日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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日蓮宗新聞[1998/03/20] ←前次→

自日 蓮420
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角田浜に三≠ィ題目
聖人の法力岸・岩・波に偲ぶ
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 佐渡に面する新潟県西蒲原郡巻町の角田浜。
 文永八年(一二七一)十月、寺泊港から佐渡流罪で船出した日蓮聖人は、強い西風のため押し戻され上陸した。近くの岩に衆生結縁と龍神供養のために、お題目の七字を書いたといわれる地。これを「岸の題目」と称し、今もその跡をとどめている。
 日蓮聖人が岸の題目を書かれたとき、一人の老翁が現れ、「この近くに大きな岩穴があり、悪蛇が棲んで住民を悩ましております。聖人の法力をもって、この害を除いて頂きとうこざいます」と懇願した。
 聖人は、この老翁に案内で岩穴の前に立つと、断崖は人を圧し、悪気がみなぎっていたという。聖人は法華経を唱え、傍らの小石に経文を記し、岩穴の中に投げ入れた。やがて悪蛇は教化に伏し、法華経の行者守護を誓い、のちに身延七面山に鎮座し、七面大天女となったと伝えられる。
 悪蛇の害が除かれた老翁は日蓮聖人にお題目の書写を請い、聖人が近くの岩に書くと、老翁も並べてお題目を記し、その下に八幡の字を書き添えて立ち去った。これを「お祖師さま八幡さま書分けのお題目」、また「岩の題目」と、呼ばれ、現在は角田山妙光寺のお堂に安置されている。
 角田浜に一泊した聖人は、次の日、佐渡へ船出したが天候が急変、今にも難破しそうな時、聖人は舷に立って竿を取り上げ、波に七字のお題目を書いた。すると、不思議なことに波間に輝くお題目が浮かび上がり、間もなく風も波も静まって、舟は無事に佐渡松ヶ崎に着いた。このお題目を「波の題目」と称する。
 角田浜は、「岸」「岩」「波」の三つのお題目で、また、七面大明神が最初に教化された地である。
 これを縁に、妙光寺が正和二年(一二九三)、三題目にちなんで一山三箇寺の一つとして、日朗上人門下の優れた九人のうち第一人者といわれた日印上人によって開かれた。
 三十五世日寿上人は、近世日蓮教学の組織者・一妙院日導上人の大著「祖書綱要」を要約した「祖書綱要刪略」七巻を檀林の教科書として宗門に貢献。さらに四十六世日苗上人は本山妙覚寺六十五世、大本山本圀寺四十八世等を経て、第十八代管長に就任。また海外布教の先覚者といわれ、宗門の名僧を歴代に仰ぐ。
 近年では五十二世日陽上人の代に本堂屋根の改修、現・小川英爾住職の代には客殿の改築等が行われ、伽藍が整備された。
 日蓮聖人が流罪の際、鎌倉から佐渡まで警護した幕府の役人に遠藤佐衛門尉藤原正遠がいた。聖人ご赦免の時、八十一歳の高齢だった遠藤氏は、聖人と現世で再会は困難と名残を惜しみ、聖人から霊山浄土での再会を約束する印を賜ったという。
 毎年四月二十八日、角田浜の隣、五ヶ浜村の遠藤家に護られている印が行列で迎えられ、ご開帳「ご判様」が盛大に営まれている。
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開山・摩訶一阿闍梨日印上人
法久山妙蓮寺
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 新潟県新津市東島に通称「島の妙蓮寺」または「金津の妙蓮寺」とよばれるお寺がある。
 日蓮聖人の直弟子で師孝第一といわれる日朗上人。その日朗上人の弟子たちが全国に教線を拡大した中でも日朗門流の九鳳または九老僧とよばれる摩訶一阿闍梨日印上人を開山とする。
 日印上人は文永元年(一ニ六四)に越後の国に生まれた。八歳で天台宗のお寺に入り、比叡山や奈良に遊学した。故郷に帰る途中、鎌倉に立ちより、比企谷の日朗上人を訪ねたのが縁となり、弟子となった。
 妙蓮寺は羽黒山の山伏の草庵をもとに創立された。法久坊・妙蓮坊の二人が布教に来た日印上人に帰依し、山号を法久山、寺号を妙蓮寺とした。
 寺伝は正応元年(一二八八)、日蓮宗宗史では正和五年(一三一六)を開創と伝えられている。日印上人が妙蓮寺にいた期間はわずか一年ほどだったが、北陸地方の中心的な寺として発展した。
 また、日印上人は法華宗陣門流の総本山・本成寺を創立したのを始め、新潟県では角田の妙光寺、寺泊の法福寺などの礎を築きあげた。
 妙蓮寺の本堂内右手に奉られている大黒は日印上人の持仏であったと伝えられている。さらに、墓地には日印上人の御廟所拝殿があり、堂内には五輪塔が安置され、日印上人の御命日十二月二十日には日蓮宗以外に法華宗陣門流本成寺の管長も参詣し、参拝者で大変に賑わう。
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御赦免着岸の地
柏崎・番神堂
