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現宗研の調査研究ノート 教化学へのアプローチ 宗祖のご遺文にみる法華経引用について(六)
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』における法華経引用について(2)
平成19年5月号にて『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(以下『観心本尊抄』と略します)の第十七問答までの法華経引用の検討をしましたが、今回はその続きを行いたいと思います。
なお、「 」内の文章は『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)による書き下しのものです。( )内の数字は昭和定本のページ数です。また、書き下し文中の『 』内の文章は、宗祖による法華経引用部分の書き下し文です。また、必要に応じて、現代訳を『日蓮聖人全集』第二巻(春秋社発行)より引用しました。
十八問答からは、正宗分といわれる、事の一念三千に論究される部分からはじめられ宗祖の教義の真髄へと内容がすすめられてゆきます。
ここでは、めずらしく問者の文中で法華経の文を引用して、一念三千についての難を述べるための論拠の一つにしています。
「その上、多きを捨て小きに付くとするも、法華経の文分明ならば少しく恃怙もあらん。法華経の文の何れの所にか、十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文これありや。随つて経文を開哀するに、『諸法の中の悪を断ず』等云云。(方便品)」(708)
多くの経典を捨て去り、年月や巻数などは少なくても真実の法華経に依るならば、法華経の経文のどこに十界互具・百界千如・一念三千が明白な証文として説かれているのだろうか。との疑問を提示し、かえって、方便品に「諸法の中の悪を断じる」と説かれている。これは十互具の論に反するではないかとの反証の根拠に法華経が引用されています。しかし、この引用は宗祖の逆説的な引用であって、この法華経の文を引用した問いに対しての答えは、慎重かつ丁寧に論じられています。
「答えて曰く、この難最もはなはだし、最もはなはだし。ただし、諸経と法華との相違は、経文より事起つて分明なり。未顕と已顕と、証明と舌相と、二乗の成不と、始成と久成と等これを顕わす。」(708)
「この難最もはなはだし」を二度も繰り返されていることからうかがい知れるように、法華経の「難信難解」即ちそれこそが真実性が証明されていることを強調されています。その上で、先の法華経引用の文に対しては、
「ただし、
『断諸法中悪』(方便品)
の経文を会すべきなり。彼は法華経に爾前を載するの経文なり。往いてこれを見よ。経文分明に十界互具これを説く、いわゆる
『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云。(方便品)」(709)
ここでは「諸法の中の悪を断じる」の経文は法華経中に法華以前の義を載せたにすぎないのであって、法華経の本来の義からみればすべて開会されるのであり、法華経には明確に十界互具が説かれている。その論拠として「衆生をして仏の知見を開かしめようと欲す」という方便品の経文を示されました。さらに天台大師の法華玄義「もし衆生に仏知見なくんば、何ぞ開を論ずる所あらん。まさに知るべし、仏の知見は衆生に蘊在することを」や、章安大師の観心論疏「衆生もし仏の知見なくんば、何ぞ開悟する所あらん。もし貧女に蔵なくんば、何ぞ示す所あらんや」等を引用されており、法華経方便品の引用による反証に対する論の未熟さを示すための逆説的なものといえます。
本尊抄で展開されるべき深い教理の主題が難信難解の法門であることは、十八問答の当初に「これより堅固にこれを秘せよ」と述べられていることからうかがい知ることが出来ます。その難解については法華経から次の箇所が引用されています。
「ただし会しがたき所は、上の教主釈尊等の大難なり。この事を仏遮会して云く、
『已・今・当説、最もこれ信じ難く解し難し』(法師品)
と。次下の六難九易これなり。」(709)
〈現代訳〉
