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現宗研の調査研究ノート 教化学へのアプローチ 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(九)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰
『開目抄』に於ける法華経引用について(1)
これまで『立正安国論』『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にみる法華経引用を検討してまいりましたが、次に日蓮聖人三大部の一つといわれる『開目抄』における法華経引用について検討したいと思います。
なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)のものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。
開目抄は教化上重要な御遺文
『開目抄』については、日蓮聖人佐渡流罪中に著わされた『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』と対比され、人開顕の書として本化の教相教義の目を開き、信仰告白について両書不可分の関係にある重要御書として広く受け止められています。
内容的には、末法における主師親三徳兼備の導師として三大誓願を立て、自ら本化上行の応現なることを開顕せんとして、翌文永一〇年の『観心本尊抄』における法開顕に先立って、宗祖自らの言動こそが末法の正導師、法華経の行者なることをご自覚され撰述された、教化上重要な内容のご遺文といえます。そのようなご文章において、法華経がどのように引用されているか検討してみたいと思います。
法華経が最初に引用された箇所は?
開目抄では五重教相(五段相対ともいう)として、内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・教観相対と、五重の相違を対立せしめる日蓮聖人の教判の一つが示され、一代仏教をはじめ広く一切世間の教学思想の勝劣を教理の浅深によって比較研究し、法華経寿量品に顕された事の一念三千、妙法五字が末法の要法であることが論証されています。(日蓮宗事典参照)
そうした展開の中で、法華経が最初に引用されたのは、内道(仏教)と外道(仏教以外のすべての教学)の二道を相対して仏教を選び取る内外相対での外道について触れられた箇所で次の引用がみられます。
「法華経に云く
『衆に三毒ありと示し、また邪見の相を現ず、我弟子かくのごとく方便して衆生を度す』等云云。」(五百弟子受記品) (538)
と、法華経の五百弟子受記品を引用され「人には貪・瞋・痴の三毒があることを指摘し、また邪まな思想をもっている様相を現わす。釈尊の弟子たちはこのように方便によって人々を教う」と、法華経にて外道と仏教の関係について述べていることを示されています。
釈尊の教えは真実であることの大前提が示される
次に、法華経の引用ではありませんが、開目抄の特徴ともいえる五重相対の基本を構築する、釈尊一代の教えが仏語として真実を表しているとの、宗祖の法華経に対する教義的受け止め方が明確に示されているところですのであえて提示しました。
「この仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで、五十年が間一代の聖教を説き給へり。一字一句みな真言なり。一文一偈妄語にあらず。外典外道の中の聖賢の言すら、いうことあやまりなし。事と心と相符へり。いわんや仏陀は無量嗅よりの不妄語の人。されば一代五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり。大人の実話なるべし。初成道の始より泥■[さんずい+亘]の夕にいたるまで、説くところの所説みな真実なり。」(538・539)
すなわち、釈尊の教えは外道との対比からも、また仏教内部での各経典においても、すべて真実であることの大前提が確認されました。
その上で、さらに五重相対の中の権実相対にみる実教としての法華経の重要性が示され、実教であることの証明として次のような引用がみられます。
「大覚世尊は四十余年の年限を指て、その内の恒河の諸経を『未顕真実』、八年の法華は
『要当説真実』(方便品)
と定め給しかば、多宝仏大地より出現して
『皆是真実』(宝塔品)
と証明す。分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。この言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし。仰で信ぜよ。伏て懐ふべし。」(539)
次も法華経引用文ではありませんが、宗祖の法華経の受け止め方の特色が現されている重要なご文章として有名な箇所です。
「一念三千の法門はただ法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親知て、しかもいまだひろいいださず。ただ我が天台智者のみこれをいだけり。」(539)
