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現宗研だより 宮澤賢治の宇宙(2) −いま、「デクノボー」という在りかた−
日蓮宗現代宗教研究所所長 三原正資
五月十二日夜、その日伊東市仏現寺で奉行された宗門法要伊豆法難会から帰った私はテレビをつけて、NHKの「歴史秘話・ヒストリア『サラリーマン宮沢賢治』」をみた。晩年、とは言っても三四歳の賢治は東北砕石工場に技師として勤めた。彼は石灰を肥料として普及させ、米の収穫量を増やし農民の暮らしを少しでも向上させたいと考えていた。石灰の見本を持って売り込みに歩く賢治の姿を、テレビはホウ(報告)・レン(連絡)・ソウ(相談)を欠かせない現代のサラリーマンと二重写しに描いていた。
「雨ニモマケズ」をサラリーマン賛歌としてとらえ、現代人の共感を得ようとしていた。しかし、そのためだろうか、「雨ニモマケズ」が生まれた背景である法華経信仰についての言及がまったくなかったことは、残念としか言いようがない。これほど強く宗教を排除することが、果たして文化を正しく理解することになるとは思えないが…。
さて、室住一妙先生(一九〇四〜一九八三)のことである。先生は一八九六年生まれの宮沢賢治の同時代人といってもよいのではないか。遺稿集巻末の略歴によると、先生は一九三三年に立正大学研究科を修了されている。同年に亡くなった賢治と先生とは、東京の路上ですれちがっていたかもしれない。同時代の空気を吸っておられたことは確かではないか。
初めて教えを受けた一九六四年頃、先生は身廷山短期大学教授であった。自坊をもたない先生はサラリーマンであり、ヨレヨレのコート姿といい、やはり、私にはあの有名なコート姿の賢治とダブって見える。
先生の略歴を拝見しながら遺稿集『純粋宗学を求めて』をひもといていると、不受不施派の妙覚寺日奥師の「自身ノ三信」が引用されていた。
一ニハ成仏ハ首題之五字二之レ有リト信ス
二二ハ学問成就ハ御書ニ之レ有リト信ス
三ニハ諸苦ハ貪欲ヨリ之レ生スト信ス
此の義、刹那モ忘ルベカラズ
「第一条は信心の極意をつかんでいる」(遺稿集五三二頁)と先生は記されている。この三ヶ条は先生の信念でもあったにちがいない。
「先生、ご本尊は何ですか?」
先生のお宅にひと晩ごやっかいになり、翌日先生と一緒にバスで身延山の学校へ向かったときのこと、バスが総門に近づいたとき、私は先生におたずねした。
「先生、ご本尊は何ですか?」
たぶん私は、それはお曼茶羅だよ、とか、あるいは、お釈迦様です、という答えを期待していたのだと思う。(そういうことを臆面もなくたずねてみたい年頃なのだ)
それに対して先生は
「それは自分で考えることだよ」
と答えられたことを、今でもはっきり覚えている。
きっと、それを考えることが信仰であり、学問なんだろう、と私は今まで思っていたが、近頃『現代宗教研究』、すなわち研究所の所報を読んでいた私は、先生のつぎのようなことばに出会った。それは一九六七年発行の所報一号の中の「ろんぎについて」に述べられていた。
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「御本尊は議論の対象にしてはいけない」といった古人の話が出たが、誠に御モットモである。しかし、そういう御本人がやはり盛んにギロンされていた事実は、之も亦やむをえないことなのであろう。
「一エンブダイ第一」という境位は、古今の賢聖の体験境を超えているというイミである。その本質に対して論議・研究で肉迫しようというのが、不可能な対象を可能と誤信して仕かけた演戯である。
またよくきく言葉だが、「本宗は本尊がまだ定まっていない。」とさも、よそごとのように他人のせいにしている。ほんとうは、自分たちの信心が決まっていないからそう見えるのだし、また、そんなことばを恥
ずかしげもなく言えることこそ、宗祖に対して申し訳がない。(二三〜二七頁)
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総門を入るとき、バスの中で合掌する私に、先生は、きっと、これから身延山の総門に入るうとする者が「ご本尊は何ですか?」もなかろう、と思われたにちがいない。「いったい、君は何に向かって手を合わせていたの?」と逆に私に仰りたかったのではないだろうか。
七面山での出来事
