日蓮宗 現代宗教研究所
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第11回公開講座 概要開催趣旨講師紹介講演資料

神秘体験の光と陰
〜オウム真理教における霊力の虚実〜
正木 晃

オウム裁判

 2001年。21世紀を迎えた日本で、宗教にまつわる裁判が幾つか進行していた。その中で、最も私たちの関心を引くのが、東京地方裁判所で公判進行中の、オウム真理教の事件。

 これらの事件は、宗教が関係しているだけに、通常の裁判とは趣を異にしている。各種の報道などを通じて私が見聞きしている範囲でも、検察側と弁護側とを問わず、なにか勝手が違うというか、戸惑いのようなものが見え隠れする。おそらく、裁判官たちも違和感を感じているにちがいない。

 だからといって、宗教を裁判に掛けること自体が不可能などと、私は思わない。チベット仏教の偉人、サキャ・パンディタがその著『サキャ・レクシェー』で喝破したとおり、「世俗の法を犯す者は、世俗の法によって罰せられる」のが、古今東西の原則だからだ。

 法の判断原則は、その時代その地域における世間一般の常識に由来する。たとえ宗教人であっても、この原則に沿って、世間常識から見て、罰せられるべきは罰せられなければならない。免罪符はない。

 裁判を行う意味は、大別して二つある。その一つは、今も述べたように、罰せられるべき者を正しく罰することにある。基本的に罰は、殺人・傷害・詐欺などの、人間性を損なう行為という結果に対してあたえられる。

 しかし、裁判は、犯罪者に対し、刑罰の名において、公的な復讐をなす場ではない。裁判を行うもう一つの意味は、犯罪行為のよってきたる原因や動機を究明して、それらを社会的に認知させ、同種の犯罪が再発しないように努めることにある。この究明は、罰をあたえるよりも、むしろ大切なことであって、これがしっかりなされないと、再発を防げない。

 

世間常識では見えぬ領域

 普通の裁判であれば、人間性を損なうさまざまな行為が生じた原因・動機も過程も、世間一般の常識で、ある程度まで理解し、判断できる。男女間の傷害事件なら愛憎が原因で、詐欺事件なら金が欲しいという動機で、犯罪行為におよんだのだろうと、およそのところなら、推測できる。無論、犯罪者ひとりひとりの内面において、どんな事態が生じていたのかとなると、その心の襞まで簡単に理解できるとは思わないが、それでも、当たっているか外れているかは別として、想像するくらいはできる。

 しかし、宗教が関わった事件になると、とたんに全然見えなくなってしまう領域がある。例をあげれば、名古屋地方裁判所で公判が行われた高野山妙覚寺の、いわゆる霊視商法事件の場合、被告たちが金目当てで、あんな事件を起こしたことは理解できる。その点では、よくある詐欺事件と同種なのだろう。だが、かくも多くの被害者たちが、二十億とも三十億ともいわれるほどの金を唯々諾々とだまし取られた理由となると、大方の人々にとって、理解の埒外にあるにちがいない。つまり、加害者側の心理は読めても、被害者側の心理は読めないのである。

 オウム真理教の事件にしても、麻原はしばらく措くとして、彼の下にいた多くの知的エリートたちが、地下鉄サリン事件をはじめ、あんな惨劇をなぜ引き起こしてしまったのか、その原因はいまだ判然としない。社会学者や心理学者に代表される識者と称する人々が、あれこれ論じてはいるが、納得できる解答には出会っていないと感じている読者も多いと思う。

 たとえば、独裁的で暴力的な支配が組織全体を貫き、上からの命令に逆らうことは即、死ないし死に準ずる結末を予想させた可能性もあろう。かつて連合赤軍を名乗る極左組織が、浅間山山荘で警官隊とライフル銃で撃ち合うという、衝撃的な事件を引き起こしたことを、覚えておられるだろうか。彼らは、社会から孤立し、雪山を転々とする過程で、トップに逆らったり、気に入られなかった構成メンバーを、粛正の論理を振りかざして、次々に抹殺していった。オウム真理教はそこまではいかなかったものの、絶対の権力者である麻原と側近たちとのあいだには、組織と心理の点で構造的に、連合赤軍の場合と、或いは似たところがあったのかもしれない。

