|
現宗研の調査研究ノート 教化学へのアプローチ! 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(十)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰
『開目抄』に於ける法華経引用について(2)
前回に続き『開目抄』における法華経引用について検討したいと思います。
なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)のものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。
前回は開目抄前半において、法華経引用を検討しながら、法華経が他の諸経と異なり、二乗作仏・久遠実成の真実が説かれていることによる難信難解であることを示され、さらに日蓮聖人ご自身が法華経を信じ弘められることについて「日蓮が強義、経文には普合せり」と法華経色読のご自覚への予感を表明しておられることを確認しました。以下法華経の引用についての検討を続けてゆきたいと思います。
真の難信難解について
難信難解の法門である、法華経の二乗作仏・久遠実成のうち、久遠実成に関する展開がされています。
| |
「法華経の正宗、略開三・広開三の御時、
『唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽す』等、(方便品)
『世尊は法久しうして後』等、(方便品)
『正直に方便を捨てて』等、(方便品)
多宝仏 迹門八品を指て
『皆是真実なり』(宝塔品)
|
と証明せられしに何事をか隠すべき。なれども久遠寿量をば秘せさせ給て、
| |
『我始め道場に坐し樹を観じてまた経行す』等云云。(方便品)
最第一の大不思議なり。」(551)
|
つまり、二乗作仏が示され、多宝如来によって真実の証明までされていながら、まだ久遠実成の真実を隠されている不思議ともいえる、本門の展開にふれられるにあたり、「最第一の大不思議」として、ことの重要性を強調されています。更に続けて
| |
「されば弥勒菩薩涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を、仏
『爾して乃ちこれを教化して初めて道心を発さしむ』等(涌出品)
ととかせ給いしを疑て云く
『如来太子たりし時、釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。これより已未、始めて四十余年を過ぎたり。世尊云何ぞこの少時において大に仏事を作したまえる』等云云。(涌出品)
教主釈尊これらの疑いを晴さんがために寿量品をとかんとして、爾前迹門のきゝ(所聞)を挙て云く、
『一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり』等云云。(寿量品)
正しくこの疑いに答て云く
『しかるに善男子、我実に成仏してより已未、無量無辺百千万億那由住劫なり』等云云。(寿量品)」(552)
|
と、涌出品をへて寿量品に於ける開迹顕本の意義が示されています。
次に、法華経の迹門から本門にいたって、真実のさとりが顕されたことが次のように述べておられます。法華経の引用文ではありませんが、重要な事柄ですので掲載します。
「これらの二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮るににたり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四散の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕わす。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」(552)
と、一念三千と二乗作仏の教えは法華経に至る前段階の経典がもっている二種類の失点のうちの一つをまぬがれることができた。しかし、まだ本門の主旨を顕らかにしていないから、真実の一念三千も明らかにされず、したがって、せっかく説かれた二乗作仏が決して定まったことにはならない。本門に至って、蔵教・通教・別教・円教という四つの教えは、表面的なものであることがはっきりし、それらの四教による限りでは釈尊の覚りを示すには充分でないことが明確にされ、四教が示した覚りに至る修行の道筋も否定されることになる。こうして、諸経典や法華経迹門に説かれた「十界の因果」は充分に確立していないことになる。「本門の十界の因果」すなわち本因・本果の教えにおいて、地獄界から菩薩界に至る九界は無始の仏界に包まれ、仏界も無始の九界の中におのずから備わっている救済の様相が示され、真実の十界互具・百界千如・一念三千が明らかにされるに至ったのである。久遠本仏が顕示されてはじめて明確に仏の世界が提示されたと述べておられます。
