日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成21年3月号 第252号 改訂 第84号

現宗研の調査研究ノート
 教化学へのアプローチ! 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(十三)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

『開目抄』に於ける法華経引用について(5)
 
 前回に続き『開目抄』における法華経引用について検討したいと思います。
 なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)のものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。
 
  常不経菩薩のこと
 
 前回では三類の強敵をはじめとする数々の大難が、いまの末法における法華経行者の出現の確信につながっていることを述べました。次にその行者とは己のことであるとの確信を得るために、宗祖はまずご自分の受けられた迫害の様子を、法華経に示された常不軽菩薩のお姿を鏡として確認されます。
 「不軽品に云く
 『その罪畢えおわつて』等云云。
不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給ふ罪身にあるゆへに、瓦石をかほるとみへたり。また順次生に必地獄に堕べき者は重罪を造るとも現罰なし。一闡提これなり。」(600)
 (現代訳)
 〈法華経の常不軽菩薩品には「その罪おえおわって」とある。常不妊軽菩薩は過去世において法華経を誹謗した罪が身にあるから瓦や石を投げつけられたと理解されている。ところでまた、来世でなければその次の生、またさらに次の生というように、必ず地獄に堕ちると決まった者は、たとえ重罪をつくったとしても現世では罰が現われない。一闡提人というのはこれに該当する。〉

 日蓮聖人はご自身の迫害について、法華経に示された不軽菩薩の姿と同じく、過去の法華経誹謗の罪が今生での現罰として生じ、法華経信受により「其罪畢已」の功徳が現れた、すなわち一闡提ではないと受け止められました。つまり法華経による苦難は、過去の重罪を現すと共に、その罪をおわらせるということになります。法華経不軽品引用の特色といえます。
 
  大難の覚悟と『立正安国論』
 
 以上の謗法と現罰との仕組みを考えた上で、大難をとらえてみると、
 「また守護神この国をすつるゆへに現罰なきか。謗法の世をば守護神すてゝ去り、諸天まほるべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還て大難に値べし。」(601)
 ここでは国全体が謗法により守護神が去ってしまったことの恐ろしさを説かれていますが、「守護神この国をすつるゆへに現罰なきか」と、一見平穏に見えることへのより一層の恐ろしさを示されています。そして、
 「具には立正安国論にかんがへたるがごとし。」(601)
 と、警鐘をならすために『立正安国論』を撰述され、奏進されたのでした。その時のご覚悟が次のご文章にて表明されています。
 「詮するところは天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵をふる、悪知識に値ゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつる、地獄の業なるべし。本と願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。その外の大難、風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。」(601)
 『立正安国論』拝読にあたっては、このご文章を一緒に拝読する必要があるといえます。すなわち、立教開宗時でのご覚悟と誓願が、『立正安国論』撰述と奏達にて具体的な行動として現れ、佐渡流罪時での法華経色読のご自覚によって、その行動の正しさが証明されたといえます。
 
  過去の業因を映す仏法の鏡
 
 宗祖にとって大難に遭遇している只中で、その原因についてさらに言及せずにはおられず、経文にご自身が符合していることを述べられます。
 「仏法の鏡は過去の業因を現ず。」(602)
 「法華経に云く
 『軽賎憎嫉』等云云。(譬喩品)
 二十余年が間の軽慢せらる。」(602)
 (現代訳)
 〈法華経譬喩品には「軽んじ賤しめられ、憎まれ嫉まれ」とあるが、日蓮はこれらの経文の通りに軽んぜられあなどられてきた。〉

 さらに、法華経のほかに『般泥洹経』第四巻を引用され自身の経験に当てはめられておられます。法華経引用ではありませんが参考として紹介します。
 「『或は形状醜陋』。また云く『衣服足らず』。予が身なり。
 『飲食麤(そ)疎』。予が身なり。
 『財を求むるに利あらず』。予が身なり。
 『貧賎の家に生まれ』。予が身なり。
 『或は王難に遭い』等。この経文、人疑うべしや。」(602)
 「法華経に云く
 『数々見擯出』。
 この経文(般泥洹経)に云く『種々』等云云。」(602)
 これらの経文に照らし、次のような実感を述べておられます。
 「我無始よりこのかた悪王と生れて、法華経の行者の衣食田畠等を奪とりせしことかずしらず。」(602)
 「今ま日蓮強盛に国土の謗法を責れば大難の来るは、過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし。」(603)
 
