日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成21年5月号 第254号 改訂 第86号

現宗研だより
 今『いのち』を考えるとは(二)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

  見えるいのち、見えないいのち
 
 些かイントロダクションの話が長くなり過ぎましたが、では、我々宗教者、仏教者は、こうした現代の生命科学、iPS細胞のような問題をも踏まえながら、「いのち」をどう考えていかなくてはならないか、という問題について、残りの時間で考えてみたいと思います。
 さて、宗教者が生命やいのちについて語るとき、決まって言及するのは、「いのち」に対する宗教的な視点、或いは、宗教的に見た「いのち」ということです。
 科学の面から追究された「いのち」というものだけでは済まない、科学者が扱わない「いのち」というものに対する視点を、我々が構築して行かなければならないことは言うまでもありません。
 例えば、仏教大学の元学長であり、浄土宗の宗務総長もお務めになられた、水谷幸正博士は、「見えるいのち」と「見えないいのち」という言い方をされています。
 「見えるいのち」というのは、「肉体が生きていること」「生きている状態」であり、医学や生物学や自然科学、そして、私たちが一般的に「いのち」という言葉を用いる場合、この「見えるいのち」のことである、と水谷博士は仰います。
 しかし、「見えるいのち」だけで「いのち」と言って可いのか、と水谷博士は問われます。生物が生きることを成り立たしめている、目には見えないけれども、宇宙に満ちた「何か」があるのではないか、自然の摂理と言うか、生かされている秩序というか、そういうものを「見えないいのち」と名付けてみてはどうか、と師は言うわけです。
 
  生命、生、いのち
 
 或いは、京大名誉教授の宗教哲学の上田閑照博士は「生きること」に関する「生命」「生」「いのち」という三つの言葉の慣用的な差異に注目し、人間のあり方をこの三つの次元においてとらえようとされています。
 すなわち、
生物一般に通じるものとしての「生命」、
生活や人生という人間的、文化的な意昧での「生」、
「物のいのち」「仏のいのち」といった形でそれら二者とは質を異にした根源的な物としてとらえられるような「いのち」
という三つです。
 水谷博士の「見えるいのち」は、上田博士の「生命」に、「見えないいのち」は上田博士の言う「いのち」にほぼ対応すると言えましょうか。
 そして、上田博士は、「生命」は生物学のような科学によって究明され、「生」は生の哲学で究明されるものである。しかし、「いのち」について学問は成り立たないと述べておられます。
 これは、「いのち」は客観性を持てない、ということなのであろうと思います。生命科学の範疇であれば、先ほど申し上げたような、一秒早くこれができたとか、実験で成功したという如き客観的なものがあります。ところが、上田博士の言う「生命」「生」「いのち」のうちの「いのち」、水谷博士の言う「見えないいのち」というのは、十人いれば十人の捉え方がありそうな「いのち」でありますから、学問的には成り立ち難いということにならざるを得ない。しかし、だからと言って、それが無いのではない、無視をしていいということではない、ということを、上田先生は述べておられます。
 そして、「いのち」について語ることはできず、「いのち」が語る言葉、「いのち」の言葉を聞くことこそが、我々にできることであると仰るのです。更に上田博士はこの「いのち」が自覚される場として、文学や芸術、そして宗教を挙げておられます。
 現代社会に目を向けてみると、いま述べたうちの「生」、とりわけ「生」活といった一面が我々の直面する大きな問題となっており、それに呼応する立場から「生命」科学は進歩し続けています。「生命」科学も今生きている人間の「生」を守るためのものですし、地球環境の「生命」を守ろうとすることも、ひいては人間の「生」活を守るために他なりません。
 一方、「いのち」は「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるものであると思われるのに、現代の私たちは、そうした否定的な契機にしっかりと向き合おうとしていないのではないか──。上田博士の問題意識はそうした点にあり、こうした現況によって「生命」「生」「いのち」という、内に否定性までを含んだ全体の連関が崩れつつあり、「人間として生きること」の根本が崩壊させられるのではないかと危惧されているのです。
 話が少しく抽象的であるかもしれませんし、また、今さら私などが御紹介するほどのことではなくて、皆さん方が、既に実際に、布教の現場に於いて、多くの人と悩み、或いは檀信徒と共に語る中で、経験され、考えて来られたことであろうかとも思うのですが、このように分類して貰うと、我々の認識も整理されますし、こうした上田博士の指摘は、私たちが「いのち」というものについて考えようとする時、一つの示唆を与えてくれるものではないかと思われます。
 現代の人は、こうした「いのち」のようなものを真っ正面から扱うことを嫌うと言いましょうか、「いのち」のようなものについての捉え方、掴み方が解らなくなって来ているのではないかと思うのです。しかし我々は、そういうものに触れることも多いでしょうし、檀信徒をこうした「いのち」へ導かれる手立てを、皆さんそれぞれの布教経験の中でお持ちであろうと思います。
 ともすれば、心臓が止まったらもうそれで一生終わりだ、それどころか、心停止にならなくとも、脳死で人の死だ、というような捉え方だけが肥大して行って、そうした方向に世の中全体がどんどん流されていく中で、そうではない、「いのち」というものはそれだけのものではない、ということを、世間に伝えて行く責任が我々にはあるのではないでしょうか。
 そうしたことでは、人間本来の、存在の最も核になる部分が、見失なわれていく、本当の人生の意味というようなものが見えなくなっていく、のではないかと思われます。
 ただ、そうは言っても、生命科学の発展のようなものに圧倒されて、そんなことは世間には通じないんじゃないか、とか、それは過去の古い考え方なんじゃないか、というように、我々自身が臆してしまっているところもあるような気がするのです。
 ですから、「見えるいのち」と「見えないいのち」での「見えないいのち」と、「生命」「生」「いのち」での「いのち」の、それぞれ持っている意味というものを、我々はもっとしっかり、世間に対し社会に対し人々に対して、訴えていって良いのではないかと考えています。
 
