日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成21年10月号 第259号 改訂 第91号

現宗研の調査研究ノート
 「立正安国」と教化学(一)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

  『立正安国論』からみた教化
 
 本日の第四十二回中央教化研究会議のテーマ「『立正安国』を如何に実現するかー教化学の確立をめざして」を受けて、私の基調報告は、「立正安国と教化学」というタイトルでお話をさせていただきます。先ほどの小松宗務総長のご挨拶にもありましたように、本年は『立正安国論』奏進七五〇年の節目の年であります。これまでの現代宗教研究所の研究そのものも、祖願を如何に具体化し達成するかという、日蓮宗としての大きな課題を常に研究してきたわけでありまして、これから申し上げることも、要するに宗祖の弘教の精神を『立正安国論』を通して見ることが一番大事ではないかということでございます。
 教化学という、言葉は新しい言葉ではあるのですが、単なる新しい理論を構築するということではなくて、法華経、そして宗祖日蓮大聖人の弘教のご精神と、我々との間を如何に埋めるか、という課題にむけて、教化学というものを体系化していく必要があるだろうということを述べさせていただきたいと思います。
 まず『立正安国論』をもとに教化のありかた、言いかえれば、我々布教の現場に関わる部分としての特色というものを考えてみたいと思います。
 
  一、『立正安国論』の特色
 
1、奏進し鎌倉幕府を諫言することに意味がある
 まず『立正安国論』の特色について考えてみます。『安国論』には、例えば『観心本尊抄』にみられるような教義というものは殆ど説かれていません。しかし、相手は信徒tや檀越ではなく、最明寺入道という、引退はしたものの、実際の鎌倉の権力者でした。論理的に厳格であった宗祖が、幕府を諫言するという時に、何故あんなにも教義の部分が少ないのか、これは他のご遺文とは別の見方が必要なのではないかと思います。『立正安国論』は、幕府に奏進し、諫言をされたということに重要な意味をもっていたと捉えることができるのではないでしょうか。宗祖は、ものを論じる時には必ずご自分の教義や思想というものを、段取りをもって示していくのが常でありますが、『立正安国論』はまさに例外的だといえます。もちろん文中に念仏批判という一面はありますが、念仏批判のために書かれたのものではないと思うのです。なぜ当時の世の中が乱れているのか、その根源として国が謗法の国になっている、さらにすすんでゆくのではないか、という恐れの代表的な対象として、法然による浄土念仏信仰を批判されたのです。しかし、そうした論を書かれたことが目的ではない、むしろ書かれたことによって、更に幕府に諫言をしていく、当然それはまともに受け入れられるものではないことは宗祖もご覚悟の上だったと思います。その結果として生ずるであろう迫害をはじめとする、ご自分に関わる危害を予想された上でお出しになったわけです。
 宗祖の弘教の出発点ともなるべき意味としての位置付け、これは他の御書ではなかなかみられないだろう、という意味で大きな特色と考えます。基調報告でありますので、詳しく根拠をお出しすることは省略させていただきますが、周知の通り、念仏批判に関しては、この『安国論』をお出しになる前に、既に『守護国家論』で、徹底的にその教義的な内容が示されております。更には、ご自分が何故このように幕府を諫言するのかという、内面的な支えというものについては、佐渡流罪時の『開目抄』にて確認をすることができます。それから、『安国論』の最後の結論部分で述べられている、この世が常に宝土である、だからこそ謗法を止め、仏国土を顕現するのだということは、『観心本尊抄』をはじめいろいろな御言で述べておられます。一般には祖伝の中で宗祖が龍ノロ法難を経て、佐渡流罪にて法華経の色読、いわゆる本化の菩薩の自覚をされた上で、『観心本尊抄』や『開目抄』が示されたという風に捉えております。勿論、そのことは事実です。しかし、誤解を恐れず敢えて申し上げれば、宗祖の思いというものがそこで初めて発見され、ご自分の中で自覚されたという捉え方はどうも違うのではないか、既にこの安国論をお出しになる段階で、内面的には当然それは含まれていたのではないかと思うのです。ただそれが実際に、その通りになっていったその事実、確信というものがなされたところで、『開目抄』や『観心本尊抄』などが書かれたのではないかと私には思えます。少なくとも、佐渡において、初めてお気づきになったということではないだろうと思っています。『安国論』をお出しになる段階で、苦難へのご覚悟があったと思います。そうした意味では、むしろ『開目抄』や『観心本尊抄』は、ご自分の生き方が正しかったという確信のもとで、お弟子や檀越にその意味付けを明確にされるということから書かれたのではないでしょうか。
 
