日蓮宗 現代宗教研究所
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宗報 平成20年8月号 第245号 改訂 第77号

現宗研だより
  典礼権をめぐって(その二)
日蓮宗現代宗教研究所主任 髙佐宣長 

 
  昭和三十八年津地裁判決
 
 「典礼権」について考える上で、最も重要と言ってよいのは、昭和三十八年六月二十一日の津地方裁判所の判決です。
 前回、筆者の地元管区の布教師会の幹事会の席で春日光昭師(江戸川区大法寺住職)から御教示頂いて、初めて「典礼権」ということばを知ったと書きましたが、その際、春日師に伺ったのも、昭和三十八年の津地裁の判例があって……、というお話しでした。

 さて、このとき津地裁で争われたのは、次のような一件でした。
 真宗高田派のA寺の檀家Bは、昭和三十三年六月頃、創価学会に入会し、A寺に対しては離檀届けを出しました。
 同年八月、Bの長男の妻が胎児を死産したので、BはA寺に残っていた墓地に埋葬しようとしましたが、A寺の住職はこれを拒否しました。
 そこで、Bは、墓埋法第十三条に違反するとして、A寺を相手取り、埋葬行為妨害禁止を求めて提訴したのでした。

 これに対し、裁判所は、寺院墓地管理者の有する「自派の典礼を施行する権利」を認定し、埋葬を依頼する者(=B)には、寺院が有っているその権利を差し止める権利はない、との判断を下しました。
 寺院墓地管理者は、異宗の典礼をおこなった上での埋葬依頼や、儀式典礼をおこなうことなしに埋葬や埋蔵をしたいという依頼に対しては、「自派の典礼を施行する権利」が侵害されることを理由として埋葬を拒むことが出来ると認めたのであり、すなわち、異宗の典礼や無典礼は、墓埋法第十三条に言うところの、「埋葬、埋蔵、収蔵又は火葬の求めを受けたとき」にこれを拒み得る「正当の理由」にあたる、としたのです。
 判決は、更に、こうした場合に寺院墓地管理者が自派の典礼を施行出来ないとするならば、寺院墓地と共同墓地との区別が喪失してしまい、多数の国民の宗教的感情を著しく害するとし、納骨を依頼する者がその寺の典礼をどうしても受忍出来ないというのであれば、自分が信奉する宗派の墓地や共同墓地に改葬する以外にない、と断じたのでした。
 寺院(宗教法人)の「自派の典礼を施行する権利」、すなわち「典礼権」を認定した、画期的な判例となったわけです。
 
  津地裁判決の問題点
 
 但し、この津地裁の判決の中にも、注意しておかねばならないことがあるのではないかと思われますので、それについて付記しておきます。
 先ず、裁判所は、この件については、国民全体の宗教的な感情や公共の福祉からの要請に適合しないような解釈や適用をすべきではないことを指摘しています。
 つまり、一般の宗教感覚に添うとともに、公共の福祉に叶う法解釈を行うべきであるとしたのです。
 至極尤もなことではありますが、国民の宗教感情と言い、公共の福祉と言っても、判断の基準は全て世俗の側にある、ということです。
 裁判所なのですから、宗教はかくあるべし、とか、宗教法人と信者との関係はかくあらねばならない、というようなことを言う筈もありませんけれども、判断の基準が世俗一般にあるということは、一般の宗教意識が変化し、狭く浅くなって来るとするならば、当然、法解釈もそれに伴って変わってくることを意味していますから、私たち宗教者の側は気を付けておかねばなりません。
 裁判所は、世俗法についての機関であり、判決がこうした基準から下されるのは、余りにも当然のことなのではあるのですけれども、ついつい世俗の方とは異なった感覚を持ちがちの私たち宗教者は、一般の宗教意識が如何なるものであるかに、常にアンテナを立てておかねばならないのではないかと思います。