法華経が実教であることの内容として「一念三千の法門」が寿量品に内包されているという観点が示されたこのご文章は、天台大師によって提示された一念三千の教理が、寿量品に深くその根源があるという宗祖の教義の特色として顕示された重要な箇所といえましょう。開目抄の中心テーマの一つといえます。
二乗作仏に関する証明として法華経が引用
この後、一念三千の論理が述べられさらに、法華経の優れた二大教義として「二乗作仏」、「久遠実成」の法門について論じられます。その一つの二乗作仏に関する証明として法華経が引用されています。
「法華経の現文を拝見するに、
舎利弗は華光如来、(譬喩品)
迦葉は光明如来、(授記品)
須菩提は名相如来、(授記品)
迦栴は閻浮那提金光如来、(授記品)
目連は多摩羅蹟跋檀香仏、(授記品)
富楼那は法明如来、(五百弟子授記品)
阿難は山海慧自在通王仏、(人記品)
羅■[日+侯]羅は七宝華如来、(人記品)
五百・七百は普明如来、(授記品)
学無学二千人は宝相如来、(人記品)
摩訶波間提比丘尼・耶輸陀羅比丘尼等は一切衆生喜見如来、具足千万先光相如来等なり。(勧持品)」(542)
とそれぞれの授記について示されています。
さらに、
「この大人、
『ただ一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう』(方便品)
となのらせ給て、
『いまだ真実を顕わさず』、(無量義経)
『世尊は法久しうして後、要ずまさに真実を説くべし』、(方便品)
『正直に方便を捨つ』等云云。(方便品)
多宝仏証明を加え、分身舌を出す等は、舎利弗が未来の華光如来、迦葉が光明如来等の説をば誰の人か疑網をなすべき。」(543)
と、二乗作仏の法門が真実を証明されることで、その内容が構築されていることが説明されています。
証明についての引用は?
証明については当然ながら、次のように宝塔品での多宝如来と神力品での広長舌がより詳しく丁寧に説明されてから引用されています。
「その時に東方宝浄世界の多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて、教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、とのべ(左宣)かうのべ(右述)、さまざまに宣させ給いしかども、不審なをはるべしともみへず、もてあつかいてをはせし時、仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う。例せば暗夜に満月の東山より出るがごとし。七宝の塔大虚にかゝらせ給いて、大地にもつかず大虚にも付かせ給はず、天中に懸りて、宝塔の中より梵音声を出して証明して云く、
『爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて言わく、善哉善哉。釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆のために説きたもう。かくのごとしかくのごとし、釈迦牟尼世尊、所説のごときは皆これ真実なり』等云云。(宝塔品)
また云く
『爾の時に世尊、文殊師利等の無量百千万億旧住娑婆世界の菩薩乃至人非人等の一切の衆の前において大神力を現じたもう。広長舌を出して、上梵世に至らしめ、一切の毛孔より、乃至十方世界衆の宝樹の下の師子の座の上の諸仏もまたまたかくのごとく広長舌を出し、無量の光を放ちたもう』等云云。(神力品)
また云く
『十方より来りたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしむ。乃至多宝仏の塔、還て故のごとくしたもうべし』等云云。(嘱累品)」(547)
宝塔品と神力品にての証明に関連して、嘱累品が引用されていることは、多宝如来およびお十方諸仏の法華経真実の証明の役目が済んだことを示しておられます。すなわち宝塔品における虚空会の設定と、そこに於ける寿量品をはじめとする、二乗作仏とは異なる、本門の法門の証明に関する特別な意味合いをみることができます。
「法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来して、舎利弗等の諸の声聞・大菩薩・人天等に
『将に魔の仏と作るに非ずや』(響喩品)
とをもはれさせ給う大事にはあらず。」(548)
ここでの引用は、法華経の内容を意味することではなくて、「比喩品にしめされたような、舎利弗等が心を乱し悩まされたような重大な事ではない。」ということを述べるための文脈での引用文です。
「日蓮云く、日本に仏法わたりてすでに七百余年、ただ伝教大師一人ばかり法華経をよめりと申すをば、諸人これを用ず。ただし法華経に云く
『もし須弥を接て他方の無数の仏土に擲げ置かんも、またいまだ為れ難しとせず。乃至もし仏滅後に悪世の中において、能くこの経を説かん、これ則ち為れ難し』等云云。(宝塔品)
日蓮が強義、経文には普合せり。」(549)
日蓮聖人にとって、法華経は難信難解の法門であることはすでに実感され、「経文に普合せり」とは、まさに法華経色読のご自覚を表明されておられることです。それはまた、宗祖自らが「法華経は真実経である」ことを証明されていることなのです。
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