日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成21年12月号 第261号 改訂 第93号

現宗研の調査研究ノート
 「立正安国」と教化学(三)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

教化学体系
 
  教化学体系(前回の続き)
 
6、教化学応用論
 次に教化学応用論でありますが、これは安易な意味でテクニック的に教化を考えていくことではなく、教化学理論にて提示した、自己認識と誘導認識の両面から教化を考える、つまり信仰的に、体験的に磨かれたものを提示し、現場において生かしていくための教化内容をまとめることです。ここでの研究内容は、信行論、教団論を始め、住職や寺族や寺庭婦人についての課題を研究し、教師並びに檀信徒の育成、更には社会活動への参加のありかたなど、三六〇度全方位に亘る視野が大切であります。日蓮宗の教化とは対象を選びません。その中から、それぞれの課題として捉えることが重要なのです。お前だけを布教しましょう、という限られた布教ではないのです。色々なものを対象として考えます、だからこそ、色々な要素が入ってくるのです。応用論ではそのような要素というものを、分類しなければならないのです。それを分析して一つの見解をまとめるというのは、かなり難しいことかも知れません。本日の午後から行われる分科会はまさにそのひとつの現れと思っていただければよろしいかと思います。そこで当初申し上げましたように、ちょっと煩雑にはなるんですが、この応用論の中に、理念的な部分と、実践的な部分と敢えて分けてみました。先ほど申し上げました、自己認識或いは誘導認識なんていう言葉を使っているのはこの、応用論の理念的な部分であります。
 
A 教化応用理論
(ア)自己認識
 自己認識というのは、先ほども申し上げましたように、内面を高める、すなわち教化する者の信頼関係をどう作るかということです。教えは正しいけど、あの僧侶のやってることはどうも違うんではないか、これでは布教になりません。なるほどあの人は素晴らしいな、というところから、布教というものは始まるはずです。教化布教する者の信頼をどう高めるかということです。これはテクニックとして、綺麗な衣装を着けて、化粧してかっこよく見せる、そういう意味ではありません。もっと内面的な、まさに自己認識という内面を高めるという部分から始まることであります。
 もう一つは、社会問題に対する意識、意義とは何かということです。何故日蓮宗のお坊さんが平和問題、環境問題、或いは生命観の問題等々、その日その日と常に出てくる色々な社会問題を、自分にとっての課題、いろいろと選択肢はあろうかと思いますけども、何故私がそういう社会問題に関わらなければいけないのか、関わるとはどういうことなのかということを、やはりしっかりこちら側が認識をしていく必要があるだろうと思います。この部分を共通していく認識のための基本的原則をしっかり持ってないといけないのではないか、ということがこの理論構築のひとつであります。
 例えば、神戸の大震災があった時、ここにも仲間の方が何人もおられますけども、いち早くと言っても二週間、四週間後に行ったんですが、その時にはとにかく大変な現場でありますから、ヘルメットと安全靴と作業服を持っていく、現地では入手できない自分用の飲料水、まずは自分の身を守れということでした。ポケットの中には折五条と数珠は持ってゆきましたけど、決してお坊さんらしい格好ではありませんでした。現場へ行って、それこそ大変な中を、地元のお上人から近くの公園を紹介していただき、そこにテントを張りました。実際現地の状況を教えていただきながら、出来ないながらも救援のお手伝いを行いました。しかし、ある人達から、衣も持って行かない、玄題旗も持って行かないで、それは布教じゃない、と批判されました。実は二度目にゆくときに多少支援を募ったんですが、そんなのは布教じゃないから各自で行うべきだとはっきり拒否されました。今ではまず有り得ないことだと思います。しかしあの当時はそうでした。そこで私は感じたんです。坊さんがこの被災地の中で、居士衣を着て行脚や手甲脚絆で歩いたからって、誰も意味が分からないだろう、むしろ違和感を持つだろう。それよりも、現場に入り大丈夫ですかと言って、壊れた家の一角に小屋を造ったり、壊れた水道管をつないで水が飲めるようにするとか、それこそ全く憎侶とは関係ないことをすることによって、最後に我々が千葉から行った日蓮宗の坊主だとわかった時に、ああそうか、ということで初めて、私たちの内面というものを見てもらえたらそれで良いではないかということでした。このような事例は現場に行った方々は恐らく多く体験し、ジレンマをお感じになったと思います。ある政党は要領がいいのです。被災他の角々で十五分位ずつ看板を立てて支援物資を配り、それが終わるとまた次へ行くというやりかたをしていました。それにくらべ、我々は汗みどろになって、ゴミだらけになって、その地区のほんの百人かそこらしか出来ない、それでもいいよということで行いました。どちらが効果的かは分かりません。そのような問題で行ったのではなかったのです。あの現場を見て、行ってみようという仲間がいたところから始まっています。しかし、そうした多くの方々の経験がもとで、今では日蓮宗にも、そういうボランティアについての制度化もされようとしていますし、今回の分科会のテーマにもなり、みんな共有の認識を持ってきております。これはやはりあの震災からはじまって、全国からみんなそれぞれ青年会、或いは有志の人が、いろんな現場に行きながら、積み上げてきたものと言えます。そういうことを、教化学としてまとめていきたいな、ということであります。教化学の体系の中に、位置付けされるということを、是非皆様にも認識していただきたいのです。外見上では他の人々と同じことをしていても、それを支える内面は僧侶であり、信仰であることに意味があるのだと思います。
 社会問題に対する思いというものがどこから来るのか、それは宗祖であり、法華経だと思います。そこのしっかり後ろから位置付けをすることが、もうひとつ教化学の大きな課題として捉えていくことだと思います。安国論講義の中でもよく言われる、最初の冒頭にみられる宗祖の目線は、多く苦しんでいた人々の目線だ、宗祖はそこから『立正安国論』をお書きになった。その目線は、我々が同じく共有すべき目線であります。これは、教義という言葉には収まらないかも知れませんが、宗祖の生き方の一端を自分のものに持ってこれるひとつの例だと思います。いま申し上げたのは自己認識を高めていくということのひとつの例でございます。
 このことは、教師個人のことだけでなく、宗門全体のことでもあります。社会から信頼され尊敬される教団づくりにも繋がる重要なことだと思います。
 