一九六五年頃の秋の彼岸のことだった。学生はみんな七面山へ登詣する慣わしだったのだろう。十六、七歳で血気さかんな私たちは、まず身延山思親閲に登り、それから尾根伝いに十万部寺を経ていったん下り、再び七面山へと登った。
五十丁のお山の半ばにさしかかったころ、前方にゆっくりと登る室住先生のお姿が見えた。何をしているのだろう、と思ってよく見ると、先生は前日の風雨で落ちた木の枝などを脇に片付けながら登っている。
私を見ると先生は「ちょうど良いところに来た。君も落ちた枝を片付けながら登りなさい」と仰った。少しでも早く七面山の頂上に着きたかった私は内心たいへん不満だったが、仕方なく、言われる通りに落ちた枝を横の方に放り投げながら、先生と一緒に登ったのだった。こんなことをして何になるのだろう?たいしてきれいになるわけでもなく、風が吹けばまた枝は参道に落ちるだろう。まったく意味がない!とつぶやきながら。それにかたわらを通り過ぎる一般の参拝者は、いったいこの二人は何をしているのだろう、とけげんなまなざしを私たちに投げかけては登っていく。あの人たちのようにお題目を唱え、太鼓をたたきながら登っていく方がよいではないか。先生はまったくつまらないことをなさっているのではないかと思い、この出来事は長く私の記憶の中に残った。
見れども見えず
身延山高校を出て立正大学に進んだ私は、それなりに都会の生活を楽しみながらも、日蓮宗宗務院と池上本門寺で開かれていた紀野一義氏の講演をときどき拝聴した。
日蓮聖人のことのみ語られた室住先生と比べて各宗祖師方のみならず古今の思想家の話もまじえて信仰体験を語る細野一義氏は新鮮であり、魅力的だった。そうした講演の中で、私は良寛禅師の詩の魅力と出会った。なかでも、私の心を捉えたのが次の詩である。
仙桂和尚真道者
貌吉言朴客
三十年在国仙会
不参禅不読経
不道宗文一句
作園読養大衆
当時我見之不見
遇之遇之不遇
叶放之不可得
仙桂和尚真道者
仙桂和尚は真の道者
貌は古にして言は朴なるの客
三十年国仙の会に在りて
禅に参ぜず経を読まず
宗文一句すら道はず
園蔬を作って大衆に供養す
当時我之を見れども見えず
之に遇い之に遇へども遇わず
呼吁呼唯今之に放(なら)はんとするも得可からず
仙桂和尚は真の道者
『定本良寛全集』(中央公論新社)第一巻五七〇頁
良寛(一七五八〜一八三一)は新潟県の人。岡山県玉島の円通寺で修行した。師は国仙和尚。仙桂和尚は良寛がその頃知った修行者の一人だろう。仙桂は円通寺にあって、参禅・読経はおろか、宗門の書物をひもとくことさえなく、ひたすら毎日黙々と畑を耕しては、修行仲間のために野菜を育てていた。その頃の良寛は、そうした仙桂をみて、内心軽んじることもあったのではなかろうか。彼を見ても彼の真の価値を見ることができなかった、と晩年の良寛は述懐している。
おそらく良寛は、一心に座禅を行ない、曹洞宗の祖師の書物を理解することが、修行者の務め、あるべき姿と信じていたのだろう。(良寛は法華経に親しみ『法華讃』をのこしている。詩の中の「不読経不道宗文一句」や「見之不見」は不軽品や寿量品を背景にしていると思われ良寛の学問の跡を見ることができる。)しかし、円通寺を去って諸国を放浪し、故郷に帰ってきた晩年の良寛は、いつしか畑でクワをふるっていた仙桂こそが真に仏道を歩んでいた者だと覚ったにちがいない。
仙桂和尚を追慕した良寛の詩を読みながら、私は七面山で木の枝をひろっては片付けていた室住先生の姿を思い起こしていた。先生は参道に落ちている木の枝を見て仏さまの道場を少しでも清浄にしたいという止むに止まれない気持ちで、ごく素直に拾って歩かれていただけだったのではないか。それは先生の信心の発露、学問の姿だったのである。仙桂和尚にとっては修行・学問とは野菜を作ることであったように。しかし、傍らを通りすぎる普通の人にとっては、仙桂和尚や室住先生は「デクノボー」のように見えただろうと言っては言い過ぎだろうか。
その頃の私には、当然のことながら、先生の姿が見えていなかった。「見れども見えず」であった。
宮沢賢治の場合も同じである。教師、農業、サラリーマンをしながら、宮沢家の宗旨を捨ててお題目を唱え、童話や詩の創作にうちこんだ賢治を、周囲の人はどのように見ていただろうか。「誰にも認めてもらえず、いつも悲しそうな顔をしていました」と昔の教え子がテレビの取材に応じて語っていた。いてつく花巻の街をお題目を唱えて寒行して歩く姿を見た人々は「宮沢家のバカ息子が!」と噂したとも伝えられている。