 ところが、いま指摘したばかりの、独裁的かつ暴力的な組織構造も、ではなぜ、そんな組織が生まれたのかと問われると、的確な解答は用意しにくい。たぶん、惨劇の原因は、一つではなかったのだろう。いろいろな原因が複合した結果、惨劇に立ち至ったとみなした方が的を射ている。しかも、それら原因の根っこの部分には、さきほどから再三にわたり言及してきたごとく、世間常識では捉えられない宗教に特有の領域がわだかまっている。

 

「生な」現実・「生な」宗教

 では、世間常識では捉えられない宗教に特有の領域とは何か。少なくとも、オウム真理教や高野山妙覚寺に関わる領域とは何か。

 私は、それは「霊力」だとおもう。もしくは超能力といってもいい。いずれにせよ、世間一般の常識では、絶対にありえないと信じられている類の力にほかならない。もっとも、こと宗教の世界では、元来、霊力と完全に無縁な宗教など、存在しない。ひとり仏教のみならず、いかなる宗教においても、その根っこの部分には、霊力がわだかまっている。キリスト教でもイスラーム教でも霊力に起因する奇跡伝承は枚挙にいとまなく、もしそれら奇跡伝承を荒唐無稽と葬り去ってしまえば、(近代合理主義的な解釈ではまま行われてきたが)、キリスト教もイスラーム教も、いわば滓しか残らないだろう。

 この霊力は、仏教の歴史においては、「神通力」という常套句で表現されてきた。解脱をめざす修行の過程で、いわゆる神秘体験の結果として得られるとされてきた力である。

 例をあげれば、大乗仏教を代表する論書として知られる『大智度論』には、神足通(空中飛行・テレポーテーション・変身など)・天眼通(透視)・天耳通(テレパシー)・他心通(読心)・宿命通(未来予知)・漏尽通(悟りの力)の都合六つが提示されている。改めて言うまでもないが、仏教はこれらの神通力を否定してはいない。

 霊力は、解脱をめざす修行の過程において、その修行が成就もしくは成就に近い状態になったとき、発現するとされる。修行の成就もしくは成就に近い状態とは、別の表現を用いるなら、必ず神秘体験の形態をとらざるを得ないから、霊力とは、神秘体験の所産と考えることができる。

 その霊力そのものは、本来なら、プラスの価値をもつとみなしていい。それは、日本密教の二大聖典の一つである『金剛頂経』に、いちはやく解脱して霊力を獲得し、その力を駆使して衆生を救済せよ、と説かれている事実からもわかる。前述の『大智度論』における霊力論からも、同様の趣旨が読み取れる。したがって、霊力は神秘体験の光の領域に属すといえそうである。

 ただし、仏教における霊力は、それを駆使する人間が高い宗教的人格を備えていることが必須の条件となっている。もし仮に、そうでない場合、つまり高い宗教的人格を欠落させた人間が、突出した霊力を行使したらとしたら、どうなるか。

 結論から先に言わせていただくなら、オウム事件も霊視商法事件も、その仮定が実際に起こってしまった実例にほかならない。その意味からすれば、霊力はマイナスに機能したのであり、神秘体験の陰の領域になってしまっている。

 しかも、こともあろうに、かれらは霊力だけを売り物にしていた形跡がある。オウム真理教の場合、解脱を志向していたことは否定できないものの、信者の多くが霊力の発現に大きな期待をいだいていたことも、諸般の報道から、明らかだ。

 最大の問題は、いま、なぜ、日本で、霊力だけを売り物にする宗教が事件を引き起こしつつあるのか、である。

 もちろん、これらの霊力だけを売り物にする宗教は、宗教としては粗野であるといっていい。あるいは、「生な宗教」といっていいかもしれない。しかし、何故に、そうした粗野で生な宗教に、人々が魅了されてしまうのか。それを考えなければならない。

