日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
| 日蓮宗新聞[1997/10/20] |
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自日 蓮320
◎Aのイ
統一信行会 各地で活発に
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自日 蓮320
◎A
東北信地区は南
佐久・高明寺で
長 野
【長野】平成九年度東北信地区統一信行会が九月七日、南佐久郡高明寺(坂手善正住職)で行われ、僧侶・檀信徒約百八人が参加。
開会式では、地区会長の小島●制師が「立教開宗七五〇年に向けてお題目総弘通運動をこの会の参加者が先頭になって展開していこう」と挨拶した。
続いて唱題行が行われ、本堂内に異口同音のお題目の声が響きわたった。その後、境内の供養塔に参拝し=写真●=、全員がお焼香を捧げた。
午後は金子正明師(東京都港区・一乗寺住職)が「日本人の宗教観を考える」と題して講演。金子師は「日本人が欧米型の近代化を追うあまり物質主義に陥り、本来から持ち合わせていた宗教心が失われつつある。我々は法華経の平等思想をふまえ菩薩行を実践していかなければならない」と訴えた。参加者は日々の信行の大切さを学び、毎日の生活の中での実践を誓い合った。(小島通信員)
但馬和田山町
妙法寺で開催
兵庫北
【兵庫北】宗務所(堂前貫良所長)は「但馬信行会」を九月十四日、和田山町高生田妙法寺(五太子貫晃住職)で開催し、管内各地から僧侶檀信徒が約二百人が参集した。
午前十時、堂前所長導師で開会式。引き続き、白滝清泰師(法正寺住職)の指導で約三十分間の唱題行を行った。その後、堂前隆尚師(実行寺住職)が「家庭信行」と題して法話した。
午後は、但馬日蓮宗青年会(堂前隆尚会長)を中心に和讃「日蓮聖人奉賛歌題目」を全員で奉唱。続いて、三好能生師(経王寺住職)の「日蓮聖人伝」、中島英忍布教師会長(法華寺住職)の「誓願」と題する法話が行われ、参加者は熱心に聴聞していた。
(堂前通信員)
出雲市妙蓮寺に
百二十人が参加
島 根
【島根】宗務所(岡本亮浩所長)は第二十六回檀信徒統一信行を八月三十一日、出雲市妙蓮寺(河瀬圭承住職)で行い、檀信徒百二十人が参加した=写真。
午前十時、青年会(堀江禎正会長)十二人の行脚隊到着と共に開会式。続いて藤井日恵師(石川県玉寿寺住職)が「日蓮宗と創価学会の違い、創価学会のお題目と日蓮宗のお題目の違い」「法華経と諸経との優劣」などを中心に講義した。
その後、堀江正俊声明師会会長が「信行の心得」と題し、日常覚えておけば便利な作法やしきたりについて講義。最後に布教師会の蔵本知宏師(妙法寺住職)を導師に唱題行が行われた。(工藤通信員)
七尾・妙圀寺
で宝塔懺法会
【石川二】七尾市・妙圀寺(鈴木英順住職)で六月八日、宝塔懺法会が営まれ、檀信徒多数が参詣した。
この宝塔懺法会は、本来「法華懺法」と称され、懺悔滅罪の意を表す法要で、全国的にも珍しい。
法要では本堂正面に宝塔を安置し、宝塔中央の経巻に諸霊、先祖の回向を捧げ、檀信徒も一心にお題目を捧げた。(南谷通信員)
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自日 蓮320
◎B
新発田・法華寺
本堂に感動走る
新潟東部
【新潟東部】宗務所(相沢是見所長)は護法統一信行を九月十九日、新発田市法華寺(本田義元住職)で開催した。
相沢所長を導師に法要。相沢所長の挨拶の後、専任布教師の坂井義栄師(新潟市長栄寺副住職)が「命の尊さ」と題して法話した=写真=。また専任布教師の吉田錬勝師(新潟市妙覚寺住職)指導の唱題修行が行われた。午後は常任布教師の相沢是淳師(新発田市蓮昌寺住職)の法話が行われた。
本堂は埋め尽くした大勢の参加者は、お題目の尊さに触れた感動と喜びに溢れていた。 (坂井通信員)
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自日 蓮320
◎Cのイ
加行所復帰で祝賀会
遠寿院修法道興隆めざす
