日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成21年4月号 第253号 改訂 第85号

現宗研だより
 今『いのち』を考えるとは(一)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

  はじめに〜ウイルス生物か
 
 おはようございます。これから、十二時までのお時間をいただきまして「今『いのち』を考えるとは」という講題でお話をさせて頂きます。
 このテーマは、教研の運営委員会の方から課せられたものなので御座いますが、大変抽象的で、どこからお話しをしたら良いのか、少々悩むところでも御座います。
 始めにお断り申し上げますと、本来は、福岡伸一先生(青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授)が、まず、科学の最先端の現場のお話をされ、それを踏まえて、私がお話しをさせて頂くことになっておりました。
 皆さん既にお読みになっていらっしゃることと思いますが、福岡先生に、御著書である『生物と無生物のあいだ』にも書かれているような内容を含めて、「生命科学の現状と展望」について講じて頂くことになっていたわけで御座いまして、私としても、興味深いお話を伺えるものと大変楽しみにしておりました。そして、仏教者として、或いは宗門人として、その福岡先生のお話をどう受け止めるべきか、ということを考えたいと思っていたわけで御座いますが、先ほど司会の方からの御報告の通り、大変残念なことに、インフルエンザで御講演して頂くことが叶わなくなってしまいました。
 実はこの『生物と無生物のあいだ』という書物の、大きなテーマの一つの事例として、ウイルスに対する考察が御座います。ウイルスは、生物であるという説と、いやあれは、無生物、無機物である、という見方と、両方の紹介がされておりました。
 その内容に私が註釈をつけることはできませんけれども、ただ、福岡先生は、ウイルスは生物ではない、というお考えに立っておられるようです。
 先日、急に、私の義理の姉が、洗濯物を干していて、庭で倒れたのです。たまたま旦那さんが休みの日で家におられて、救急車を呼び、事なきを得たのですが、原因は、インキュべーターというウイルスでした。
 日頃、少し血圧が低めだったということが災いしたらしいのですが、このように、ウイルスと言いますと、今朝なんともなかった人がいきなり庭で倒れるような、そういうダメージを人間に与える、まさに「悪魔のような生物体」と見なしたくなるのですが、福岡先生の論でいきますと、生命体、生物ではない、ということになります。この件は、また後ほどちょっとお話させていただきたいと思っておりますけれども、ウイルスは、生命の基本的な要素を持っておらず、生物とは見なせないと、先生ははっきりと述べられておられます。皮肉なことに、というと先生に申し訳ありませんけれども、今般は、福岡先生御自身が、そのウイルスに犯されてしまったということで、もしかすると、ウイルスの反撃なのか、というのは、もちろん冗談ですけれども、しかしながら、本当に他人事ではないなということで、お話を承ったような次第で御座います。
 そういったようなことですので、私がお話しさせて頂く時間の中で、福岡先生が御著書に書かれた内容についても少し触れながら、進めさせて頂こうかと考えております。
 
  『悼む人』の生死観
 
 さて、今回、この教研会議のテーマは「変貌する『いのち』」ということで、大変に大きなタイトルが掲げられているのですが、これは、「いのち」というものの捉え方が、変わることを余儀なくされて来ている、私がおぎゃあと生まれた頃や、或いは、私は昭和四十三年に出家を致しましたのですけれども、その頃の生命観と、今日現在の生命観とでは、かなり変わって来ている、そういう問題意識を以てのテーマであろうと考えます。
 我々僧侶は、「いのち」というものについて、これをただ生きるということだけでなしに、「生死」として、生と死とを一体として捉えることがあります。
 昨年、直本賞を受賞した、天童荒大の『悼む人』という小説が御座います。話題作ということで、読んでみたのですが、そこに示された生死観というものに対し、成る程という思いを持ちました。
 私も一寺の住職をしておりますので、臨終、或いは葬儀等の場に臨むことが、毎年それなりの回数になります。御檀家さんなり、或いは、知っている方を送る場合もあり、様々な思いが去来するのですが、身内は別にしても、日頃、共に、一緒に信行していたお檀家さんなどを送る際、あそこまでの深い思いを果たして私は持っていたのだろうか、というようなことを、大変反省させられた本でもありました。
 あの作品の中で、死というものを通しながら、実際その人間がどう生きてきたのか、その一番の掴まえどころはどこなのか、どこを掴まえたら、その人の、生きた意味があるのかということを、作者は作者なりに、ひとつの見解を示して訴えているのではないか、という感じが致しました。私としては、この講演のご依頼をお受けした後に読んだということで、深い示唆をいただいた感じがしております。
 
