日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成21年7月号 第256号 改訂 第88号

現宗研だより
 今『いのち』を考えるとは(四)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

  久遠ということ
 
 先ほど申し上げました通り、と申しますか、言うまでもなく、法華経は、本仏の特長を、久遠性、永遠性、時間的無限性として捉えています。
 私は、そこに、更に空間的な無限性というものが含まれるのではないか、と申し上げました。時間というものは空間なくしては存在しないものであり、時間的無限性と空間的無限性がセットになっているところが、寿量品の凄さではないか、と申し上げたかったわけですが、法華経の本仏に対して、古来、特長とされて来たのは、もちろん時間的な永遠性ということであったわけです。
 ところで、その永遠性について、法華経は、御存じの通り
  我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
というような表現をしておりますが、こうした法華経の説示は、光宅寺法雲以来、如来の常住性を明かすのには不十分であり、例えば「仏身の常住」を説いている涅槃経などに比べて劣っている、というような議論がありました。
 現代の仏教学者の中にも、法華経の久遠は、時間軸の延長にとどまっているものであり、真の永遠性を獲得していない、というように評していた研究者がいたと記憶しますが、私はそうではないだろうと思うのです。
 先ほどの、福岡先生の、いのちには時間が組み込まれているという話ではありませんけれども、時間の中にしかいのちは存在しないんですよね。
 「永遠の今」というような説き方をすれば、それで満足される研究者の方もおられるかもしれませんけれども、それでは、現実の、具体的ないのちの永遠を表現することにはならないのであって、だからこそ法華経は敢えて、あくまで、時間軸の延長と評され得るような表現を用いて、いのちの永遠を説いたのであろう、と思うのです。
 つまり、本仏をいのちとして、あるいは、いのちを本仏として捉える視点が、法華経にはあったのではないでしょうか。
 つまり、久遠実成ということは、これは、決して観念ではないんですね、現実なんです。本仏のいのちの永遠は現実のものであり、言い換えれば、本仏の私との関係が問題だ、ということだと思うのです。
 
  『観心本尊抄』の仏界
 
 このことについては、『観心本尊抄』の御文章を読みながら、考えてみたいと思います。
 日蓮大聖人は、『観心本尊抄』に於いて、繰り返し、仏界というものの存在について問われています。
   問うて曰く、六道においては分明(ふんみょう)ならずといえども、ほぼこれを聞くに、これを備うるに似たり。四聖は全く見えず如何。答えて曰く、前(さき)には人界の六道これを疑う。しかりといえども、強いてこれを言えば、相似の言を出せり。四聖もまたしかるべきか。試みに道理を添加して、万が一これを宣(の)べん。いわゆる、世界の無常眼前(げんぜん)にあり、あに人界に二乗界なからんや。無顧(むこ)の悪人もなお妻子を慈愛す、菩薩界の一分(いちぶん)なり。ただ仏界計(ばか)り現われ難し。九界を具するを以て、強いてこれを信じ、疑惑せしむるなかれ。
 宗祖にとって、御自身の中に仏界があるのか、ということが、本当に大きなテーマであったわけなんですね。もし、自分の中に仏界がないのだとすれば、十界互具も一年三千も空文になってしまうわけです。となれば、唱題成仏ということも勿論ないわけで、宗祖はそれを徹底的に問われたのです。
   十界互具これを立つるは、石中の火・木中の花。信じがたけれども縁に値いて出生すればこれを信ぜん。人界所具の仏界は、水中の火・火中の水、最もはなはだ信じがたし。しかりといえども、竜火は水より出で、竜水は火より生ず。心得られざれども現証あればこれを用いん。すでに人界の八界これを信ぜり。仏界何ぞこれを用いざらん。尭舜等の聖人(せいじん)のごときは、万民において偏頗(へんぱ)なし。人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人において仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。これらの現証を以てこれを信ずべきなり。
 ここには、あくまで仏界を現実に把捉しようとする、宗祖の姿勢が明らかであろうと思います。
 我が身、人身に、仏界・仏身が具されている、などということは、信じようと言っても、簡単に信じられるものではありません。その信じ難いことを、徹底的に追究された。ただ、観念的に、人界の中に仏界あり、とかというのではなくてですね、俺の中に仏はいるのか、という問いだったのだと思うのです。宗祖の生き方そのものに直結するものとしての仏界、というようなものであったのではないかと思います。
 
