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現宗研だより 宮澤賢治の宇宙(1) −いま、「デクノボー」という在りかた−
日蓮宗現代宗教研究所所長 三原正資
宮沢賢治(一八九六〜一九三三)は、法華経の教えを人びとに伝えるために、多くの童話や詩を書いたという。彼の作品は、「日蓮教学の現代的意義を解明」し、教化の新たな道を模索することを目的に掲げる当研究所にとっては、まことに興味深い対象である。
人生の同伴者として親しんだ賢治の作品
多くの人にとって宮沢賢治は身近な存在である。だれもが一度は「雨ニモマケズ」を口にしたことがあるに違いない。かつて、時の総理大臣・小渕恵三氏が、施政方針演説に『銀河鉄道の夜』の一節
「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
を引用し、話題になったこともある。私もまた賢治を人生の同伴者として長く彼の作品に親しんできた一人である。かなり古くなった私の望遠鏡に映る賢治の宇宙を紹介しよう。
今までに三度、私は宮沢賢治の作品を集中的に読んだ時期がある。
一度目は一九六〇年代後半の数年。
もっとも印象的な本は、浅野晃氏の『雨ニモマケズ』(教育新潮社)だった。のちになって、日蓮宗宗務院旧庁舎講堂で浅野氏の講演を聴いたことがある。読み込んでボロボロになった文庫本を手に持ちながら、賢治のことを語られていた姿を忘れることができない。その風貌と振舞いに、賢治の作品に親しんでこられた人柄がにじみでていた。
紀野一義氏のことも忘れることはできない。紀野氏は、そのころ、宗務院の講堂と池上本門寺で講演されていた。その講演は、まもなく『法華経の風光』全五巻としてまとめられたが、氏の本のあちらこちらで取り上げられた賢治についての記述は、今でも鮮やかに私の心に残っている。
二度目はオウム・サリン事件ののち、宗教ブームが去ろうとしていた一九九〇年代末のこと。賢治の作品を読みながら、法華経の教えとの関係を探ろうとした。立花隆氏が『文藝春秋』に連載しのちに単行本になった『臨死体験』(同社)の記述と、賢治の『銀河鉄道の夜』等に記された出来事の類似に興味をそそられた。
デクノボーとは何か?
そして、現在。昨年(二〇〇九年)末まで、私は伝道部の伝道推進委員会の一員として、主に教箋の編集と作成にたずさわっていた。そのひとつ、『但行礼拝』パンフレットの末尾に、有名な賢治の「雨ニモマケズ」を掲載することになった。その詩には常不軽菩薩の但行礼拝の精神が満ちていると考えたからである。
ところが、そのとき委員の間で問題になったことが、
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
と記された詩の一節の「デクノボー」の解釈だった。「デクノボー」は一般的には、「役に立だない人、また、気転がきかない人をののしっていう語」(『広辞苑』)とされていることから、はたして私たちの信仰的理想像を表現することばとしてふさわしいのだろうか、誤解を招きはしないだろうか、と委員から危惧の念が表明されたのであった。
最終的には「雨ニモマケズ」は法華菩薩道を表現したものであり、加えてこの詩が私たち日本人に親しいことから、パンフレットに掲載する詩としてふさわしいものとの結論に落ち着いたが、「デクノボー」とは何かという思いは、私の心の底におりのように沈殿したのである。
ところで、賢治生誕百年に当たる一九九六年に中国人・王敏氏(一九五四年生)が『謝々!宮沢賢治』(河出書房新社)を出版している。
これは二〇〇六年に朝日文庫に入れられた。王氏は文化大革命の嵐を体験したのちに、日本文学を研究された方である。
「文庫版序文」の中で、王氏は次のように述べている。
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恐らく、賢治ほど子どもから大人まで年齢を超えて、文化の違いを超えて、受け入れられる日本の作家はいない。普遍的な世界観がつねに描かれているからだ。同時に、賢治ほど日本文化の国際化の可能なことを示した作家はいない。自然融合という普遍的な価値が日本人のアイデンティティとして、わかりやすく描かれているからだ。日本文化の発言力が世界から問われている今、賢治に謙虚に学ぶことが必要ではないだろうか。(六頁)
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また、王氏は次のようにも述べている。
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『雨ニモマケズ』は私に日本文化と日本人の心を教えてくれた。(同 文庫版あとがき 三〇二頁)