2、何度も書かれたこと
 もうひとつの特色としまして、『立正安国論』というご自身で命名されたこの御書を、当初幕府に出されたもの以外に何度も書かれていたことが上げられると思います。宗祖はこれを書いて、幕府に奏進され、それきりということではなく、生涯この『安国論』を手もとに置き、また常にお弟子や、或いは檀越に、その都度それをお示しになるというように、まさに弘教の基本としてずっとそれを携えておられたのではないかと思われます。
 私共は、この教研会議に於いて、教化という言葉を使い、「教化学の確立を目指して」というテーマを掲げます。教化学とは、教義的なものを布教の現場に活かしていく「学」であるという大きなテーマを持つものではありますが、それ以前に教化の一番の原点として、宗祖にとって『立正安国論』の持つ意味、すなわち弘教の精神そのものを教化の原則として位置付けなくてはならないのではないかと思います。日頃の布教教化という部分においての大きな指針として捉えていく、それがこの『立正安国論』の教化に関する特色であります。
 
  二、立正安国の課題について
 
1、立正安国の精神と日蓮宗教師の課題
 次に、立正安国の精神と日蓮宗教師の課題であります。我々は日蓮聖人の末弟であり、その上での仲間によって日蓮宗が構成されています。この宗門というものも視野に入れておいていただきたいと思います。宗祖が『安国論』を幕府にお出しになって諫言をされたということの意義と、今我々が実際に、遭遇している社会問題に対する、日蓮宗教師さらには宗門としての対応、それがひとつの大きな課題になろうかと思われます。そこから生じる重要な問題が、現代における立正安国とは何かということです。これは『立正安国論』について教義的に解釈する教学論ではありません。先ほど申し上げた宗祖の弘教のご精神というものを、現代においてどういう風に受け止めるかと考えれば、いろいろな項目が出てくるものと思います。
 例えば、現代に於ける国家と宗教との関係に関する問題、これは現宗研にとって常に重要課題として研究をすすめている問題でもあります。かつて宗祖七〇〇遠忌の記念事業の一つとして、『日蓮宗近代史年表』を現宗研がまとめました。その研究の過程で、多くの課題が残っております。例えば、日蓮主義というものが近現代史に於いていかに社会と関わってきたかといった問題点を含めて、我々が日々社会問題にどう関わっていくか、それは個の問題であると同時に、また宗門という両面があるわけでございますけれども、そうした問題についての扱い方など、まだまだ議論の必要があるのであり、我々としてもこうした課題を常に認識をして、自分の問題として受け止めていくことが重要であると考えております。
 