当時、たいへんな貴重品だった蓄音機を所有し、べートーヴェンやチャイコフスキーのレコードを数多く収集し、地元の人々に聴かせたという。五月十二目のNHK「歴史秘話」では、賢治が珍しい野菜や花をリヤカーにのせて花巻の街を売り歩く姿を伝えていた。リヤカーは当時農民が手にできるはずもない高級品であり、珍しい野菜や花を買う余裕のある人もなく、その姿はひややかな目で見られていたという。
賢治の理想はからまわりし、彼自身「一生役に立たず、ご迷惑ばかりかけてしまいました」と、両親に詫びるほかなかった。賢治はある意味では気儘な道楽息子であり、周囲からは「デクノボー」と呼ばれ、彼の真価は生前「見れども見えず」ではなかったのか。
「虔十公園林」
いちばん最初に読んだ賢治についての解説書、浅野晃氏の『雨ニモマケズ』のなかには童話「虔十公園林」が紹介されている。
虔十という少年がいた。いつもニコニコ笑っていたが、子供たちにバカにされるものだから、だんだん笑わなくなってしまった。
ある日のこと虔十は両親に頼んで杉苗七百本を買ってもらい、家の裏の野原に植えた。近所の人はあんな所に植えたって育つわけないといって、虔十を馬鹿にした。七年、八年と時が流れても、杉林は三メートルほどの高さに成長しただけだった。
ある日のこと杉林の方が騒がしいので、虔十が行って見ると、多勢の子どもたちが杉林の中を一列に行進して遊んでいた。それからは子どもたちが来ない日はなく、虔十は子どもたちが遊んでいる姿を眺めるのを楽しみにしていた。そうして何年も何年も過ぎて虔十も死んでしまった。
それから二十年、虔十の植えた杉林で遊んだ子どもたちが大人になり、虔十をしのび、この杉林を公園にして虔十公園林と名づけたのだった。
これが賢治の童話「虔十公園林」のあらすじだが、浅野氏はこの物語は虔十というデクノボーを礼賛したものと述べている。
賢治はこの童話のなかで次のように語らせている。
あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないのかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。
ここで十力とは仏さまのことである。賢治は仏の見方、はたらきは全く人間の思慮を超えていると語っている。私は室住先生の遺稿集の一節を思い出した。
「一エンブダイ第一」という境位は、古今の賢聖の体験境を超えているというイミである。
仏さまご自身はもちろん尊いが、その仏さまが修行時代に「但行礼拝」されたのだから、仏さまから見るとやはり誰でも尊い不思議な存在なのではなかろうか。賢治が言うように、全く誰が賢く誰が賢くないか分からないのであろう。「見れども見えず」だから、「但行礼拝」なのかもしれない。
五月の末頃、現代宗教研究所の行事で講演していただいた自死遺族の会の関係者と話をする機会があった。十年ほど前に家族を失ったNさんは、何気ないひとことがどれだけ自死遺族の心を傷つけるかを淡々と語った。
「命を大切にしよう」とか「あなたが気づけば自殺は防げる」ということばが遺族の心に突きささっていくということに、私はそれまで気付かなかった。
親しい人を自死というかたちで失って十年、その重みをひたすら担ってきたNさんの顔には苦しみが静かに刻み込まれているようだった。
「Nさん、なぜ、あなたはいつまでも苦しみを身にひきうけているのですか?」と尋ねようとして言葉をのみこんだ。おそらく今まで何人もの人びとが「早く忘れてしまいなさいよ」と「忠告」したことだろう。
「なぜ忘れなければならないのですか」とNさんは答えるだろうか。あるいは「どうしてその重みを担って生きてゆくことがよくないこととあなたは考えるのですか」あるいは「あなたは、誰かの荷物を持ってあげたことがあるのですか」と逆に問われるかもしれない。
心の中でそう考えた私は尋ねることをやめ、Nさんの生き方をそのままに受けとめようと思った。
ものごとを自分の考え方や社会一般の見方で批判することが常に正しいとは限らない。「デクノボー」とは、そうした社会一般の見方から投げつけられたことばだが、今、私たちは「デクノボー」という在り方を、あるがままに受け容れることによって、豊穣な人生を回復できるのかもしれない。本当になぜ、相手を敬まうことができないのだろうか。誰でも重い荷物を背負い、生きているだけでも大変なのだ。「但行礼拝」とは、人がお互いに認め合い、助け合ってゆく生き方の根底にある態度ではなかろうか。
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