日蓮宗 現代宗教研究所
Nichiren Buddhism Modern Religious Institute
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宗報 平成16年度1月号 第202号 改訂 第34号

現宗研の調査研究ノート
 教化学へのアプローチ バーチャルからの脱却
日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 

 青少年問題に関して、二人の専門家の講演を聴く機会を得ました。水谷修氏は夜間高校の教師のかたわら、少年犯罪防止のために夜の繁華街に出て、子供たちを指導する活動が評価され、話題をよんでいます。氏の講演の中で、子供が夜遅くまで遊んでいるのは、家に“帰らない”のではなく“帰れない”ということだそうです。毎日届くメールや電話はそうした子供たちの、悲鳴にも似た孤独の叫びだということです。なぜ家に帰れないのかというと、そこには自分を理解してくれる人がいない、あるいは受け止めてくれる人がいないということです。かつて自分が一番信頼していた家族や友人に裏切られたとか、無視されたという経験が、家庭や環境から孤立した己を内向的に構築してしまい、周辺に対しての反発となり、やがて人間関係での愛情を確かめられないために、金銭や暴力で関係に依存して、最後には犯罪へと巻き込まれてしまう、加害者であり被害者でもあるのです。
 水谷氏が彼らに接する場合に必ず心がけているのは、けっして裏切らないという気持ちを相手に訴え続けることだそうです。それは、相手に対する愛情そのものです。やがて子供は心を開き、大人への注文が出るようになり、少しでも聞き入れてくれるという大人側の対応を感じとると、自信が生じ、将来への希望を持つようになるということです。本来は一番愛情を持っているはずの家族が、それを子供に示せないというところに問題の根源があります。
 富田富士也氏は、「引きこもり」という表現を初めて使って、子供が出口のない孤独感に追い込まれる危険な状況を訴えたことで高く評価されています。氏は、子供たちが自分を「さらす」ことが出来なくなった時に引きこもりが始まる、としています。誰でも、世間に出て己をさらすことによって傷を受けます。しかし、その時に、家族や友人から理解されるという実感によって傷が治癒されます。その際に、家族や友人に裏切られたと感じたときに、傷は深くなり、これ以上傷つくことを恐れ、自分分を他にさらすことを停止してしまいます。家から出ないのではなく、自分の世界から出られない状態に自分で追い込んでしまうのです。その結果、家族とも口をきかず、他の世界への接触を一切拒否してしまうのです。富田氏はそうした状況を防ぐためには、本人にとっての理解者の存在を認識してもらうことが一番に必要なことだと指摘しています。最短距離にいるのが、家族です。その家族がどうしたら理解者になれるのかについて富田氏は、家族の認識が大切だとしています。
 ある青年が、私にこんな話をしてくれました。「親父はいるけど、父ではない。会社の杜員のまま家にいるんだ。」子供から求められている父の姿ではないということです。しかし父親はそのことに気が付かずに、わが子にとって必要とされているものと思っていることでしょう。おそらくその青年は、このままでは父親には信頼をもてず、理解者とは認識しないでゆくでしょう。その食い違いが次第に大きな溝となって、やがて問題を生じてしまうのです。両氏の提示された問題点には、共通した点があります。それは両親をはじめとする家族が、悩みをかかえるわが子に真の愛情を示し、抱きかかえていないということです。「親として存在しているはず。愛情をもっているはず」なのです。この「はず」が、子供との食い違いになることです。言葉で表現する前に、愛情を形で示すことです。それは特別難しいことではなく、ごく基本的なことです。たとえば夫婦がお互いに信頼し愛し合う姿を示すことから、家庭には愛情が存在することを子供たちに実感させることができます。祖父母や兄弟への思いやりや信頼しあう姿を見せることにより、家庭にはお互いが尊敬し愛しあい、安心した暖かな世界が実在することを認識してもらうことができます。「はず」という仮想、つまりバーチャルでは、何の意味や働きも持たないのです。
 インターネットが急速に発達しつつある今日、近い将来には、居ながらにして世界中の図書や、博物館などの展示品のデータを見ることが出来るようになることでしょう。しかしこうした情報が入手できるようになればなるほど、実物の認識がそれ以上に重要になります。先ごろ、佐渡へ行きました。何度行っても、胸に感じるものがあります。日蓮聖人着船の霊跡松ヶ崎の海岸の砂利を踏みしめながら、目の前に聳える佐渡の山々をながめ、小倉峠を越えて畑野の町に着いたとき、その時々に宗祖の思いの一端に触れた感じがします。東海道から富士川に沿って行脚したとき、南部付近ではじめて思親閣のある身延山を目にして同行の者と涙しました。昔から霊跡参拝とは、居ながらにして法話や文章で知るだけではなく、こうした体験の中から直接日蓮聖人に触れ、先師やそれを支えた壇越の信仰を追体験する意味を持っていました。宗祖の目線に近づこうとすること、当時の檀越の信仰に学ぼうとすることが、教化の基本です。バーチャルでは意味がないのです。
 バーチャルと喩えは、根本的にことなります。バーチャルとは、実際に存在しないことを仮想として示すことです。喩えとは、実際に存在する事柄を、より身近な存在するものに仮に当てはめて説明することです。ともすると、バーチャルを喩えとして利用してはいないでしょうか。また、最近ではこのバーチャルの影響を受けて、バーチャルに対時するものとして、喩えをそのままに実際の説明と受け止める傾向がみられます。法華経の解説書の中には、多宝塔出現について、「東の空に昇る月のことを指している」という西洋的な解釈があります。多宝塔出現が、大きな満月が昇るように荘厳なものだという状況の説明に、月の出を喩えに使うことはあっても、月そのものを多宝塔の解釈に替えたのでは、法華経の広大無辺な世界は単なる仮想なものになってしまいます。我々の小さな経験では捉えられない、現実に存在するとは考えられないようなことを安易にバーチャルとしてしまうことに、問題があります。日蓮聖人は、「事」を最重要視されました。久遠常住の本仏を、現実相の中に捉えられました。法華経の世界は、けっしてバーチャルなものではないのです。
 私たち教師は、法華経の経文や宗祖のご遺文を引用して教えを説きますが、自分の言葉でどこまで述べているでしょうか。教化研究会議でも問題提起されている、社会の目線に立った教化を考えるときに、少なからず問題にされるのが、自分の体験による自分の言葉で教化しているか、ということです。何故なら相手は、教えを説く者の言葉を待っているからです。相手の目線に立つということの基本は、己の言葉を発することからはじまります。「はず」では、教化出来ないということです。教化学とは、バーチャルからの脱却をめざすことでもあるのです。
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