 これは、あくまで私見にすぎないが、ひょっとしたら、現代人の大半は、これまで人々の精神形成に大きな影響をあたえてきた哲学や芸術を、見限ってしまったのではないか。少なくとも、哲学や芸術は、現実世界のさまざまな葛藤に苦悩する人々を救い癒す力を喪失してしまったのではないか。

 いいかえれば、哲学も芸術も、現代人の大半にとっては、もうすでに迂遠な存在なのだ。政治においても経済においても、権威を誇ってきた指導的立場の人間たちが、じつは低俗な欲望にまみれた愚物でしかなかったという事実が、まさに「生な」かたちで私たちの眼前に露呈している。こうした「生な」現実に、ちょうど釣り合うように、「生な」宗教が勢いを増す。そんな事態が、いま、日本で進行しているような気がしてならない。

 

ヘッドギアの真実

 霊力の問題を論ずる前に、オウム真理教が開発した、通称ヘッドギアについて、私が入手した情報をお知らせしておこう。ヘッドギアをめぐる問題は、いかに人間がある種の刺激に敏感に反応するか、という事実を最も端的に示す好例であり、ひいては霊力の問題とも密接にかかわっているからだ。

 ヘッドギアは、オウム側の触れ込みによれば、頭に装着した信者の脳波を、教祖麻原の脳波に同調させる機能があるとの由だった。値段は一台、一千万円以上もした。テレビ各局の報道で、ヘッドギアを四六時中、装着した信者の姿をご覧になった方も多いだろう。あれを見た人々の反応は、ほぼ決まっていた。「なんと馬鹿げた話だ!」というのが、共通の反応だった。頭に装着するだけで、他人の脳波と同調するなんて、まるで子供だましもいいところだと、みな思っていた。識者の中にはヘッドギアを俎上にのせた人もあったが、「あんなもの効果があるわけがない」というのが前提で、そんなギミック(まがい物)を後生大事に頭に装着している「幼稚で気の毒な」オウムの信者たちの心理を、宗教社会学的に分析してみせるのがせいぜいだった。正直いえば、かくいう私も、つい最近までヘッドギアが有効だったとは露知らなかった。ところが、ヘッドギアは有効だったのである。

 ある週刊誌、編集部の依頼を受けて、ヘッドギアの性能を電子工学の立場から解析した大学教授(知能情報工学)から、私は以下のような情報を得ている。

 「自分は麻原の脳波を測定したことがないので、ヘッドギアが同調させようとしている当該の周波数の脳波が麻原のものか否か、は判定できない。しかし、ヘッドギアには、電子的に極めて高度なメカニズムがあり、ある一定の周期で周波数を徐々に変調させ、その変調作用をある一定のリズムで繰り返すことにより、装着した人間の脳波を、特定の脳波に収斂していく効果は確かにあった。部品の多くは新たに設計されたもので、台湾製が主。開発者は故村井氏とされているが、全体の設計は世界に類例がないオリジナルなもので、彼ひとりが開発に携わったとは考えにくい。おそらく、大学の研究室をはじめとする外部の協力者が複数いたのではないか・・・。」

 (この情報は、某編集部によってボツにされた。彼らは、あくまでヘッドギアがギミックだったという結論が欲しかったのであり、事前の想定を否定する結論が出たために、報道はされなかった。この経緯には、自分たちの見解に添わない事実は隠蔽していっこうに恥じない日本のマスコミ・ジャーナリズムの、いかんともし難い病弊が、きわめて端的に示されている)

 こう申し上げても、大半の方々には信じていただけないだろう。しかし、考えてみていただきたい。先日起こった、例のアニメ・ポケットモンスター(ポケモン)事件では、ほんの四秒間、青と赤の色彩がテレビ画面上で激しく点滅しただけで、たくさんの子供たちがてんかん発作に近い症状を呈した。その多くは光刺激性てんかんの素因をもっていたらしいが、中にはそうした素因がないにもかかわらず、失神したり気分が悪くなったりした例もかなり報告されている。

