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現宗研だより 中央教化研究会議(その一)
日蓮宗現代宗教研究所主任 髙佐宣長
7月2日現宗研研究例会、3日現宗研「現代と教学」プロジェクト(以下「PJ」と略記)会議、4日近畿教研運営委員会、6日北陸教研運営委員会、11日北海道教研運営委員会、23日現宗研「現代社会」PJ会議、24日院議、26日東北教研運営委員会、27日過疎地域寺院活性化検討委員会、30日大蔵経データベース化完成記念大会シンポジウム、31日宗門運動本部企画推進会議。
7月の宗務院の勤務日は本来20日間なのですけれども、その間にこれだけの会議等に出席することとなりました。もちろん、近畿、北陸、北海道、東北の各教区の教研運営委員会は、各地へ出張しての参加でした。7月は全て日帰りで伺いました。
8月は、所謂孟蘭盆月ということもあり、前半は穏やかだったのですが、15日千鳥ヶ淵宗門法要、21日中部教研運営委員会、22日〜23日北海道教研会議並びに同運営委員会、27日信行道場創価学会問題特別講義、28日現宗研「教研会議」PJ会議、29日現宗研「教団教化」PJ会議、31日宗門運動本部企画推進会議、となりました。
中央教化研究会議
9月は、5日から6日にかけて、現宗研の年間行事の中でも、最大最重要なものと言える中央教化研究会議が開催されました。
本年、第40回目を迎えた中央教研は、第一回開催以来、現宗研の活動の柱となって来たことは申し上げるまでもありませんが、平成16年度の「現代宗教研究」の「編集後記」に、当時の伊藤立教主任が書いている通り、近年は、現宗研の「調査研究内容を中央教研と連動させ」て来ており、その重要性は一層高まって来ていると言えるかと思われます(現宗研内部でだけ、ではありませんよね?)。
今年度は、「日蓮宗の教化学を考えるー宗教者と社会の関わり」をテーマに掲げ、「立正安国」を具現化して行くためのステップとして、宗教者が社会と如何に関わって行くべきなのか、を考えることを目指しました。
宮台真司氏の基調講演
基調講演を、首都大学東京の教授で、社会学者の宮台真司氏に依頼したのは、私たち宗教者とは異なる観点から、宗教者と現実社会との関係を捉え直した上で、この問題を検討してみたいと思ったからでした。
と申しましても、今年度の中央教研については、筆者が現宗研に入った段階では、全ての企画立案が済んでおりましたので、筆者がこんなことを言うのは烏滸がましいのではありますが……。
昨年11月、現宗研の研修会で、宮台氏に、「宗教者が平和運動を行う意味−グローバル化と善悪の不透明化−」と題して講演して頂いています。
これまた、筆者はその際に聴講したわけではありませんけれども、講演録を読みますと、この講演の中で、宮台氏は「宗教は、たとえ、デュルケームの言ったように、人間が作り出したにも関わらず、人間にとってどうにもならない性質を帯びるものであるとしても、社会的な必然であり、宗教なくして社会は回らない」という趣旨の発言をされています。現宗研メンバーとしては、こうした宮台氏を講師に迎えることによって、昨年の中央教研で話題となった、私たちにとっての根本問題とも言い得る、宗教者は社会に必要とされているのか否か、という問題についての、異分野からの肯定をべースにして、今年度の教研会議を進行して行きたいという意図があったもののようです。
と言いつつ、周章てて付け加えますと、宮台氏は、宗教なくしては社会は回らない、とは考えていても、宗教者なくして……、と考えているわけではありません。
前述の講演で宮台氏は「誰よりも宗教的であるけれども、宗教的に見えない存在があり得る。逆に誰よりも宗教的に見えるけれども、宗教者から遠い存在もあり得る」とも発言されているのであり、氏が、宗教者であることと真の宗教性を有することとを截然と区別し、似而非宗教者に対する厳しい眼差しをお持ちであることは、現宗研としても充分に承知した上でお招きしたのであって、私たちに都合の好いことや、耳障りの良いことを言って貰おうと思ったのでは御座いませんので、その辺り、誤解のないようにして頂ければと思います。
宮台真司氏との打合せ会
さて、中央教研に先立ち、5月28日、6月6日、6月22日と、宮台氏と3回に渡って、打合せ会を持ちました。
現宗研側の出席者は、その都度変わりましたが、今年度の中央教研は、宮台氏の基調講演の後、宮台氏を囲んでパネルディスカッションをすることになっておりましたので、そのパネリストを務めて頂く河崎俊宏師(全国日青会長)と大西英充師(現宗研研究員)、そして、その時点ではまだ主任ではありませんでしたが、中央教研当日は主任として進行役を担うこととなっておりました筆者の三名は、通しで参席致しました。
実は、中央教研後の反省会に於いては、この打合せ会の持ち方についても議論となりました。
と、そのことをお話しする前に、今回の中央教研でパネルディスカッションという形式を採用した経緯について、申し上げておいた方が良いかもしれません。