ここで宗祖は
| |
「二乗作仏すらなお爾前づよにをぼゆ。久遠実或はまたにるべくもなき爾前づりなり」(553)
|
と、法華経迹門すら覆えそうとする、久遠寿量の仏を顕す、涌出品と寿量品のみに限定された法門をはたして多くの人々が理解し信ずることが出来るのかという、大きな不安と疑問を示されました。このあと、諸経が展開されるなかで、特に仏滅後の世界で真実を弘めることの困難が示され、涅槃経の「爪上の土」の喩を引かれて、正しい法を信じ持つ者の少ないことに触れておられます。それは、宗祖ご自身のこととして受けとめられてゆきます。
法華経とのであいと使命
つぎに、
| |
「ここに日蓮案じて云く、世すでに末代に人て二百余年、辺土に生をうく。」(556)
|
とされて、法華経との出会いについてつぎのように述べておられます。
| |
「しらず大通結縁の第三類の存世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来るか。」(556)
|
化城喩品に照らせば、かつて大通智勝仏のとき、法華経の救いに縁を結びながら、その場で得道できず、末法の今やっと法華経に出会えたのであろうか。または如来寿量品に照らせば、五百塵点という久遠の往昔に仏種を受けながら、途中で修行の志を見失ったが、今、末法の世に生まれてきたのであろうか、ということです。
次に、法華経の引用そのものではありませんが、趣意として引用されたものを掲載します。
「日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合せ見るに、いわずわ今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕べし。いうならば三障四魔必ず競い起るべしとし(知)ぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくは一度に思い止むべし、と且くやすらいし程に、宝塔品の六難九易これなり。われら程の小力の者須弥山はなぐとも、われら程の無通の者 乾草を負て劫火にはやけずとも、われら程の無智の者恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。」(556・557)
末法において現実に行われつつある謗法を知った者としての自覚と使命について、法華経による法難にかんする予見の根拠として提示されています。
世間において行われていることを、己の経験と感情によって判断するのではなく、法華経という明鏡に照らし、そこから与えられる使命を直接受け止められ
「今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ。」(557)
という、宗祖の法華経の受け止め方の特色がはっきりと見ることが出来ます。
法華経の色読と守護
| |
「法華経の第四に云く
『しかもこの経は如来の現在すらなお怨嫉多し、いわんや滅度の後をや』等云云。」(法師品)
第二に云く
『経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賎憎嫉して結恨を懐かん』等云云。(譬喩品)
第五に云く『一切世間怨多くして信じ難し』等云云。(安楽行品)
また云く
『諸の無智の人の悪口罵言等するあらん』。(勧持品)
また云く
『国王・大臣・婆羅門・居士に向つて誹謗して我が悪を説いて、これ邪見の人なりと謂わん』。(勧持品)
また云く『数数擯出せられん』等云云。(勧持品)
また云く
『杖木瓦石もてこれを打擲せん』等云云。(常不軽菩薩品)」(557)
|
と、迫害を受けるであろうとの予見の根拠が法華経より引用されています。
しかし
「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。定で天の御計いにもあづかるべしと存ずれども、一分のしるしもなし。いよいよ重科に沈む。還てこの事を計りみれば我身の法華経の行者にあらざるか。また諸天善神等のこの国をすてゝ去り給へるか。かたがた疑はし。」(559)
の疑問については、勧持品の偈文を引用され
「しかるに法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生れずは、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし。経に云く
| |
『有諸無智人悪口罵詈等』、(勧持品)
