さて、前置きめいたことを少々長く書き過ぎたきらいがありますが、ここで、参議院議員会館で本年七月八日に開催された、「臓器移植法改定を考える緊急院内集会」で、各教団(の代表の方)がどんな意見表明をしたのかについて、記しておきたいと思います。
実は、筆者が最も印象に残ったのが、大本の人類愛善会・生命倫理問題対策会議顧問の加藤眞三慶應大学看護医療学部教授の御発表でしたので、それに触れんがために、この長い前置きめいたものを書いたのでもありました。
加藤氏は、専門のお立場から、脳死の判定ということには、医学的に見て大きな問題があるとされ、脳機能の喪失の「不可逆性」を判定することの困難性などについて触れられた上で、先述の「イスタンブール宣言」の文言について言及されました。
すなわち、
| | b、 |
国外患者への治療は、それによって自国民が受ける移植医療の機会が減少しない場合にのみ許容される。
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と訳された一節には、翻訳上の問題がある、というのでした。
原文は以下の通りです。
| | b. |
Treatment of patients from outside the country
or jurisdiction is only acceptable if it does not
undermine a country's ability to provide trans-
plant services for its own population.
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問題は、引用文三行目のundermineという単語であるそうで、日本移植学会アドホック翻訳委員会による訳文では、自国民が受ける移植医療の機会が「減少する」と和訳されていますが、undermineは、一般には「蝕む」「浸食する」「土台を削り取る」というように訳される語で、ここでは「根幹を損なう」「その国の移植能力を根刮ぎにする」というような語感があることを加藤氏は説明されていました。
不勉強な筆者ゆえ、「イスタンブール宣言」を読んでいたわけではありませんでしたが、和訳の際にニュアンスを都合良く変えてしまっているという指摘を、なるほどそこまでするのかと、興味深く感じたのでした。
筆者は語学を苦手にしており、この件について的確な評言が出来るわけではないのですが、小稿を記すために調べてみた限りでは、undermineに「根刮ぎにする」というところまでの語感があるのかどうかは判らなかったものの、確かに「減少する」というだけの意味の語ではないようです。
因みに、筆者が読んでみた限りでは、「イスタンブール宣言」には「脳死」の語は一度も出て来ないようで、「提案」という項に、
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これらの原則に一致する形で、イスタンブールサミットの参加者は臓器取引、移植商業主義、移植ツーリズムを防止しつつ、臓器提供を増やし、合法的で人命を救済する移植プログラムを支援していくために、以下の戦略を提案する。
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として、
という目的が設定され、その第一項に
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政府は、保健医療施設、専門家集団、非政府組織と協力して、死体臓器提供を増やすために適切な行動を取るべきである。死体臓器提供に対する障壁や抵抗感を取り除く手段がとられるべきである。
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とあるなど、課題とされているのは明らかに「死体臓器提供」のようです。
つまり、脳死が人の死であるかどうかは全く問題にされていないということで、恐らく、国際移植学会にとっては、脳死が人の死であることは大前提であり、議論すべきテーマですらないのであろうと思われます。
と、無論これは、「国際社会に生きる我が国が、生命倫理観のみ、グローバル社会から逸脱した独自のものを主張していていいのか」と、A案に賛成された某大阪大学副学長のようなことが言いたいのではありません。
国際移植学会というところで為された議論が、如何に我々の感覚と違っているのかということを確認しておきたい、というだけのことです。
と、またまた余計なことを書きました。
各教団の代表の方の発表内容、乃至、各教団で準備されたペーパーの内容を御紹介しましょう。
最初に発表されたのは、浄土宗総合研究所主任研究員の今岡達雄師でした。
浄土宗では、平成十七年五月九日付で、『「臓器の移植に関する法律」について』の見解を発表しており、平成九年法の改正の必要を認めないとしています。
すなわち、脳死を死とするのは、脳死によって死の判定を望むケースに限定すべきであり、三徴候死(心拍停止、自発呼吸停止、瞳孔の拡大)を以て人の死とすることを本来視すべきである。臓器を資源と見なすことを懸念するので、臓器移植を望ましいものとは考えない。しかし、現実的に臓器移植という手段がある以上、その治療を受けんとするのは当然であり、他者の幸福を願って臓器を提供する姿勢も貴重である。従って、臓器移植の際には、自己決定権を重視する(家族の同意のみの臓器提供は認めがたい)。といったようなところが骨子となろうかと思われます。
次に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)教学伝道研究センター研究員で武蔵野大学専任講師の爪田一壽師が発表されました。
浄土真宗本願寺派では、衆議院での脳死臓器移植法政定案の可決を受け、六月十九日付けで、参議院議長宛に、不二川総長(当時)の名で「参議院での臓器移植法改正案の慎重な審議を求める要望」を出されていました。
要望の原文は、本願寺のサイトで読めますので、御参照下さい(
http://www.hongwanji.or.jp/news/seimei/post-66.html)。
また、このことは、マスコミでも取り上げられたようで、現在でも、産経新聞のサイトなどで記事が見られます。
