日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成21年6月号 第255号 改訂 第87号

現宗研だより
 今『いのち』を考えるとは(三)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

  『可延定業御書』の命
 
 さて、それでは日蓮聖人は「いのち」についてどのように仰ったのでしょうか。
 御遺文の中の「いのち」について触れてあるもの全てについてお話し出来るわけでは勿論ございませんので、皆さんがよく御存じのものの中から、本日は二編だけ取り上げることにしたいと思います。
 先ず、『可延定業御書』と呼ばれる御遺文には、周知の如く、次のようにあります。
   命と申物は一身第一の珍宝也。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申は寿量品のゆへぞかし。閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし。
(『昭和定本』八六二頁)
 これは、一見、水谷博士の「見えるいのち」、上田博士の「生命」の立場からのみ書かれているかと思えるような御遺文ですが、無論そうではありません。
 ただ、ここでは、この祖文が「見えないいのち」の世界に沈潜しているものでないことを、少し強調しておきたいと思います。
 「閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣。」というリアリズムを、日蓮聖人は生きておられたのです。
 これは、「見えないいのち」、宗教的いのちは、「見えるいのち」、生物学的いのちに即して初めて存在する、ということではないでしょうか。当たり前と言ってしまえば、当たり前のことなのですが、宗教者というものは、或いは、宗教に軸足を置こうとする者は、えてして「見えないいのち」の方ばかりを語り過ぎるように思われます。
 無論これは、一つの喩えですから、宗祖の場合でも、長生きしさえすればよいとかそういうことではありません。「いのち」というものの見方として、どんなに、見えない崇高なものがあると言ってみても、かたや、見えるいのちが短ければ、草よりも軽く、生犬にも劣る、と見なされるという現実的なものもあるわけで、宗祖はそうした両面をきちんとバランスを持って見ていらっしゃったのだと思います。
 見えないいのち、宗教的いのち、と、見えるいのち、生物学的いのち。やはり、この両者を、常に同時に捉えていく努力をして、初めて、私たちは、いのちというものの存在を摑む掴めるのではないでしょうか。
 そして、自摑が掴むだけではなくて、それを外に明しようとか、いのちとは何かを伝えて行こうといううな時に、きちんと両面を持つ、バランスがなければらないのではないかと思います。
 日蓮仏教は事の法門であると言われます。
 日蓮聖人の教えに基づく我々、法華経を受け止めお題目を唱えている我々は、現実の世界観ら心の世に入って行きます。
 五重相対の観相対ですね。教相と観心とを相対して、観心の方を選び取るわけです。
 しかしそこで終わってちゃ駄目なんですね。もう一回またこの現実へ、教相に戻って来る。
 そうなってこそ、「事」ということだと思うのです。理から事という形で、宗祖は、常に、現実に戻って来られる。往還しているとでも言いましょうか。この所が大変重要だと思います。
 「いのち」というこの問題にしても、先ほど申し上げましたように、非常にリアルなものを捕まえながら、時には、非常に観心的な次元へ行き、そしてまた戻って来るという、そうしたことが御遺文の中でも展開されているということではないかと思うのです。
 観心の世界を通過した上で、具体的な現実に戻る、観心の世界に逃げ込まない、ということを、この御遺文はよく示していると言えるのではないでしょうか。
 
  石田梅岩のエピソード
 
 ところで、上田博士は、石田梅岩の一つのエピソードを挙げながら、私たちの考えるべき「いのち」について提示しておられます。
 石田梅岩の下男が、或る時、古くなった井戸の釣瓶の綱を新しいものに取り替えたのだそうです。そして、古い、その綱を、捨ててしまった。それを見た石田梅岩が、大変厳しく、その下男を注意したというのです。一度捨てた古い綱を取り戻させてですね、風呂場で、薪と一緒に燃やさせた。そして更に、その燃えた灰を、畑に蒔いて肥料として使わせたという、そんなエピソードがあるのだそうです。
 これを上田博士は、「ものそのものがある意味で無限の重みを持ったものである」ということを示していると仰っています。
 よく、「もののいのち」というような表現をされる中で語られる話の中にも、同じような趣旨のものがあるのではないかと思いますが、それだけ、誰もが感じ、納得するものがあるエピソードのように思われますね。
 古くなった釣瓶の綱は、釣瓶の綱としての「いのち」は死んだものとなりますが、風呂場の燃料として甦り、更には肥料となって甦るのです。
 その環境や縁によって、古くなった綱はそれぞれ別な役割を持つ「生命」を手に入れ、そしてその「生」を全うしていくのであり、その存在としての「いのち」は普遍の状態で常にそこにある。
 綱は、もともとは、綱となる前には植物としての生命を持っていたはずであり、それが綱となり、灰となり、肥料となる。そして、肥料となった後も、また何らかの作物の中に生き続けていると言える。
 いわば「いのち」とは「生命」をおこし、その作用としての「生」を発生させるものなのである、と上田博士は言うのです。
 この上田博士の言を、私なりに言い換えれば、「いのち」「見えないいのち」の視点を踏まえながら、そこに留まるのではなく、「縁起」の思想を言わば「色読」して、事の世界、現実の世界に立ち戻って、「生命」と「生」と「いのち」とを捉えなければならない、と、いうようなことにでもなるのではないかと思います。
 
