|
現宗研の調査研究ノート
昨年度の中央教化研究会議で取り上げました摂受・折伏問題について、所報『現代宗教研究』第38号で触れていない「如説修行抄真偽問題」に関する論文が現宗研に寄せられましたので、掲載します。
11月10日に開催した第5回教化学研究発表大会で上映した「熊笹の遺言」は、長い間強制隔離されていたハンセン病患者が、隔離政策違憲判決後、栃木県栗生楽泉園で生きる姿を淡々と描いた映画で、感銘深いものでした。鑑賞をおすすめします。詳細については、宗務院伝道部にお問い合わせくださるか、直接「全国映画センター、03−3818−6690」へお尋ねください。
日蓮宗現代宗教研究所主任 伊藤立教
「摂折論一考」
日蓮宗現代宗教研究所嘱託 吉田弘信
今成元昭先生の摂折論に見られる問題点の中で、「如説修行鈔」真偽判定根拠について推論されていることに対し、反論を試みることにする。
(一)
今成先生は渡辺宝陽先生古希記念論文集・『日蓮教学教団史論叢』において「日蓮論形成の典拠をめぐって─折伏為本論の場合─」と題して一文を寄せ、その中で「如説修行鈔」が偽作である論拠として以下のように述べられている(226〜228頁)。
一、「如説修行」の語をめぐって。
「如説修行」という成語は、『法華経』その他の諸経典に散見し、日蓮遺文中にも経典の引用語としては見出すことができるが、日蓮自身の言葉として用いられている例は『如説修行鈔』を除いては皆無である。この事実は、日蓮が「如説修行」の語を敢て回避した結果のものであるとしか考えられないのであるが、その理由は、『薬王菩薩本事品』中の「如説修行」の語の用法にあったのではないかと推測される。なぜなら、『薬王品』には、「若如来減後 後五百歳中 若有女人 聞是経典 如説修行 於此命終 即往安楽世界阿彌陀仏大菩薩衆囲繞住所 生蓮花中宝坐之上」と説かれているからである。
『薬王品』の、如説修行の者は極楽浄土に化生するという教説は、古来、多くの人々の厚い信仰を集めて流伝していた。例えば、その経文を詞書とする和歌が、
わぎもこも教ふるまゝに行なへば終りうれしき道とこそ聞け
夕月夜さすや岡べに露消えて西にひらくる女郎花かな
などと慈鎮によって詠まれ(『拾玉集』)、瞻西に、
むかし見し月の光をしるべにて今宵や君が西へゆくらん(『新古今集』)
藤原俊成に、
頼むかな露の命の消ゆるとき蓮の上にうつし置くなる(『長秋詠藻』)
という詠歌があり、また『染[ママ]塵秘抄』の今様に、
女の殊に持たむは 薬王品に如くは無し 如説修行年経れば 往生極楽疑はず
と歌われているように、『薬王品』の「如説修行」は女人の西方極楽浄土への往生を保証するものとして熱烈に迎えられていたのであるが、その信仰が女性の往生に限られたものではなかったことを見落してはならない。
(中略)
『薬王品』の「如説修行」の者は阿彌陀仏の浄土の[ママ]往生するという一節は、その読謂の声を聞いた悪党の郎等までが感動の涙を流すほどに、尊貴な教えとして、老若男女を問わず、また階層の別なく、広く厚く信奉されていたのである。
右の事実を知れば、日蓮が教説の中に「如説修行」の語を用いていない理由は容易に理解できるであろう。いうまでもなく、日蓮が「如説修行」の語を口にするならば、忽ちに、念仏信者たちの、『薬王品』の経文を盾にとっての攻撃の矢面に曝されるであろうことは火を見るよりも明らかであるからである。論談の名手日蓮が、そのような危険な道に足を踏み入れるはずはあるまい。にも拘らず、『如説修行鈔』には、「如説修行の法華経の行者には三類の強敵打定て可 レ有知給へ。されば釈尊御入減之後二千余年が問に如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の三人はさてをき候ぬ。末法に入っては日蓮並弟子檀那等是也。我等を如説修行の者といはずは、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。」といった具合に、饒舌な語り口の中に「如説修行Lの語が頻発し、さして長文でもない同書一篇の内にその数十三箇所に及んでいる。『如説修行鈔』は日蓮の実態とはかけ離れた庭で作成されたものと推断せざるを得ないのである。