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◎C
日蓮宗加行所遠寿院行堂復帰記念祝賀会が九月二十六日、東京都内のホテルで行われ、関係者二百五十人が参加、復帰をよろこび、修法道興隆に尽力することを確認し合った。
法味言上のあと、田中日淳管長猊下、永井祥文宗務総長、長瀬日還中山法華経寺貫首、祝賀会発起人代表として佐藤光春修法審議会委員長、今年度伝師に就任した阿部龍教師、顕妙会の新間智雄師が祝辞を述べた。
田中管長は今年遷化した佐久間智周岩本実相寺貫首、身延山大学前学長の宮崎英修師を例にあげ信仰を深めるきっかけが、法華経の祈願であったと述べ、修法の重要性を説いた。また、永井総長も「宗門にとって修法道の興隆は重要」と挨拶した。
式中、田中管長猊下染筆の軸「喜び」が戸田善育師(遠寿院住職)に手渡された。
第七十六定期宗会で遠寿院が日蓮宗加行所に復帰することになり、長年の懸案だった行堂の一本化がはかられた。十一月からは遠寿院、中山法華経寺で修法道錬磨のため百日間の荒行が始まる。
小学生対象に
お楽しみ合宿
山梨三・社教会
【山梨三】社教会(望月義仁会長)は、小学生を対象に「こどものお楽しみ合宿」を八月二十五、二十六の二日間、宗務所(山梨県中巨摩郡妙善寺・若林義衛所長)護持会館で開き、十人が参加した。
初めての試みだったこの合宿、開催前の不安もよそに、参加した子供たちは元気に全日程を過ごすことができた。 (野澤通信員)
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自日 蓮320
◎Dのイ
帯広 法華寺で「第51回布教院」
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◎Dのロ
尼僧を含め四十一人が研修
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◎D
【北海道東】日蓮宗の伝統的な布教方法の一つである高座説教の習練と、話術の向上をはかるために「平成九年度・第五十一回日蓮宗布教院」が九月二日から十六日までの十五日間、北海道帯広市法華寺(内山智洋住職)で開設され、一回生から六回生まで、尼僧三人を含む四十一人が参加し研修に臨んだ。
指導には内山智洋院長、岡元錬城副院長をはじめ、深沢友遠主任講師、中村智亮講師、山口顕辰、豊田慈證の両幹事、森脇智亮、坂井義栄の両助手があたった。
研修の内容は、布教師の心構えに始まり、話の組み立て方などの講義、高座説教の特徴である一定の作法「儀式」や日蓮聖人のご一代記を独特の口調で語る「くり弁」の習得、また、実習として行われる朝勤後のお説教やそれぞれの課題説教もあり、院生はくり弁の暗記、話の構成に連日深夜まで精進を重ねた。
十六日の閉院式では、内山院長、寺庭婦人、法華寺婦人会の心を込めたお世話により、全員が無事修了証を得、六回生の長井正典師、四回生の北村行清、小松靖孝、山本光明の各師が優良賞を受賞、他にも各賞受賞者が選ばれ授与された。また、五回生の関英学師、宇賀神光章師がめでたく卒業を果たした。
(北村支局長)
身延山の道場
で「僧風林」
山静教区
【山梨三】山静教区(佐々木盛英教区長)主催の僧風林が八月十九日から二十二日までの三泊四日、身延山信徒研修道場で開かれ、小学四年生から中学三年生まで六人が参加。運営は山梨三部(若林義衛所長)が担当した。
午前四時半起床、団扇太鼓で久遠寺に登詣。朝勤を参拝した後、道場ではお経練習、写経、講義、法要練習など、屋外では奥の院登詣、クラフトパークでレクリェーションを行った。
最後には、この僧風林の集大成である全林生出仕による閉林式の法要を営み、三泊四日の全日程を修了した。(野澤通信員)
十一月六日本葬儀
故宮崎英修師
八月九日に遷化した宮崎英修(得珠院日漸)上人の本葬儀が十一月六日、午後一時から、兵庫県出石郡出石町本高寺営まれる。
導師は田中日淳日蓮宗管長猊下(池上本門寺貫首)。葬儀終了後、清餐が町内の出石グランドホテルで行われる。
問い合わせは兵庫県出石郡出石町魚屋九四 本高寺(●〇七九六―五二―二六一九)へ。
(兵庫北・堂前通信員)