(イ)誘導認識
 次に誘導認識です。これは午後の分科会等で話し合われる内容でありますが、一応、体系という言葉を使ってますので幾つか思いつくものを項目的に挙げてみました。レジュメには無くて大変恐縮でございますが、お聞きいただければと思います。まず、教団と檀信徒の関係です。これは先はどもちょっと触れましたが、信仰を共有している者同士というような意味合いで捉えていただければよいかと思います。信徒に対して、我々が布教教化するという理由です。教化学ということはその理論的な体系を示す、というのが今回の課題でありますので、何故私は布教をするのか、という当たり前のことなのですが、それをしっかりと位置付けしようということです。私は千葉県なものですから、檀家と信徒を分けてしまうんです。現在は北関東と千葉教区が分かれていますが、以前は関東教区がありました。なかなかテーマがあわないもので、北関東と千葉県を分けて教研会議を行うようになりました。なぜかといいますと、北関東の方々は信徒を檀家にしていくにはどうしたらいいだろう。信徒はすぐ気が変わるのでしっかり捉まえるには、といった問題提起です。ところが、千葉県は日蓮宗の檀家さんが多いのです。千葉県北東部では七里法華なんて呼ばれている、日蓮宗ばかりの地域もあります。大多喜、勝浦方面でも日蓮宗のお檀家ばかりです。ところが、お檀家であっても信者ではない。檀権(檀家の権力)なんて言葉が一時話題になりました。今はそうでもないとは思いますが、以前は住職が勝手に境内の庭木一本切っても、寺役員が怒ってきたものです。私の住んでいる茂原の周辺でも、住職を飼っていると言うような時代もありました。あるお寺の手伝いに行って檀家さん相手に話をすると、檀家のお布施で寺は生活しているんだろと、はっきり言われたことがあって驚きました。こうした事情の違いにより教研会議での問題意識が分かれていました。そうしたことから、檀家の教化という項目も必要だと思います。何故私は信仰のあるはずの檀家を教化をしていくんだ、その何故の部分をしっかりしておかなければいけないと思います。
 未信徒の場合、もっと広い社会的な教化という課題があります。社会教化事業というのがありますけども、組織というのでなく我々自身が、社会に向けてどのような教化をしていくか、という項目もあろうかと思います。この課題は必要に応じてもっと明確にしておかなければいけないと思います。何故私は未信徒である貴方を教化するのか、それぞれ我々の中に位置付けをして、分類して、使い分けていかなければいけないと思います。その部分が一般的に共通認識の上で、私のやりかたはこうだけど、ということになります。それらが経験として積み重ねていった時に、社会といってもいろんなジャンルがあります、それぞれにいろんなその経験がひとつの大きな、共通の知恵として積み上がったものを残していこうということが、誘導認識という言葉をとおして課題として構築してゆくことが必要だと思います。
 また違った意味では本山等を中心とした、我々の布教の形態、そこには法縁法脈などといったいろいろな要素があろうかと思いますが、大きく言えば教団の歴史そのものからみた問題意識を明確にしてゆくことも重要になるかと思います。現宗研でも法縁については教団論として扱っておりますけれども、それは組織論であり、更にそれを利用していくために、組織でなければできない幾つかの問題点、それが教育の部分、法器育成の部分であったりするわけであります。
 さらにもうひとつ大事なことは、社会という言葉の中には時には大きな権力者であったりする場合があります。これはやはり、一個人の布教とは自ずから形態も変わってくるでしょう。関わり方のノウハウも違うはずであります。そうしたことも、経験をしていく中から積み上げていく、それがこの教化学の中に大きな課題として実を結んでいく要素ではないかと思っております。特に今は国や政治の世界も大きく変わろうとしております。また、マスコミによる無責任な報道などもあります。そうした社会に対して、我々がこれからの布教に関しても常に確認をしながら、時には発言をしていかなければならない、そんな局面も十分に考えられます。そうした場面では個だけでは無理であります。日蓮宗という大きな教団として考えなければいけない要素があります。寺院教会結社の布教活動と運営というものをどう守るか、中央のみならず地域も含めて、宗務院、宗務所或いは教化センターというような活動母体が、それぞれ持つ問題意識の中から教化研究会議等にて問題提起をすることも重要になってくると思われます。そこから教団が大きな力を持ち、防波堤にもなる、或いはバックアップをする、そういうような要素が教団のもつ大きな意義だろう、ということも誘導認識という中の、一つの項目として存在させたいと思います。
 