ただし容易に確かな解釈を示すことができないのは、前にあげられた(疑問の(1)法華経迹門以前の仏陀の因行・果徳を凡夫の心に具えるといえるか、(2)法華経本門に示された久遠釈尊の因果の功徳を凡夫の心に具えるといえるか、(3)尊高で広大な十界が凡夫の心に具わっていることは信じられるか、などの)重大な疑問である。この点について釈尊はあらかじめ難問をさえぎりつつ見解を示されて、「我れ釈尊が説く経典は無量千万億であって、已(すで)に説き、今(いま)説き、これから当(まさ)に説かれる経典の中で、この法華経は最も信じること、理解することが困難である」と法師品第十に説かれるのみでなく、見宝塔品第十一に、末法に法華経を弘めることは、とてもできるとは思えない九つの事柄も法華経を説くことより遥かにたやすく、法華経を説くことの困難さが六度も繰り返される(これを六難九易という)。〈『日蓮聖人全集』より〉
この重要課題についてさらに第二十問答で論をすすめておられます。凡夫の心に仏界を具するという重要な疑問をあえてここではふれて、
「問うて曰く、上の大難、いまだその会通を聞かず、如何。」
との問いから始まります。
「答えて曰く、無量義経に云く「いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜自然に在前す」等云云。
法華経に云く
『具足の道を聞かんと欲す』等云云。(方便品)」(711)
これらの引用文に対して、宗祖の解釈が「自然譲与」として有名な次のご文章で明確に述べておられます。
「私に会通を加えば本文を黷(けが)すがごとし。しかりといえども、文の心は、釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五宇に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。」(711)
〈現代訳〉
質問に答えるためにあえて述べるならば、この経文の心(意味)は“釈尊の因行の法、果徳の法は、すべて妙法蓮華経に具足している”ということであって、凡夫の我々がこの妙法蓮華経の五宇を受持(信奉)するならば、おのずからその因行と果徳との功徳を譲り与えられて、釈尊と同体の仏となるのである。 〈『日蓮聖人全集』より〉
本尊抄の序分では、天台による理の一念三千が説かれましたが、さらに正宗分にいたって、仏界に具する凡夫も、また、凡夫に具する仏界もともに法華経寿量品にいたって久遠下種が解き明かされ、今日の己の仏界と仏界に具されている己とが、ともに久遠の本仏界における現実のものとしての果徳が現れているということです。その現実となるための鍵が法華経に示される「具足」であり、その具足から仏果としての功徳が譲与されるのです。それは釈尊と同体の仏なのです。
さらに、その事実を法華経の中から引用されています。
「四大声聞の領解に云く
『無上の宝珠求めざるに自ら得たり』云云。(信解品)
我等が已心の声聞界なり。
『(我、本、誓願を立てて一切の衆をして)我がごとく等しくして異ることなからしめん(と欲しき)。我が昔の所願のごとき、今は已に満足しぬ。一切の衆生を化して皆仏道に入らしむ』(方便品)
妙覚の釈尊は、我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。
宝塔品に云く
『それ能くこの経法を護ることあらん者は、則ちこれ、我及び多宝を供養するなり。乃至、また諸の来りたまえる化仏の諸の世界を荘厳し光飾したまえる者を供養するなり』等云云。
釈尊・多宝・十方の諸仏は、我が仏界なり。その跡を紹継してその功徳を受得す。
『須実これを聞けば、即ち阿栃耨羅三装藐菩提を究竟することを得ん』(法師品)
とはこれなり。
寿量品に云く
『しかるに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり』等云云。
我等が己心の釈尊、五百塵点、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり。経に云く
『我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なおいまだ尽きず。復上の数に倍せり』等云云。(寿量品)
我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の眷属なり(中略)上行・無辺行・浄行・安立行等は、我等が己心の菩薩なり。」(711・712)
寿量品にて本仏が開顕されたことによって、仏界に具足された一切衆生は、すなわち己の仏界に具足されることになり、法華経に展開される二乗や菩薩などのすべてがともに、己に具足されている、すなわち他人事ではなくして、己の現実の世界のものになっているのです。見方をかえれば、己が法華経(本仏の世界)の中で生かされていることになるのです。
これからは、いよいよ本尊観にかかわる部分へと展開されます。そうした中での法華経引用について検討してみたいと思います。
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