  久遠本仏の素晴らしさ
 
 私たちが「いのち」と言う場合、必ず想起されるのは、法華経の如来寿量品で明かされる久遠実成の釈尊です。
 我々日蓮門下は、法華経を受持をする者でありますので、何を話るにしても、この寿量品に行き着いてしまうところがあります。何にもせよ、法華経の寿量品を抜きには考えられない。「御住職はいつも寿量品の話に行っちゃう」なんて言われてしまったりします。
 ましてや、「いのち」の問題となれば、まさに寿量品抜きには語れない、ということにならざるを得ないのでありまして、皆さんにとっては、またかということになろうかとも思いますけども、確認の意味も含めて、少しお話をさせていただければと思います。
 さて、寿量品に明かされる久遠の木仏、久遠実成の釈迦牟尼仏についても、私たちは、単に「見えないいのち」のレベルにとどまる「宗教的ないのち」、観念のいのちとしてだけ捉え、受け止めてはいないでしょうか。
 昔、大学を卒業してすぐの頃でしたでしょうか、あるいは、現宗研の研究員になったばかりの頃だったかもしれませんが、いずれにしましても、今はもう齢六十を超えておりますから、思えば古い語なのですけれども、仲間たちと、或るお寺に遊びに行ったことがありました。そして、ビールを飲みながら──、あの頃は、缶ビールはあんまりありませんでしたので、瓶ビールでしたが、とにかく夜通し、みんなで或るテーマについて語り合ったのです。
 それは、何故釈尊は姿を示さないのか、ということでした。そのことを延々と、泣きながら語る奴がいたんです。姿を見せていいじゃないか、見えない俺が悪いのか、とかなんとか、そんな話です。
 如実に姿を見せないのは、存在しないからではないのか、と、彼は、そういう風に、本当に泣きながら訴えていました。
 私はそれを一歩引いて見ながらも、彼はすごい信仰をしているな、と感じていました。そして、確かに自分も釈尊を目では見ていないけれども、どこか肌で感じる、と、そんな風に応えたような記憶があります。
 すると彼は、お前そんなんで満足するのか、なんで目の前に出て来ねえんだ、というようなことで……。
 話がズレてしまいましたけれども、寿量品というのは、それだけの熱さを秘めていると思うのです。
 若き青年達が、酒を酌み交わしながら、そんなことを話題にする──本当は、お酒を飲みながらしてはいけない話題なのかもしれませんが、まだ若くて、かっかと燃えながらですね、お寺の本尊の片隅で、朝方までそんな話を延々とやっておりました。これはやはり寿量品の持つ熱さであろう、ということを思い、そして、それは、私自身の根源でもあるな、と改めて感じるのです。
 
  星空の広大さと法華経世界
 
 法華経は、本仏の特長を、久遠として捉えています。例えば、大日如来や、アミターユスと表現される阿弥陀如来などは、無量の光、空間的無限性を以て特長とするわけですが、久遠本仏は、文字通り、久遠性、永遠性、時間的無限性を以て特性とします。
 そして、それは、周知の通り、
  我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
 と表現されるところのものです。
 釈迦に説法になりますのであまり深く触れることは致しませんれども、私は、この時間的無限ということが、同時に、空間的な無限につながっていくということも、久遠実成ということの凄さだと考えています。
 私には天体観望という趣味が御座いました。現在は思うにまかせずほとんどしておりませんが、要するに星を見るのが好きなのです。
 以前はよく、車に望遠鏡を積み入れて、星を見に出掛けました。星を見るのに望遠鏡を使うのは当たり前だとお思いになるかもしれませんが、実は私はあまり望遠鏡は使いません。星を見るには、双眼鏡が一番いいんです。肉眼ですと、光が見えにくいのですが、双眼鏡が一番良く見えるのです。非常にリアルに見えます。双眼鏡で星を眺めていますと、宇宙船に乗って、宇宙空間を旅しているような気持ちになれるのです。
 ではなぜ望遠鏡を積んでいるかと申しますと‥‥。
 或る晩も、茂原の郊外で、双眼鏡で星を見ていました。茂原の郊外、田圃の真ん中です。すると、パトカーがすっとやって来たのです。警邏のパトカーで、「お前何をやっているんだ」と質問を受けました。「星を見てます」とは言ったものの、双眼鏡片手ですと‥‥疑われるんですね。
 で、あっと気付いたのです。さっき、車が一台通ったな、誰か通報したんだな「怪しい男がいます」と……。
 茂原の田圃の真ん中を警邏するパトカーなんてあるはずがないですからね。それで身の危険を感じたんですが、これは仕方がありません。「いや、星を見ています」と言ったって、信用してくれるわけがありません。そこで免許証を見せて、それから、たまたま車の後ろに、星座盤と言うんでしょうか、丸い皿状の、くるくる回して、星座の位置を知るのに使う装置を一つ積んであったので、それを見せましたら、あ、やっぱり御前は星が趣味なんだな、ということで帰してくれた、と申しましょうか、解放されました。
 以来、これは危険だなということで、望遠鏡を置いておくことにしました。望遠鏡を積んでいると誰も疑わないのです。
 ともかく、そんな風で御座いまして、宇宙が大好きなのですが、宇宙論でも、空間というものは、時間の軸によって広がっていくのです。時間と空間はセットと考えられています。
 そして、この久遠の本仏がまさにそうなんですね。
 十方諸仏、ですね。迹仏という仏が、同時に存在しています。となりますと、久遠の本仏ですから、同時に、常にどこにでも仏は存在するということになる筈です。
 今日は、本題とズレますので、これ以上は申し上げませんけれども、我々が、皆さんがたが普段当たり前のように感じている久遠の本仏の凄さ、素晴らしさと言うものは、こんな風にも示されるのではないでしょうか。
 法華経世界の広大さというものを、時には星空を眺めながら実感していただきたいと思います。
〔続〕
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