宮台氏の著作リストを眺めてみると、単著は勿論沢山あるのですが、共著や対談が非常に多いことに気が付きます。講演に類する活動も数多くなされていますが、対談形式でのものが多いようであり、これは氏自身がそうした形式を好んでいるということであるとともに、氏の言説の面白さ(と敢えて言いますが)が、対談によって、換言すれば他者との問答によって触発される傾向を有するからであるようで、ディアローグ(dialogue=対話・問答)はディアレクティーク(dialectic=弁証法)であることを改めて思わしめられたりします。
小稿は宮台真司論を展開する場ではありませんので、この話はこの位に致しますが、宮台氏に現宗研で講演して頂くに際して仲介の労を執って貰った大西研究員は、かなり以前から宮台氏との知遇を得ていて、氏の講演会等をも数多く聴講していたようであり、宮台氏は、単独での講演よりも対談などの形式を用いた方が持ち味が生きる、という大西師の提案もあって、今回はパネルディスカッションという討論形式を採用するに至ったのでした。
ことの序でに申し上げれば、当初は、宮台氏と或る著名な評論家・研究者との対談形式を立案したものの、もうお一方の都合がつかなくなって……という事情もあったことを、これは、筆者自身、中央教研が終わってから、反省会で議論する中で知りました。
さて、対談の形で議論をするのに、相手が何を言うのかが判っていたのでは、対話に緊張感が薄れ、討論が詰まらないものになってしまうということは、往々にしてありそうなことかとも思われます。
そういう考え方をされていたが故かどうかは判りませんが、宮台氏は予定調和を齎すような打合せをあまり好んでいないようでした。
伊藤前主任は、3回の打合せ会を計画した段階で、基調講演ならびにパネルディスカッションに向けて、周到な準備をすることを想定されていたようなのですが、宮台氏のそうした指向と、筆者自身もやや即興性を好むところがあること、そして、宮台氏が好んでいないことを強いることを避けようとする心理も働いてのことでしょう(などと書くと些か他人事めきますが)、宮台氏との打合せは、半分は座談会、半分は宮台氏の高説の拝聴、というような次第になってしまいました。
それでも、前述の昨年11月の講演の内容と第一回目の打合せ会での話を基にして基調講演で話して頂きたい内容や、パネルディスカッションで取り上げたい項目についてのメモを作成し、二回目の打合せ会の時にそれをお渡しして、諒解は取ってありました。「『正しさ』の不可能性と現代宗教−現代に於ける宗教の存在意義と宗教者の役割」という基調講演のタイトルも、その際に決まったものです。また、現宗研サイドでは、そうした基調講演を受けてパネルディスカッションをどう進めて行ったら良いかを検討してみたり、河崎・大西両師に、パネルディスカッションで討議する予定の幾つかの項目について、簡単なレポートを書いて貰ったり……といった準備はしたのでしたが……。
再び、宮台真司氏の基調講演について
中央教研に御参加頂いた方々の評価はいろいろであったようで、中には評価して頂けた方もあったようなのですが、宮台氏の基調講演は、結果として、運営サイドで想定していたものとは随分と違ったものとなりました。
もっと徹底的に打合せて、こちらの意図をくどいほどに依頼しておけば、また違った結果になったのかもしれませんが、当日、パネルディスカッションでの進行の際にも触れましたけれども、恐らくは、宮台氏は、一度話した内容とさして違わないことを繰り返すことを好まれず、昨年の11月に現宗研で講演された中身との重複を意図的に避けて、お話しになったのではないかと思われます。
筆者が作った基調講演のメモは、昨年の講演内容をべースとしたものでしたので、宮台氏の気に染まなかったのかもしれませんね。
宮台氏の講演は、明年3月に刊行予定の「現代宗教研究」第42号に全文を掲載する予定ですので、詳しくはそれを御参照下さい。様々な文化事象を取り上げつつ、それを「正しさの不可能性」という切り口で料理して行く手際は、流石のものがあったかと思いますので、一読の価値あり、です。
ただ、講演自体が各論的で、宮台氏が取り上げた文化事象が多岐にわたり、例えば「エヴァンゲリオン」ですとか、例えば「ダーウィンの悪夢」ですとか、知る人ぞ知る、−ということは、知らない人は知らない、事象なものですから、そうした事柄に通じていなかった方(実は筆者もその中に含まれますが)には聴き易くはない講演であったかもしれませんし、お読みになる際にも、多少の読みにくさがあるかもしれませんが。
しかし、先程来申し上げている、昨年11月の現宗研での講演も、「現代宗教研究」第42号に同時に掲載されることになっていますので、二つの講演を一連のものとして読んで頂けると、かなり違ったものとして受け取って頂けるのではないかと思います。是非御高覧下さい。
基調講演に続いて、パネルディスカッション、分科会討議、そして全体会、と進行しました。
パネルディスカッションは……、パネルディスカッションについては、筆者、未だに忸怩たる思いが強くあるのですが、この続きは次回に書かせて頂く
ことと致します。
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