  宗門運動と『いのち』
 
 ところで、現在日蓮宗では、ご存じのように、この場にも、教区長上人を始め、それぞれの部門で御盡力頂いている各聖がおられますけれども、宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」が展開をされております。
 宗制上の規定として制定され、そして、実動に入って以来、既に二年を経過して、いよいよその中身を、より具体化、より充実させて展開をしていくという段階に来ております。
 特に今年は、『立正安国論』御奏進七五〇の年ということで、その内容につきましてもより一歩、進めていこうという場面を迎えております。
 この「立正安国・お題目結縁運動」を如何なる運動にして行くかという議論を始めた最初の段階、当時は岩間内局で御座いましたが、そのころ、「『生命の絶対尊重』を基本精神とする」ということが決定されました。そしてまた、昨年、この運動のスローガンが「いのちに合掌」ということで決まりました。
 すなわち、この運動にとって、「いのち」「生命」といったことは、その根本テーマに係わることであり、「いのち」というものの大切さを訴えることを通して、日蓮宗宗門として、或いは我々日蓮宗僧侶の各々が、一般の人々、或いは社会に向けて、メッセージを発して行こう、そのひとつのステージにしていこうという判断がなされたわけであります。
 「いのち」「生命」というと、言葉は簡単なのですけれども、意味内容には様々なものを含みます。したがって、或る表現を与えてしまうと、それについて議論が起こって来る、ということもあります。例えば、「生命の絶対尊重」というこの宗門運動の基本精神をめぐる表現については、一部から疑問も呈されました。恐らく、本当は解っているのだろうと思うのです。本当は解っているのですが、一つの言葉にして、事を起こそうとすると、多少の認識の違いとか、所謂立ち位置の違いによって、色々異論が出されたりするということがあるのであろうと思います。
 しかし、一つには、我々が、実際に宗門運動を起こしたり、またそれぞれが現場で布教していく上では、多少の異論が生まれることを覚悟しながら、或る判断を持たなければいけないということがあるのではないでしょうか。
 一方、そうは言いつつも、やはり、運動として展開する以上は、共通理解として、一つの大きな意味づけを、客観的に見えるようにしていく努力も必要であるということも思わしめられます。
 さて、「いのち」「生命」ということについては、この言葉自身に様々な多岐に亘る意味合いが含まれています。今日は皆さんと、その辺をどういう風に受け止めていったらいいのか、を考えてみたいと思っています。
 日頃、我々は、法務を通じて、頻繁に「死」というものに接触をしております。つまり、生とは如何なるものであるか、ということを考えさせられる、人生に於ける大きな場面に、しばしば立ち会うわけです。しかし、そういう私たちでも、なかなか「いのち」というものを掴み切っているという実感を持つことは難しいのではないでしょうか。我々でもそうなのですから、まして、社会、多くの人々は、そうした言葉の混乱によって、時には惑わされたりしてしまうこともあるのではないか。そういう意味で、今日は皆様と、この「いのち」というものをどう捉えていくか、まずその捉え方の方向性について、私なりに考えたところを述べさせていただければと思っております。
 