 もう一点。
 津地裁の判決では、従来から寺院墓地に先祖の墳墓を有っていた人から埋葬の依頼があった場合には、寺院墓地管理者は、その人がもし改宗離檀していたとしても、それを理由として埋葬を拒むことは、原則として出来ない、とされました。
 墓地使用権を有することと檀家であることとは別のことであり、改宗離檀は埋葬不許可の理由にはならない、としたのです。
 一般に、寺院の境内墓地は、寺院の檀家からの埋葬依頼のみを扱って来たのであり、異宗者からの埋葬依頼は拒むことが出来るのが永年の慣行であり、この慣行は尊重されるべきである、ということは、実は、津地裁の判決中でも認められているのです。しかしながら、その慣行よりも、墓地使用権の方が優先されるべきであって、異宗者であることは埋葬拒否の「正当の理由」とはならないことを明示したのでした。
 前回触れませんでしたが、昭和二十三年五月の第二回国会での参議院厚生委員会に於ける政府側委員答弁では、墓埋法第十三条の解釈に関し、「宗旨の異なる者からの埋葬蔵依頼を拒むことは今日といえども宗教慣習であ」ると、「正当の理由」の適用解釈についての答弁をしていたのですが、結局、墓埋法の施行規則などには、こうした考え方が盛られなかったためもあってか、この解釈は、定着しなかったのです。
 
  離檀と墓地使用権の関係
 
 ところで、離檀したのに、その寺に墓地がある、墓地使用権を有する、ということに違和感を抱く方もあるかもしれません。
 寺院側の一般的な感覚では、離檀というのは墓地を返納し、寺院との関係をなくすことであると理解しているのではないでしょうか。

 これについては、世俗法の立場からですと、次のようになるようです。
 すなわち、離檀や改宗によって墓地の使用権が消滅するとするならば、墓地使用権者は、離檀改宗をすることが著しく困難になります。
 このことは、憲法が保障している信教の自由や、墓埋法が制定された目的に抵触し、公共の福祉や我が国民全体の宗教的感情に適合しないと考えられているのです。
 また、墓地使用権という権利は、一般に、永久性や固定性を有すると考えられているので、これにも触れることとなり、仮に、墓地使用規程などに離檀や改宗によって墓地の使用権が消滅すると明記されていたとしても、それは、法的には有効ではない、と解釈されているのです。
 寺院墓地の使用権は、離檀改宗によって消滅する権利ではないけれども、その寺院の承認のない限り、埋葬や埋蔵に際しては、その寺院の行う儀式・典礼等に従わなければならないという、条件の付いた権利である、ということになります。
 
  平成十二年前橋地裁判決
 
 以上のような次第にて、寺院(宗教法人)の典礼権という概念が確立した感があるのですが、実は、津地裁判例では、「自派の典礼を施行する権利」という表現がなされていたにとどまり、「典礼権」ということばが使われたわけではありませんでした。
 「典礼権」という表現が用いられたのは、割合に最近のことで、平成十二年十二月二十三日の前橋地裁の判決であったようです。

 この裁判で争われた内容は、次のようなものでした。
 平成十一年十月二十四日、神奈川県の会社員男性Cが永代使用権を有する墓地があるD寺に対し、「母が死亡したので納骨したい」と申し出ました。
 しかし、その約十年前に、Cの父親が亡くなった際、Cは、父親が入信していた別の宗派の葬儀を済ませた後、D寺の墓地に納骨しようとしてD寺側とトラブルになったことがありました。この時には、D寺が、その所属宗派の法式に則った葬儀をも行うことを求め、男性も了承したのでした。
 こうした経緯があったため、母親の納骨の際も、D寺側は、「父親の時と同様に○○宗の仕方で納骨を」と求めたのですが、CはD寺の承諾を得ないまま、勝手に納骨をしてしまったのです。
 D寺側は、遺骨は、そのまま墓に納めつつ、典礼権の侵害であるとして損害賠償などを求めて提訴しました。

 判決では、被告Cの行為は、原告D寺の「典礼権、すなわち宗教法人として、自己の宗派のやり方で儀式典礼を営む地位を侵害し」、D寺の名誉、信用を損なったものと認定し、D寺側の勝訴となりました。