西本願寺(に限らず、今回参加した諸教団)の見解は、概ね、浄土宗と同様ですが、西本願寺の場合は、「臓器提供を受けて『助かる生命を助けたい』という願いはよく理解してい」るけれども、「いのち」の平等の観点から、ドナーとレピシエントの「いのち」を秤にかけてはならないことを強く主張されているのが特徴と言えましょうか。
続いて、真宗大谷派教学研究所所員の藤原正寿師が発表されました。
真宗大谷派では、本年七月六日付け(つまり、今御紹介している七月八日の院内集会の二日前です)で、「『臓器移植法改正』に関する動きについての宗務総長コメント」が発せられていました(
http://www.tomo-net.or.jp/info/news/090706.html)
「脳死」、「臓器移植」の問題は、人の死に「種類」があるかのような概念作りや、臓器を「部品」と見るような危うさをはらんでおり、元来「受けとめること」であった「死」ということを、「決めるもの」、「決めることができるもの」と変化させてきたのである、と主張されています。
次に発表したのが、確か、前述の大本の加藤眞三氏であったかと思います。
事前の打合せでは、伝統仏教宗派→新宗教→日本キリスト教協議会教団名の順番で、ということになっていたのですが、前回申し上げました通り、会合が予定より長くなりましたので、加藤氏が大学の講義の時間の都合で繰り上がって発表されたと記憶します。
加藤氏の発表は、右記のようなものでしたが、大本という教団は、この問題に大変熱心で、平成三年十二月三日に「脳死を『人の死』とすることに反対する声明」を発表して以来、今日まで、教団のサイトで読むことが出来るだけで、二十四回も脳死臓器移植の問題に関するコメントを発表しています(
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpOpin/000415.html)。
脳死を人の死と認めないのは勿論ですが、臓器移植についても、現状では「止むを得ない」程度にしか認めていません。
今般の法改定に関しては、第二次脳死臨調を立ち上げ、小児脳死を含めて、国民的合意が得られる努力を要望しています。
続いての発表者は、天台宗総合研究センター研究員で、大正大学准教授の村上興匡師でした。
天台宗では、平成七年十二月二十日付けで宗門の「『脳死及び臓器移植』に関する特別委員会」の見解が公表されています(
http://www.tendai.or.jp/shuchou/01.php)。
「心身一如を基本とするので、安易に脳死を人の死とすることに賛成できない。」「提供者(ドナー)にとって、臓器の提供は布施の行為と考えられる。法華経の中に『不惜身命』が説かれている。これは、永遠の生命を得ようとするためには、現世の身体、寿命さえ捧げることを惜しんではならないという教えである。」「受ける側(レシピエント)にとって臓器の提供を受けることは、…自分の受けるべき業を変えることを意味する。/天台教学では決定業(結果を受けるべき業)も…転じることが有り得るとしており、臓器を受けることは容認し得るところである。」といったように、教学と細かく関連付けながらの見解となっていることが特徴的であり、また、今般見解表明をした他の仏教教団と較べると、移植を推進しようとする考え方の方々への配慮も強く、脳死を人の死とすることに断固として反対しようとするという姿勢は、さほどでもないような印象を、筆者は個人的には受けました。
天台宗に続いては日蓮宗、すなわち、筆者が意見陳述をしたのですが、これについては、次回にいたしましょう。
筆者の次には、立正佼成会中央学術研究所所長の篠崎友伸氏が立ちました。
立正佼成会では、本年の四月二十三日、渡邊理事長名による『臓器移植法改正案に対する重ねての提言』を発表されています(
http://www.kosei-kai.or.jp/news/2009/04/post_1358.html)。
既述のように、WHOが、五月に、海外渡航による臓器移植について規制強化を図る見通しとなり、四月から国会で改正の動きが強まったことを受けてのもので、伝統教団に比して、対応の早さが感ぜられます。
その提言中には、「継続審議案の『脳死を一律に人の死とし、家族の同意だけで臓器提供ができる』とするA案は、現行法の制定にあたって積み重ねられた各界の議論を根本から覆すものです。B案については、年齢緩和の法的根拠が乏しいことに杞憂を感じます。/また、生体からの臓器の摘出及び移植について言及した点ではC案は、A案・B案に比べ現行法の不備を指摘した改正案として評価できます。」とあるなど、具体的にそれぞれの法案の評価にまで言及しているのが大きな特徴と言えましょうか。
また、「本人の意思尊重」すなわち「自己決定権」を尊重しながら、「十五歳未満の者の意思表示については、親権者の承諾を含めて、適切な法的措置を講ずる。」とするなどしている点が、伝統教団と異なる点として指摘出来るでしょう。
各教団からの代表者による発表の締め括りとなったのは、日本キリスト教協議会(NCC)宗教研究所研究員の土井健司氏(関西学院大学神学部教授)でした。
前回、今般の参議院院内集会についての呼び掛け中に、「*その他、『キリスト教』からの発表も調整中」とありましたように、NCCは、もともと緊急であったこの集会に、最終段階で参加することとなったため、ペーパーの用意はありませんでした。
平成十二年に、NCCが生命倫理特設委員会を設置する際、「人の死の過程の中で私たちは、心臓が停止する瞬間までの間を、死にゆく人と、その人と深い関わりを持つ人(人々)との最も大切な時としてとらえている。この意味で脳死は、本当に人の死を意味するだろうか。人の脳死を前提とした臓器移植や、それに伴う臓器売買をどの様に理解すればよいのか。また、着床前・出生前診断は、『障害者』否定につながる危険性をもっている。今日の医療先端技術の前で、私たちは神から与えられている『いのち』をどのように考えるかが問われている。また、私たちはキリスト者として、それぞれの場で決断が求められている。」とあるなど、脳死臓器移植の問題を、それ単独の問題としてではなく、「神から与えられている『いのち』」の捉え方の問題とし、広く考えようとしているように感ぜられます。