日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成20年11月号 第248号 改訂 第80号

現宗研の調査研究ノート
 教化学へのアプローチ! 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(十一)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

『開目抄』に於ける法華経引用について(3)
 
 前回に続き『開目抄』における法華経引用について検討したいと思います。
 なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)のものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。

 前回は宗祖が開目抄を撰述された主題でもある、迫害に会うということは己が法華経の行者ではないからなのか、それがじつは法華経の色読による真実教の証明となってぃると同時に、それは法華経の行者の証拠でもある。この大いなる矛盾・問題に対して、「いかになりぬるやらんと大疑いよいよつもり候。」(567)と、法華経行者の守護が実現しないのは、いったい何故なのだろうかと、大いなる疑いがいよいよつもるばかりなのである。
 との難題にむけて探求されるところまでを法華経の引用を中心に検討しました。
 その疑問に答えをもとめるにつき、宗祖はここでもう一度法華経の真実性についてふれられ、一念三千とその基本ともなる二乗作仏、久遠実成の法門が説き示されていることが最重要であり、そのゆえに諸菩薩諸天善神が法華経ならびに法華経の行者を守護されることを明らかにされるための論理が展開されてゆきます。従来通り法華経の引用を中心に考察してゆきます。
 
  釈尊の誓願と具足
 
 まず、爾前の諸経で成仏の記別を受けたようにみえるものもあるが、二乗作仏、久遠実成が明かされていない限りは、あくまでも仮のものであり真実の成仏ではありません。
 「法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う。」(569)
 と、諸菩薩の請願を受けて、釈尊よりはじめて真実の法門が述べられ、これを受けて、
 「舎利弗等驚て諸天竜神・大菩薩等をもよをして、
 『諸の天竜神等その数恒沙のごとし、仏を求むる諸の菩薩大数八万あり。また諸の万億国の転輪聖王の至れる、合掌して敬心を以て具足の道を聞きたてまつらんと欲す』(方便品)
 文の心は四味三教、四十余年の間いまだきかざる法門うけ給はらんと請せしなり。」(569)
 と、舎利弗等の驚きが示されました。
 ところで、ここで舎利弗の言葉を通して、具足道が大きな意味を持っていることが示されています。そこで諸々の経論を引用され、
 「妙とは具足。六とは六度万行。諸の菩薩の六度万行を具足するやうをきかんとをもう。具とは十界互具。足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり。満足の義なり。この経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四宇、一々にみな妙の一宇を備えて、三十二相八十種好の仏陀なり。十界にみな己界の仏界を顕す。」(570)
 と、仏界を具するという重要法門そのものであることが示され、舎利弗の疑問に対して
 「仏これを答て云く
 『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云(方便品)
 衆生と申は舎利弗、衆生と申は一闡提、衆生と申は九法界。衆生無辺誓願度此に満足す。
 『我本誓願を立つ。一切の衆をして我がごとく等しくして異なること無からしめんと欲す。我が昔の願せしところのごとき、今は已に満足しぬ』等云云。(方便品)
諸大菩薩諸天等此の法門をきひて領解云
 『我等昔より来、数世尊の説を聞けどもいまだ曾てかくのごとき深妙の上法を聞かず』等云云(譬喩品)」(570・571)
 と、釈尊の誓願が説かれ、諸菩薩をはじめとする衆生等の了解が述べられた個所を引用されています。さらに、
 「華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。」(571)
 と、法華経以前では説かれなかった釈尊一代肝心の重要法門が説かれたことが示されています。
 このように釈尊の誓願が満足されたということは、法華経にて一代の肝心たる一念三千の大綱骨髄たる二乗作仏・久遠実成が解き明かされたということに他なりません。そこには法門を示すということが、単に理論の提示ではなく、その教えを弘通するために「具足」するということであり、我々からみれば釈尊から「具足される」ということが最も重要なこととして受け止めなければならないことがこれからも展開されます。
 ここで『開目妙』の上巻が終わり、下巻へと変わります。
 
  本化地涌の菩薩への疑問
 
 つぎに、久遠の本仏とのかかわりを中心に論が展開されてゆきます。
 「されば宝塔品には、これらの大菩薩を仏我が御弟子等とをぼすゆへに諌暁して云く
 『諸の大衆に告ぐ、我が滅度の後、誰か能くこの経を護持し読誦する。今仏前において自ら誓言を説け』(宝塔品)」(571)