  仏界の発露がいのちである
 
 そして、これは全くの私見ですけれども、仏の発露こそがいのちではないか、私はそのように捉えたいと考えています。仏界の顕現、働きとして外に出て来るもの、それこそが、最高のいのちの現象だと言って良いのではないでしょうか。
 こんな風に申し上げると、御前の言っていることこそが観念論じゃないかと仰る方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなくて、それを観念論に置いてしまうのではなくて、先ほど申し上げた、友達と飲みながら議論する、という、その私自身がやっぱり仏界の発露なのだというところへ行かなかったならば、私達は、いつも仏と人間のニ元論の間でウロウロしているだけで、永遠に成仏できないのではないかと思うのです。
 法華経が全て絶対だと、宗祖があそこまで仰った。ということは、私の中に仏を実感として捉えていく、ということではないかと思います。
 そういう風に、宗祖は『本尊抄』の中で訴えられていらっしゃるのだと思います。またそういう形で我々も、宗祖に就いて行きたいと考えております。
 言い換えれば、先ほどの、本仏をいのちとして、あるいは、いのちを本仏として、捉える視点というのは、日蓮大聖人が法華経を読み解いた視点なのではないか、と考えるのです。

 宗祖の法華経の読み方と言えば、言うまでもなく、色読ということになります。色読というのは、勿論、法難に遭われた宗祖御自身が、法難に遭われたという事実を以て法華経を逆に照射し、法華経の正しさを立証するということであるわけですけれども、本仏の顕れとしての自分がここに生き、生かされ、現にこうして佐渡にいるという、そうした大きな実感の中で、この色読というものが成立したのであろうと思います。たまたま誰かに、お前のやってること正しいよと、第三者が証明してくれているというようなものではない、自らの仏の働きとして正しいんだ、という、そうした性質のものとしての色読だという風に捉えていかないと、誰かが後ろから証明書を付けてくれるような、そんな捉え方とは違うだろうと思うのです。
 宗祖にとって、色読ということは、やはり、本仏との関わりの働きの証明として、受け止めなくてはならないのではないかと思います。
 
  内部の内部は外部である
 
 さて、私が学生時代、塚本啓祥先生が、当台の違いについてお話しになった言葉で、大変記憶に残っているものがあります。
 先生は、「日蓮聖人と天台の違いが分かるか。天台は、己の心の中に仏がいる、日蓮聖人は、仏の世界に包まれているんだ、この違いだ」と、そう仰っておられました。これは、すごい言葉だな、と、若い青年増でありました私には、大変印象的でした。
 それがずっと心に残っておりまして、『本尊抄』を拝読したりしながらも、なにかこう内観的な心の中に、外に出たくてしょうがない仏さんがいらっしやるのかな、というような捉え方をしておりました。
 本仏、本体界、そうした仏の世界との我々との関係はどうなのか、と、私自身、ずっと気になっておりました。

 今回、福岡先生の『生物と無生物のあいだ』を読んでおりましたら、この本の中心テーマというのではないのですけれども、その、本仏と私たちとの関係というのを考える上で、大変参考になるのではないかと思われる事例についての記述がありまして、私は、これが大変面白かったのです。
 ある細胞の働きを、この本の中で説明されているのですが、細胞というのは、ある要素を取り入れて、時間が来たらそれをまた外へ吐き出していく、それによって、新陳代謝を行う、というのです。こちらのものを入れて、こちらのものを出してやる。そういう、細胞の基本的な働きのひとつだそうです。
 福岡先生は、それを「内部の内部は外部である」ということばで説明されています。この本の第十一章の標題になっているのですが、これが、私にはとても興味深かったのです。
 細胞は薄い皮膜(細胞膜)で覆われているわけですが、その一部分が抉られたように陥入して行って、細胞の内側に小さな区画(小胞体)を作るのだそうです。こうして出来た区画は、トポロジー(位相)的に、内部の内部ということになり、つまり、外側、細胞の内部と区別される空間になるのですね。
 細胞からタンパク質が分泌される場合、その分泌されるタンパク質は、先ず細胞の内部で合成され、その後、小胞体の膜を通過して、小胞体の内部(つまり先ほどの外側、ですね)に入る。小胞体は、細胞の内部を移動して行って、最終的に細胞膜と部分的に融合して、細胞の外部と繋がり、タンパク質は、この繋がった通路を経て、外部に排出される、というわけなんです。
 これに私はびっくりしました。
 これは、私たちと本仏の世界との関係の、アナロジー(類比)として捉えられるのではないかと思ったのですね。元々仏の世界から我々は生まれる。ところが、その仏の世界を一つの細胞としますと、その中に、田澤元泰というこの碌でもないひとつのタンパク質が生まれて、それがやがて、何かの現象で、まさに仏意のしからしむるところでですね、仏の内部の内部に取り込まれて、トポロジーとしては外部にいる、それが今なんじゃないか。しかもそれは仏界につつまれているのです。
 ですから、私のような、腐れタンパク質も、元々は本仏そのものなのではないか。
 自分に仏界が内在しているとすれば、それは、ある時、突然変異を起こして、或いは修行をしたり、訓練をしたりすることによって、創造されて来るようなものではなくて、元々生まれて来ている、持って来ている、そういうことなのではないか、と感じたのです。
 ですから、私のいのちは、仏の働き、発露として出て来ている仏の働きの作用として、現在の自分のいのちがある、そういうことなのではないか、と思うのです。
 私たちのいのちの、その元は仏から来ている、という、そうした認識を持つ上での、ひとつのヒントを貰えた、ああやっぱりそうなんだ、俺の中にある仏と、本来の本仏とはまったく一つなんだと、そう感じさせて貰えたような気がしております。
 