  「生命」と縁起、「生命」と時間
 
 さて、そもそも仏教において「生命」は、縁起によって生ずるものとされます。縁起説の説明は、釈迦に説法のようなものですから省略致しますが、では、縁起によって生命を説明する、ということは、どういうことなのでしょうか。
 福岡伸一先生は、「生物には時間が組み込まれており、個体レベルでは受精卵の発生から成体までの分化過程が折り畳まれている。そこが生命を機械論的にとらえられないところである。何故なら、生命には時間が流れているからである」といったことを述べられています。
 ここで機械論的に捉えられた生命とされるのが、恐らく、水谷博士の「見えるいのち」であり、上田博士の「生命」に当たるのでしょうが、それはさておき、福岡先生曰く、遺伝子からタンパク質をつくる技術を使って、二万五千種類のタンパク質を集めて試験管に入れ、クルクル掻き回せば生物が自動的に自己組織化されて出来るかと言えば、無論出来ない。何故すべての部品がそろっているのに生命が現れないのかと言うと、そこには「時間」がないからである。「時間がある」とは、出現するタイミングということであり、分子同士が、それぞれのあるべきタイミングに出現し、相互作用し、秩序が構成され、そのようにして始めて生物は誕生する、とおっしゃっています。これは、まさに、縁起説そのものと言って可いのではないかと思うのです。
 福岡先生が「時間」として捉えたものを、私たちは「縁起」として捉えることが出来るのではないか。
 しかし、これを縁起として捉えるだけで終わりにしたのでは、余り意味がないだろうとも思います。
 換言すると、水谷博士の言う「見えるいのち」と「見えないいのち」を区分して、ただ「見えないいのち」の側からだけ物を言い、上田博士の「生命」「生」「いのち」の分類に則って、「いのち」が大切だ、とだけ言ったのでは、宗教者、仏教者として、不適切なのではないかと思うのです。
 何だか今まで申し上げたことを自分でひっくり返すように聞こえるかもしれませんが、宗教的な「いのち」の観点を提起するのは良いとして、その立場からだけものを言っても、これもまた「いのち」の本質から遠ざかる、と言っては言い過ぎかもしれませんが、不十分なのではないでしょうか。
 見えない「いのち」は無論大切なのですけれども、「いのち」の本当の姿は見えない方にある、「見えない」方が主だ、という風にだけしてしまっても、これはやはり、「いのち」の実相を見失うだろう、と思うわけです。
 些か卑近な物言いをすれば、毎朝鏡を見て、その鏡にうつる姿を、自分の生命の発露、生命の現象として見ている己が存在するわけで、つまり、実感として、見える「いのち」を「いのち」として捉える我々自身が現実にいるわけです。にも拘わらず、見えないものこそが「いのち」だとだけ言ったのでは、「いのち」というものを小さく捉えることになってしまうだろうとも思うのです。
 ですから、「いのち」を両面から捉えていくことが大切なので、見える「いのち」と見えない「いのち」を、きちんとセットとして、両翼・両輪として、離れない、繋がっているものとして捉える、もっと言えば、貫く「いのち」とでも言うような観点を、我々は、しっかりと持っていないといけないのだろうと思います。
 下手をすると、どちらかに流されてしまいがちです。見えるものだけで抱える人、これも勿論問題ですが、見えないものだけを強調し、利用するようなことになると、悪徳宗教に堕してしまいかねません。そのようにして、社会的に問題となっているような事例にも事欠かないわけで、そういう方面にだけ押し込もうとするような、両端はマズイのではないか、というのが、私の現在の立ち位置で御座います。
〔続〕
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