  iPS細胞をめぐって
 
 ところで、話は変わりますが、一昨年、二〇〇七年十一月二十日に、京都大学の山中伸弥教授のグループが、ヒトの皮膚細胞からiPS細胞、日本語にしますと人工多能性幹細胞、の作成に成功したことが発表され、大きな話題となりました。
 iPS細胞と申しますのは、──もちろん私は素人ですから、受け売りで御座います、「ニュートン」とかそういった雑誌や関連の書籍などを繙いてみましても、よく解らないことだらけなのでは御座いますが、さわりのところだけを申し上げますと、人体のあらゆる部分になることが出来るような細胞のことであり、これを皮膚の細胞から作り出したということでして、将来的には、私の皮膚から私の心臓だの肝臓だのを作り出すことが出来るかもしれないという、そういう可能性を持つのが、このiPS細胞の研究である、ということのようです。
 京都大学教授のノーベル賞にも値する研究であり、医療や生命の有り様を根本的に変えてしまう可能性を持った研究ということで、大きな社会的関心を呼んでおります。日本でも、学界や官界、そして産業界が一体となってプロジェクトを作り、これを研究し、実用化して行く体制を構築しつつあると間いております。
 福岡先生の御著書の中にも触れられていたことですが、この分野の研究は、本当に日進月歩、もっと言えば秒進分歩というような状況であり、山中教授のグループの論文が「セル」という科学誌に発表された、その同じ日に、「サイエンス」という科学誌に、アメリカのウィンスコンシン大学のトムソンという教授らが、やはりiPS細胞の作成に成功したという論文を掲載したのだそうです。そのくらいに、この分野の研究競争の激しさは、我々の想像を絶するものがあるようです。
 ヒトiPS細胞に関する特許については、京大が、二〇〇六年十二月六日に国際出願し、次いでウィスコンシン大が二〇〇七年三月二十三日、更には、四月七日にマサチューセッツ工科大(MIT)、五月三十日にハーバード大、そして六月には、ドイツのバイエル社が出願していることが明らかになっているそうです。また、このバイエル社が、今年に入って、二月十二日ですから、つい一週間ほど前のことですが、同社が特許出願中のiPS細胞に関する権利を、米国のバイオ・べンチャー「iZumi Bio(アイズミ・バイオ)」に譲渡するとの発表がありました。
 iPS細胞関連の研究論文は、二〇〇七年の八件から二〇〇八年には七十一件に増えているということであり、発表前に特許を出願していないとは考えにくい状況とのことでありますから、特許争奪戦はますます激化する見通しであると言います。つまり、この技術が実用化したとすると、莫大な経済的利益を生むことも当然予想されるわけでありまして、日本政府も、この技術の実用化に向けて、異例とも言われるスピードでバックアップ体制を整えつつあり、文部科学省、厚生労働省、経済産業省などが連携し、五年間で百億円の研究費を投じるなど、オールジャパン体制での支援を行うことになっていると聞き及びます。
 すなわち、iPS細胞の先行研究とも言うべき、ES細胞の研究段階にあっては、その倫理性でありますとか、そういったことが盛んに議論されたりもしたわけですが、iPS細胞に至って、そうした議論が十分になされないまま、実用化に突っ走っている感があると言えるかもしれません。つまり、iPS細胞の成功が発表されたその日、実にその日なのですが、それまでES細胞の研究に批判的であり、ES細胞研究への連邦政府による助成を禁じたり、ES細胞研究のために卵子を使用することに拒否権を行使していたりした合衆国のブッシュ大統領が、iPS細胞研究を支持しました。そして、翌日には、ローマ法王庁が、このiPS細胞の研究に「お墨付き」を与えております。こうしたことが、後押しになったという事情があるのではないかと思われます。
 