かつては敵対していた隣国・中国の日本文学研究者から、このように讃えられた賢治の「雨ニモマケズ」を、むしろ私たち日本人こそ再び学ぶ必要があるのではないか。『但敬礼拝』パンフレット (まま)の末尾に「雨ニモマケズ」を入れるに当たって、王敏氏の指摘は、私たち委員にとって強い励ましとなった。
中国人王敏氏から、高く評価された「雨ニモマケズ」と、理想的人間像としての「デクノボー」の意味を探ってみなければならない。そのことが常不軽菩薩の考え方と行ないの意味を、新たに発見する糸口につながるのではないだろうか。
文学とならんで、人びとの考え方及び価値観を反映しているのは美術である。
今年四月、私は東京丸の内にオープンした赤レンガ風の三菱一号館美術館の「マネ」展へ行った。国立西洋美術館のように、各展示室を回遊するように配置されたこの美術館は移動に伴なう変化がまことに快よい。しかし、混雑する観客の頭越しにマネの絵を見ていると、緑色と黒色のコントラストがあざやかなマネの絵のもつ魅力も、いささか色あせるのだった。
このようなすばらしい場所でマネの絵を味わうという体験は貴重なものである。しかし、私たちはもっと日常的なものに美を発見できないものだろうか。
なんでもない日用の品々にも美が宿る
三菱一号館美術館へ行くすこし前に、私は山桜の咲いている千葉県の山の中にある小さな美術館as it isへ行った。
この美術館は、坂田和實氏(東京・古道具坂田店主)が自分の信じる美の基準にしたがって集めたモノを展示する場所である。外観は土壁でできており、周辺に散在する農家の納屋と見まちがう。内部に展示されているものは、もちろんマネの絵とはおよそ正反対の性格をもつモノばかりだった。
氏は、白洲正子氏によって古美術界最後のカリスマと言われ、現代アートの鬼才・村上隆氏は氏の蒐集するモノはすぐれたコンセプチュアル・アートであると評した。氏はその独自の眼で古美術界にあらたな潮流を生み出したとも言われている。
玄関の引き戸を開けると、そこはメインの展示室。入館料を払うと目の前に「キリスト幼児像」(伊 一七C)。あちらこちらいたみが目立つが、かわいらしい。壁面には「ダンボール梱包材」(日本 現代)。ダンボール材も美術品になるのか、と驚く。その下には常滑壷(日本 平安)。古美術品として鑑賞される常滑壷とことなって釉 (禾+由)薬の跡は全くなく、しらちゃけた肌は愛想がない。その横には作業用凾(仏 二〇C)。それは『芸術新潮』昨年四月号の表紙をかざったものだが…。その前には束ねられた和本が一〇包みほど置かれている。さらに別の壁面には「ぶどう棚用針金」(日本 二〇C)。ただの針金の組み合わせで、なんでもないものといえばそうなのだが、私は美しいと思った。しかし、本当になんでもないものかもしれない。
二階に上ると、木の「べンチ」(日本 二〇C)が置いてあり、その上に筆箱(日本 二〇C)、「せっけん箱」(日本 二〇C)、「鉛筆削り」(米 二〇C)が並べてある。使いこまれた日用雑貨の品々である。壁面には「タパ」(インドネシア 二〇C)。タパは樹皮でつくられた紙であり、これは何気ないが美しかった。
一階奥の小部屋には「初期伊万里白磁碗」(日本 一七C)、「陶製経筒」(日本 平安)等が置かれ、茶室風にしつらえられている。
パンフレットの設立趣意書の通りに、日常の何気ない品物が世界中から集められ、置かれ、落ち着いた雰囲気をかもし出している。坂田氏は次のように述べる。
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ナーンダ、こんなモノは道端に落っこちているよと言われれば全くその通りだし…空間との調和という事を思い起こして戴ければ、こんなモノでさえ、イエ、こんなモノであるからこそ、あるべき場所さえ与えられれば、それは大きな力を発揮し輝きを放つはずですし、優しい眼で接してもらえれば、立派な骨董品に負けない品格を示すはずです。(『骨董誕生』二〇〇六年 渋谷区立松濤美術館編)
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大多数の人にとって、美とはマネのような著名なヨーロッパ人の絵や名品と言われるモノに宿るものであり、樹皮紙や筆箱にひそむものではないだろう。
私はここに「デクノボー」の意味、あるいはまた常不軽菩薩の「但行礼拝」の意義を知る手がかりがあると思う。なぜならば、伝統的仏教徒にとって、仏とは釈尊であり、礼拝すべき尊とい対象は、唯一、釈尊であっただろう。常不軽菩薩が普通の人びとを礼拝する姿を見て、伝統的仏教徒が仰天して驚いたのはむしろ当然であろう。彼らが常不軽菩薩を批判したのは無理からぬことであった。しかし、なんでもない日用の品々にも美が宿るように、常不軽菩薩は普通の人びとに仏が宿っていると見たのである。
