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現宗研の調査研究ノート 教化学へのアプローチ 科学の周辺と『立正安国論』
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰
一、『アースワークス』からもう一題
宗報 五月号に紹介しました『アースワークス』(ライアル・ワトソン著)という本の中に、こんな現象が紹介されています。
ある植物学者が高感度の電位計を植物の葉に取り付けて、電流の変化を通してはるかに微細な反応も感知できるようにして植物の反応を調べました。肥料や水をこまめにやり、葉にそっと触れたりすればするほど、反応が劇的になってゆくというのです。電話のアンサホンにスピーカーを取り付け、日中に定期的に植物たちに話しかけられるような工夫もしました。実験を開始してほどなく、彼の身に起こるあらゆることがら、たとえば、冬の乾燥したオフィスで金属製のデスクにふれて静電気のショックを受けたときに、五キロ離れた植物たちの計器に反応が現れた、ということです。しかも、自分が種から育てた特別な親近感をもっている植物のほうが、反応が強烈いことがわかった、ということです。
他に著者自身が行った、フロリダ州の大学での実験例があります。同じ種類の二つの鉢植えの植物を用意し、六名の学生のうち、一人をくじ引きで決めて、鉢の一つを破壊させました。つまり、植物殺人犯にしたのです。他の五人には何も知らせず、生き残った方の鉢の前で、(その植物には、前述と同じ計器がつけられていて)六人を一人ずつ立ち合わせました。すると、六人中、犯人と思われるような反応を示した対象が二名出てしまいました。一人は犯人でしたが、もう一人に対して何故反応したのか、調べることになりました。その理由は、意外なものでした。犯人ではない方の学生は、学校へ出てくる前に自分の住む家の庭木の枝を刈り取っていたことが判明しました。生き残った鉢にしてみれば「血に染まった手」をしていたわけでした。
これらは、植物にも感受性があるのではないか、という論拠になっています。もちろん、動物と同じような神経系や筋肉骨格が存在するものではありませんが、まったく違ったシステムで同じような働きをしているのかもしれません。昔から、きれいに咲いてね、と声をかけながら水やりをするお年寄りの気持ちが、単なる想像の世界でなくなるかもしれません。
二、科学の周辺と教化学
生物学の世界では、人間を中心に、その生物は人間からどの程度近いのか、遠いのかについて、生命体の定義や分類を行ってきたといえます。そこでは、植物は人間から遠い存在ですが、実は、このように人間に近い一面もあるのです。人間との距離を測るには、いろいろな基準を用意しなくては、実際の世界を把握することは出来ないのかもしれません。ワトソンが述べるように、「周辺の科学」という表現が適しているのかもしれません。
日蓮教学と日蓮宗教化学との関係も、同じように思えます。教化学といっても、教学を無視しての存在ではないでしょう。これまで日蓮教学を中心にすすめてきた宗門の学問から、また現代社会から、いろいろな問題提起を受けて、教化学の必要が論じられるようになりました。しかしそれは、これまでの教学のように積み重ねてきたものとは異なります。教化学という学問の成立のしかたそのものが、異なるのかもしれません。その意味では、教学・教学史
や祖伝・宗史といった従来の学問の周辺に位置づける新しい学問として、捉えなければならないのかもしれません。
三、『立正安国論』を読み「説」く
現在、宗門では、新しい宗門運動として「立正安国・お題目結縁運動」を立ち上げるべく、具体的な検討に入っています。各宗務所や関係機関でも、準備段階として『立正安国論』を拝読しようとの活動が始まりつつあります。これからは、日蓮宗教師がいかに『立正安国論』から日蓮聖人の「立正安国の精神」を説き示すか、が問われることになると思います。その場合に重要なことは、『立正安国論』を現在の問題にからめてどのように読み「説」くかということです。
宗祖が鎌倉幕府を諫暁された思いとは何か、今日の人々の苦しみ悩みにどのように対応するのか、など課題は多く、多様に変化してゆきます。そこで両者をつなぐ基本的な要素が必要になってきます。まさに、教化学の取り組むべき課題といえましょう。先日、地区の統一信行会にて、檀信徒に対しての『立正安国論』講義の依頼を受けました。高齢者の参加が多いとのことで、いきなり原文講義をすることも出来ず、日蓮聖人の「立正安国のご精神」といったテーマで話をさせていただきました。どのように展開をしたか、事例の一つとしてご紹介させていただきます。
ア、現在が平和であることの認識
まずはじめに、参加者に、お数珠を持っているかをたずねました。信行会ですから、多くの人が持参していました。続いてハンカチを持参しているかたずねましたが、ほとんどの人が手を挙げました。次に、懐に出刃包丁を忍ばせている人はいないかたずねました。会場が、爆笑のうずにつつまれました。そこで、この地域は何と平和で安全なところだと感想を述べ、戦後の日本人が武器を持たずに生活できることの幸せを認識してもらい、その貴重さを訴えました。毎日のように報道される凶悪な犯罪や、安全と思われていたことの崩壊で、ともすると我々は、人間不信や社会不安におちいり、必要以上の危機感に追い込まれがちになります。もちろん、危機意識は大切なことです。そのまま放置していてはいけない事柄や、未来への希望を繋ぎとめる努力が大切なことを認識する要素でもあります。
イ、『立正安国論』の引用
そこで、次のような『立正安国論』の一説を引用しました。
第七問答
(客の問い)
国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法をば誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし。もし災を消し、難を止むるの術あらば、聞かんと欲す。」
(主人の答え)
「ただし仏道に入って、しばしば愚案を回らすに、謗法の人をいましめて、正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。」
第9問答
(主人のことば)
「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。しかるに他方の賊来りてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を掠領(りゃくりょう)せば、あに驚かざらんや、あに騒がざらんや。国を失い家を滅せば、何れの所にか世を蔚(のが)れん。汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)をいのるべきものか。」
「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。
しかればすなわち三界は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。
十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。
国に衰微なく、土に破壊なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん。
この詞、この言、信ずべく崇むべし。」
災害や疫病で多くの人が死に、息も絶え絶えとなっているうえに、蒙古が明日にも攻めてくる。そんな不安な世の中で、この世を捨てる念仏信仰ではなく、現実に向き合ってこの世を浄土とする生き方を法華経の信仰から導き出そうとされた、ともに苦しむ目線の日蓮聖人の篤い思いが、現代に生きる私たちにいかに大切なことかを示したかったからです。
四、教化学と科学の周辺
祈って世の中が変わるわけがない、鎌倉時代ならまだしも、二十一世紀の現代でそんな生き方が通じるはずがない、そう現代人の多くは思うことでしょう。しかし、はたしてそうなのでしょうか、 五月号でも紹介したように、集団は多くの人々の思いや意思によって困難を克服し、正しい方向へと導く、というデータにもとづく事例があります。現代科学の主流では認められていないことでも、科学の周辺ではすでにその可能性が指摘され始めているのです。少なくとも、日蓮聖人の教えを受け継ぐべき私たち日蓮宗僧侶は、そうした生き方を信じ、不安を苦しみ恐れる人々に対し、彼岸である霊山浄土への道筋を説き示す役目があるのではないでしょうか。教化学では、そうした世界も視野に入れて、布教教化に関する問題点について理論化体系化をはかってゆきたいと思います。
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