 ところで、この記事が掲載された読売新聞(群馬版)には、宗教社会学が専門である高木宏夫東洋大学名誉教授がコメントを寄せているのですが、そこには「別の宗派の信者の埋葬を巡るトラブルは昔からあったが、『典礼権』という言葉は耳にしたことがなかった。遺族の側にも埋葬する権利があり、今後問題が残るかもしれない」との発言が収録されています。
 前述の通り、「典礼権」という言葉が法的に成語化したのは、どうやらこの判決からだったようですので、「典礼権」という語を専門家が存知していなかったとしても、もしかしたら不思議はないのかもしれませんが、昭和三十八年に「典礼を施行する権利」を認めた判例があったのですから、「典礼(施行)権」という語句が成立するのは自然なことにも思えますし(何しろ、この判決が出る前に、筆者は「典礼権」という言葉を耳にしていたわけですし‥‥)、判決に対して批判的なコメントをするのに、こうした理由付けをするのは、与えて言っても誤解を招く物言いではないかと思われます。
 
  平成八年東京高裁判決
 
 ともあれ、このようにして、現代日本に於ける「典礼権」が成立しました。
 しかし、忘れてはならないのが、平成八年十月三十日の東京高裁の判決です。
 そこでは、なんと、寺院の典礼を受けないことを理由に、直ちに埋葬を拒否することは出来ない、という判断が示されました。寺院の典礼権よりも、墓地使用権(埋葬権)に重きを置いた判決であるとも言えましょう。

 この裁判では、創価学会員であるEが、寺院Fの典礼を受けないことを理由として、F寺墓地への焼骨の埋葬を拒否できるか、が争点となりました。
 これに対して、東京高裁は、拒否出来ないとの判断を下したのです。
 F寺側は、Eが典礼を受けないことを理由として、納骨を拒否しようとしたのですが、裁判所は、「墓地使用規則」を問題視したのでした。
 すなわち、F寺の典礼を受けることは、F寺の「墓地使用規則」上、F寺の墓地を使用する上での負担として規定されているとは認定出来ず、事実上の慣行に過ぎない、としたのです。
 つまり、寺側が自らの「典礼権」を行使しようとするならば、「墓地使用規則」に明記しておかねばならない、としたのでした。
 
  典礼権をどう活用するか
 
 前回、「典礼権」は、問題のある檀信徒を日蓮宗徒として教化し直す上での「法律的な後ろ盾」になるものである、と申し上げました。
 ここまで申し上げたことから、あくまで、問題のある檀信徒を拒否するのではなく、改めて教化するというスタンスで、この「典礼権」を用いることが肝要であり、しからざる場合には、その有効性に疑問符がつくということにお気付き頂いているのではないかと思います。
 本稿では触れませんでしたが、実は、昭和三十七年十二月二十一日の東京地裁判決でも、寺院側が埋葬拒否という姿勢で争い、敗訴しているというような例もあります。
 こうした事例からも解りますように、埋葬自体を拒否して、問題のある檀信徒を排除してしまおうとしても、典礼権はその根拠とはならず、世俗法上の正当性を認められません。
 ですから、あくまで、日蓮宗寺院の檀信徒として相応しい方になって頂くための方策の一つとして活用し、納骨自体は良いけれども、その際には、儀式典礼を受けることが前提であり、その儀式は寺院の主催と法式に依るべきであるということを理解して貰うという構えでいなければならないものと思われます。
 
  「墓地使用約款」の必要性
 
 平成八年の東京高裁判決は、宗教者にとっては誠に困った判決であるとも言えましょうが、判例として残ってしまった以上、とやかく言っても仕方がありません。
 そこで必要なのは、「墓地使用規則」を定め、墓地使用者(檀家)とはそれを遵守する契約を交わしておくことでしょう(勿論、新規に入檀する檀家さんだけではなく、旧来の檀家さんに対しても、その必要があります)。
 前述の通り、平成八年東京高裁判決では墓地使用規則の内容が重要視されています。「典礼権」についても、それ自体を否定したわけでは無論ないのですが、寺院の典礼に遵わねばならないことは慣行に過ぎず、墓地使用規則には記載されていないので、その位置づけしかなされていない「典礼権」に基づいて、直ちに、埋葬を拒否し得るものではない、としたのでした。
 私たちは、寺院の墓地は、当然、宗教活動の場であり、従って、いちいち典礼がどうしたの、典礼権がどうだのというようなことを改めて規則で定める必要を感じないかもしれませんが、そもそも、宗教者が、その教えに則った儀式法要を営むという当たり前過ぎる行為そのものが、「自派の典礼を施行する権利」という形でしか、世俗法の世界に於いては位置づけられないです。
 「権利」というのは、『広辞苑』によれば、「一定の利益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の者に賦与する力」と定義されています。宗教者にとっての「典礼」が、「権利」としてしか規定され得ないことには、釈然としない思いを禁じ得ないのではありますが、それが世俗法の限界であり、また、それ以上のところに世俗法が立ち入ったのでは、危険過ぎることにもなるかもしれません。
 ともあれ、この世俗法に則らなければ教えも失われて行くことになりかねませんので、私たちに出来ることは、先ず、権利を守るための備えをすることでありましょう。
 
