日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
HOME > 目次 > 資料集 > 日蓮宗新聞 > 1997年版 > 10月20日号
日蓮宗新聞[1997/10/20] ←前次→

自日 蓮220
◎Aのイ

四幅の断片が福井に
感応寺(今立町) 改装して確実に保存
++++
自日 蓮220
◎A

 またたく間に夏が過ぎ去って、秋も深くなってきた。今、この夏休みを振り返ってみると、とても豊かな研究成果に満足している。新発見の事柄などについては、また改めて記事にすることとして、ここではご真蹟についての成果をいくつかお話しよう。
 八月の下旬に、福井県今立町の感応寺を訪れ、ご真蹟を拝見した。北陸本線の武生駅から、車で二、三十分の今立町は、古くから「越前和紙」の本場としてあまりにも有名な地である。谷川沿いの工場では、今日でも良質な和紙を製造し続け、町立の資料館もあって「和紙の里」を大いに宣伝している。一度は訪ねてみたいところ。
 町中の感応寺を訪ねると、立派な宝蔵が目に飛び込んでくる。武内住職をはじめ、檀家総代・世話人の方々が見守るなかで、四幅のご真蹟断片を拝見する。それはおおよそ次のような形のご真蹟であった。
 @「の肝心を修□習玉へる上行等ノ化土現時尅相当せり云々」と二行に書かれている。寸法は、タテ二五・六a、ヨコ四a程である。
 A「鷲の山よりハ東南十万八千里の小□」と、一行に書かれている。寸法は、タテ二八・四a、ヨコ二・三a。
 B「止観八云…」とあって、『摩訶止観』第八の抜き書きが、三行に渡って書写されている。寸法はタテ三一・五a、ヨコ六・四aで、紙の裏側(紙背)にも文字が見える。袋綴じの帳面の内側に書かれた文字が、料紙を通してにじみ出ているものと思われる。
 C表面がずいぶん荒れていて読みにくいが、「其宗元祖等」の文字に、ご真蹟の特色がみえる。三行の本文に小さな書きたしがあり、なかなか読みにくい。寸法は、タテ二四・四a、ヨコ八a程である。
 以上の四幅は、いずれもご真蹟とみてよいと思われる。特にAのご真蹟は、日蓮聖人が身延山においでになった時の、誠に立派なご筆跡である。
 Bは、運筆と紙背文字があることを考え合わせると、ご真蹟と見てよかろう。日蓮聖人が比較的若い時、おそらく文永初期の抜き書きであろう。
 @はやや筆勢が弱く、Cは少し乱雑な感じがするとはいうものの、ほぼご真蹟と見てよい。断言できないケースも、時折あるものだ。
 感応寺では、四幅のご真蹟を一幅に改装して、さらに確実な保存を図るという。ご真蹟の一字一点までも大事に伝えようという、尊い信仰の営みが、ここにある。
++++
自日 蓮220
◎Bのイ

はびこる「地方主義」
政経とも問題山積 精神伝統面では豊かさ
  立正大学仏教学部助教授 高橋 堯英
++++
自日 蓮220
◎B

 今年の野球のシーズンもやっと終りに近づいた。時には異常とさえ映る日本人の野球好きと同様、インドでその野球に相当する国民的スポーツはクリケットである。
 雨季が終わり乾季が始まる十月頃になるとこのゲームのシーズンが始まる。大学内のカレッジ対校リーグ戦、各州のチームが競い合うランジット・トロフィー戦、インド代表チームがイギリス・オーストラリア・ニュージーランド・スリランカなどと総当たり戦で競うインターナショナル・テストマッチ、等々…。二回ずつの攻守で二週間もかかるクリケットの試合が、インドの新聞・雑誌を賑わし、インドのどこかで何等かの試合が行われ、子供たちは空き地で草クリケットに興ずる、という状態が、次の雨季が訪れる七月くらいまでずっと続く。テレビ中継があれば電気屋の店頭に人だかりができ、また、フルボリュームのポータブル・ラジオを耳にくっつけて歩くクリケット・クレイジーな若者の姿が至る所に見受けられるのである。
 そんなクリケットのチーム構成にも、インドの抱える問題が反映されることがしばしばある。筆者の学生時代、或年、ラージャスターン州出身の男がカレッジ・チームのキャプテンに任命されたのだが、十月の対抗戦の直前、正選手が発表されたところ、その殆どがキャプテンと同じ州出身者で占められ、「regionalism(地方主義)の典型である」といった嘲笑が一般学生の中からあがったことがあった。日本でも明治維新後の政治は、薩摩・長州の出身者による勢力争いであったといわれるが、地域主義という傾向は現代インドの抱える問題の一つであるといえよう。ある者が出世すると、その親戚縁者がその恩恵にあやかって栄える(nepotism)というだけでなく、その人物を中心に同じ言語と地域文化を共有するものたちが結束して、他の地域グループと対立する、といったことが、大学の運動部の正選手決定人事にも当然のごとく行われるのである。
 最近の経済の自由化がもたらした富の一部階層への集中など経済的な問題のみならず、カーストや宗教に起因する様々な摩擦と軋轢、そして地方主義の問題などインドは想像を絶する問題を内包する。政治的には汚職問題で国民会議派が失墜し、小党の連立によって政権が組織されて新たな政治的な試みが実施されている現状である。が、しかし、そのインドという国の精神伝統面での豊かさは他に類を見ない。日本では高齢化社会の到来とともに、今まで働くのに忙しく全く省みることのなかった老・死の問題を個々人が自らの問題として嫌でも考えねばならない時代がやって来ているが、前回とりあげた四住期の思想は、まさに「如何に生きるべきか」を示唆するインド人の知恵の一つだと言えよう。そんなインドの精神伝統が如何に社会に生かされているかを、今後とも更に学んでゆきたいと思う。