  『所化以て同体』のいのち
 
 さて、『観心本尊抄』の四十五字法体段。
 私如きが、ここで、御遺文の中でも最重要であるとされているこの四十五字の解説をしようなどという大それたことを考えているのではありませんけれども、私たちの誰もが諳んじているこの祖文は、諳んじているが故に、意味を十分に噛みしめていないような気もするのです。
   今本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。
 この「所化をもって同体なり」、ここだと思うのです。
 お祖師様は、所化、つまり私にしてみれば私、と本仏とが、同体なりとはっきり仰られた、そこが肝心だろうという風に思います。
 久遠本仏釈尊は、所化以て同体の存在なのであり、その所化以て同体の釈尊が、「過去にも滅せず未来にも生じない」という仕方で、久遠なのです。つまり、これは、私たち自身が久遠の釈迦でなければならない、否、私たちが久遠の本仏なのだ、ということが説示されていると捉えなければならないのではないでしょうか。

 本仏のいのちの発露として、表現として、働きとして、私たちのいのちはあるのだ、ということ、私たちのいのちは、本仏を源としているのだ、ということ、これは、私たち法華経を信じる者、お題目を唱える者にしか言えないことだと思いますので、大事にしたいと思うのです。

 現宗研の嘱託で、福岡県南正寺の住職であり、医師でもある牟田口義隆師は、現宗研の所報に、生命倫理についての論攷を数編書いてくださっていて、そこで、宗数的生命倫理の六原則というのを提唱されているのですが、その第4に。
   悠久の命を生きる仏の子供である我々衆生も縁生で結ばれ、悠久をいきるものであり、生命はこの視点でとらえねばならない。
と書いておられます。
 牟田口師の議論の全てを研究所の公式見解とする、ということでは勿論ないのですが、この一項は僅かな文章ではありますけれども、ここには、私がくどくどと申し上げたようなことを、的確に一文にまとめられており、その内容は、改めて考え直してみなくてはならない事柄を多く含んでいるのではないかと思い、御紹介させて頂きます。
 
  いのちに合掌
 
 話は戻りますが、この「所化以て同体なり」という、宗祖の言葉を、檀信徒、あるいは、未信徒の方に、伝えようとした時に、現在行われている宗門運動の「いのちに合掌」というスローガンになって来るのだろうと思います。
 いのちに合掌する、合掌すべきいのち。何故いのちが尊いのか。
 何か悲惨な事件や事故があったりしますと、いのちの大切さを伝えましょう、とよく世間で言われます。何をもってそう言うのか。それは、例えば、心臓というメカニズムがあって、おぎゃあと生まれてから一生の間使うこのメカは、もし機械を使っていたなら何億円かかる、とかですね、生まれてから死ぬまでの一生の食費はいくらかかるとか、そんな物理的、物量的な価値で計れるものでは勿論ないわけで、いのちというものの大切さは、そんなことでは表現できないものであるし、そんな表現はしてはならないのだろうと思います。
 では、何か、いのちのどこが大事なのか。
 私は、働きだろうと思うのです。皆さんにお説教するわけにも参りませんが、私がよく法事などで檀信徒の方に申し上げるのは、私たちは一生、これでもかこれでもか、まだ足らないと思ってみんな生きてるけれども、その自分を誰かが必要としているよ、その誰かは、目の前じゃなくて後ろから、或いは遠くから、手を合わせて拝んでいるんだよ、そんなことを言うのです。
 誰もが、今まで一生の間に、相手にまだ言ってない、言いたいけれども言えないとしても、「ありがとう、あなたのお蔭です」と言いたいような人が、世の中に一人や二人はいるだろう。あとで気が付いたら、相手がもう亡くなってるかも知れないけれども、相手に直接「ありがとう」と言ってはいないけれども、機会があれば言いたかった、そんな風に思える人が、最低一人や二人いるだろう。それと同じように、きっと誰かがあなたをそう見てるよ、そう拝んでるよ、それこそがいのちの素晴らしさであって、誰もがそれくらいの価値があるんだよ、こんな私でも、誰かの役には立っている、それを自分でも気が付こう、いのちというのは、そういうことができる働きではありませんか、それを見つめましょう、と、そんな表現をしています。
 さらに、私といういのちは、たまたま偶然に生まれたわけではない、仏のいのちの発露として生まれて来ているというところからのものであろう、だから、供養ということを通じて、仏様のバックアップをいただこうね、と、そんな言い方をしております。