  一般の宗教感覚
 
 ところで、小稿を執筆するにあたり、インターネットで調べておりましたら、「MSN相談箱」というサイトに行き当たりました。
 ITに詳しくない方のために申し上げれば、Q&Aサイトと呼ばれる範躊のウェブ・サイトで、或る人が質問したいと思ったことをこのサイトに書き込むと、それを読んだ人が任意で回答してくれ、質問者は疑問や悩みをすばやく解決することができる、ということになっています。
 このサイトの、質問No.1666266に「宗教の混沌」と題された質問がありました。次頁に(実際の頁にリンクを張っておきます)、その様子が分かるような形で、質問ならびに、この質問に寄せられた七つの回答のうち最良とされたものを引用しておきますので、詳細は、それを御参照頂くとして、要するに、「親戚の女性がカソリックの洗礼を受けたのだが、その家は或る寺の檀家である。仮にこの女性が亡くなったりした際、戒名をつけて貰ったり、その寺の墓に入れて貰えるだろうか」という趣旨の質問が掲載されていました。
 それについての回答として、tnu というハンドルネームの方の、津地裁の判例などに言及しているものがありました。
 そこには「永代供養料」(筆者註。無論、永代使用料の間違いでしょう)という対価を払って墓地使用権を取得した場合、事実上、条件付きの所有権が発生し、宗旨が変わったからといって寺院側は埋葬を拒否できないというのが通説である旨の回答がなされていました。
 ここまではまだ宜しいとして、更に
    その場合、寺院としては、キリスト教式の埋葬儀礼を墓地で行うことは拒否できますが、寺院の法要を経ずに埋葬するというだけであれば拒否できないというのが通説だと思います。もともと寺に縁のある人を弔うための墓地であったのが、現在では墓地販売・管理業のような状況では、昔からの考えを改めざるを得ないと思います。ましてや、都会では公共墓地なんて取得不可能ですから。
 したがって、津地裁の判決も「問題になった寺院について言えば」という限定的なものといえるでしょう。
と書かれていました。
 こうした記述が、「自信あり」の回答として現在でも掲載されており、質問者も「非常に参考になりました」として、最良の評価を与えていたりするのは、本当に困ったことです。
 このような事例が怖いのは、通説でもないものが通説と理解され、誤った知識が広まるということばかりでなく、こうして「一般の宗教感覚」が形成されて行く、ということではないでしょうか。
 寺院は「墓地販売・管理業」であり、寺院墓地に「寺院の法要を経ずに埋葬する」ことも当然であると多くの人が考えるようになれば、それが「一般の宗教感覚」であると見なされるような時代も来かねません。

 そして、この場合は違うでしょうけれども、こうした媒体を利用して、意図的に間違った知識を流布し、世論を誤った方向に誘導しようとするような場合もあるかもしれません。
 少々穿ちすぎかも判りませんが、インターネットの匿名性に隠れて、反宗教的な、或いは、反伝統仏教教団的な書き込みをする、なんていうことも考えられないではありませんよね。
 「ウィキペディア」(インターネット上のフリー百科事典。誰でも無料で参加、書き込みができます)のようなものでは、実際に、極めて恣意的な解釈がなされている項目も少なくないようです(「ウィキペディア」の場合は、「この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議綸中です。」といった註記がなされますし、Q&Aサイトと同列には扱えませんが)。
 インターネットは玉石混淆真贋不明の情報が乱舞している空間ですが、「一般」に影響し、「一般」を形成して行くのは、むしろ石や贋の方かもしれませんし、どのように形成されても、「一般」は「一般」です。
 そうして、「一般の宗教意識」が如何に変質してしまおうと、何かことが起こったときに、基準となるのは、その変質してしまった「一般」となるわけですから、その時になって「世の中が間違っている」と言ってみても始まりません。

