布教教化の原点は、発心にあるといえます。発心とは発菩提心の略称で、菩提心を起こすことです。菩提心とは、悟りを求め仏道修行を行おうとすることです。つまり教えを広めることによって相手が仏道修行をめざすことが、教化の第一段階といえるのです。
教化については、一般の国語辞書では、「教化とは教え導いて衆生を仏道に向かわせること」とあります。宗祖は、「発心して仏道に入り、修行を積んで仏となって衆生を教化することである」と示されています。宗祖にとっての教化とは、本仏釈尊へわれわれ衆生を向かわせることです。「我従久遠来教化是等衆」を引用されて、「地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑や」と示されています。さらに、
| | 我等衆生も又生を娑婆世界に受ぬ。いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず。「善無畏三蔵鈔」 |
と、そこには釈尊とわれわれとの久遠にわたる繋がりが基本となっています。つまり、教化とは、法華経にふれさせ本仏釈尊との深い繋がりを自覚させ、信仰に目覚めさせることです。
ところで私たちにとって発心とは、何時どのような状態を指すのでしょうか。われわれ僧侶は出家のときを発心と考えがちですが、本来は発心があって後に出家があるものです。なぜなら一般在家の人々にも、発心は重要な意味をもつからです。宮沢賢治は、法華経にふれて体が震えたと述べていますが、多くの信仰者も同じような体験から、法華経信仰を深めているのではないでしょうか。それは、直接法華経にふれたり、僧侶の説法や修行のありさまを見たり、また家族の熱心な信仰の姿を通したりして、心ひかれることからはじまるものです。
日蓮聖人にとっての発心とは、どのようなものだったのでしょうか。出家の動機についてはいろいろと論じられていますが、ともすると発心即出家ととらえがちですが、出家と発心を分けて考えてみる必要があると思います。簡単にいえば、発心があり、誓願があって出家されたといえます。出家に関してご遺文では、次のように述べておられます。
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幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしよりこの願を立つ。「破良観等御書」 |
幼少のときから問題意識をもっておられたが、12歳のときに願をお立てになった。
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日蓮は安房国東條郷清澄山の住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給て明星の如くなる智慧の宝珠を授させ給き。「善無畏三蔵鈔」 |
ここでの「幼少のときより」とは、12歳のころからだ考えられます。
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日蓮は日本国安房国と申国に生て候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此度いかにもして仏種をもう(植)へ、生死を離るる身とならんと思て候し程に、皆人の願せ給事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱候し程に、いさゝかの事ありて、此事を疑し故に一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習見候はばや。(中略)所詮肝要を知る身とならばやと思し故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至まで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習回り候し程に、一の不思議あり。我等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。「妙法比丘尼御返事」 |
12歳にて願を立てられ、のちに清澄寺に登り誓願を立てられ、16歳にて正式に出家された後に諸宗遊学されたと考えられます。ところで、それ以前のすなわち幼少時代では、念仏を唱えていたことが述べられています。当時の清澄寺および小湊周辺では念仏信仰が浸透しており、天台宗といえども念仏が唱えられていました。
ところで、「いさゝかの事」とはどのような事だったのでしょうか。はじめは皆もそうしているように、生死に不安や疑問を持ち、念仏を唱えていたけれどもさらに悩みが深まったと思われます。そこは法華経との出会いが関係しているのではないか、ここに発心のきっかけがあったように思えます。そして結果として、虚空蔵菩薩からの智慧の宝珠による、一の不思議である「仏法はただ釈尊の一乗のみ」という結論にいたるわけです。
教化とは、誰かが布教として教えを説き広めるというはたらきかけで成り立つことではありますが、その以前にもっと深いところでは、人知の及ばぬ本仏からの作用が実際にははたらいているのではないでしょうか。それは、日蓮宗での教化の特色につながる大切な要素ではないか、と思います。