以上述べられているように、今成先生は「日蓮が『如説修行』の語を口にするならば、忽ちに、念仏信者たちの、『薬王品』の経文を盾にとっての攻撃の矢面に曝されるであろうことは火を見るよりも明らかであるからである。論談の名手日蓮が、そのような危険な道に足を踏み入れるはずはあるまい。」といわれている。
(二)
はたして日蓮聖人は、都合が悪いから「如説修行」を口にしないなどという態度を取られたであろうか。
日蓮聖人は「依法不依人」の金言にしたがって研鑽した末に、一切経の中から「法華経」を選択されたはずである。「法華第一」を宣言するにあたって、諸経との間に生ずる様々な問題については解決済みであったと考えるのが自然ではないか。
立教開宗いらい「念仏無間地獄」  といわれ、攻撃の矢面に敢えて立たれたのであり、「種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」  といわれるように、つねに沈着冷静、正々堂々の論陣を張られたのである。
今成先生が指摘されているように、平安の昔から法華経讃仰の教説や和歌は数多いのであろう。しかし「撰時抄」には、伝教大師最澄の時代の各宗の碩学について、
「其上法華経の実義は宗々の人々、我も得たり得たりと自讃ありしかども其義なし。」 
とあるように、南都六宗の碩学ですら法華経の深義を悟れなかったと言われている。
「日本第一の法華経の行者」  を自負される日蓮聖人は伝教大師以後の一般在俗の人々はもちろん、諸宗の高僧が法華経を深く正しく読めたとは述べられていない  。
日蓮聖人は法華経を説かれた釈尊と、その深義を極められた方を天台・伝教とし、ご自身をそれに連なるものとして「三国四師」  と号されたのである。
「薬王品」の「若如来減後 後五百歳中 若有女人 聞是経典 如説修行 於此命終 即往安楽世界……」の文については「守護国家論」  に
問て日く、法華経修行の者は何れの浄土を期すべきや。
答へて日く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く、「我常在此娑婆世界」と。亦云く「我常住於此」と。亦云く「我此土安穏」文。此の文の如くんば、本地久成の円仏は此の世界に在せり、此の土を捨てゝ何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所在の処を浄土と思ふ。何ぞ煩はしく他処を求めんや。故に神力品に云く、「若経巻所住之処、若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舎、若在殿堂、若山谷広野、(乃至)当知是処即是道場」と。涅槃経に云く、「若善男子、是大涅槃微妙経典、所流布処、当知其地即是金剛。是中諸人亦如金剛」已上。法華涅槃を信ずる行者は余処を求むべきに非ず、此経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり。
とあるように、「法華経を修行する者は、どこの浄土に生ぜんと願ったらよいのか。」という問いに対し、「寿量品」「神力品」「涅槃経」の文を引いて、
| 一、 | 法華経・涅槃経を信じる行者はほかに浄土を求めてはならない。
| | 二、 | この経を信じている人の住んでいるところがすなわち寂光の浄土である。
|
ことを示されている。続いて、
問て日く、華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見るに、兜率・西方・十方の浄土を勧む、其の上法華経の文を見るに、亦兜率・西方・十方の浄土を勧む、何ぞ此等の文に違して但だ此の瓦礫、荊棘の穢土を勧むるや。
答へて日く、爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり。法華経は亦方便寿量の二品なり。寿量品に至って実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。但し兜率・安養・十方の難に至つては爾前の名目を改めずして、此の土に於て兜率・安養等の名を付く。例せば此経に三乗の名ありと雖も三乗あらざるが如し。「不須更指観経等也」の釋の意是なり。法華経に結縁なき衆生の当世西方浄土を願ふは、瓦礫の土を願ふとは是なり。法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土なき者なり。