 これは、インターネット上だけの話ではないのであり、昭和三十八年の津地裁判決ですら、既に見たように、私たち宗教者から見れば、宗教観に大きなズレがありました。そこから、四十年足らずで、平成八年の東京高裁判決まで来てしまったのです。
 裁判官というのは、現代日本にあって、相当に高度な知的レベルの人たちであると言えるかと思いますが、こうした判例を検討して来ると、そうして人たちにあっても、宗教的なことについては、知識が乏しかったり、見識が浅かったりすることが少なくないとの感は否めないところでしょう。
 戦後の我が国で、「宗教」というものが、一種のタブーになって来てしまったことを反映しているものと思われますが、そうであれどうであれ、そうした国民一般の宗教感覚を基盤として、法律は作られ、施行されます。
 繰り返しになりますが、基準は全て世俗の側にある、のです。
 
  敵は本能寺にあり?
 
 さて、小稿を擱筆するに当たって、もう一つだけ付け加えておきたいことがあります。

 先日、宗務院内での或る委員会に出席しておりましたら、某委員の方が、地元からの要請ということで、次のような発言をされておられました。
 すなわち、地方寺院の檀家で、都市部に出ている者に不幸があった場合、都市部の本宗僧侶によって、地方の菩提寺に無断で葬儀がなされてしまう事例が後を絶たない。自分の住職寺の檀家でない者の葬儀を営む際には、当該者の菩提寺の有無についてなど、十二分に注意をして欲しい。と。
 丁度前回の原稿が掲載されていた「宗報」の六月号が手許に御座いましたので、筆者は、委員会終了後、そうした際には「典礼権」を御活用下さるようにお話し申し上げたのですが、今回書きましたように、「墓地使用約款」できちんと規定・契約しない場合には、世俗法レベルでは通ってしまう話かとも思われます。
 何しろ、こういった場合、本宗教師によって「自派の典礼」は為されているわけですから、もしかしたら、「墓地使用約款」に定めがあったとしても、裁判となったら勝てないことも有り得るかもしれません。

 しかし、問題は、世俗法に触れるか否かではない筈です。
 宗教者がその程度の意識でいて、一般の方の宗教意識を云々できよう筈もありません。
 自らが獅子身中の虫になっていないかどうか、宗教者たる者、厳しく自問する心掛けを持たねばならないのではないかと思われます。

 小稿の冒頭に、筆者の住職寺での納骨をめぐってのトラブルについて書きました。
 それも、創価学会員とのものではなく、本宗教師の方が、無断で筆者の住職寺の檀家の葬儀を営んだことに起因するものでした。
 無典礼で火葬までしてしまった後で納骨の依頼があり、それに対し、葬儀を営み、法号を授与してからでなければ埋葬は出来ない旨を、「典礼権」のことなども織り交ぜながら御説明して……というような事例は、筆者自身、その後も数回経験しておりますが、その際に、あくまで異宗典礼乃至無典礼での納骨を、という要求をされたことはまだありません。
 寧ろ困ったのは、冒頭に書いた事例ともう一件、やはり本宗教師の方に、断り無く、拙寺の檀家の葬儀を営まれてしまった件でした……。

 「典礼権」を云々するようなことは、せいぜい学会員とのトラブルの時のみに止められれば、と念ずる次第です。
 前回、引用が多過ぎて読みにくかったとのお叱りを頂いてしまいましたので、今回は、判例等も、趣意しながら御紹介致しました。
 
*前回記した参考文献、参考ウェブ・サイト以外に、今回は
 「MSN相談箱」
 http://questionbox.jp.msn.com/index.php3?StatusCheck=ON
 を参照しました。
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