日蓮聖人が『観心本尊抄』に
不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。(定七〇六頁)
と、述べられている通りである。お題目を唱えると誰でも仏に成れるという聖人の主張は、それまでの伝統教団の耳目を驚かせるものだった。それは伝統教団の権威を真向から否定し、秩序をおびやかすものであったに違いない。このため、聖人は受難の生涯を送らなければならなかった。私たちは、この唱題成仏の鮮烈な意義を深くかみしめたいものである。そして、「但行礼拝」という信仰運動が、きわめて普通の人びと、ある意味で「デクノボー」のような人間でさえも、ありのままに尊重される社会の実現という豊かな実りをもたらすことを願う。
『雨ニモマケズ』は現代に生きる人への応援歌
このようなことを、山の中のもの音ひとつしない美術館の中で、淹れ立てのコーヒーをいただきながら私は思った。
眼の前に展示された「ダンボール梱包材」、「ぶどう棚用針金」等は、まさに役に立たない「デクノボー」だろう。そこいらに捨てられていたものを館主がひろい集めた、いわばゴミのようなものである。
だが、はたしてゴミだろうか。as it isとは、日本民芸館を創立した柳宗悦氏(一八八九〜一九六一)が仏教の考え方を説明するために欧米の講演で使ったことばである、と坂田氏は言う。「只」、「あるがまま」ということであり、実相といってもよいだろう。
この実相という大乗仏教−法華経−の教えを、私たちは天地自然、一切のモノに仏が宿っていると受けとめてきたのではないのか。美術館as it isで人がとがなんでもないゴミのようなモノに美を見るのは、日本古来のこの精神の顕われかもしれないと、私は想像をたくましくしている。
今、欧米の人びとが、この日本人の考え方の基底にあるものに魅かれ始めている。日本人が発見したオランダ・デルフト陶器のなんでもない白い肌に興味を示す欧米人もいるようだ。青森県一帯の古い生活着は「BORO」として注目を集めている。私たち日本人はいつまでも、マネやモネの絵など、欧米の美術をきらびやかな殿堂で、「神」を崇めるかのように仰ぎ見て、西欧近代文明を金科玉条とすることから、そろそろ卒業してもよいのではないか。王敏氏の言う「自然融合という普遍的価値」に目覚めたい。「但行礼拝」という信仰運動は、このような自覚を人びとに促がすものになってほしいと私は期待している。
賢治は童話「ドングリと山猫」の結末で、山猫の裁判長に次のように語らせている。
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このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなつてゐなくて、あたまのつぶれたやうなやつが、いちばんえらいのだ。
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宮沢賢治は病の床の中で、自分の無惨としかいいようのない「ばかで、めちゃくちゃ」な人生を振り返ったのではなかろうか、「デクノボー」のようだったと。しかし、彼は「デクノボー」のようにあつかわれた常不軽菩薩を想い浮かべて、「デクノボー」であることにひそかなよろこびと自信を持ったのではないか。「デクノボー」でよいではないか、いや、むしろさかしらな考えを捨てて「デクノボー」になりたい…と。「デクノボー」となって、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」に人びとともに生きてゆきたいと願ったのであるまいか。
この十年余り、各国の名目GDPが右肩上がりを続けている中で、日本だけが横バイ状態を続けている。デフレ経済のなかで、富む者は益々富み、持たざる者は限りなく没落していく。この間、自死者は毎年三万人をこえ、高齢者の孤独死も目立っている。この詩は「無縁社会」ともいわれる平成不況の時代に生きる人への応援歌でもある。
一九六四年四月に身延山高校へ入学した私は、のちに現代宗教研究所三代所長となった室住一妙先生から御遺文拝読の手ほどきを受けた。古いコートをはおって、黙々と学校に通って来られる先生をよく見かけた。その姿は名誉や富とは無縁のものだった。布教研修所の主任を勤められた時のことだろうか、先生は素絹・五条に身をつつみ、うちわ太鼓をならし、研修生の先頭を歩かれていた。今、その先生の姿を想い出すと、私は「雨ニモマケズ」の詩を思い浮かべるのである。
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