「華厳・方等・般若・阿含・観無量寿経などの諸経には、弥勒菩薩の兜率天や阿弥陀如来の西方浄土や十方の浄土への往生を勧めている。そのうえ、法華経の文にもまた兜率天や西方浄土や十方の浄土への往生を勧めている。どうしてそれらの経文を否定して、この瓦礫や荊棘に満ちた穢れた国土である娑婆世界を浄土として勧めるのか。」という問いをもうけ、それに答えて、
| 一、 |
法華経以前の方便経の浄土は、久遠実成の釈迦如来所現の浄土であって、実際にはみな穢土である。
| | 二、 |
法華経の中心は方便品と寿量品の二品であるが、寿量品に来て真実の浄土を定める時、この娑婆世界こそが真実の寂光浄土であると会通され、娑婆即寂光をいわれているのである。
| | 三、 |
法華経にも兜率天や西方安養浄土や十方の浄土を勧める文があるのは、爾前の名目を改めずして、此の土に於て且く兜率安養等の名を付けたのである。
たとえば、法華経の中に声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の名はあるが、実際には三乗の差別はなく一仏乗のみであると説くのと同じである。
| | 四、 |
妙楽大師が法華文句記に、薬王晶の「即往安楽世界」の経文を解釈し、「決して観無量寿経の安養浄土を指しているのではない」といわれたのはこの意味である。
| | 五、 |
法華経に縁を結んだことのない今の世の衆生が、西方の浄土を願うのは、真実の浄土である娑婆を捨てて、かえって瓦礫の土を願うようなものである。
法華経を信じない衆生は、この娑婆世界の浄土の上に一部分名を与えて説かれたにすぎない兜率・安養などの浄土にも生まれることのできない者である。
|
と明解に会通がなされている。
「薬王品」の文について、今とりあげた「守護国家論」(38歳)や前年に書かれた「一代聖教大意」等の初期の遺文に会通されているという事実がある。
また「南条兵衛七郎殿御書」には、
「法然、善導等がかきをきて候ほどの法門は、日蓮らは十七八の時よりしりて候き」 
と示されている。これらのことから、
| 一、 |
開宗以前から法然や善導の法門は熟知されていた 。
開宗に際しては、念仏者のみならず他宗からの反論は予測されたことであり、それに対する準備は万全であった。
| | 二、 |
開宗以後、念仏者たちからの反論がすでにあったであろう。
|
と推察しても不自然ではない。
このように考えれば『如説修行抄』において、「薬王品」の「如説修行」の語を使用されたことについて、なんら違和感を感じることはない。
今成先生が主張されているように、「『薬王品』の文があるゆえに、日蓮聖人は『如説修行』をいわれるはずがない」という論が成立するとは思えない。したがって「如説修行鈔」偽作説の論拠とはなり得ないと考える。
(三)
「日蓮宗事典」によれば「『如説修行鈔』は「日蓮聖人著。真蹟は残っていないが、一説には身延山にあったと伝えられている(『年譜攷異』)。古写本は京都要法寺第四世大夫阿闍梨日尊上人(1265〜1345)の永仁5年(1299)筆写の二一紙が茨城県富久成寺に所蔵されている。その写本によると文永10年(1273)5月、佐渡一谷での撰述とされている。古来真撰として扱われ、系年に関しても異論はない」  といわれてきたのである。
「如説修行鈔」が筆写された永仁5年は日蓮聖人減後15年であり、六老僧が全員健在であった。52歳になられた白蓮阿闍梨日興上人の膝下で日尊上人が行学に励んでいた時のことである。日尊上人33歳であった。
その3年後、日辰上人の祖師伝によると、「日興説法の時、深秋に値ふ。堂を去つて戍亥に往くこと十五丈許り梨樹あり、秋風の為に吹かれて其葉乱落す、日尊これを視たまふ、日興之を呵責して曰く、汝早く座を起つべし」  とある。
日興上人は講義中、枯れ葉が舞い散るのに気を取られた日尊上人を呵責し勘当されたという。日蓮聖人の御弟子の中でも、最も厳正なる教風を受け継がれたといわれる日興上人ならではの逸話である。
これによって日尊上人おおいに懺悔、発奮して東西南北に弘通し、建立寺院三十六ヶ寺に及んだともいわれている。勘当されること12年、応長元年(1311)に赦されたと伝える。
厳師日興上人と弟子日尊上人。師厳道尊を今に伝えるものである。
日尊上人の写本の存する「如説修行抄」が古来真撰として扱われてきたという事実を、謙虚に受け止めたいものである。
註
|