『加刀杖瓦石』等云云。(法師品)
|
今の世を見るに、日蓮より外の諸憎、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加らるる者ある。日蓮なくばこの一偈の未来記は妄語となりぬ。
| |
『悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に』(勧持品)
また云く
『白衣のために法を説いて、世に恭敬せらるること六通の羅漢のごとくならん』。(勧持品)
これらの経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊はまた大妄語の人、
『常に大衆の中に在つて、乃至国王・大臣・婆羅門居士に向つて』等、(勧持品)
今の世の憎等日蓮を讒奏して流罪せずばこの経文むなし。また云く
『数々擯出せられん』等云云。(勧持品)
日蓮、法華経のゆえに度々ながされずば数々の二字いかんがせん。この二字は天台・伝教もいまだよみ給はず。いわんや余人をや。末法の始のしるし、
『恐怖悪世中』(勧持品)
の金言のあふゆへに、ただ日蓮一人これをよめり。」(559・560)
|
以上のように、宗祖ご自身のご法難が、勧持品の二十行の偈文に予見されたものであり、宗祖の実体験が勧持品すなわち仏語の真実を証明されている、とのご自覚をかなり丁寧に述べられています。しかもそのことが偶然ではなく、仏滅後、末世において流布せらるべきことと、宗祖との法華経との出会いに大いなる意味が感じられます。
「しかるに仏、『恐怖悪世』『然後未来世』『末世法滅時』『後五百歳』なんど正・妙の二本に正しく時を定めたもう。当世法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。」(560)
「経文に我が身普合せり。御勘気をかほ(蒙)ればいよいよ悦びをますべし。」(560)
のお言葉はそれを端的に表現されています。法華経の引用ではありませんが、宗祖にとっての法華経の受けとめ方、殊には色読という独特な点を考察するうえで、重要な提示といえます。
開目抄の主題〈なせ法華経の行者を守護しないのか〉
法華経の色読のご自覚をもたれた上で、佐渡島にて流罪の身となり、ご自分のみならず弟子や信者にも危害が及ぶ状態について、守護の働きがみられないことへの疑問を
と、開目抄を撰述された本意であることを述べておられます。
「大聖法華経の行者を捨つべしや。されば四大声聞の領解の文に云く、
『我等今者、真にこれ声聞なり。仏道の声を以て一切をして、聞かしむべし。我等今者、真に阿羅漢なり。諸の世間、天・人・魔・梵において普くその中においてまさに供養を受くべし。世尊は大恩まします。希有の事を以て憐愍教化して、我等を利益したもう。無量億劫にも誰か能く報ずる者あらん。手足をもて供給し、頭頂をもて礼敬し、一切をもて供養すとも、皆報ずること能わじ。もしは以て頂戴し、両肩に荷負して恒沙劫において、心を尽して恭敬し、また美膳無量の宝衣、及び諸の臥具、種種の湯薬を以てし、牛頭栴檀及び諸の珍宝を以て塔廟を起て、宝衣を地に布き、かくのごとき等の事、もって供養すること恒沙劫においてすとも、また報ずること能わじ』等云云(信解品)」(563)
引用としてはめずらしく長文ですが、舎利弗をはじめとする四大声聞が授記されて、仏陀釈尊に対する感謝の思いが述べられた箇所です。つまり、そうした大恩ある教主釈尊の本懐である法華経の行者を諸天は守護されるはずである、ということです。
「『世尊は法久しうして後、要(かなら)ずまさに真実を説くべし』(方便品)
と照させ給いて、華光如来・光明如来等と舎利弗・迦葉等を赫々たる日輪、明々たる月輪のごとく、鳳文にしるし亀鏡に浮べられて候へばこそ、如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給いしか。」(566)
これらの引用は、迹門での二乗作仏によって、舎利弗等は最大の喜びと恩義を感じているのであるから、法華経の行者が出現したからには何かしらの守護を示されるはずであることを述べられるための前提として引用されています。
法華経が真実ゆえに難信難解であり、難信難解によって迫害がおこり、宗祖が迫害にあうことよって法華経の真実が証明され、真実教ゆえに守護があらわれるとの関連事項が、佐渡島における宗祖にとって重要問題であり、開目抄を撰述される主題でもあるのです。迫害に会うということは守護の働きがないことである、それは法華経の行者ではないからなのか、それがじつは法華経の色読による真実教の証明となっている。それは法華経の行者の証拠でもある。この大いなる矛盾に対して、宗祖は法華経の色読の実感を通して、さらに深く探求されてゆきます。
|