいるつもりです。
 「衣裏繋珠の譬え」は、あなたは自分の体の中に実相と直結し得るすごい貴重な能力が入っているのに気がついていないんだよという表現にすぎない。信解品の窮子が金銀珍宝をもらったというのも、実は無限の富を授けようと待っているのに、バカだからちっとももらってくれないということです。つまり、穴があけばドカッと入ってくるという卑近な譬えです。それは心の内側の問題ですから、法師功徳品の「父母所生 清浄肉眼 見於三千大千世界」であって、親にもらった体で、こういうことを感じようと思えば感じられます。如来神力品の「若於園中 若於林中若於樹下」のように、法華経の信心のあるところは、どこでも道場で、諸仏はそこにおられるというのは、この考え方から言えば当たり前の話です。そこに釈尊もおられるのです。日蓮聖人は並みの高僧なんていうお方ではなく、ずいぶんふっ切れておられて、身延へ入られてからは、一日のうちの何時間は一人で過ごしておられたそうですから、たぶんそこで釈尊と相まみえておられたのだろうと思います。
 大乗非仏説は、学問としてはまさにそのとおりです。釈尊が亡くなられてから五百年後ぐらいに大乗経典が成立しているんですから、肉声をもって釈尊がそれを説かれるわけはない。しかし、大乗非仏説はあくまで歴史家の言うことであって、信仰する者は仏説だと思うべきです。
 華厳経にしろ法華経にしろ、なぜこういう経典がゾロゾロできるか。唯物論的な解釈をすれば、その時代のインドの経済がどうとかして、その社会状況の背景で生まれたという解説もできるでしょうけれども、経済で物を説明しようという考え方は、いろんな点でもう無理じゃないかという気がします。「時我及衆僧 倶出霊鷲山」(時に我及び衆僧は倶に霊鷲山に出ずるなり)とおっしゃっているのだから、釈尊入滅五百年後ぐらいに法華経の編纂者は「一心欲見佛」で、霊鷲山へ行って一生懸命釈尊のお声を聞いて法華経を書いた。自我偈は、編纂者のそのときの感動を書いたのではないかと、私はこのごろ思っているんです。そんなことを言うのは頭がおかしいんだと言う人は、あっちへ行っていればいいわけで、我々は我々で、こっちでそう思っていればいいのです。
 ここで述べたような私の考え方からすると、今まで奇妙だと思っていたことが、大体きれいに説明がついてしまいます。しかも、科学的に言っても決してむちゃなことではない。

   七
 次に、法華経の解説書が、なぜ『SF妙法蓮華経』の執筆の役に立たなかったかについて述べておきます。これは執筆の役に立たなかったのであって、法華経の解説書がくだらないと言っているわけではありませんので、その点は誤解なさらないようにしてください。
 私が執筆に当たって本当に知りたかったのは、宗教や仏教一般のことではなくて、法華経がほかのお経とどう違うかという一点です。ところが、法華経の解説書を見ると、まず大体、解説している人は一般的な道徳と宗教との区別をはっきりしていない。宗教一般のお説教がいっぱい書いてあります。五十歳過ぎまで生きていれば、そんなことは教えてもらわなくてもわかるんで、どこが法華経の特性なのかということがまずわかりません。宗教一般のお説教をあまりしますと、テレビのCMに出てくる「人類皆兄弟、お父さん、お母さんを大事にしよう」ということになる。それは確かに結構ですが、そんなことを聞いても私の場合は何にもならない。
 それから、著者が宗教家の場合に特に多いのですが、自分の感動を法華経に結びつけて、涙ながらに書く方がいる。落語家が自分の噺がおかしくて笑っているみたいなものです。落語家というのは、自分はあくまで客観的に話さなければいけないのに、落語家が自分の噺に対してゲラゲラ笑ったのでは、聞いているほうは白けてしまうのと同じで、涙ながらに自分の霊的体験を延々と書かれますと、「あなたはありがたいかもしれないが、おれはちっともありがたくないよ」という感じになります。
 宮沢賢治のような大作家になりますと、私が大人になるまで、あの人がまさか仏教の熱心な信者だなんてことに気がつかなかったほどです。今になりますと、宮沢賢治が法華経の立場からああいう作品を書いたことが幾らかわかってきましたが、宗教的な法悦みたいなものを表面に出さずに、あれだけの作品を書くのは、さすがに大したものです。
 道徳と宗教には共通の部分もありますが、私は本質的に全然別のものだと思っています。その時の権力を握っている者の言うようにするのが道徳です。例えば、この間までの東ドイツは、国民の四人に一人の割で秘密警察の密告者がいたそうですが、ああいう社会では、社会主義社会の秩序を混乱させる人間を警察に密告するのが、正しい道徳とされていたのです。でも、一般論からいって、私はそれを正しいとは、とても思えない。もし法華経に基づいて道徳を書くなら、よほど信念を持って書かないと、政府あるいは場合によったら労働組合の旗振りにもなりかねません。そういう意味で、何も法華経でなくても聖書の解説にしてもそのまま役に立つのではないかと思うような解説書がずいぶんありました。
 それから、著者がお坊さんの場合、鳩摩羅什訳の漢語の説明が多い。説明するほうにすれば、難しい漢字の意味を説明するのは、張り合いがあっておもしろいのかもしれないけれども、読んでいるほうにすれば、これぐらいつまらないものはない。
 それから、一乗か三乗かを論じている。こんなことを今の若い人に言うと、それだけでみんな逃げてしまいます。大昔の大乗仏教が成立したころには、一乗と三乗ということには重大な意味があったかもしれませんが、現代の世の中ではあまり意味のないことです。それを古代仏教の説明の延長でやられると、「昔そういうことがあったのか」ということだけで、これから小説を書こうとする私には何の役にも立たない。