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 文永一一年三月、佐渡流罪赦免の帰途、寺泊に向かう途中、暴風雨で流され着岸した地。この時、無事上陸できたことを感謝して、八幡大菩薩を主神とする法華経三十番神普益尊天を勧請、お祀りした。
 日本三十番神の随一といわれ法華三大霊場の一つに数えられる。
 お堂は市内妙行寺の所属、明治四年の火災後、三一代任欧新居日薩上人が七年の歳月をかけ再建したもので、鳳凰、桐、水波、亀などの彫刻は、桃山風狩野派最後の逸品として見事なもの。
(柏崎市西本町一―一三―一)
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柏崎市・福泉寺
 開山・六老僧日朗上人。
 もとは天台宗であったが佐渡流罪の身となった宗祖のもとへ、日朗上人がはるばる鎌倉から師を尋ね、その帰りに当地で宿を当寺に求めた。住持福泉法印が日朗の教化によって、名を日舟と改め改宗した。永仁二年に日像上人も宿泊した。
(柏崎市新橋一五―六)
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三島郡・妙本寺
 宗祖佐渡流罪の際、休息した地といわれ、宗祖が杖で地を掘ると水が湧き出たという「宗祖手堀の井戸」がある。
(三島郡出雲崎町久田三二三)
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中頚城郡・妙蓮寺
 宗祖鎌倉に帰る際、柏崎に着船し、米山峠を越え、雨池と称する池の辺りの渡辺貞良宅で休息した。
 渡辺氏は宗祖の教化によって妙法庵を創立。のちの代に妙蓮寺と改称した。三笠宮殿下ご宿泊記念のお手植え松もある。
(中頚城郡柿崎町大字柿崎六三三八)
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米山峠
 柏崎に着船された宗祖は鎌倉への帰途、三階節で有名な米山峠を越えた。
 峠の中腹の村々には法華の信仰が生まれ、のちに寺が建立された。正平寺(小杉地区)、法興寺(吉尾地区)、妙興寺(大平地区、現在は麓の米山町に移転)は当時の街道沿い、宗祖の足跡に建てられた寺院である。また、峠道には多くのお題目碑があり、宗祖の威徳が忍ばれる。
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日昭上人
開教の地
本山・妙法寺
 徳治二年(一三〇七)六老僧日昭上人が鎌倉名瀬に創建したのがはじまり。当地の領主・風間信濃守信昭が鎌倉幕府在勤中に日昭上人の教化を受けた。郷里北陸の地に法華経を弘めようと、元亨三年(一三二三)日昭上人入寂の年に懇望して鎌倉から移転、北陸弘教の根本道場とした。
 現在の地は吉野朝時代の村岡城跡。
 風間氏が寺領三五〇石を寄進、慶安三年(一六五〇)には三代将軍家光公より朱印地三五石を寄進され、本宗の本山としての寺格を整えた。
(三島郡輪島村大字村田一一二四)
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佐渡流罪
乗船の地
寺泊山法福寺
 天平年間(七五七〜七六五)に加賀の泰澄大師が草創、のちに天台宗となる。
 日蓮聖人が佐渡流罪の際、当地の代官・石川宇右衛門の館に荒天のため船待ちで滞在した。その時、当時の住職が法論に臨み折伏教化し、日伝と改名し、日蓮聖人を開山として、文永八年十月二十二日に改宗した。
 現在の祖師堂の地が石川邸跡で「寺泊御書」をしたためられた硯の水の井戸が残り、硯の井戸と呼ばれ、座敷跡には日蓮聖人獅子吼の銅像が建てられている。
 また、山上の旧法福寺跡には宗祖が佐渡を遠望し読経した時、袈裟を掛けられたという「袈裟掛けの松」もある。
(三島郡寺泊町二ノ関二七二〇)
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四条金吾自作
宗祖像祀る
大栄寺
 開山・四条金吾頼基(収玄院日頼)。
 宗祖佐渡流罪中、多くの弟子檀那が訪れたが、宿泊場もなく、困難したことで、四条金吾が寺泊に近い金鉢山に小庵を建て、宗祖健勝祈願と佐渡慰問者の宿とした。
 元禄(一六八八〜一七〇四)年間に現在地に移り、四条金吾自作の宗祖像を祀っている。二祖は、鎌倉から一子をつれ、佐渡に渡った日妙尼である。
(三島郡和嶋村両高一四二五)
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◎K

出迎え
毘沙門天
日朝寺
 もとは真言宗であったが宗祖が鎌倉の帰途の際、時の住僧が帰依し、日朝と改め、寺も日朝寺と号した。
 寛文年間にこの地に移るが、境内の毘沙門天が童子に姿を変え、宗祖を出迎えたと伝えられ、「出迎え毘沙門天」として、地域、北陸武将上杉家の尊崇を集めた。
(上越市寺町三―五―四三)
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