    ◇
 「インドの文化と社会」は今回で最終回です。次回から立正大学仏教学部の則武英敏講師がチベットの文化と社会を紹介します。
++++
自日 蓮220
◎Cのイ

心の持ちようでつくる地獄
 お題目で極楽浄土を
++++
自日 蓮220
◎C

      藤原 正治
 身延の練成会に参加し、橘高智光上人の「自ら作る地獄極楽」という法話を聞いた。
 極楽は西にあれども東にも 北(来た)道さがせ 南(皆身)にあるぞ
 ある武士が「あなたはいつも地獄極楽の話をするが、地獄極楽はあるのですか」と尋ねると、一休禅師は「地獄極楽はあるようであって、ないようでもある」と答えた。何回尋ねても同じ答え。武士は怒りだして刀の柄に手をかけた。
 すると一休禅師は「その姿こそまさに地獄じゃ」と一喝。武士は自分の姿に気付いて平伏したという。
 日蓮大聖人は「浄土といい穢土というも土に隔てなく只我等が心の善悪によると見えたり。迷うときをば衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」と教えていただいた。
 私たちは心の持ちようで地獄を自分に作ってしまっていると、つくづく感じた。お題目の実践によって極楽浄土をつくりましょう。
    (兵庫県美嚢郡)
++++
自日 蓮220
◎Dのイ

祖廟中心の真意とその実践
++++
自日 蓮220
◎D

 〈吹く風もゆるぐ草木も流るる水の音までも此山には妙法の五字を唱えずという事なし、日蓮が弟子檀那等は此山を本として参るべし、これ則ち霊山の契也〉(波木井殿御書)と申されたように身延山こそ吾が日蓮門下統合の総帰依処である。
 祖廟は六老僧を始めとして弟子檀那の信仰の依処であった。その末流たる私共は先師に従うべきである。平成四年十一月に国の重文に指定された日興筆「聖人御遷化記録」(西山本門寺蔵)が公開された。その内容は実に大切なもので当時の御葬儀や列の次第殊に大事なのはご墓所輪番の事が記されている。弘安五年十月十六日の筆である。文末にご遺言あり「仏者、釈迦立像を墓所の傍に立置事」が書かれている。
 これは門下にとって見逃してはならぬ要文である。昭和十八年、顕本、本門宗ら三派合同してそれが発端となって時の管長、身延山八十三世望月日謙法主によって祖廟中心の気運高まり昭和三十三年には輪番奉仕が制定されたのである。身延山法主より一日守塔職を委嘱され法主に代わって全国の寺檀が祖廟に奉仕することで正に昭和の聖業である。委嘱式を督し「霊山の契」を頂戴し祖廟に参って終わるのである。がしかしそれだけでよいのだろうかとふと思った。何か物足りない。なにかがと考えてみた。祖意はわが墓所を中心として護持せよというだけでなく、わが生涯給仕し護持し続けてきた本師釈尊へ一同奉行すべしという所が肝心だ。
 この原点を忘れてただ祖廟奉仕だけではいけない、そう言っておられるように思う。その信仰の在り方を滅後門下一同は継承すべきだというご真意と思う。〈給仕第一、信心中心〉の宗是を堅持してゆかねばならない。彼ら創価学会が「末法無仏、日蓮本仏論」を言いふらし今度大石寺離れをした途端に池田その者がまるで仏位に在るが如く振る舞うのは正に天魔波旬に魅入られた外道の所為である。末端の会員はそれとは知らず池田本仏の思いに洗脳されているような感じすらする。
 「いずれの宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず」と言われた祖師に泥をぬるものである。古来より「祖師は日蓮、大師は弘法」といわれる程にとにかく人気がある。
 日蓮聖人自身が本当に偉いからだ。自ら決して宗祖を宣せず常に〈仏使日蓮〉を貫き通された偉さが民衆にも畏敬されたものと思われる。
 稀な苦難を法難と忍受しそれでも日本国の一切衆生を乗せる大船とならん等と誓いその実践に身をもって当たられたその尊さは江戸の民衆の中に〈日蓮信仰〉を形成していったと思う。しかし私共は決して智目を濁らせてはならない。われらの本尊は久遠本師の釈迦牟尼仏である。
 思うに文永十一年五月、国諫の鉾を収め雲深き身延に入られたのは勿論滅後教団の在るべき規範を定め自ら範を示さんために他ならず、云く一給仕、二行法、三学問、これが私共門下の指針である。一代の化導(民衆への導き)とお山で日々行じられた誦経の功徳はこの虚空にも満る程だと仰言っているように不快のお身体を押してまでつとめられたのである。すべての功徳がわが身延の山にみちみちているぞとの仰せだ。参詣遙かに中絶せり、急々に来臨を企つべし=c早く来なさい早く来なさいと呼びかけておられる。さてでは輪番の実際は、儀式やお経だけでなく御廟所内に入って箒をとりお水を供え、香華を手向けてから唱題をする。私共が自分の先祖の墓参をするとき皆そうしている、この尊き霊域に於いてそれを行ずる時、言い知れぬ感激が湧いてくる。そこが輪番の本音であり以後の信仰を深めてゆく近道である。
 拙寺は必ずバスで行き必要なものを積み込んでご奉仕している。檀信徒は帰途又、ゆきたいと話している。大きな信の盛り上がりである。
いかなる人々も身延総門「開会関」をくぐりその霊気に触れて頂きたい。    (論説委員・奥田恵遠)
++++
自日 蓮220
◎X