牛崎 海勇師(岩手県花巻市身照寺住職・権大僧正)九月二十四日遷化、九十歳。法号は一妙院日導上人。
密葬は同月二十七日、内野光徳身延山副総務を導師に営まれた。本葬は来年の春頃を予定。
師は布教師会長、修法師会長、宗務所長、身延山短期大学同窓会理事、潮師法縁岩手県支部長などを歴任。(岩手・新田支局長、梅沢通信員)
訂正 十月一日号三面の立正大学同窓会の記事中で、「卒業生が七千六百人」とあるのは「卒業生が約八万六千人」の誤りでした。
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自日 蓮320
◎Eのイ
「拝む心を持つ子らに」
保育研修熱こもる長崎大会
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◎E
【長崎】日蓮宗九州保育連盟(冨田義董会長)主催、第二十六回保育研修会長崎大会が六月二十一、二十二の両日、島原市九十九ホテルで開催、幼児教育に携わる百六人が参加した。
テーマは「子どもの心にみ仏を〜拝む心を育てよう」。情操豊かで、仏様やご先祖さまに合掌する子どもに育てる方法について話し合った。
開会式では、森下晃師(小浜町一妙寺住職)を導師に法味言上。つづいて、冨田会長から挨拶があった。遠山海光師(恵光保育園理事長)は「普賢岳火砕流から七年、地元に住む宗教家として島原の活性化に役立ちたい」と意気込みを語った。
研修会では永池知道氏(九州女学院短大講師)が「しっかりした子どもに育ってほしい!」と題し講演。参加者らは熱心に耳を傾け、メモを取っていた。
永池氏は子供の家庭生活と保育園での生活に触れ、「保育園では家庭で体験できない、多くの出会いを体験する。先生や友人との出会い、そして規則正しい生活の体験を通して、子どもたちは、自然に自立心を身につけてゆく。この自立心を身につけさせることが幼児教育の原点である」と話した。
二日目は午前七時半から朝のお勤めがあり、ご本尊に合掌して心からお題目を唱え、冨田会長の信行講話があった。
冨田会長は自身の子育て体験をユーモアを交えて話し、人間の生死について「生老病死の憂患あり」と法華経を引用、「人間はなぜ生きなければならないのか、なぜ死ぬのか」の本質について説明した。
研修の最後は、体操着に着替えて、福祉レクワーカーの馬場ハルエさんが指導。二時間たっぷりレクリエーションに取り組み、汗を流した。
飽食の現在にあって、人間として最も大切な心≠忘れようとしている子どもたちに「豊かな情操を養う」ことを誓い合い、長崎大会は終了した。(長崎支局発)
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米国ロサンゼルス
身延山別院メンバー
堀内 星子さん(六 三)
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異国での困難克服
いま「先達」の仲間入り
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「日蓮宗のお寺のあるところに住みたい≠ニワシントンからカルフォルニアに引っ越したの」と語る堀内星子さん(六三)は、ロサンゼルス身延山米国別院(金井勝海主任)のメンバー。「ところがね、ワシントンにもお寺があったのよ」と声高らかに笑う。
三度目の先達修行(九月一日から二十一日まで身延山で開催)に参加するために来日。旅費などかさむが、「法華経の素晴らしさを一人でも多くの人に話せるようになりたい」と意気揚々。
「多種多様な文化が混在している米国では、一人一人が納得いく教えを説かなければならない。金井上人も奥さんも家族みんなで、教会のために懸命に努力されてます。私も何か力になりたいと思っているんです」。教会のメンバーとして、ロスの仏教会が順番で行うリタイアメントホームの慰問を四年半にわたって手伝った星子さん。「死への恐怖を取り除いてあげることが大事。それから、とにかく今まで信仰してきた宗旨でいいから合掌する心≠忘れないでと話します」。
最近は「創価学会を離れて法華経を学びに来る人が多いですね。お会式前はみんなで桜の花を作ったりと楽しいですよ」。ラスベガスなどから四、五時間車を飛ばして来る人もいるという。
