日蓮宗 現代宗教研究所
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 巻頭言
      「心の戈」を積むための研究

石 川 教 張(現代宗教研究所所長)

 平成四年十一月二十日、雨の降る中をNHKに行った。
 NHKラジオ(第二放送)の「宗教の時間」に講話を依頼されたので、その録音に赴いたという訳である。
 「宗教の時間」は三十分間なので、原稿を四百字詰十八枚程度にまとめ、『信じあう人生』や『日蓮聖人の人間学』などの著書に書かれている法華経のことや宮沢賢治の生き方に触れて話して下さい、というのがNHKラジオの担当者の言葉であった。
 私は、何を話そうか、ずっと考え続けていた。まあ日頃考えている事を話す他はないと思い、風邪で調子もよくないし、そう若くもないわが身を励ましながら原稿を書いた。
 これは、十一月二十九日の日曜日午前六時三十分より七時まで放送された(再放送は十二月五日)。人の居ない部屋で、マイク一本と時計を前にして話すのは、やりにくい事おびただしい。放送された自分の声を自分で聞くというのも面映いし、他人の声のように聞えたりするのも奇妙な気がする。もっと話し方がうまければいいのにと悔やみもする。
 この「宗教の時間」のテーマは、「法華経に生きる人生」であった。私が話をしたのは「心の戈」という内容である。
 これは、日蓮聖人の示された「蔵の 戈たからよりも身の戈すぐれたり、身の戈より心の戈第一なり」(崇峻天皇御書 定遺一三九五頁)の言葉に感銘し、その言葉を通して、釈尊と法華経の心に触れ、槃特尊者のエピソードと宮沢賢治の書いた童話「どんぐりと山猫」の意味するものを紹介し、さらに賢治の願った「デクノボー」が不軽菩薩の生き方である事を述べ、慢心という心の病をいやし、尊敬と相互理解と慈悲といった「心の戈」を積み、愚直にひたむきに心を働かせ、身の戈と蔵の戈を活かしてゆく行いが「心の時代」における共生の心がけであると述べようとしたものであった。あえて真意をいえば、一念三千論を現代的にどう語り示すかというのが主題であった。
 日蓮聖人の言葉を改めてみしめながら思ったのは、蔵の戈、身の戈、心の戈の三つとも「宝」ではなく「戈」の字を用いているのはなぜか。蔵の戈より身の戈が勝れ、身の戈よりも心の戈が第一だ、というのは戈産より命や健康、健康より心がけを大切にすべきだという事だが、三つの戈を比較した見方を示している。けれども、心の戈の働きによって身の戈も保たれ、生き生きとし、それによって蔵の戈を活かせるのだ、という事でもあるのではないか、という点であった。
 「宝」ではなく「戈」の字を記している事を、ラジオでは、はっきりと説明せねばならないし、この言葉の重要性はまさに「宝」の字ではなく「戈」と書いている所にあるのではないか。
 「戈」は、増えもするし、減りもする。貯えたり積み上げられるが、失われもする。蔵の戈、身の戈と同じく、心の戈も同じなのだ、と日蓮聖人は云おうとされているのではあるまいか。
 この言葉は、言い換えれば、戈産と健康や命と生きがいや仏・菩薩の心、という事になろう。仏の心を刻み生きがいを持つ「心の戈」の積み重ねとその心の働き、「心の戈」の活かし方によって身体を働かせ、命を生き生きと働かせ、自分や家族はもとより苦しみ悩む者の救いのために戈産を活かす事である。また、戈産があっても健康や命の戈がなければならず、体が丈夫で戈産があっても仏法の心に背き、貪瞋癡の三毒に染まった悪しき心がけであってはならない、という意味である。相待と絶待の複眼的思考、一面的・一方的ではなく公正で両面から物をとらえる見方を、仏法とは、「人の振舞」であるという観点から、日蓮聖人がたえず語り示されている事をつくづくと思い知ったのであった。
 これは、一方的に狭い私意で物事を見たり一面的でうわべの事のみで判断しがちな人の振舞に対する戒めではないだろうか。
 さらに、大切なのは、法華経をはじめとする仏経や日蓮聖人のご遺文を、もっと丁寧に、きちんと受けとめ、言葉とその背後にあるもの、文の底にある心のひだや動きを観つめる事であろう。日蓮聖人は、経文などの意味を解明する「文もんの心」をきわめて重視されたが、仏の心、法華経の心、日蓮聖人の心に触れ、それを少しでも自らの心に刻みつけ、如何に心を形に表わして実行に移してゆくか、という習学への姿勢を確立すべきではないか、と思う。
 宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」の詩の中で「ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」と書いている。このフレーズを今まで何となく読みすごしていたが、自分の個人的な損得勘定を計算して何かを意図的に考えたり、打算的に物事を処すといった功利的な姿勢ではなく、まさに不軽菩薩のごとき仏性礼拝の心を持って誠実、愚直に献身し、「文の心」つまり物事の真実の意味をよく見てとり、私欲を離れて素直に言葉を聞きとり、心と身に刻みつけて忘れず、しっかりと信じ、たもってゆくという習学・研究・求道・教化に欠かしてはならない信仰的な心の働き、あるいは受持じゅじのありようの根本を、この一節は語っているように思うのである。
 現宗研の研究も、「文の心」を学び、人の心や時代の心をつかみ、「心の戈」を積むことをめざしてゆくものでありたい。
 この「現代宗教研究」が、その「心の戈」の一つであることを願ってやまない。


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