  ローマ法王庁と生命科学
 
 実は、iPS細胞をめぐる一連の報道の中で、現宗研所長として私が最も気になったことの一つは、この件に関する、バチカンの反応でした。
 ローマ法王庁の中に生命科学アカデミーという研究所があります。そこの所長の、エリオ・スグレシアという司教が、──こうした研究所の所長を司教が務めるのは、現宗研の所長を私がさせて頂いているのと同じようなことなのだと思いますが、──その所長さんが、十一月二十一日に、iPS細胞の研究について、歓迎のコメントを発表したのです。
 先ほど申し上げた通り、iPS細胞の作成に成功したという二つの論文が発表されたのは、二〇〇七年の十一月二十日でした。そして、その翌日には、バチカンが、これを「歴史的な成果」と讃えたのです。すなわち、「これまでの研究方法は『人を助けるために人を殺す』という考え方に立った、誤った科学と言える」とした上で、「日本人と米国人はわれわれの声を聞いてくれ、研究に成功した」とし、iPS細胞は「人を殺さず、たくさんの病気を治すことにつながる重要な発見」であるとコメントしたのでした。
 ここで、バチカンが「これまでの研究方法」と言っているのは、もちろん、ES細胞の研究のことを指しています。ES細胞は、日本語では、胚性幹細胞と呼ばれます。動物の発生の初期段階である胚盤胞期の胚の一部に属する内部細胞塊より作られる幹細胞であるということですが、カトリック教会では、卵子に受精した段階を以てヒトとしての生命の始まりと見なしていますから、受精卵を壊してES細胞を作製することは、言わば、ヒトを殺すことと同義であると考えているのです。
 ブッシュ政権がES細胞研究を支持していなかったのも、こうした考え方に立脚していたものと言って宜しいかと思います(註:その後、オバマ大統領は、今年の三月九日、ES細胞研究への連邦政府による助成を解禁する大統領令に署名した。ES細胞研究は、アルツハイマー病やパーキンソン病、糖尿病などの重病の治療法開発にとって大きな意義を有するとしたものであるが、同時に、ブッシュ前政権のES細胞研究への助成制限政策によって、科学者らが米国外に流出している現状を憂慮したものであり、オバマ大統領は、「医学の奇跡」は地道な研究によってのみ達成されるもので、健全な科学か道徳的価値かという「間違った選択」を行うことを拒否する、と述べた)。
 こうしたことから、スグレシア司教は、先ほどのコメントの中で、「この考え方により、カトリック教会はヒトのクローニングおよびヒト胚性幹細胞(ES細胞)を作製する際にヒト胚を破壊することに反対している。誰かを犠牲にして別の人の命を救うというのは、倫理的なマキャべリズムである」という表現を用いており、iPS細胞については、「胚の使用に関連した『倫理的問題』とするべきではない」という評価を与えたのでした。従って、また、iPS細胞を賞賛したとは言っても、「技術的プロセスについては懸念していないが、人間の尊厳が脅かされるようなことになれば対応を考える」と補足し、条件付けすることも忘れないわけです。
 
  iPS細胞に対する宗教界・仏教界の対応
 
 一方、我が国の宗教界、仏教界の対応はどうでしょうか。
 ローマ法王庁の生命倫理専門委員会による「ヒト胚の取り扱いに関する基本的考え方」中間報告書──これは、二〇〇三年十二月二十六日に発表されたものですが、これには、仏教の考え方として、「仏教系の宗派で、ヒト受精胚をどのように考えるべきかについて見解を示している宗派の存在は確認できなかった。」とあります。またヒアリングにおける意見として「人の始まりに関して言えば、仏教の『唯識』という考え方では受精した瞬間から生命と見ているし、仏教の習慣では歳を『かぞえ』で数えているなど、胚の段階から人としてみていると言っても良いだろう。」といった意見や「純粋に仏教的な考え方を言えば、そもそも人間も動物も全て存在は仮の現象であり、人の生命の始まりは何時で終わりは何時かということは空論である。」とする考え方が紹介されたりなどしています。
 と、向こう側の資料を用いて申し上げましたが、この中間報告書のあとや、iPS細胞の作成が発表後でも、こうした問題について見解を発表した仏教教団は、管見に入った限りではないようです。
 例外として、天理教のおやさと研究所の所長が、その機関誌であります「グローカル天理」の二〇〇八年二月号に、「万能細胞の出現と宗教者の立場」というタイトルで、iPS細胞の成功について言及していますが、これも、科学の成果としてのiPS細胞の研究を評価しつつ、そうした科学とは異なる宗教の不変的存在価値を主張しているという程度であり、バチカンの反応と比較してどうこうというレべルのものとは言い難いのではないかと思われます。
 昨年の一月十三日の「朝日新聞」には、これまでに申し上げたようなバチカンの反応を受けて、「宗教と科学は対極にあると思われがち。しかし、例えばカトリック教会は科学の進歩に敏感だ」という記事が掲載されておりました。バチカンがこういうことを言いますとマスコミは飛びつく、ということはあるにもせよ、ローマ法王庁の対応のスピードに触発された記事であったとは言えるかと思われます。
 