星子さんは、静岡出身、十八の頃おじ夫婦の住む東京へ。女の子のいない夫婦に星子さんは我が子のように愛された。この頃、軍で働く日系二世の巌さんと出会い、一緒に米国へ行くことになった。
しかし戦後間もない時期、両親にもさえ結婚する≠アとを話さず渡米。「おばには泣きつかれて行かないで≠ニ言われたんですけど、一年で帰って来るからね≠ニ説得して」。実は星子さん自身も「しばらくしたら一度日本に帰ってこよう」と簡単に考えていたそうだ。だが、「言葉の障壁は大きかったし、生活はなかなか安定しなかった」。むしろ帰りたくても帰れない状況だった。何から手をつければ良いか分からないほど問題は山積み。
とにかく語学力を付けるため夜間高校に通い、手に職をつけるため美容師学校に通った。幼い子どもを抱えながら「昼は洋服を縫って店に置いてもらいました。当時あまりなかった着物スタイルのバスローブなどはよく売れました。一点ものなので人気あったんです」。しかし、異国の地で星子さんを支えたのは、いつもお題目であった。日蓮宗の寺のあるところに住みたい≠ニ切望したのも、強靱な信仰があってのことだ。父親の実家が日蓮宗だったこともあるが、東京時代にも、お題目を唱えるのが楽しくて世田谷の道場に通っていたという。
そんな星子さんにも「今もまだ償い切れていない」ことがある。「おじは米国の一年は長いんだね≠ニ言って亡くなったそうです」と語りながら星子さんの目が次第に潤む。再び日本の地を踏みしめたのは、渡米してから三十年の月日が流れていた。星子さんを慈しんでくれた人は、そこにはもういなかった。「申し訳なかったという思いで一杯。取り返しのつかないことだから…」。
戦後の日本の生活環境は高度成長期を経て大きく変化した。「子どもたちはメリーランド州で蛍に大喜び。つい蛍なんてお母さんの故郷にはもっといるよ≠ニ自慢していたのですが」。その川には蛍はおろか泳ぐことも出来なかったそうだ。「素晴らしい日本、そして文化を大事にして欲しい」と話す。
先達修行では慣れない正座に苦戦しながらも、大好きな身延で二十一日間研鑽を積んだ。「財産はない、でも私の罪が残った≠ナは、子どもたちに申し訳ない」と語る星子さん。今日も「拝み合う心が大事」と信行に励んでいる。
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◆東京・深川
浄心寺A◇
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大震災弔う
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裸婦像悲し
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大正十二年九月一日午前十一時五十八分、相模湾を震源地とし、マグニチュード七・九、死者九万人、罹災者三百四十万人。ご存知の関東大震災である。
燃えたのは家だけではなく、橋も燃えた。近くの木場に浮かんでいる原木も、水に浮いている部分から燃えて、ついには水面下の部分も完全に燃え切ったという。
その木場や川に熱から逃れた人々の死体がひしめきあった。
浄心寺ではこうした死体三千百七体が荼毘にふされた。身元などわかるはずもなく、合祀することとなった。
時の東京美術学校(今の芸大)の教授・田名子実三氏が、悲しみにくれる女性像を制作し、半球のドーム形の「蔵魄塔」とした。
時代は今ほどオープンではなく、亡き人を弔うのに「女性」をレリーフにするとは何事かとクレームがついたらしい。
氏は西洋流の新しい感覚で造ったのだが、不謹慎だと物議をかもしだした。しかし、氏は押し切った、とも伝えられている。
このようにモニュメントが造られるのは良い方だった。公園やあちらこちらで荼毘にふされたものも散在していた。昭和初期、これらの遺骨を集合させて、被服廠に「震災記念塔」がたてられた。だから今ここには遺骨はない。
しかし、モニュメントの裸婦はいまだに涙にくれて、み魂によりそって泣いている。(青)
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