 一三一、新弟子三人に法衣袈裟の寄進

 椴法華から来たアイヌの二少年と一少女が出家を希望し、日持上人が師僧となって入信得度させたことは、上人が蝦夷国に到来してからの最大の感激とよろこびでした。
 翌朝、上人はご本尊の前で読経唱題のあと、アトロキ少年に日初、キナタク少年には日到、少女のミカヤクには日容と「日号」を授け、日松に通訳させながらその意味をゆっくり説明しました。
 川汲大集落の大首長や遠来の首長たち、三人の新弟子の父親たちは、日本仏教のしきたりを聞いて、感謝とともに深々と拝礼するのでした。
 兄弟子となった日松は、早速に日初、日到、日容らに行儀作法とお経を教えこもうと張りきります。
 日松上人は笑いながら、
 「これこれ、そのように急いでもすぐ覚えられるものではない。ゆっくり少しずつ教えてこそ理解もでき覚えるものであるぞ」
 川汲の女性たちは、上人にお願いして三人のために法衣と袈裟を贈ることにしました。日本と違いアイヌ民族の着衣の布地は木の皮から作ります。ハルニレなどの樹皮を長くはぎ取り、沼や川に何日もさらし、繊維だけを細糸にして小さな機織機で長時間かけて織りあげます。その貴重な布地を皆で出しあって新弟子たちに寄進したのでした。
 三日目、青い頭でまだ固い法衣と袈裟をつけた三人は、大家の中の人たちに合掌し平伏しました。
 日持上人は厳然として申します。
 「仏法僧の三宝と諸天善神、アイヌ民族の神々と先祖代々の諸精霊。そしてこの蝦夷国の人びとの代表として、ここに坐る皆みながたに申しあげる。
 日蓮聖人が初めてお広めされた法華経とお題目を、この日持のかわりに三人の弟子たちがこの国に広めてゆきます。これからはこの弟子たちを私と同じみ仏の使いとして尊敬し、信仰を永く保ち続け、ともに幸福になるようお祈りして頂きたい」
 そして再びお題目の大合唱となりました。
 一刻(二時間)ほど唱題し、諸仏諸天にご回向を捧げたのち、上人は、
 「この三人を私の弟子として確かに預かり、これから当分の間、仏道修行つまり法華経の学問と修行を始めます。そのため石崎に帰って今後のことを皆で相談するために明朝船で出立いたす」
 各方面から集った首長たちも、同族の若者が上人のお弟子となり、やがてこの国に広めてくれることを喜び、それぞれの地方に帰ります。
 新弟子たちの父親は、近くの山から白樺の樹皮をはいできて、その白い表皮に筆で日号を書いて頂き、集落に帰ってから大切な守り札としました。
 帰りの舟は二艘となりました。甚平のこぐ舟には上人と新弟子三人、日松は椴法華の父親らの舟にのり、お題目の尊さを説きながらの海路でした。
 往路の半分の時間で志苔館につきました。
 志苔館の主任佐藤啓之助にこの経過を報告すると共に、秋田、糠部の情報を聞くためです。
++++

このページのトップへ▲

Copyright (c)2001-2002 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute. All Rights Reserved.