 「弥勒菩薩疑て云く
 『無量千万億の大衆の諸の菩薩は、昔より未だ曾て見ざるところなり。この諸の大威徳の精進の菩薩衆は、誰かそのために法を説いて、教化して成就せる。誰に従つて初めて発心し、何れの仏法をか称揚せる。○世尊、我昔より来未だ曾てこの事を見ず。願わくはその所従の国土の名号を説きたまえ。我常に諸国に遊べども、未だ曾てこの事を見ず。我この衆の中において、乃し一人をも識らす。忽然に地より出でたり。願わくはその因縁を説きたまえ』等云云。(涌出品)」(573)
 このあと天台大師や妙楽大師の注釈を引かれて、地涌の菩薩について
 「経釈の心分明なり。詮するところは、初成道よりこのかた、此土十方にて此等の菩薩を見たてまつらずきかず、と申なり。」(574)
 と、大いなる疑問をしめされ、それが本化菩薩にたいする難解につながってゆくことに論をすすめてゆかれます。
 「仏この疑いに答て云く
 『阿逸多○汝等昔よりいまだ見ざるところの者は、我この娑婆世界において阿耨多羅三藐三菩提を得已つて、この諸の菩薩を教化し示導して、その心を調伏して、道の意を発さしめたり』等。(涌出品)
 また云く
 『我伽耶城菩提樹下において坐して最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、爾してすなわちこれを教化して、初めて道心を発さしむ。今皆不退に住せり。乃至、我久遠より来、これらの衆を教化せり』等云云。(涌出品)」(574)

 「されば弥勒菩薩等疑て云く
 『世尊、如来太子たりし時、釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず。道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。これより已来、始めて四十余年を過ぎたり。世尊云何ぞこの少時において大いに仏事を作したまえる』等云云。(涌出品)
 一切の菩薩始華厳経より四十余年会々に疑をまうけて、一切衆生の疑網をはらす。中に此疑第一の疑なるべし。」(575)
 地涌の菩薩の出現による大いなる疑問に対して、寿量品にて本仏ならびに本化の菩薩の姿があらわされる法華経の展開にそって解説されてゆきます。
 「その後仏寿量品を説て云く、
 『一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり』等云云。(寿量品)
 この経文は始め寂滅道場より終り法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり。
 『しかるに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり』等云云。(寿量品)
 この文は華厳経の三処の始成正覚、、阿含経に云く、「初成」、浄名経の「始坐仏樹」、大集経に云く、「始十六年」、大日経の「我昔坐道場」等、仁王経の「二十九年」、無量義経の「我先道場」、法華経の方便品に云く、
 『我始坐道場』等(方便品)
 を、一言に大虚妄なりとやぶるもん(文)なり。」(576)
 
  本仏開顕
 
 寿量品にて本仏の真の姿が顕わされた以上は、これまでの諸経と、さらには法華経の迹門までもが、方便の「大虚妄なりとやぶる文なり」として受け止めなくてはならいということを述べておられます。それはさらに此の土という浄土の問題であり、そこにかかわる仏、菩薩をはじめとする一切衆生の問題でもあるのです。
 「今、爾前、迹門にして十方を浄土とがう(号)して、この土を穢土ととかれしを打かへして、この土は本土となり、十方の浄土は垂迹の穢土となる。
 仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。」(576)
 「仏衆生を化せんとをぼせども結縁うすければ八相を現ぜず。」(577)
 「今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩、なお教主釈尊の御弟子なり。」(577・578)
 「華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。大王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊を下て盧舎那・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して、種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをも(思)て、教主をすてたり。禅宗は下賎の者一分の徳あて父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。これみな本尊に迷えり。例せば三皇已前に父をしらず、人みな禽獣に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。」(578)
 「されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼々の経々にして仏にならせ給うやうなれども、実には法華経にして正覚なり給へり。釈迦・諸仏の衆生無辺の総願は皆この経にをいて満足す。『今は已に満足しぬ』の文これなり。」(581)
 法華経本門における本仏の開顕によって、仏の誓願はすでに満足されました。それは本来の本仏の浄土の顕現であり、分身の諸仏や諸菩薩を中心とした諸聖や諸神の集り守護する処であります。
 