 この事実は、人間の脳がある種の刺激ないし情報に対して、思いのほか弱い、もしくは敏感だということを物語っている。ポケモン事件は光だから、ヘッドギアとは異なるという意見があるかもしれない。

 だが、本当は、人間の脳は、光以上に、ある種の特殊な刺激にも敏感に反応してしまうのである。

 

霊力の実態

 拙著『密教の可能性』(大法輪閣)の第十二章「神秘体験(5)霊的治療」や第十四章「悟りと超能力(1)」において、私は、いわゆる「手かざし」が被験者に、精神医学ではサイケデリック体験と呼ばれる深い心身体験を生じさせることを記した。ご報告した事例以外でも、類似のケースは多々ある。

 著者自身のことを述べるのはいささか気が引けるが、こういう話をする以上、著者の責任として申し上げておこう。

 実は私自身、この種のことを実行することがあり、全ての人がそうなるとはいわないまでも、かなりの確立で被験者に、通常ならざる状態が生ずる。意識の喪失、異様に深い睡眠、筋肉硬直、そして前述のサイケデリック体験とみなしうる心身体験などだ。

 私の方法は、インド密教やチベット密教などでは、俗に「シャクティ・パット」と呼ばれるものが中心で、この場合は相手の眉間のやや上や頭頂に、親指や中指を軽くあてる。ときには手を離して、いわゆる「手かざし」もする。内蔵や怪我なら、当該の部分に指や手のひらを当てたり、かざしたりもする。

 偶然の機会からこの種の行為ができることを知った私は、心身を病む方を治療する目的で、時々実行する。高血圧で苦しんでいた方に実行したところ、ほとんど瞬時に血圧が四十も下がった例もある。また、指をあてた瞬間に意識を喪失し、指を離すと瞬時に意識が回復した例も複数あった。ほんの三十秒ほどで、表層の意識が失われ、全く別の人格があらわれたこともある。極端な例では、地獄と極楽らしきところに行ったと訴えた方がいた。

 麻原が「シャクティ・パット」を得意にし、信者たちの絶大な支持を得る原因となっていた事実は有名だが、私の経験からしても、他者の意識状態をある程度コントロールすることは、不可能ではないようだ。最もそうしたとき、私の指や手のひらで、一体何が起こっているのか、皆目わかっていない。相手がさまざまな様相を呈する理由もわかっていない。ただ、自己暗示では済まない事態が生じていることだけは確かだ。

 世界救世教や崇教真光などの「手かざし」系の新宗教では、病気直しが布教の最も協力な手段になっている。これらの教団を対象とするフィールドワークを実施するにおよび、私も、実際にガンなどの難病が治癒ないし軽癒の状態になった事例をいくつも見た。

 ひとつ例をあげておこう。○さんは喉の動脈のすぐ近くに悪性の腫瘍ができ、聖マリアンナ医科大学付属病院に手術のため入院した。しかし、場所が場所だけに手術では腫瘍を取り切れなかった。担当医師は、術後、抗ガン剤治療ならびに放射線治療をすすめた。それらの療法の有効性に疑問を抱いた○さんは、つてをたどって、世界救世教鎌倉教会の前教会長だった松田妙子氏(68)による「手かざし」を受けた。その結果、ガンの進行が止まり、○さんは立派に社会復帰し、いま現在も極めて元気である。彼の場合、喉の動脈のすぐそばにできた悪性の腫瘍が「手かざし」のおかげで、他の組織と共生状態となり、消滅もしないが増殖もしないという不思議なことになっている。

 