B 教化応用実践論
 次に、今のはあくまでも理念的な部分でありますが、実践としてどうなんだろうか、ということを少し申し上げます。布教の現場というものは既に申し上げてますけども、実際に皆さんが教義をもととしながら、現代社会に向けてそれぞれ布教されてる、そういう経験、また経験に基づく知恵というものをまとめていきたいというのがこの実践論の部分であります。理念的な部分で位置付けして、実際にはこうやったらこうなった、ということが実践論の部分となります。ここには普遍的な結論というものはありません。皆様自身の経験というものを出し合い一つの可能性を見つける。あるいは失敗例から問題点を提示する。しかもそれは刻々内容が変化する事柄が多いのです。十年前の事例はもう通じないといった事も含まれます。それらを理念的な分野へと戻して、ある段階で教化学の重要項目にまで影響してゆくのです。今回の分科会の中で、布教の現場からの経験や提言を出し合っていただくことが、教化学の応用論の実践部分ということの大きな素材となってまいります。よろしくご協力をお願いしたいと思います。
 日蓮宗現代宗教研究所規程というのがありまして、現宗研は教化学の体系化を確立していこうというのが課題であります。ただこれは私や主任、或いは所員だけで行うものではない、むしろこの教研会議がその情報を求め、研究を進めていく大きな核であります、エンジンであります。中央教研のみならず、各教区或いは管区で行われる教研そのものも同じ位置付けであります。それらの集大成として、現宗研が最終的には教化学の体系という中で位置付けされていくんだということを、ご理解ご認識をしていただきたいと思います。
 分科会につきましては、既に今日の資料の中に、問題提起者がそれぞれお書き頂いてますので、どうか午後の分科会では私が申し上げた幾つかの課題の中で、ご参考になるものは利用していただきながら、問題提起に従って、ご提言をいただければありがたいと思っております。
 
7、まとめとして
 最後にまとめとして結ばさせていただきます。今日の日蓮宗やその教師への課題は、多くの社会問題に対して如何に対応したらよいか、そのための基本的な姿勢を、宗祖が『立正安国論』を幕府に奏進され諫言をされた、弘教のお姿とそのご精神から学び取ることが重要であるといえます。安国論御勘由来に「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」とされた宗祖日蓮聖人の、ご生涯にわたるご精神に基づけば、私たちは宗門の興隆や、寺院教会結社等の繁栄のために布教するのでないことは明確であります。ひとえに、悩み苦しむ多くの人々のためであり、その結果として法華経が広まる、お題目を唱える人々が増え、寺院教会結社それぞれが繁栄をし、延いては宗門が興隆をするということを、念頭に置いて布教していくべきであります。夢多き僧侶がお寺の法灯を受け継ぐ入寺式などで、来賓の多くがご祝辞を述べられますが、「みなさん宗門興隆のため、当山繁栄のためにひとつ頑張っていただきたい」と仰ります。勿論それは間違いではありません。結果はそうなんです。ただ若い者にはその手前が必要なんです。「どうか多くの人々の悩みを少しでもなくすために頑張ってくれ。世界安穏のために、出来ることで良いから、やってくれ、それによって寺の繁栄、宗門の興隆があるのだ」と激励してほしいと思います。特にこれからを担っていく若い者たちには、そういう意味での、我々日蓮宗の僧侶としての大きな役目の位置付けを、もっと明確にしておいてあげなければいけないと思います。少なくとも現宗研が、教化学体系の中で、今日申し上げたことが、一番の基本テーマとして将来に繋いでいく大きな基軸になっていくんではないかと考えます。そのためにも、私は『立正安国論』をお出しになった宗祖のご精神というものから、教化学を学んでいくことが一番の根幹になっていくのだろうと思っております。以上をもちまして、今回の基調報告の責めを終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
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