  法華経の明鏡にわが身をあてる
 
 しかし、
 「日蓮案じて云く、法華経の二処三会の座にましましし日月等の諸天は、法華経の行者出来せば、磁石の鉄を吸うがごとく、月の水に遷るがごとく、須臾に来て行者に代り、仏前の御誓をはたさせ給うべしとこそをぼへ候に、いままで日蓮をとぶらひ(訪)給わぬは、日蓮法華経の行者にあらざるか。されば重て経文を勘えて我身にあてゝ身の失をしるべし。」(581・582)
 と、宗祖は法華経の行者であるか否かについて、法華経の経文と我が身を照らし合わせて検討されようとします。次のお言葉が、宗祖の法華経に対する基本的な姿勢として拝見することができます。
 「私の言を出すべからず。経釈の明鏡を出して謗法の醜面をうかべ、その失をみせしめん。」(582)
 まずはじめに法華経にて釈尊から法華経弘通についてのいかなる指示すなわち仏勅があるのか、それに対して己がいかなる生き方をしているかが重要な問題となります。
 「法華経の第四宝塔品に云く
 『爾の時に多宝仏、宝塔の中において半座を分ちて釈迦牟尼仏に与えたもう。○爾の時に大衆、二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して、結跏趺坐したもうを見たてまつる。○大音声を以て普く四衆に告わく、誰か能くこの娑婆国土において広く妙法華経を説かん。今正しくこれ時なり。如来久しからずしてまさに涅槃に入るべし。仏この妙法華経を以て、付嘱してあることあらしめんと欲す』等云云。(宝塔品)
 第一の敕宣なり。
 また云く
 『爾の時に世尊重ねてこの義を宣べんと欲して偈を説いて言わく、聖主世尊、久しく滅度すといえども、宝塔の中に在して、なお法のために来りたまえり。諸人云何ぞ勤めて法に為(むかわ)ざる。○また我が分身の無量の諸仏恒沙等のごとく来れる、法を聴かんと欲す。○各妙土及び弟子衆・天人・竜神、諸の供養の事を捨てて、法をして久しく住せしめんが故に、ここに来至したまえり。○譬えば大風の小樹の枝を吹くがごとし、この方便を以て、法をして久しく住せしむ。諸の大衆に告ぐ、我が滅度の後に誰か能くこの経を護持し読誦せん。今仏前において、自ら誓言を説け』(宝塔品)
 第二の鳳詔なり。
 『多宝如来、および我が身集むるところの化仏まさにこの意を知るべし。○諸の善男子各諦かに思惟せよ。これは為れ難事なり。宜しく大願を発すべし。諸余の経典、数恒沙のごとし。これらを説くといえどもいまだ難しとなすに足らず。もし須弥を接つて、他方の無数(むしゆ)の仏土に擲げ置かんも、またいまだ為れ難しとせず。○もし仏の滅後、悪世の中において、能くこの経を説かん、これ則ち難しとす。○仮使劫焼に乾(かわ)きたる草を担い負うて、中に入つて焼けざらんもまたいまだ難しとせず。我が滅度の後に、もしこの経を持って、一人のためにも説かん。これ即ち難しとす。○諸の善男子、我が滅後において、誰か能くこの経を護持し読誦せん。今仏前において、自ら誓言を説け』等云云。(宝塔品)
 第三の諌敕なり。第四・第五の二箇の諌暁、提婆品にあり、下にかく(書)べし。
 この経文の心は眼前なり。青天に大日輪の懸がごとし」。(582・583)
 と、六難九易に代表されるように、法華経を弘めることは大難を覚悟しなければならない、それは宗祖ご自身が明白なことと受け止めておられます。
 
  命は法華経にたてまつる
 
 「この経文は日本・漢土・月氏・竜宮・天上・十方世界の一切経の勝劣を釈迦・多宝・十方の仏来集して定め給うなるべし。」(583)
 「日蓮なげいて云く、上の諸人の義を左右なく非なりといわば当世の諸人面を向べからず。非に非をかさね、結句は国王に讒奏して命に及ぶべし。」(584)
 諸宗の歴祖の趣旨を簡単に誤りであると言えば、今の世の人々はきっと顔をそむけ、そればかりか、不法な行為を重ねて迫害を加えるばかりか、結局は国王に讒言して日蓮の生命の危機にも及ぶこととなろうと、悩まれた結果、それはこの処がすでに本土として本仏の住みたもう浄土であり、自ら仏弟子の一員として仏勅を受けとのご自覚から法難に対するご覚悟をもたれたのでした。
 「法華経に云く
 『已今当』等云云。(法師品)」(585)
 ここでの引用は、すでに説き、今説き、当に説かんとするなかで、最も難信難解の法門としての意味の引用です。
 「日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり。天台・伝教の跡をしのぶゆへなり。彼人々は天台・伝教に帰せさせ給はずは謗法の失脱れさせ給うべしや。当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留べし。」(589)
 難信難解の法華を弘めるとのご自覚の上で、諸経諸論それぞれがいずれも真意がわからずに自我自賛をしていることに触れられ、おのれに与えられた使命がいかに重要かつ難題であり、それらに対する覚悟が大きなものであるか述べられています。
 
  内典の孝経なり
 
 ところで「下にかく(書)べし」と、宝塔品で示された三箇の勅宣のほかに提婆品に示された二箇の諌暁について次のように述べておられます。
 「宝塔品の三箇の勅官の上に提婆品に二箇の諌暁あり。提婆達多は一闡提なり、天王如来と記せらる。涅槃経四十巻の現証はこの品にあり。善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者、一をあげ頭をあげ、万ををさめ枝をしたがふ。一切の五逆・七逆・謗法・闡提、天王如来にあらはれおわんぬ。毒薬変じて甘呂となる。衆味にすぐれたり。竜女が成仏これ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。」(590)
 『開目抄』のなかで広く読まれている有名な一説はこのように提婆品における仏陀の諌暁に関する部分の引用に対する解説の部分であります。
 「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過・未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道なおかなひがたし。いかにいわんや父母をや。ただ文のみあて義なし。今法華経の時こそ女人成仏の時、悲母の成仏も顕われ、達多の悪人成仏の時慈父の成仏も顕わるれ。この経は内典の孝経なり。二箇のいさめおわんぬ。」(590)
以下次回に続く
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