霊力乱用を防ぐために

 以上の事例から考えると、高野山妙覚寺が引き起こした霊視商法事件でも、現実に病気が治癒したか軽癒したことがあったのではないか。極く少数の例にとどまったのかも知れないが、よい結果が出て、その結果を伝聞した人々が、「私も治る可能性がある」と藁をもすがる気持ちで頼ったために、あのような顛末を招いたのではなかったか。治療実績が全然なかったならば、かくも多くの人々が、かくも大きな金額を、一宗教法人に支払ったとは思えないのである。

 麻原にしても、少なくともある段階までは、強い霊力を発揮していたらしい。私が「オウム神仙の会」の頃からの信者たちから得た情報によれば、先に挙げた「シャクティ・パット」以外にも、麻原は盛んに霊力を誇示し、奇跡としか考えられない行為をなしたという。それらの話が、すべて事実とは思えないが、かといって全部が全部うそともおもえない。

 つまり、高野山妙覚寺の場合は霊力による治療行為の実績が、オウム真理教の場合は麻原の霊力による奇跡的行為が、彼らの、いわば「聖なる権力」の源泉となった。この「聖なる権力」を乱用することで、高野山妙覚寺は多額の不正な金銭を得、オウム真理教は金銭のみならず、史上例のない惨劇を演じてしまったのである。

 すでに『密教の可能性』において、再三にわたり指摘したとおり、霊力の発見に関しては、次の二点を認知する必要がある。

 @霊力(超能力)は実在する。

 A霊力は(超能力)は人格とは無関係に発現する。

Aについては、表現に語弊があるが、霊力とは、要するに「体力」系の力とみなしていいところがあるという意味だ。すでに触れたように、密教の聖典『金剛頂経』などを読むと、解脱するか解脱に近い境地に達すると、霊力が発現するとあるが、いつもそうとは限らないようだ。生まれつき霊力を持ち合わせている人も、なかにはいる。あるいは、偶然の、ちょっとしたきっかけから、霊力を獲得する人もいる。問題はこの種の人々だ。本当の意味での宗教的な訓練ができていないものだから、乱用して、今回のような結果を招きがちなのである。私が専門としてきたチベットや日本の密教史を俯瞰すると、密教はこのような人々にどう対処するか、苦闘してきたようにみえる。

 

暴発する霊力

 オウム真理教が関わった事件といえば、地下鉄サリン事件と松本サリン事件という大量殺人の問題がまずあげられる。その前には、坂本弁護士の拉致・殺害事件があり、ほかにも多くの拉致・監禁、そして殺害事件があったと報道されている。

 そのたびにマスコミを賑わせ、一時は流行語と化したかの趣のあった「ポアしなさい」という言葉。この言葉を麻原彰光は、要するに「殺害する」という意味で用いていたらしい。

 もともとこの「ポア」なる言葉は、チベット密教で、生命の根源あるいは霊魂を、自分の肉体から抜け出し、ホトケの中に移し変えて、成仏を遂げることを意味した。そのための特殊な瞑想修行の方法も開発され、今に伝えられている。

 この修行では、まず心臓の中に、根源的な生命エネルギーあるいは霊魂(第六識)である微細な粒子(ティクレ=滴)が飛び跳ねていると観想する。また、眼前に出現したホトケ(阿弥陀如来)の心臓から鈎状の光が発し、修行者の頭頂部の穴(ブラフマ孔)を通って修行者の肉体の内部に入り、ティクレを鈎の部分で引っ掛けると観想する。

 すると、ティクレはヒックという音とともに喉から眉間、次いで額へと上昇してゆき、ついにはペットという音とともに頭頂部の穴(ブラフマ孔)から抜き出され、ホトケ(阿弥陀如来)の心臓の中に溶け込み、成仏を遂げる。ちなみに、この修行は中級程度のものとされ、チベットでは僧侶のほか在家の一般人でも行ずる場合がある。