 久遠実成の釈尊と言い、所化以て同体と言う。
 私たちが「いのちに合掌」する「いのち」とは、それ以外のものでは有り得ません。
 それは「見えないいのち」ではないのであり、それを単なる「見えないいのち」にしてしまったのでは、久遠の釈尊、「所化以て同体」を、観念論にとどめ、空文にしてしまうことになってしまい、何の意味もなくなってしまうでしょう。
 久遠釈尊というのは、まさに、切れば血が出るいのちが久遠であるということなのではないでしょうか。「所化以て同体」を生きる。「いのちに合掌」の「いのち」とは、私のいのちであり、みなさんのいのちであり、仏のいのちである。だからこそ、合掌するのではないかと思います。
 そうしたいのちだから合掌する。価値がある。我々の、常識的な価値観、計りで計れるような相対的な価値観ではなくて、絶対な価値観として、「生命の絶対尊重」という言葉を、私は使っていこうと思っています。
 宗門運動で用いている「生命の絶対尊重」の絶対というのはそこから来る絶対であり、全てのいのちは絶対の本仏のいのちの発露である、たとえそれが、犬であっても猫であっても、もっと言えば山川草木全てがそうなのだと言い切るくらいの生命観の中で、私達は、そうした絶対尊重ということをしっかりと伝えて行かなくてはならないのではないかと思います。
 「生命の絶対尊重」の「生命」とは、私の生命であり、みなさんの生命であり、仏の生命である。だから絶対尊重するのです。

 『観心本尊抄』では、先はどの「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶ほ未だ盡きず、復上の数に倍せり」の文を引いて、
   我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。
と釈されています。
 これは、私たち一人ひとりの菩薩行が、そのまま御本佛の因行であることを示しておられるのであり、「所化以て同体」を別の言葉で表現されたものであると言えるのではないかと考えます。
 菩薩行とは、言わば、自行化他の祈りなのではないでしょうか。換言すれば、合掌するいのちこそが、久遠本仏であり、その本仏に同体であるところの私たちである、ということになるでありましょう。
 私たちがいのちというものについて考える時、本仏のいのちを生きる私たち、という視点こそ肝要なのではないか、と考える次第です。
 
  いのちは「流れ」の「効果」である
 
 最後に、もうひとつ、福岡先生の午後のDVDの中にあるかも分かりませんが、折角私が生身の人間として今日ここでお話しする機会をいただいたので、福岡先生のお考えの一部をご紹介したいと思います。
 生命現象とは何か、という問いに対して、それは「動的平衡」である、と福岡先生は仰っています。
 現在、一般的には、「生命とは自己複製可能なシステム」である、と言われているわけですが、それでは、生命は「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい観点が反映されていない、と言うのですね。
 そして、生命を構成している分子は、どんどん高速で分解されていて、そして、私たちが食物として摂取した分子と置き換えられている。身体の組織や細胞は全て、このようにして常に作りかえられ、更新されている。
 従って、私たちの身体は、分子的な実体としては、数ケ月前の自分とは全くの別物になっているのであり、この分子は、環境からやって来て、一時、「淀み」として私たちの身体を作り出し、また次の瞬間には環境へと戻って行く。
 つまり、そこにあるのは「流れ」であり、私たちの身体というものは、変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その「流れ」こそが「生きている」ということであり、それを「動的平衡」とシェーンハイマーという研究者が名付けた、と。
 よって、生命というものは、「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステム」でありつつ、その物質的構造基盤、すなわち構成分子そのものに依存しているのではなくて、その「流れ」がもたらす「効果」なのである、と。

 些か雑駁なお話となりましたが、お時間も参りましたので、まだまだ申し上げたいことは御座いますけれども、そろそろ、私の拙い話を終わらせて頂きます。
 いのちというものについて考えるための、受け止め方の一つのヒントになればと思い、福岡先生の御著書の内容も御紹介しながら、私なりに感じたこと、考えたことについて、皆さんと共に宗祖の思いを受け止められれば、とお話をさせていただきました。
 ご静聴ありがとう御座いました。
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