2、現代の謗法とは
 それから、これも近現代での問題と関連するのですが、現代における謗法というのはいったい何でしょうか。宗祖は『立正安国論』で念仏信仰、特に法然による浄土念仏信仰を批判されました。しかし、だからと言って、浄土念仏信仰を批判することが、現代に『安国論』を受け止めるいき方だということにはならないのではないかと思います。当初申し上げましたように、奏達をされた姿勢から考えれば、現代における謗法というのはもう少し広い視野と異なった視点から捉える必要がありましょう。
 現代の人々の宗教観という大きな問題があります。そういうところから、或る意味での弾圧として、社会的に批判をされる、或いは軽視をされ、或いは曲解をされていくといった問題点を、現代における謗法としてもっと受け止めていく必要があるのではないかということであります。更にそれに対する我々の関わり方というものの基本姿勢について、本宗だけでなく各方面での取り組みの事例も研究し、さらに実践をしていく、そういうことを積み重ねてゆく必要があるだろうと思います。一人ひとりの問題ということのみならず、宗門という組織の問題であり、宗祖の時代にはなかった日蓮宗というこの教団としての課題であり、教団があってこそできる可能性について作り上げていくということもあろうかと思います。教研会議での重要なテーマであります。
 また、現代は、宗教間対話というようなことが言われるわけですが、このことと謗法との関係ということも、考えておかねばならない問題であろうと思います。
 私も、現宗研の所長という立場で、全日本仏教会の委員会などにも出ておりますが、浄土宗や真言宗などの他宗の方々と席を並べて、色々議論を致します。それが果たして謗法にならないのだろうかと、内面で悩む時もございます。しかしもうひとつ視点を考えました時に、これは同じ僧侶として、仏教者としての共通の課題に向き合った時には、それは法華経を広めていく中での障害となるものを除くことにつながることでもあるのです。
 現代における宗教界に対し、或いは皆さんの日頃の寺院・教会・結社等における活動に対し、国の権力と言いましょうか、行政からの介入の問題があります。それは国のみならず地域にもあると思います。こうした事につきましては顧問弁護士の長谷川先生も、いろいろなところで講演をされておられます。例えば、今回の分科会にもあります、裁判員制度という問題があります。我々宗教者がそれに関わらなければならないということを自分の問題としてしっかりと受け止める必要があります。さらに公益性の問題もございます。いったい国は何を我々に対して求めているのか、ひとつ間違えれば介入になってしまうでしょう。税法の問題も含めて大いに注意すべき状況であります。我々は常に国や宗教の自由を規制しようとする権力からの介入というものに対して危機意識を持っておく必要があるだろうと思います。そういう意味での、現代の謗法というものをしっかりと把握しておくということの必要性を申し上げたいわけであります。
 もうひとつ、民間レべルでの圧力があります。いわゆるマスコミ等による世間の風潮というようなことがあります。それは、宗教界や特に仏教界を軽視する、特殊な例を面白可笑しく扱って、坊さん全てがかくの如くであるように吹聴をしていくなどといったことがみられます。我々は時に応じて、それに対して反論を致しますけれども、決してそれがまともに扱って貰えない場合があります。現宗研でも昨年、某大手新聞社によって誤解を招くようなことを記事にされたという、大変苦い経験もございました。日蓮宗を大事に扱ってくれていたはずなのですが、その受け取り方によっては日蓮宗が脆弱だというような印象を与えかねないような記事が出されました。こういうものもある意味では、社会やマスコミにおける、弾圧とまでは言わないまでも、本来の姿をその通り示していないということによる妨害と見ることもできるのではないでしょうか。このような事例は他にも沢山あろうかと思います。現代の謗法というものを、我々自身の問題としてそれぞれが受け止めながら、整理し、まとめていく努力を是非していただきたいと思います。
 
3、社会教化での課題
 今申し上げた幾つかの問題を通して振り返ってみますと、日蓮宗の中でも、戦後いち早く立正平和運動が行われました。これは原水禁運動ということで、非常に、当時社会からも評価され、他教団からも、驚異と尊敬の目で見られました。しかし、時代の変化の中で、そうした運動が形を変えてきております。現在は、立正平和の会を中心に、その活動が継続されております。宗門としても、現在の「立正安国・お題目結縁運動」という形でそれが展開されておりますが、やはりその時代の中で、継続をすることの困難さと、時に応じてそれをいかに変えていくかという課題があります。社会問題というのは常に相手や状況が変わりますので、十年前、五十年前のことがそのまま、今日、或いは十年後、五十年後に通じるというものではありません。こうした問題点を我々は常に認識していなければなりません。
 それからもうひとつ、宗門としては寺院・教会・結社が構成要員でありますし、またそれを支えるのは、お檀家やご信徒であるわけであります。そういう檀信徒というものに対する布教教化と、そうではない未信徒を対象とした、まさに社会教化という、この立ち位置の違いも、教化学ということを考えた時にはっきりと整理しておく必要があります。特に社会問題に対応する意義というのはいったい何だろう、何故日蓮宗の教師が、平和問題、環境問題等について、議論をしなくてはならないか、或いはなんらかの活動をしなくてはならないのか、その必要はどこから来るのだろうといった問題点を、どう捉えていくかが重要になります。
 現代の諸問題は臓器移植の問題などのように、生命観の大きな変化をともなうことが往々にしてあります。また日々変化してゆきます。そういう問題に対して我々は、法華経や宗祖のご遺文に答えを求めようとしますが、七五〇年前の祖文を現代にそのまま当て嵌めることが可能なのかどうか、もっとその間を埋めていく、ルールと言いましょうか、原則といったものが必要なのではないかと思われます。
 これまでも我々はお互いの知恵を出し合ってきているわけであります。それらを体系化していく必要があるのではないか、ということを申し上げたいと思います。
 