   八
 最後に、私の感想を申し上げますと、日蓮聖人はものすごく強烈な方ですから、今、この日本へ出てこられて、今の状況を把握されたら、「おまえら何をしているんだ」って激怒されると思います。
 大体、自動車なんて、こんなものが走っていいことは何もない。私の小学生のころは大金持ちの乗り物で、普通の人間の乗れるものではなかった。どこでも下駄をはいてコトコト歩いて行って、ちっとも困らなかった。自動車に轢かれて死ぬ人が、年間に一万人から一万二千人です。怪我する人が、今年あたりは八十万人ぐらい出るんじゃないかと思います。原子力発電反対を言う人はいますが、現実にこれだけ死傷者が出ているのに、自動車反対のデモをする人はいない。なぜかというと、日本人の十人に一人が自動車産業によって直接間接に生活しているから、言えないのです。私も自動車を運転しているし、怖いから言いません。
 今の我々のやっていることは、とんでもないことばかりです。私は今、江戸時代のエネルギー問題を研究していますが、現代の日本人は江戸時代に比べて一人当たり百倍のエネルギーを使っております。私たちは慣れてしまっていますが、日蓮聖人がいきなり現在にこられたら、恐らく十五分もあれば現状を把握されるのではないかと思いますが、真っ先に、「日蓮宗の坊主、おまえたちは何をやっているんだ」と、お怒りになるんじゃないか。「こんなバカなことはやめろ」とおっしゃり、みんなが出てきて石を投げたりして、鎌倉時代と同じことになると思います。法華経に書いてある理論のとおり、まともに物事をやろうとすれば、迫害されるのは当たり前です。
 法華経に説かれたすぐれた悟りを嫌うと、いかにひどい目に遭うか。譬喩品に「口気常臭」(口がくさくなる)とか、いろんなことが書いてありますが、我々は今かなりひどい状況に追い込まれています。昭和三十年ごろの医学者が、日本でアレルギーの研究をしようと思っても、研究論文を書けるほど患者がいなかった。ところが、今は日本に二千万人から二千五百万人の研究対象になるアレルギー患者がいます。こういう状況は、法華経に書いてあるとおりではありませんか。
 我々は便利さと豊かさを追求する一方で、大変なものを捨てているのです。だから、真の法華経の行者が今やるべきことは、日本人にもっと貧乏しろということです。政治運動をやって、みんながもっと豊かになろうなどというのは大間違いなのです。日蓮聖人がこられたら、恐らく真っ先に、「おまえたち、こんなバカなことをして、正気なのか」と、おっしゃるでしよう。そういう意味では、法華経に書いてあることは全部本当じゃないかと思います。
 私のように、全く宗教的背景のない人間が、売れそうな本を一冊書くというあさましい目的のために法華経を読んでみても、やっぱり本物というのはすごいものだという感じを受けました。(拍手)
 ※本稿は、平成四年五月八日にアジア会館にて行われた第十九回教化学研究集会にて講演されたものを筆録したものです。
 註 『SF妙法蓮華経』は『未来妙法蓮華経』と改題して、講談社文庫として出版


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