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現宗研の調査研究ノート 教化学へのアプローチ! 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(十二)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰
『開目抄』に於ける法華経引用について(4)
前回に続き『開目抄』における法華経引用について検討したいと思います。
なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)のものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。
前回では宝塔品での三度の勅宣と、提婆達多品の達多悪人成仏と竜女成仏の二箇の諌暁を示されて、特に提婆達多品における成仏は一般衆生にとっても直接かかわりの深い、父母の成仏が証明された「内典の孝経」であると述べておられます。すなわち法華経の最勝真実の法門を父母の成仏という二箇の諌暁に代表され、三箇の勅宣にて自身の誓願として受け止められたのです。
魂魄佐渡の国にいたる
ここで日蓮聖人は、竜口のご法難ならびに佐渡流罪を経験されるなかで『開目抄』を撰述された真意を表明されます。
「五ヶの鳳詔にをどろきて、勧持品の弘経あり。明鏡の経文を出して当世の禅・律・念仏者、並に諸檀那の謗法をしらしめん。日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。これは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢずらむ。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし。」(590)
宝塔品の三箇の勅宣、提婆達多品の二箇の諌暁、合わせて法華経の五つの尊いみことのりが説かれ、さらに勧持品において法華経を弘める行者を妨害する三類の強敵が現われるという、末法の世を映し出す曇りのない鏡によって、今の世の禅宗・律宗・念仏の僧と信奉者が法華経に昂められた仏法を誹謗していることを知らしめようとされました。その結果、竜口のご法難にて「頸はねられぬ」大事をへて、「魂魄佐土の国にいたりて」の法華経色読のご自覚に達せられました。
宗祖の「かたみ」=末法の世を映す明鏡=
『開目抄』は、釈迦牟尼仏・多宝如来・十方分身諸仏により未来の日本国つまり末法の世を映し出す明鏡として、宗祖を通して書きしめされた、宗祖ご自身の「かたみ」であると述べておられます。その証拠すなわち仏の文証として『勧持品』を引用されています。
「勧持品に云く
『唯願くは盧(うらおもい)したもうべからず。仏滅度の後、恐怖悪世の中において、我等まさに広く説くべし。諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらん。我等皆まさに忍ぶべし。悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるをこれ得たりと謂い、我慢の心充満せん。或は阿練若に、納衣にして空閑に在つて、自ら真の道を行ずと謂つて、人間を軽賤する者あらん。利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世に恭敬せらるることをうること、六通の羅漢のごとくならん。この人悪心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮りて、好んで我等が過を出さん。○常に大衆の中に在つて、我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かつて、誹謗して我が悪を説いて、これ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。○濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖あらん。悪鬼その身に入つて、我を罵詈毀辱せん。○濁世の悪比丘は、仏の方便・随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し、数数攘出せられん』等云云。」(590)
法華経に法謗の姿を映す
「『於仏滅度後恐怖悪世中』。(勧持品)592
安楽行品に云く
『於後悪世』。
また云く
『於末世中』。
また云く
『於後末世法欲滅時』。
分別功徳品に云く
『悪世末法時』。
薬王品に云く
『後五百歳』等云云。」592
これらの引用によって、末法においては法華経の怨敵が出現し、今がその時であることを示されています。さらに法華経勧持品に示された三類の強敵について次のような法華経の引用がみられます。
三類の強敵
「第一の『有諸無智人』と云うは、経文の第二の『悪世中比丘』と、第三の納衣の比丘の大檀那等と見へたり。」(594)
「第二の法華経の怨敵は、経に云く
『悪世中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるをこれ得たりと謂い、我慢の心充満せん』等云云。(勧持品)」594
安楽行品に云く、
『末世法滅の時なり』等云云。
法華一乗の機、今正しくこれその時なり。何を以て知ることを得る。」594
「ただ法華のみ正善なり。爾前の円は相待妙、絶待妙に対すればなお悪なり。前三教に摂すればなお悪道なり。爾前のごとく彼の経の極理を行ずるなお悪道なり。」(595)
「釈迦・多宝・十方の諸仏は「法をして久しく住せしめんが故にここに来至したまえり」。(595)
「第三は法華経に云く
『或は阿練若にあり、納衣にして空閑に在つて、乃至白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢のごとくならん』等云云。(勧持品)」(595)
三類の強敵についてその証拠を示されたあと、正法を誹謗し害をなす当時の仏教界の僧侶等に対し、
「彼等は経文に
『納衣在空閑』
と指すにわにず。
『為世所恭敬如六通羅漢』(勧持品)
と人をもはず。」(596)
と、勧持品の「弊衣を綴った袈裟を身に着けて閑かな場所にいる」という経文とは合致しないし、「阿羅漢のように世間から尊敬される」とも思われない。との意味で引用されています。もしもそのように認識するならば、「眼あらば経文に我身をあわせよ。」と厳しく批判されています。
経文に映すとは、法華経行者の確認のみならず、法謗の姿、さらには法華経に示された世界そのものを照らし合わせる意味をもっているのです。
その上でご自分のこれまでの弘教の姿を法華経にあわせて、次のような言明がなされました。
「そもそもたれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるゝ。誰の僧か刀杖を加へらるゝ。誰の憎をか法華経のゆへに公家武家に奏する。誰の憎か
『数数見擯出』(勧持品)
と度々ながさるゝ。日蓮より外に日本国に取出さんとするに人なし。」(598)
真の法華経の行者とは
しかしここで宗祖はもう一度法華経の行者への疑問を述べられます。
「日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給ゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせんo」(598・599)
しかしそれは法華経の行者への自覚へとつながってゆきます。
「法華経の行者あらば必三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木に値うなるべし。」(599)
末法において三類の強敵は出現しているのに、いったい誰がその怨敵による迫害をうけているのだろうか、という疑問を提示され、
「ある人云く、当世の三類はほぼあるににたり、ただし法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり。
『この経に云く『天の諸の童子以て給使をなさん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず』(安楽行品)。
また云く
『もし人悪罵すれば口則ち閉塞す』等。』(安楽行品)
また云く
『現世には安隠にして後には善処に生れん』等云云。(薬草喩品)
また
『頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝のごとくならん』。(陀羅尼品)
また云く
『また現世においてその福報を得ん』等。(普賢菩薩勧発品)
また云く
『もしまたこの経典を受持する者を見て、その過悪を出さん。もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、この人現世に百癩の病を得ん』等云云。(普賢菩薩勧発品)」(599)
その疑問に対して次のように述べておられます。
「答て云く、汝が疑い大に吉(よ)し。ついでに不審を晴さん。不軽品に云く
『悪口罵詈』等。
また云く
『或は杖木瓦石を以てこれを打擲す』等云云。(不軽品) (599)
「法華経に云く
『しかもこの経は如来の現在すらなお怨嫉多し』等云云。(法師品)」599
日蓮聖人にとって、法難にあうことによって法華経の守護がないことからの真の行者への疑問と、法華経に予見された法難を現実に身に受けていることからの真の行者なのではないかとの狭間で苦悩されました。しかしここに三類の強敵の出現という動かせない事実により、末法において必ず真の法華経の行者が出現するとの確信がありました。その出現とは己のことであるとの確証を得るために、さらにこれまでの弘教の在り方を確めることとなります。
以下次回に続く
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