4、教化の知恵を活かす
 それぞれ個人が、それぞれの知恵を用いながら、戦後六十年、布教の現場での教化活動を続けてまいりました。宗門としても行われてまいりました。先人がそれぞれ、その場で努力し苦労されながら、知恵をお出しになったものがあると思います。それらをまとめ分類する必要があります。それは将来にとって、今の皆さん方の現実の苦労や知恵を生かしていく重要な資料となります。我々にとっては、おかげさまで宗祖のご遺文が膨大にございますので、ものを論じる場合は、法華経やご遺文を通して考えてまいります。しかし、この七五〇年の長い歴史の間で、特に宗祖滅後、室町期、戦乱期においての各先師の努力があるわけです。法類や法縁等の元にもなっておられますが、それぞれ有名な歴代の先師先聖がたが、法華経や宗祖のご遺文を通して、何を当時の人々に訴えて、どのような布教をされたのかということを体系化してまとめていく中で、今日の我々が受け継いで来ている法灯というものも含めて、伝統の中にある布教に関する智恵を、我々がどう生かしていくかということが大切なことだと思います。もちろんそうした事の資料や情報は、宗史や宗学史の分野にて蓄積されているとは思いますが、布教に活かすという意味で、当時の人々に何を伝えてきたのかという、布教の現場の目線で、やはり、しっかりと把握していくことから、当時の知恵が、現代の問題に対して法華経や宗祖のご遺文を活かす大きな示唆を与えてくれるものと考えます。
 皆様方自身もそれぞれ、法縁と深い関わりをおもちであろうかと思いますが、法縁というものが歴史の中で何を伝えてきたのかということを何らかの形でまとめて、後世に伝えて行かなくてはなりません。それが、法縁意識が薄くなると言われている中で、法灯を守るということの責任のひとつではないでしょうか。そういうものを伝えていくということは、それにこだわることではないと思います。現在、現宗研でも法縁の調査をしておりますが、時代によって違うということが分かれば、それではこれからの時代の中で、先師の苦労された、或いは悩んだ部分の思いといったものを、我々がそれをどう生かしていくかというところで、また違った展開がはじまるのではないでしょうか。いずれにしましても、そういうものを、我々が、身近なところで捉えていくということを、研究課題の一つにしたいと思います。これは日蓮宗の持つ歴史、伝統というものがあってはじめて言えることであります。新寺建立をされた場合でも、寺の歴史はこれから始まるのであり、将来に向けて、やはりそれを繋いでいくという意味においては、何ら変わるものではないと思います。なんとかその辺りのところを教化学という枠の申で、しっかりと位置付けをしていく必要があろうかと思っております。
 
5、未信徒教化のばあい
 次に、檀信徒に対する布教というものは、教義やご遺文をもとに、それを分かりやすく伝えていく、或いは宗祖のご信仰を、直接檀信徒に対して示し感激を与えていくという方法をとっております。しかし、やはり檀家、或いは信徒といえども、社会に生き、生かされているものですから、先ほど申し上げましたようないろいろな社会問題の中で多く悩み苦しんでいます。そこに我々がどう関わっていけるかという、布教の現場において、法華経やご遺文の解説という枠には納まり切らない教化というものが、もうひとつ大きな課題としてあるのではないでしょうか。恐らく現実には行われていると思うのですが、ただそれが個人の経験のみで、まとまってきておりません。大勢のそうした経験や知恵を、まとめていく必要があろうかと思っております。
 また、檀信徒以外に対する働きかけも、大変重要な部分であります。皆さんがそれぞれ色々な活動をされている中で、法華経への信仰、宗祖に対する信仰というものを共有していない相手に接する時の布教のありようはどうなのか、ということも大きな課題としてあります。
 近現代における宗門の中でも多くの方々が、それぞれ活躍をされておられます。その経験を個人のものとして終わらせるのではなくて、先ほどと同じように、やはり後世に伝えていくものとしてどこかでまとめて、体系化をしていくという努力が、教化学の確立に向けた重要な要素の一つだと思っております。特に社会に対する働きかけというものは人によってそれぞれ異なります。十人十色、それは勝手だという意見もあろうかと思いますが、やはり、どこかで集約をして、まとめていくという努力が求められます。勿論それは現宗研の仕事ではあるのですが、皆さんも共にそうしたことへの作業をしていただきたいと思っております。話しが少しそれてしまいましたが、少なくとも日蓮聖人が、『立正安国論』を幕府に奏進されたということから始まる、その弘教のご精神というものを、私たちの布教の現場の問題点として、教化学という言葉の意味を考えながら、敢えて述べさせていただきました。次に教化学の体系について話をすすめてみたいと思います。
〔続〕
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