 これでおわかりのように、「ポア」はむしろ「移魂」とでも訳すべき内容の修行であって、麻原が使った「殺害する」などという意味はない。

 では、チベット密教に、麻原が使ったような意味の行法がなかったかというと、それに匹敵するものが存在した。「度脱法」である。

 この行法は、ヴァジュラバイラヴァ尊(ヤマーンタカ=日本密教の大威徳明王にあたり、文殊菩薩の化身とされる)を主尊として営まれ、悪人がそれ以上悪を重ねないうちに、慈悲の心をもって呪殺し、ヴァジュラバイラヴァ尊の本体である文殊菩薩の浄土に往生させるのである。まさにこの論理は、麻原が自らの殺人行為を正当化するのに用いた論理そのものといっていい。

 度脱法は、十一世紀から十四世紀にかけての時期、チベットで猛威を振るった。とりわけ、翻訳官ドルジェータク(十一世紀中頃〜十二世紀)は、この行法を駆使して、彼に敵対した人々を次々に呪殺したと伝えられる。

 ここで問題なのは、ドルジェータクが単なる悪人や狂人ではなかった点だ。彼は、翻訳官という名称からもわかるように、極めて優秀な翻訳僧であり、八世紀以降インドで展開した新しいタイプの密教をチベットへ流通させる上で、大きな役割を果たした人物だったのである。

 ある伝承によれば、ドルジェータクは、持戒堅固な清僧で、彼を妬み貶めようとする人々を、慈悲心からやむなく度脱法で往生させたという。また別の伝承によれば、清僧のような顔をしながら、その実は戒律を無視して女性との性行為を導入した修行法(性瑜伽)に血道を上げる人物で、その秘密を知った人々を次々に呪殺したという。

 一人の人物に全く異なった伝承が残されている背景には、おそらくドルジェータクが盛んに駆使した度脱法に対する、ひいては密教に対するチベット人たちの複雑な心情が想像される。というのは、こんな事情があるからだ。

 実はヴァジュラバイラヴァ尊は、チベット仏教史上における最大の人物というのみならず、全仏教史上における最後の超巨人ともいうべき存在であるツオンカパ(1357〜1419)の守護神でもあった。特にツオンカパは晩年、健康を損ねたとき、このホトケを奉じて寿命を延ばすことに成功したと伝えられている。

 ツオンカパといえば、チベット仏教界の最大宗派たるゲルク派(徳行派)の宗祖にほかならない。ダライラマを擁し、世界の宗教集団のなかでも、最も厳格な戒律をもつことで知られるこの宗派の守護神も、当然ながらヴァジュラバイラヴァ尊である。ただし、ゲルク派では、宗祖の故事にちなんで、このホトケをもって死を克服する行法の主尊としてきた点が、このホトケをもって死を招く行法の主尊としたドルジェータクとは全く異なる。

 要するに、ヴァジュラバイラヴァ尊は、奉ずる人次第で、生命を絶つことも、生命を守ることもできるとチベット密教ではみなされてきたのである。こうした二面性は、このホトケに限らず、密教全般に常についてまわる。

 日本でも似た話はある。例えば、調伏法である。歴史的な事例をあげるなら、後醍醐天皇が妃の安産祈願にかこつけて、鎌倉幕府の滅亡を三年間にわたって祈り続けたことが、近年、中世史の研究者のあいだで話題になっている。

 近くは、太平洋戦争中、真言宗の有力寺院のいくつかが、怨敵調伏を祈願した。戦後になってから、当時のアメリカ大統領だったルーズベルトが終戦を待たず死んだのは、自分たちの調伏が成功したからだと語った僧侶もいたと聞く。

 私自身も、文化庁で長年にわたり、文化財の保護を担当していた尾崎元春氏(故人)から、京都の東寺の収蔵庫を調査していたとき、不思議な形の護摩壇(三角護摩壇)を見つけたので、寺僧に尋ねたところ、戦時中に調伏のために築いた護摩壇だという返事があったと聞いた。今となっては、事の真偽は確認しがたいが、たかだか半世紀ほど前の段階で、真言密教のなかに、人を呪い殺す行法が存在したことは、少なくとも存在すると当事者たちが認識してきたことは否定できない。