  教団の声明について
 
 無論、ローマ法王庁においても、実のところ生命のはじまりに対して、寧ろ一般常識に基づいて定義しただけで、必ずしも教義的に裏付けはできていないままに、その姿勢のみが示されているのではないかという疑いもないわけではありません。
 例えば、内閣府総合科学技術会議生命倫理専門調査会という機関のヒアリングによれば、カトリック教団の内部にも、「命の始まりについて科学的な定義も哲学的な定義もしていない。ただ、生命に対する慎重な立場から『受精の時から守る』という安全第一の態度を勧めているということ。」というような意見があるとも述べられている、といった具合です。
 しかしながら、私は、やはり、カトリック教会がこうした問題について、常に関心を持ち、研究調査をし、科学的な新しい成果について迅速に反応し得る態勢を持っているということは、評価しなくてはならないであろうと考えております。
 ローマ法王庁では、一九九七年の『生命のはじまりに関する教書』にも示された通り、一貫して「受精の瞬間」にヒトの生命の誕生を認めて来ており、その姿勢には全くブレがありません。
 教団として、こうした問題に統一見解を出すということについては、勿論、教団内の思想統制的な危険性も孕むわけではありますが、例えば或る立場の方が或る見解を述べた時に、取り敢えず現今の世相に応じて答えたのであったとしても、それはそれとした上で、更に教祖なり宗祖なりの教義教学にのっとってより深く考えて行くというような、こうしたことは両方あって良いのではないかとも思うのです。
 先ほど、iPS細胞を巡る一連の報道の中で、現宗研所長として最も気になったことの一つは、ローマ法王庁の反応であったと申し上げましたが、ローマ・カトリック教会の発言となれば、日本のマスコミでも取り上げるところとなり、世界的に一定の影響力を持つわけです。そうした見解の表明となれば、あだ疎かに出来るものではないわけで、それなりの研究調査の蓄積があり、それが如何なる事象であり、何処に問題があるか、が、その教団なりに整理出来ており、そして、何か新しい進展があった時に、その意義付けが即座に出来る態勢が整っていて、初めて、研究論文が発表された翌日に、それを是とする声明を発表する、などという芸当が出来るわけです。
 私が申し上げたかったのは、ES細胞やiPS細胞という、日本の宗教界ですと、ことによると、あれ?、それどこかで聞いたかな?、くらいの認識しか持たれていないかもしれない件に対して、バチカン、或いはカトリックの世界では、こうした議論が湧き上がっているということを、皆さんにも是非、認識をしていただきたい、ということです。
 日蓮宗が、「いのち」の大切さを説き、立正安国・世界平和を言い、お題目によって世界を救済するということを説く以上、如何に幸せな世の中を作っていくかということについて対外的にメッセージを発し、世の中を一歩リードして行くような教団でなければならないと思います。現実には、まだまだ足らないところだらけだとしても、そういう教団になっていこうという共通課題を持って、そのために、様々な方法論を出し合い、また、実践し合っていこうじゃないかと、そういう風でなくてはならないと思います。そして、そうした姿勢が、今度の宗門運動の大きな柱になって行かなければならないのではないでしょうか。
 勿論、現在の宗門運動に於いても、「いのちの活動」に関するプロジェクト・チームも組まれております。或いは、現宗研でも、生命倫理の問題については、継続的な研究課題としております。しかしながら、自戒を込めて申し上げるのですが、とてもとても、バチカンのような対応が取れる態勢は整っておりません。
 現宗研も、宗門の皆さんの思いを受け止めながら、こうしたことをもう少し具体的に提示できるような研究或いは調査活動をして行かなければならないと考えてはおりますが、言うは易く行うは難し、というのが現状です。そこでお願いがありますのは、そういうことを考える機会を少しでも増やして頂きたいということです。今日のこの教研会議も、勿論そういう場の一つとして頂ければと思います。
 本題に入る前に、iPS細胞をめぐる問題について、延々とお話しを致しましたが、これは決して我関せずで済む問題ではないのでして、現実に、ローマ・カトリック教会は、こうした声明を出しているわけです。分散会の中でいろいろと御議論頂く際にも、こうした事実を、再認識した上で、建設的な御発言・御提案をしていただければありがたいと思って、敢えて申し上げたような次第です。
〔続〕
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