  門下への戒め
 
 我が身の存在が、経文によって証明されたことを丁寧に述べられた上で、我々門下に対して明確に戒めておられます。
 「我並びに我弟子諸難ありとも疑う心なくわ自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我弟子に朝夕教えしかども疑いををこしてみなすてけん。ったなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。」(604・605)
 (現代訳)
 〈日蓮、ならびに日蓮の門下たちは、たとえさまざまな受難があっても、法華経の教えを信じて疑う心がなければ、おのずから仏界に到達すること必定である。諸天の加護が現われないことに疑問を持ってはならない。この世が安穏にならないことを嘆いてはならない。我が弟子たちに、朝に夕に、いつもこのことを教えてきたけれども、重なる受難に疑問を起こして皆捨ててしまったのであろう。愚かな者の常として、約束したことを本当に大切な時に忘却してしまうことになるのであろう。〉
多くの弟子や信徒が、佐渡流罪中に離反してしまったことが窺い知れます。
 
  宗祖の大慈悲
 
 「我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし。」(605)
 (現代訳)
 〈日蓮は法華経の信心をつらぬいて法華経が永遠に説きつづけられる霊山浄土に参り、その霊山浄土からこの娑婆世界に帰って人々を導くのだ。〉
 過去の大罪による今生の大難について、法華経をはじめとする経文を鏡として確認され、法華経色読のご自覚によって法華経信仰の正しさが証明された上で、往生ではなく、末代までもこの世にて私たちを見守られるという、心強くまたありがたい宗祖の大慈悲心のお言葉が胸をうちます。
 
  摂受と折伏
 
 開目抄も最終部分になり、布教教化のありようについて述べられます。問者の言葉として次のような問題が提示されました。
 「また法華経の安楽行品に云く
 『楽て人及び経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ』等云云。
 汝この経文に相違するゆへに天にすてられたるか。」(605)
 多くの者が離反した状況の中で、安楽行品を引用して今のような疑問が問い出されたものと考えられます。
 その答えとして、摂受と折伏が説き示されました。
 「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。譬へば熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。(中略)。末法に摂受・折伏あるべし。いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。」(606)
 「天台云く『時に適うのみ』等云云。譬えば秋の終に種子を下し田畠をかえ(耕)さんに稲米をうることかたし。」(607)
 この問題に対して、まず我々の使命は仏勅をうけて法華経を弘めることにあるという大前提から説かれ始めます。
 「夫れ法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ、
 『法をして久しく住せしめんが故にここに来至したまえり』等云云。
 三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそみへたるを、法然いたわしとおもはで、末法には法華経の門を堅く閉て人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすつるやうに法華経を抛させける心こそ、無慚に見へ候へ。」(608)
 日蓮聖人は念仏者による謗法が横行し、天台・真言などの仏教者がそれに対して何もしようとしていない現状をご覧になり、まさに父母が重病で苦悩するわが子を故おうとするように、それ以上に強い思いでこれまで法華経を弘めてこられました。それは三仏の本願をわがものとして受け止められたからでした。宗祖にとって当時の日本は破法の国でありました。佐渡流罪での「死」をご覚悟の中で、折伏としてのご生涯をふり返られ次のようなお言葉で終わっています。
 「仏法は時によるべし。日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大薬をうくべければ大に悦し。」(609)

 これまで開目抄を拝読してまいりましたが、この御書の主題は法難による守護の有無と、法華経色読のご自覚による法華経の真実を述べられたことであります。そして撰述された趣旨は、本仏釈迦牟尼仏からの仏勅をうけ、末法におけるご自身の生き方に対し、法華経をはじめとする経文を明鏡として照らし合わせ、その正しさを確認され、宗祖のかたみとして私たちに対して書き残されたものです。
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