 後醍醐天皇にとって、鎌倉幕府打倒は正義の実現であったろう。戦時下の日本人僧侶にとって、敵国の大統領を呪い殺すことも正義の遂行であったろう。しかし、この種の行為には、本来宗教としては許されざる忌まわしさやおぞましさ、もっといえば「昏さ」が付きまとう。この「昏さ」は、霊力を前面に押し出す宗教には、どうしてもついてまわる。

 

真摯な霊力研究の必要性

 かくて、@とAと総合すると、こんなことがいえると思う。すなわち、「たとえ霊力があるからといって、その人が真に宗教的な人格とは必ずしも断言できないから、注意すべし」

 霊力乱用を防ぐためには、まず第一に、この事実を肝に銘ずる必要がある。

 冷静に考えてみれば、二十世紀も終わりになって、霊力にまつわる問題が噴出してきた理由は、これまできちんと霊力について研究してこなかったゆえにほかならない。明治以降、悪い意味で西欧キリスト教の影響を受けて、宗教を哲学や倫理・道徳のカテゴリーに閉じ込めてきたつけが、この期におよんでまわってきたのである。

 もともと限定条件付きの真理である科学を、批判を絶対に許さない新たな信仰に位置付けたことも、まずかった。というより、西欧の科学精神を真に理解できない、近現代日本の技術主義が、かかる結果を招来した。私たちが遭遇するさまざまな現象のうち、医学も含め、現行の科学でわかっていることは、ほんの僅かな部分でしかないのにもかかわらず、現行の知識で説明できない現象は実在しないと断言してはばからない、自称「科学者」がなんと多いことか。説明できないことは否定するのではなく、判断を保留しておくのが、真の科学精神なのに、である。

 日本仏教が、明治維新以来、衰退し、かわっていわゆる新宗教が台頭してきた原因も、こうした霊力忌避にある。新宗教は、近代化する以前の仏教が担っていた霊力による人々の救済を、仏教にかわって担うことで、勢力を広げてきたのである。状況は、いまもさして変わっていない。

 さらに、オウム裁判や、霊視商法裁判に関して、私が一番危惧している点は、報道する側のマスコミ・ジャーナリズムに、霊力を忌避している気配が濃厚なことだ。一部には、霊力や超能力といおうものなら、あたかも親の敵といわんばかりに、躍起になって否定しようとする人々さえいる。もちろん、宗教界のほとんどにも、同じ傾向が感じられる。

 もっと問題なのは、裁判の当事者たちである弁護側も検察側も、そして裁判官たちも、みな揃って霊力の実在など、頑として認めようとしない点だ。もしくは、霊力の実在を不可知論にもっていこうとする点だ。これでは、オウム事件も霊視商法事件も、その本質がいっこうに見えてこず、したがって再発を防げない。

 もっとも、こうした傾向は日本仏教ばかりではない。インドやネパールに亡命したチベット仏教でも、いま現在、よく似た事態が進行中だ。宗派にもよるが、彼らもまた、自分たちの宗教的伝統から、神秘的と思われがちな部分を、可能な限り、取り除こうとしている。それこそが、宗教の近代化だといわんばかりに。この風潮では、チベット仏教も、早晩、形骸化するかもしれない。

 繰り返すが、霊力は解脱をめざす修行が必然的に招来する神秘体験の所産であって、霊力だけを求める筋合いのものではない。しかしながら、人々は救いや癒しを求めて、霊力に熾烈な期待をかけてきたし、いまもまた、かけている。その意味で、霊力の研究は宗教研究にとって、不可欠の領域となるはずである。

 こうした研究の中から、人々を本当に救い、癒すものが見出せれば、これに過ぎる幸いはない。やはり、「生な」ばかりの粗野な宗教では困るのである。

 


※この原稿は平成13年11月29日(木)大田区池上本門寺朗子会館において開催されました日蓮宗現代宗教研究所主宰「第11回公開講座」講師正木晃先生より配布されたレジュメを現宗研デジタルプロジェクトがテキストに編集したものです。

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